田園書房発行(1967年)の丸木夫妻の『原爆の図』第一部幽霊にそえて、峠三吉の詩「幽霊」が収めてあります。
それは幽霊の行列
一瞬にして着物は燃え落ち
手や顔や胸はふくれ
紫色の水ぶくれはやがて破れて
皮膚はぼろのようにたれさがった
手を半ば上げて
それは幽霊の行列
力つきて人々は倒れ重なり
重なり合って死んでいったのでありました
被爆者の皮膚が剥離してたれさがったという記述は被爆体験の語り部の証言によく見られます。あゆみ出版発行(1984年)の泰山弘道著『長崎原爆の記録』には医師としての具体的な観察と記述があります。:
■ 原子爆弾により死傷者が発生するには三つの要約がある。第一はBlast, 爆風によりたちまち家屋を倒壊して圧死者を出したり、建築材料の破片が飛弾となり弾片創患者を発生すること。第二に爆発の瞬間に発するHeat Flash, 高熱度閃光により火災を起し、これにより熱傷を蒙る者が出るが、それよりもその閃光直接の作用により熱傷患者を出すこと。第三にはRadiation, ガンマー線の輻射により身体の細胞を冒して後発的に致命傷を与えることになっており、しかして最も残酷なるは高熱度閃光による熱傷であって、爆心から離れていたり多少の被いがあってこの閃光を軽く受けた者は皮膚が赤くなるくらいの第一度の熱傷で済むが、やや強い閃光を浴びた者は皮膚に水疱を生じ、表皮の剥離を来すところの第二度の熱傷を受け、烈しい閃光に曝されたる者は皮膚が黒焦げとなるところの第三度の熱傷を蒙る。これらの患者は、外見上重症の者はもちろん、軽い第一度の熱傷患者でも必ずガンマー線の輻射を受けているし、なお光を浴びた者は、熱傷がなくても輻射を受けているから原子病を起して出血素質となり、血便を出して早く死亡したり、血液に変化を起し、永井博士のごとく原子病を発生して遂に生命を奪われることになる。このように分類したところで抽象的であって、読者の頭にピンと響かないから、本院に収容した患者の見るもむごたらしい写真を載せ、なお一つ一つの写真について記録を付した。■(pp53~54)
この最も残酷な高熱度閃光-白熱の「火の玉」について、前回引用した豊田利幸著『新・核戦略批判』から、もう少し詳しく学ぶことにしましょう。核爆弾の核分裂物質部分の温度は、爆発の最初のごく短時間(約100万分の一秒)の間に急上昇し、太陽の表面温度である摂氏100万度以上に達します。この高温は化学反応では決してえられず、高性能火薬の爆発でもせいぜい摂氏5千度です。
■ この超高温部分からは、太陽と同じように強烈な電磁輻射が出て、まわりの空気を文字通り白熱化する。これが核爆発のさい見られる「火の玉」である。火の玉は急激に成長して、一万分の一秒後には半径約13メートルに達する。その時の火の玉の表面温度は摂氏約30万度である。火の玉の急激な成長はまわりの空気を衝撃的に強く押すために、「衝撃波」(ショック・ウェーブ)と呼ばれる空気の疎密波が発生するする。これは音速より速く走り、その強い圧力(陰圧も含む)で建物を倒壊させる。爆風による被害と呼ばれているのはそれである。・・・
火の玉は数秒間で消滅するが、その間、温度に相応する熱輻射を出す。・・・ 火の玉からの熱輻射による被害の大部分は、物質に吸収されて転化した熱によるものである。この熱輻射はきわめて強烈かつ急激であり、化学爆薬では起しえない甚大な被害を与える。・・・
さて、核爆発直後、超高温部分にごく短時間閉じ込められていた核分裂片や諸種の放射線は、当然、非常な勢いで飛散する。放射線の中で問題になるのは主としてガンマ線と中性子線である。これらをまとめて「第一次放射線」という。核分裂片の方はほぼウランの半分ぐらいの重さの原子核でかなりのバラツキがあるが、いずれも強い放射能をもっている。それらの核分裂片の出す放射線を便宜上「二次放射線」という。・・・ 中性子とガンマ線を主体とする一次放射線が物質にあたれば、ほとんど例外なしに強い放射能を帯びさせる。これを「誘導放射能」という。
以上の説明から明らかなように、「核兵器の通常兵器化」などということは原理的におこりえないし、「戦術核兵器の多くは通常兵器と識別しにくい」というのも全くの謬見である。■(pp15~17)
この物理学者豊田利幸さんの正確適切な解説を読めば、核爆弾の破壊力、殺傷力というものが、定性的にも、定量的にも、通常兵器のそれとは格段に違う恐ろしさのものであることがよく分かります。被爆した皮膚が剥げて垂れ下がり肉や骨が露出する熱傷については、
■ 広島・長崎の生き残り証人の多くが述べているように、核爆発の直後、顔や身体の露出部分の皮膚がむけて垂れ下がったまま、亡霊のようにさまよっていた人が数知れなかった。これは核爆発の超高温の火の玉から放射された高エネルギーの熱輻射によるものであった。すなわち、これは内部に熱輻射のエネルギーが伝わる前に、人体をふくむあらゆる物体の表面の温度を急激に上昇させることによって起ったものである。このようなまさに地獄絵図というべき情景は通常兵器では起こりえない。それは、化学爆発ではそのような高温を瞬間的に発生させることはできないからである。■(p44)
と解説されています。屋根瓦の表面をガラス状に溶かして「原子瓦」をつくる白熱の「火の玉」が人間の皮膚をむいて垂れ下がらせるのです。何というむごたらしい熱傷でしょう。
私は、ここで、とても難しい問いに直面しているという緊張を覚えます。ヒロシマ・ナガサキで人間が見た地獄はハンブルグ・ドレスデンで人間が見た地獄より格段に恐ろしいものであったから、核兵器は断じて廃絶しなければならないのか?これは前回のブログの末尾で掲げた問い、「広島・長崎は東京・大阪あるいはハンブルグ・ドレスデンと区別して記憶されるべきものなのかどうか」、と同じものです。まず始めに、私はこの問いの最終的な答えに行き着いていないことを白状し、皆さんが一緒に真剣に考えて下さるようにお願いしたいと思います。
豊田利幸さんご自身の答えは『新・核戦略批判』の次の文章に含まれているように思われます。:
■ ヒロシマ・ナガサキの惨害は文字通り筆舌に尽し難い。それは人類がかって経験したことのない現象であり、したがってそれを表現するのに適当な言葉を持っていない。辛うじて、われわれは宗教上の想念として作られた「地獄」という言葉を使うことができるだけである。・・・ 第一節で詳しく述べたように、核爆発の効果は従来の化学爆発とは質的に異なる。この点を見失ってはならない。このようにいえば、戦争において重要なのは人間を殺し、建造物を破壊することであって、その手段は問題にならない、ピストルで一人の命を奪うのと、原爆によって一人を死に至らしめるのと、どこが違う? という反論があるかもしれない。さすがに今日ではこういう意見を公然と口にする人は少なくなった。しかし、しばらく前までは核保有国の核戦略立案者たちの中で、非公開の会議の席上つぶやくように言った人は少なくなかった。これはいわば彼らのホンネであって、核兵器は人間の殺傷、建造物の破壊をきわめて効率的に行なう手段として、それらの人たちにはとらえられている。■(pp43~44)
このテクストを皮相的に読めば、豊田さんは「ヒロシマ・ナガサキはハンブルグ・ドレスデンとは違うのだ」と主張されているようにもとれますが、その解読は誤っていると考えます。一部のポストモダニストとは違って、私は、一つのテクストには、正しい読み方と正しくない読み方がありうるという立場を取ります。豊田さんの強調点は「核爆発の効果は従来の化学爆発とは質的に異なる」ことにあるのではなく、むしろ、核兵器を人間の殺傷、建造物の破壊をきわめて効率的に行なう手段と看做す核保有国の核戦略立案者たちの精神的姿勢の糾弾に置かれていると、私は解釈します。核爆発のもたらしうる惨禍が化学爆発のそれとは質的にも量的にも格段に(quantum jump!)凄まじいことを知りながら、依然として、敵対する人間集団に核攻撃をかけることを想定し続けるという人間精神の悪魔性、「皆殺しの思想」こそが、ここで糾弾されているのだと私は解釈したいのです。人類がこのまま膨大な核兵器の蓄積を続ければ、人類全体が核被爆の特別なむごたらしさの中で全滅するから、核兵器は廃絶しなければならない、と本当に本気で考えることの出来る人が一体どれだけ存在するでしょうか。心底から、我らの子々孫々の未来を憂いている人間が一体どれだけ居るでしょうか。全人類とか子々孫々とかの事を、我々は本当に想い憂いているでしょうか。それよりも、むしろ、「きのこ雲」という恐るべき表象を前にしながら、あらゆる詭弁を弄して核の保有を続けようとする人間たちのおぞましい想念を断固として拒絶することこそが豊田さんの精神的姿勢であったのだと私は解釈します。この意味では、豊田利幸の深い怒りの中で、ヒロシマ・ナガサキとハンブルグ・ドレスデンとの間に区別は存在しなかったに違いないと、私は推測します。この解釈、この解読について、次回にはもっと言葉を重ねたいと思います。
藤永 茂 (2010年5月12日)
それは幽霊の行列
一瞬にして着物は燃え落ち
手や顔や胸はふくれ
紫色の水ぶくれはやがて破れて
皮膚はぼろのようにたれさがった
手を半ば上げて
それは幽霊の行列
力つきて人々は倒れ重なり
重なり合って死んでいったのでありました
被爆者の皮膚が剥離してたれさがったという記述は被爆体験の語り部の証言によく見られます。あゆみ出版発行(1984年)の泰山弘道著『長崎原爆の記録』には医師としての具体的な観察と記述があります。:
■ 原子爆弾により死傷者が発生するには三つの要約がある。第一はBlast, 爆風によりたちまち家屋を倒壊して圧死者を出したり、建築材料の破片が飛弾となり弾片創患者を発生すること。第二に爆発の瞬間に発するHeat Flash, 高熱度閃光により火災を起し、これにより熱傷を蒙る者が出るが、それよりもその閃光直接の作用により熱傷患者を出すこと。第三にはRadiation, ガンマー線の輻射により身体の細胞を冒して後発的に致命傷を与えることになっており、しかして最も残酷なるは高熱度閃光による熱傷であって、爆心から離れていたり多少の被いがあってこの閃光を軽く受けた者は皮膚が赤くなるくらいの第一度の熱傷で済むが、やや強い閃光を浴びた者は皮膚に水疱を生じ、表皮の剥離を来すところの第二度の熱傷を受け、烈しい閃光に曝されたる者は皮膚が黒焦げとなるところの第三度の熱傷を蒙る。これらの患者は、外見上重症の者はもちろん、軽い第一度の熱傷患者でも必ずガンマー線の輻射を受けているし、なお光を浴びた者は、熱傷がなくても輻射を受けているから原子病を起して出血素質となり、血便を出して早く死亡したり、血液に変化を起し、永井博士のごとく原子病を発生して遂に生命を奪われることになる。このように分類したところで抽象的であって、読者の頭にピンと響かないから、本院に収容した患者の見るもむごたらしい写真を載せ、なお一つ一つの写真について記録を付した。■(pp53~54)
この最も残酷な高熱度閃光-白熱の「火の玉」について、前回引用した豊田利幸著『新・核戦略批判』から、もう少し詳しく学ぶことにしましょう。核爆弾の核分裂物質部分の温度は、爆発の最初のごく短時間(約100万分の一秒)の間に急上昇し、太陽の表面温度である摂氏100万度以上に達します。この高温は化学反応では決してえられず、高性能火薬の爆発でもせいぜい摂氏5千度です。
■ この超高温部分からは、太陽と同じように強烈な電磁輻射が出て、まわりの空気を文字通り白熱化する。これが核爆発のさい見られる「火の玉」である。火の玉は急激に成長して、一万分の一秒後には半径約13メートルに達する。その時の火の玉の表面温度は摂氏約30万度である。火の玉の急激な成長はまわりの空気を衝撃的に強く押すために、「衝撃波」(ショック・ウェーブ)と呼ばれる空気の疎密波が発生するする。これは音速より速く走り、その強い圧力(陰圧も含む)で建物を倒壊させる。爆風による被害と呼ばれているのはそれである。・・・
火の玉は数秒間で消滅するが、その間、温度に相応する熱輻射を出す。・・・ 火の玉からの熱輻射による被害の大部分は、物質に吸収されて転化した熱によるものである。この熱輻射はきわめて強烈かつ急激であり、化学爆薬では起しえない甚大な被害を与える。・・・
さて、核爆発直後、超高温部分にごく短時間閉じ込められていた核分裂片や諸種の放射線は、当然、非常な勢いで飛散する。放射線の中で問題になるのは主としてガンマ線と中性子線である。これらをまとめて「第一次放射線」という。核分裂片の方はほぼウランの半分ぐらいの重さの原子核でかなりのバラツキがあるが、いずれも強い放射能をもっている。それらの核分裂片の出す放射線を便宜上「二次放射線」という。・・・ 中性子とガンマ線を主体とする一次放射線が物質にあたれば、ほとんど例外なしに強い放射能を帯びさせる。これを「誘導放射能」という。
以上の説明から明らかなように、「核兵器の通常兵器化」などということは原理的におこりえないし、「戦術核兵器の多くは通常兵器と識別しにくい」というのも全くの謬見である。■(pp15~17)
この物理学者豊田利幸さんの正確適切な解説を読めば、核爆弾の破壊力、殺傷力というものが、定性的にも、定量的にも、通常兵器のそれとは格段に違う恐ろしさのものであることがよく分かります。被爆した皮膚が剥げて垂れ下がり肉や骨が露出する熱傷については、
■ 広島・長崎の生き残り証人の多くが述べているように、核爆発の直後、顔や身体の露出部分の皮膚がむけて垂れ下がったまま、亡霊のようにさまよっていた人が数知れなかった。これは核爆発の超高温の火の玉から放射された高エネルギーの熱輻射によるものであった。すなわち、これは内部に熱輻射のエネルギーが伝わる前に、人体をふくむあらゆる物体の表面の温度を急激に上昇させることによって起ったものである。このようなまさに地獄絵図というべき情景は通常兵器では起こりえない。それは、化学爆発ではそのような高温を瞬間的に発生させることはできないからである。■(p44)
と解説されています。屋根瓦の表面をガラス状に溶かして「原子瓦」をつくる白熱の「火の玉」が人間の皮膚をむいて垂れ下がらせるのです。何というむごたらしい熱傷でしょう。
私は、ここで、とても難しい問いに直面しているという緊張を覚えます。ヒロシマ・ナガサキで人間が見た地獄はハンブルグ・ドレスデンで人間が見た地獄より格段に恐ろしいものであったから、核兵器は断じて廃絶しなければならないのか?これは前回のブログの末尾で掲げた問い、「広島・長崎は東京・大阪あるいはハンブルグ・ドレスデンと区別して記憶されるべきものなのかどうか」、と同じものです。まず始めに、私はこの問いの最終的な答えに行き着いていないことを白状し、皆さんが一緒に真剣に考えて下さるようにお願いしたいと思います。
豊田利幸さんご自身の答えは『新・核戦略批判』の次の文章に含まれているように思われます。:
■ ヒロシマ・ナガサキの惨害は文字通り筆舌に尽し難い。それは人類がかって経験したことのない現象であり、したがってそれを表現するのに適当な言葉を持っていない。辛うじて、われわれは宗教上の想念として作られた「地獄」という言葉を使うことができるだけである。・・・ 第一節で詳しく述べたように、核爆発の効果は従来の化学爆発とは質的に異なる。この点を見失ってはならない。このようにいえば、戦争において重要なのは人間を殺し、建造物を破壊することであって、その手段は問題にならない、ピストルで一人の命を奪うのと、原爆によって一人を死に至らしめるのと、どこが違う? という反論があるかもしれない。さすがに今日ではこういう意見を公然と口にする人は少なくなった。しかし、しばらく前までは核保有国の核戦略立案者たちの中で、非公開の会議の席上つぶやくように言った人は少なくなかった。これはいわば彼らのホンネであって、核兵器は人間の殺傷、建造物の破壊をきわめて効率的に行なう手段として、それらの人たちにはとらえられている。■(pp43~44)
このテクストを皮相的に読めば、豊田さんは「ヒロシマ・ナガサキはハンブルグ・ドレスデンとは違うのだ」と主張されているようにもとれますが、その解読は誤っていると考えます。一部のポストモダニストとは違って、私は、一つのテクストには、正しい読み方と正しくない読み方がありうるという立場を取ります。豊田さんの強調点は「核爆発の効果は従来の化学爆発とは質的に異なる」ことにあるのではなく、むしろ、核兵器を人間の殺傷、建造物の破壊をきわめて効率的に行なう手段と看做す核保有国の核戦略立案者たちの精神的姿勢の糾弾に置かれていると、私は解釈します。核爆発のもたらしうる惨禍が化学爆発のそれとは質的にも量的にも格段に(quantum jump!)凄まじいことを知りながら、依然として、敵対する人間集団に核攻撃をかけることを想定し続けるという人間精神の悪魔性、「皆殺しの思想」こそが、ここで糾弾されているのだと私は解釈したいのです。人類がこのまま膨大な核兵器の蓄積を続ければ、人類全体が核被爆の特別なむごたらしさの中で全滅するから、核兵器は廃絶しなければならない、と本当に本気で考えることの出来る人が一体どれだけ存在するでしょうか。心底から、我らの子々孫々の未来を憂いている人間が一体どれだけ居るでしょうか。全人類とか子々孫々とかの事を、我々は本当に想い憂いているでしょうか。それよりも、むしろ、「きのこ雲」という恐るべき表象を前にしながら、あらゆる詭弁を弄して核の保有を続けようとする人間たちのおぞましい想念を断固として拒絶することこそが豊田さんの精神的姿勢であったのだと私は解釈します。この意味では、豊田利幸の深い怒りの中で、ヒロシマ・ナガサキとハンブルグ・ドレスデンとの間に区別は存在しなかったに違いないと、私は推測します。この解釈、この解読について、次回にはもっと言葉を重ねたいと思います。
藤永 茂 (2010年5月12日)
しかし一人でも人間を殺すこと自体大変な悪であることは、巷の殺人事件を見れば想像できることですし、「何人殺せば何年服役」というのは量刑のための手段です。この手段を戦争犯罪の歴史的解釈に適用してより悪い戦争、あるいはよりましな戦術を云々することには抵抗を感じます。戦犯法廷ではしかたないと思いますが。
例えば、ナチスドイツの犯罪を特別にひどいものとして扱うとき、「では、文献や資料には正確な数値が残っていないがもっと残虐な殺戮が過去にあったのではないか」、という議論に対しては免疫不全が残ります。また、ドレスデン空爆については長い間、公に議論できない雰囲気がありましたが、では公に議論できるようになったからドイツの過去の犯罪の重さは軽減されたのか、というとそうではないはずです。ですから、過去の戦争被害を史実としてきちんと掘り起こし、伝えることの大切さと同様に、それを一定の国家あるいは国民の自己弁護への道具として利用しないよう、常に自戒しながら研究を続ける必要があると思います。
一連の記事を拝読しながら、私はヒロシマナガサキがユダヤ人ホロコーストのように"特別扱い(神聖化)"されない理由を考えていました。ユダヤ人ホロコーストは"民族"抹殺を目的としたという点で他のホロコーストとは異なる(奴隷貿易や先住民虐殺は金儲け)という記述を読んだことがありますが、すっきりしません。この理屈では、核兵器テストと人体実験が目的だったヒロシマナガサキには、ユダヤ人ホロコーストほど非人道的ではないということになります。
ユダヤ人ホロコーストが"神聖化"されたのは、間接的・直接的にこの犯罪に荷担したことへのヨーロッパ諸国の深い反省の表れでしょうが、政治的な理由も大きいと思います。欧米(ドイツ除く)には、自分たちが犯した他のジェノサイドやホロコーストを相対的に小さいもの、ちょっとしたミスのように見せる必要がありました。自分たちの帝国主義時代の犯罪に対する旧植民地国からの清算要求を撥ね付けるために、その犯罪歴を忘却の彼方に追いやり時効とするために。また自国民をまとめるには"汚れた"歴史では不都合でした。イスラエルにも、パレスチナ人追放・殺害を国際社会に黙認させ、世界から集まってくるユダヤ人を一つにするために、ユダヤ人ホロコーストを絶対的なものにする必要がありました。核保有国は、核保有という既得権を固持するために原爆の残虐性は隠さなねばなりませんでした。欧米主要国がこぞってこの神聖化プロジェクトに参加したからこそ、ユダヤ人ホロコーストだけが、特別なものになり得たのだと思います。
米国にとってユダヤ人ホロコーストとは、原爆投下、先住民殺戮、奴隷貿易の米国暗黒史を覆ってくれるベールであり、モラル的優越感をもたらすものです。米国にとって核兵器廃絶とは既得権喪失であり、実質的には日本に謝罪することになるという意味では、"公式"米国史に"泥を塗られる"ことです。これを契機に別の虐殺が注目されることも予想できます。米国は国内向け(先住民、黒人、日系人)には謝罪しても、対外的には謝罪したことはないと聞いたことがあります。
人類が一番に記憶すべきものとして、欧米がユダヤ人ホロコーストを非西洋に押し付けることは、別の意味でも疑問を感じます。何を歴史的悲劇として重視するかは、国や民族によって異なっていても良いはずです。日本にとってはヒロシマナガサキでしょうが、パレスチナにとってはナクバ、インドにとっては大英帝国によって引き起こされた飢餓、イラクやアフガニスタンにとっては現在進行形の米国による侵略戦争、アフリカ・中東諸国にとっては植民地時代に受けた虐殺・弾圧・搾取であり、中国や韓国も同様でしょう。自国とは無関係のジェノサイドよりも、自国が(加害者として、被害者として)関わった大量虐殺の歴史を深く学び教訓を得ることは自然なことです。それに、ユダヤ人ホロコーストを大量殺戮の人類史の一コマとして扱ったとしても、再現されてはならない悲劇の一つとして記憶することはできます。
同様に、ヒロシマナガサキは世界にどのように記憶されるべきなのか、(人類の共通課題の一つとしての)反戦、反核、環境保護などの運動と(一国の悲劇の一つとしての)ヒロシマナガサキをどのようにつなげて核兵器廃絶の機運を盛り上げるかという問題は、一筋縄ではいかないと思います。(長文失礼しました)
いつ読んでも藤永先生の文章は誠実さ正義感と優しさに満ちています。また弱者に対する優しさ、傲慢な権力に対する静かだが強い怒りを文章の中に込められるのには感心します。
一週間に一回の投稿でも毎回かなりの長文で病後の執筆は大変だろうと思います。
コメンテーターも大変しっかりと意見を述べられており読みごたえがあります。
次第にいろいろな人が投稿され、歴史の闇の奥がこじ開けられて闇に隠された真実があぶり出されてきています。
まだまだ闇に隠された真実は多々あります。
闇を明るく照らす人はそう沢山いません。
真実を暴くには勇気が必要です。
裏の権力と金力がその勇気を潰そうといつも待ちかまえています。
権力や金力に媚びをうる学者や金の亡者が沢山います。
特に気をつけなければならないのが新聞テレビなどの増す塵報道機関です。
殆どの大報道機関は日本のものと言えどロスチャイルドなどのユダヤ系大金融機関の支配下にあり、大事な政治経済や戦争に関わる真実の報道は意図的に隠されてしまいます。
八百長報道が堂々と報道され自分で物事を考えない人は次第に洗脳されてしまいます。
大きなウソが真実のごとく報道されて表面ばかりね