TBSラジオの「荻上チキsession-22」で紹介されていたこの本は、エホバの証人という宗教団体にずっといた人によるドキュメント。
エホバの証人と言うと、昔ビートたけしが主演をしたドラマで確か輸血を拒否する人たちが出て来たけれど、それがその宗教だったような記憶があるくらいで、他には何も知らない。読んでみれば、驚くことばかり。
著者が父親の仕事の関係でアメリカにいたときに、元々プロテスタントだった母親が「聖書研究」の勧誘に誘われているうちに、エホバの証人にはまってしまい、その影響で子供立ちも帰依するようになったとのこと。世の仕事は不浄なものであって、大学など行くべきでないという現代においてはだいぶ異端な感じ。この世はもうすぐ終わるから、そのときにはファーストクラスにいてもエコノミーにいても変わらないわけで大学に行くことは無意味だと教えられる。ふーむ。
聖書の研究会であって宗教ではないということになっているけれど、実際は宗教団体と変わりはないように思う。
この世の終わりが1914年だと教えられるそうなのだけれど、その計算方法がかなりユニーク。
エルサレム崩壊が紀元前607年(あまり歴史的根拠がないらしい年号) + 2520年 = 1914年になるそうだ。
2520年という数字はどうやって計算するか。7つの時のあいだ、神は民を見捨てる(ダニエル四章) これが別の聖句では三時半とされているので2倍。他ではそれが1260日とされている(啓示十二章) ので1260 X 2 = 2520日 さらに、一年は一日である(民数記十四章) ということで2520年になる。だからハルマゲドンは1914年からカウントダウンがはじまっておるのだ!という豪快かつ牽強付会な解釈。うーむ。すごい。
段々と教義に疑問を持ちつつも、著者の母親、弟、妹も信者になっており、抜け出すことは容易ではない。自分で自分を脱洗脳していくプロセスは、宗教の内幕以上に読ませる。自分の経験があるからこそ、地獄の底にいたからこそ、言葉に力がある。洗脳から覚めた後何を考えたかちと長めの引用。
うーむ。宗教について、自分は関係ないと思っていたけれど、広い意味では「洗脳」されいるのはまさに自分だった。
うーむ。
今日の一曲
著者は佐藤。と言えば、佐藤竹善。秦基博とコラボしてカバーした玉置浩二のmelody
では、また。
エホバの証人と言うと、昔ビートたけしが主演をしたドラマで確か輸血を拒否する人たちが出て来たけれど、それがその宗教だったような記憶があるくらいで、他には何も知らない。読んでみれば、驚くことばかり。
著者が父親の仕事の関係でアメリカにいたときに、元々プロテスタントだった母親が「聖書研究」の勧誘に誘われているうちに、エホバの証人にはまってしまい、その影響で子供立ちも帰依するようになったとのこと。世の仕事は不浄なものであって、大学など行くべきでないという現代においてはだいぶ異端な感じ。この世はもうすぐ終わるから、そのときにはファーストクラスにいてもエコノミーにいても変わらないわけで大学に行くことは無意味だと教えられる。ふーむ。
聖書の研究会であって宗教ではないということになっているけれど、実際は宗教団体と変わりはないように思う。
この世の終わりが1914年だと教えられるそうなのだけれど、その計算方法がかなりユニーク。
エルサレム崩壊が紀元前607年(あまり歴史的根拠がないらしい年号) + 2520年 = 1914年になるそうだ。
2520年という数字はどうやって計算するか。7つの時のあいだ、神は民を見捨てる(ダニエル四章) これが別の聖句では三時半とされているので2倍。他ではそれが1260日とされている(啓示十二章) ので1260 X 2 = 2520日 さらに、一年は一日である(民数記十四章) ということで2520年になる。だからハルマゲドンは1914年からカウントダウンがはじまっておるのだ!という豪快かつ牽強付会な解釈。うーむ。すごい。
段々と教義に疑問を持ちつつも、著者の母親、弟、妹も信者になっており、抜け出すことは容易ではない。自分で自分を脱洗脳していくプロセスは、宗教の内幕以上に読ませる。自分の経験があるからこそ、地獄の底にいたからこそ、言葉に力がある。洗脳から覚めた後何を考えたかちと長めの引用。
洗脳に関して言うと、私のカルト体験談は確かに特殊で極端な環境だった。しかし程度の差はあれど、広い意味での洗脳は社会のあらゆるところで見られる。「企業方針」という名の戦場の結果、出てくる過労死や燃えつきという犠牲。受験戦争という子供の多感な思春期を押しつぶす方式に加担する親たち。政府の意図が反映されているプロパガンダともいうべき教科書の内容。テレビ、新聞、雑誌などのメディアによる思想や価値観の押し付け。
流行だって軽い社会的洗脳から始まるものである。広告による商業主義の刷り込み。婚約指輪が給与の三ヶ月分で、結婚式が年収の予算なんていうのは広告洗脳の結果でしかない。ルイ・ヴィトンのバッグがステータスだというのも、雑誌広告による軽い洗脳のおかげだ。ブランドとは価値の刷り込みでしかない。そして広告代理店は、広告で人の意識に影響を与えることができますよ、といって広告媒体を売り歩いている。もし全てのメディア媒体が世の中から消えたら、あなたの価値観は今頃どうなっているか想像してみるとおもしろいだろう。
流行だって軽い社会的洗脳から始まるものである。広告による商業主義の刷り込み。婚約指輪が給与の三ヶ月分で、結婚式が年収の予算なんていうのは広告洗脳の結果でしかない。ルイ・ヴィトンのバッグがステータスだというのも、雑誌広告による軽い洗脳のおかげだ。ブランドとは価値の刷り込みでしかない。そして広告代理店は、広告で人の意識に影響を与えることができますよ、といって広告媒体を売り歩いている。もし全てのメディア媒体が世の中から消えたら、あなたの価値観は今頃どうなっているか想像してみるとおもしろいだろう。
うーむ。宗教について、自分は関係ないと思っていたけれど、広い意味では「洗脳」されいるのはまさに自分だった。
「人生の答えを他の人に委ねた瞬間、自分の人生はなくなってしまう」
うーむ。
今日の一曲
著者は佐藤。と言えば、佐藤竹善。秦基博とコラボしてカバーした玉置浩二のmelody
では、また。
でも、時折街の中で見かける、多分宗教団体だろうなと思われる団体名…意外に沢山あります。
大学の入学式やオリエンテーションでは、“カルト”からの勧誘に対する注意喚起が行われていると聞きました。カトリック系や仏教系の大学の学生の方が、宗教に対する敷居が低いとか、偽装サークルから宗教団体に勧誘するケースが多いとか…それだけ、身近な話なのかもしれません。
宗教とカルトの線引きはどこにあるんでしょう。
何とかセミナーや何とかビジネスにのめり込んで家族を捨てたりするのも、洗脳の一種のように思います。
>人生の答えを他の人に委ねた瞬間、自分の人生はなくなってしまう
自分でちゃんと考えて答えを出すのは、結構しんどい…考えるプロセスにも、世間的にはどうなんだろうとか、平均値はどの辺りだろうとか加味されてる…
個々人が考えることを放棄して集団生活を送る最終形態は、アリやハチみたいになること?
カルトと宗教の違いはという話ですが、区別をするのは難しく、極端なことを言えば似たようなものであると言ってもよいのではないかも知れません。(以下駄文が長くなってしまいました。すみません。)
反社会性が「カルト」にはつきものですが、キリスト教はユダヤ教の支配する世界では「反社会的」であったはずですし、何かを強く信じるという行為はだいたいにおいて「反社会的」なことではないでしょうか。(広くとらえればAKB48のコアなオタクもカルトに近いわけですし、中年のジャニオタの一部は私に言わせれば、排他的な部分が限りなくカルトなわけですが・・・以下省略)イスラム教も日蓮宗も誕生当時はかなり「過激で反社会的」だったのでありましょう。ただし、既成の価値観に対して「反社会的」であったとしても、必ず他人に迷惑になるようなことをするとは限らないということは明記しておかないといけません。出現当時はカルト的だったのに、時間が経過したら「宗教」になってしまったといったというのが、カルト→宗教だったり、宗教だったのが指導者の暴走で→カルトになったなんてこともあったでしょうから、カルトと宗教は成長の過程で変化した名称であると考えることも可能かも知れません。
自分の中ではなく、外に思考の基準を置くという意味では宗教もカルトも同じなのではないでしょうか。
他者に決めてもらうという考えが極端になったもの(=宗教)が、自分を幸せにしてくれれば宗教はとても良いものですし、幸せにしてくれないのなら良いものではないのでしょう。宗教そのものに、かなりの胡散臭さや、犯罪的なものがあることは認めなければなりませんが、本来は宗教そのものは善でも悪でもなく、受け取る側に善とか悪があるような気がいたします。
>宗教に身を投じる生活を送るなんて考えらない私
この本でも書かれているように、多かれ少なかれ我々のほとんどは何かに洗脳され、何かに身を投じています。その対象が宗教でなくても、「金もうけ」や「ギャンブル」「韓流」「ブランド」「出世主義」に身を投じたり、信奉したり、あるいは思考を他者に依存する場合には、宗教に深く帰依することとあまり変わらないのではないでしょうか。「この春はピンクが大人カワイイ」とか「カリスマモデルに学ぶ着回しテクニック」という記事タイトルは宗教の匂いがします。ですから、無宗教国家の日本と、何かの宗教を信じる国民が大半の国の間で根本的な行動規範に違いがないということになるのかも知れません。
>個々人が考えることを放棄して集団生活を送る最終形態は、アリやハチみたいになること?
個人が自分の頭で考えなくなる時代にすでに我々はいるような気がしますが、しかし我々はアリやハチよりもずっと無秩序ではないでしょうか。思想は画一的なものになっているにもかかわらず、行動は無秩序。いわば、頭のなかはアリなのにやってることはキリギリスといったところでしょうか。人間はアリのように「優秀な」生物ではないのかも知れませんし、キリギリスほど「人生を謳歌している」生物でもないのかも知れません。
耳が痛いお言葉です。
どのチャンネルでも同じ事件を取り上げ、どの雑誌のファッション記事も「今年はボーダー柄」と特集を組んでいますね。
何かを考える事よりも前に、ネットで検索する…
そもそも、ものごとをきちんと考えたことがあったのかすらあやしい私。
特に、宗教について は、仏教について~といったタイトルの本を斜め読みして中身は覚えていないという状態です。
ところで、ふるさんが、少し前に取り上げていらした、翻訳ミステリー大賞シンジケートの書評~のイベントカレンダーを見て、せんだい文学塾という講座に行ってきました。とても楽しい講座でした。ふるさんのおかげです。ありがとうございました。
せんだい文学塾と言うと、北上次郎さんと田口俊樹さんがミステリーについて語る会だったでしょうか。私も行きたかったです。
三人の先生方の息が合っていて、本を読む楽しさがダイレクトに伝わってきました。翻訳小説が読みたくなりました。
「七回死んだ男」は未読です。「11/22/63」「リプレイ」「夏への扉」はどれも傑作中の傑作ですね。タイムトラベルものは、SFとミステリーの境界線上にあって、ミステリー読みからすると「とても読みやすいSF」です。
お三方からは書かれる文章からして軽妙洒脱なお話が聞けそうですね。翻訳小説が売れない時代ではありますが、だからこそ面白い翻訳小説を堪能したいものです。