前回の続き。
機械文明。テクノロジーどれもが我々を幸福にするために作られているはずである。不幸にしようと考えて作る人はいないだろうし(兵器は別か?)またこれで人々が便利になると想像して(それが利益につながるとはいえ)便利になることは良い事だと思ってやっているのだろう。発明や発見をする人は尊敬するしその行為自体は極めて善なる事である。
徒歩、馬、車、飛行機、バイク、新幹線、船舶、ロケット・・・ 移動手段も随分と多彩になった。A地点からB地点への移動するための選択肢は広がった。そして移動にかかる時間がどんどんと飛躍的に短くなった。そうすれば我々には時間が余るはずである。だから暇になって優雅な時間をすごせるはずなのに・・・パパの出張にかかる日数が減るはずだから・・・
機械、コンピュータの登場で我々はとても楽になり、1日に3時間働けばよくなるはずだった(あくまでも仮定の数字。)しかし楽になるどころか、苦になるばかり。コンピュータがもたらす便利の裏にストレスがあるし、演算処理能力が高まれば、やらねばならない仕事量÷処理能力=かかる時間が減るのではなく、分母の能力が高まれば、分子の仕事量が固定されないで、仕事量が増えるので結局かかる時間は変わらない、というのが機械登場以後の人間のお仕事だと思う。靴を手作業で作っていた時代より機械で作った方が、作る量だけは増える。しかし量が飛躍的に増えたがゆえに結局手で作ってたときと同じくらい働かないといけないのだ。
人間が誕生して以来ゆっくりと人間そのものは進化(もしくは退化)している。そのペースは必ずしも速くない。しかしながら、機械・テクノロジーの進化はとても速い。人間が追いつけないほどだ。であるから、本来人間が所有・使用するとちょうどいい程度の機械と一緒に生きていれば我々は幸せなのに、ちょうどよくない、過剰な機械に囲まれ暮らしているから我々は息苦しいのではないだろうか。
機械の進化スピード > 人間の進化スピード
WINDOWSをMS-DOSにバージョンダウンさせて古いソフトしか動かなくするのが得策だと言ってるわけじゃないけどね。でも、MS-DOSで動くごく一部のソフト以外使わない事は、今ネットサーフィンで毎日結構な時間を費やして、何か情報を得てもさほどハッピーな気分にならないという現状よりはちっとはましかもしれない。
携帯など持たない方がコンピュータ制御の車に乗らない方が、無駄にハイテクに生きない方が自らを不幸にしないのかも知れない。
現実に世界にあふれるテクノロジーの量 > 自分に丁度合ったテクノロジーの量
※ 余談
などと言いながらiPhoneをいじって悦に入っている私もどうかとは思う。エラソーに語ってすまぬ。申し訳ない。問題は、自分の身の丈に合ったテクノロジーの量とは(あるいは質とは)どのくらいなのか簡単には分からないということだろう。ただ方向としては、触れるテクノロジーを減らす方角が快適(気持ちよく)に暮らせるように経験的に思う。
A地点からB地点まで、飛行機で行くより新幹線の方が、新幹線より在来線の方が、在来線よりモーターサイクルの方が、モーターサイクルより自転車の方が、自転車より徒歩の方が(人それぞれだけど)、私の場合は「なぜだかさっぱりワカランけど、気持ちいいね」
携帯もPCも少なくとも私には過剰な道具なようである。意図してわざと持たなかったり電源を入れなかったりするとその日一日気分が良いもんだから。だったら捨てればよいんだろうけど、そうする勇気はまだない。
非常にキレの悪い今回の記事。読み返してもどう直したらいいのか分からない。具体性にかけ説明不足の内容、語尾を常に濁し気味の文章。どちらもイカン。しかしどう直したらいいか分からない。何よりも一番奇怪なのは私が、自分では嫌っていたはずのスローライフとかロハスっぽいことを言っていることだ。ついにヤキが回ったのか。
色々言いながら、いつか身の回りのモノをごっそりと処分した上で、どっかに越して何もない部屋で暮らすということに憧れる(=スローライフですらないような気がする。) 必要最小限の服、数冊の本、一汁一菜の質素な食事。嗚呼。私は禅僧か修道士か。カッコ良すぎだ。でもそれは無理か。
いや、それなら、
刑務所に入ればいいか。そうか。
語尾を濁したり言いきらない形とゆうのは
ふるさん(に限りません)が読者を意識した上で。
読者ありきで自分の文章を構成しようと心がけていると思います。
(当たり前といえばそうですが)
本当に自分の思ったままだけを思いつくままにツラツラと書きつづれば、
もっと暴言。とまではいかないにしろ
割と過激な偏見めいた文章になりがちなのではないかと。
でも結局、読者さんを含めて
総合的に納得度合いが高そうな文章で書いた方が
結果、自分の満足度も高くなるのではないでしょうか?
なんてゆうこのコメントが
あまり言いきってないじゃんみたいな。
(あくまでもですm(__)m)
コメントしにくい記事にコメントありがとうございます。
断言て、出来るのならした方が文章がスパッとキレていて読みやすいように
思う部分もあるんですよね。読者がブログを書いている人を○○の専門家で
あると考えているのなら、○○については断言してもらった方が説得力もあるだろうし。
しかし、専門でもない事とか、あるいは断言すべきでないことについては
あまり断言しすぎなのも、読んでいて辛かったりするでしょう。
書く方と読む方が共有している「このブロガーさんは○○については断言して構わない」
という基盤がちゃんとしていると書きやすいし読みやすい。
まあしかしブログはその辺りが手探りで進んでいるのが書く方読む方両方面白かったりして。
天勉也さんのおっしゃる「思ったことをただ書くだけじゃ暴言・偏見になってしまう」はその通りだと思います。
>でも結局、読者さんを含めて
>総合的に納得度合いが高そうな文章で書いた方が
>結果、自分の満足度も高くなるのではないでしょうか?
これについてはよく分からないですね。反論しようという気は毛頭なく、
そうかも知れないしそうでないかも知れない。みんなに受ける月9ドラマと、
分かる人にしか分からない深夜のバラエティとどっちが良いかというようなことでしょうか。
あるいは暴言を吐きまくっている本人は意外と快感を覚えていなかったりするとか?
考えるヒントが出てきて面白いです。
では、また。
電話やメールに関して言えば、昔は不便でしたが不便ながらに「味」がありましたね
メールは便利ゆえに依存してしまいそうですが、あくまでもツールとして便利に使ってますね
昔はよかったと思う瞬間は「うまい肉屋の揚げ物(コロッケ)が食べれた時」ですかね
今後技術系な進歩はまだまだ有ると思いますが
個人店舗な味を近似する技術が進歩してほしいですね
で
「これは美味しい、でも昔はもっと美味しかった」なんて記憶を美化しつつ言ってみたいですね
また面白いテーマのブログお待ちしてます
気まぐれ立ち寄りですが・・・・
旨い肉屋さんのコロッケを食べることができたことが、
昔は良かったと思う時であるとはなかなか面白いですね。
ところで、
個人店舗的な味(?)あるいは地元のそのお店でしか
味わうことのできない食べ物はたくさんあるかと思います。
それはそこでしか食べられないからこそよいのであって、
似た味が真似されてコンビニで買えるようになったりすれば
全く美味しく感じないのではないでしょうか。
つまり、記事の本題に戻って、どこでもその味が楽しめる
ということは便利ではあるが、必ずしも幸福なことではないと。
とは言いながらも不便=幸福とも言い切れないんですけどね。