Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

新橋ゆりかもめ駅

2005年11月19日 11時13分05秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 昨日は午後から東京ビッグサイトへ検査機器の展示会取材のため出かけた。
 新橋で、モノレールの「ゆりかもめ」に乗る。列車の一番後ろの席に座る。電車の進行方向後ろ向きは、乗り物酔いがきそうで苦手だが、写真を撮るには好都合だと思うことにした。隣のオジサンは、さっそく小型パソコンを出して、膝の上で何やら検索を始める。これから見ることになる大パノラマの気色を楽しみに早くも無邪気にカメラを構える小生とは、違った感覚で生きている人なのであろう。

 あの世へもゆりかもめで行く秋の昼  頓休
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構造計算書の偽造事件と建築構造士という職業

2005年11月19日 10時02分57秒 | Journal
 首都圏に立つマンション20棟とホテル1棟(写真=京王プレッソイン茅場町、他の写真も同じですが、写真をクリックすれば大きくなります、念のため)で、その建築確認時に偽造した構造計算書を使った事件で、偽造した本人、千葉県市川市の姉歯秀次(あねは・ひでつぐ)1級建築士が、悪びれる風もなくテレビなどのインタビューに登場して話している姿が印象的だった。それと昨夜、10時のNHKニュースを見ていたら、日ごろ取材などで存じ上げている協会役員や大学教授が次から次に出てきて、カメラに向かって、「いつもの調子で」コメントを言っていたので、そのことにも驚かされたり、少し可笑しいやら。事件について雑駁に感想をまとめると、以下のようになる。

 この事件で、やっと構造建築士という職業とその職種が抱える社会的な問題点に世間的なスポットが当たったということでは、姉歯氏は「功労者」でさえある。普通、建築家とか設計者というと、誰もが、意匠系、デザイン系の恰好の良い職業を連想するだろう。そして、慥かに、彼らが、金銭面も含めニッポンの建築設計業界を支配している。ただ、その陰に、縁の下の力持ち、あるいは単なる下請け的な存在として、「建築構造士」が、建物の躯体構造について、強度や耐震性の角度から仕事をしていることは、これまでほとんど知られてこなかった。
 1万人ぐらはいるとされる構造系の設計者も、もちろん、1級建築士(約27万人)である。しかも、JSCA(日本建築構造技術者協会)が認定する「建築構造士」資格は、難しい資格要件や試験を課し、かなりハードルが高い。現在、資格者は約2500名いる。調べてみると、姉歯氏は、このJSCAの資格は持っていないし、JSCAの会員でもない。だからという気はないが、ややアウトサイダー的な構造計算屋として、世の中を渡ってきたのではないか。少なくとも、あの身なりからしてお洒落で派手な、金満的印象は、小生が知る大概に地味で貧乏くさい構造系の建築士のものではない。なお、JSCAは、この手の団体にしては、なかなか民主的で明るい組織だが、今まで世に知られることは構造士という職業と同様少なかった。この事件は、JSCAの知名度を上げるだろう。
 ただ強いて言えば、個人で会員となるJSCAは、姉歯氏と同じように個人事務所としてマンションの一室などで構造設計を下請け的に営んでいる会員と、大手設計事務所やゼネコンの構造部隊の一員として働いている会員、また地方と東京との二極化があり、立場の違いによって意見がまとまらないところもある。春の年次総会は毎年、チャンチャンどころか荒れる。そうした矛盾も抱えながら、それを隠すことなく、なんとか改善しようと運営されているところが、まずます民主的と言っているのである。
 姉歯氏は、「コスト削減のプレッシャーを受けていた」「仕事を増やしたくて始めた」と述べている。その仕事を出してくる設計事務所にサービスするつもりで、震度5強程度の地震で倒壊するレベルの設計にしたのだ。1級建築士どうしで元下関係はないはずだが、下請け根性が出てしまった。さらに、今日の報道によれば、施主(東京都・ヒューザー/福岡市・シノケン/千葉県・サン中央ホーム/東京都・東日本住宅/京王電鉄)あるいは施工会社(熊本県・木村建設)が「あそこは安く早く上げるから」と、姉歯氏の事務所(姉歯建築設計事務所)を指名し、元請の設計事務所が仕事を出してくるケースがかなりあったようだ。特に、ほとんどの物件にかかわったゼネコンの木村建設は、何らか積極的な関与を疑われてもおかしくない。同社は不渡り手形を出して、事業停止。
 この構造計算書の審査をした指定確認検査機関イーホームズについて、姉歯氏は「ノーチェック状態だった」と証言。国土交通省は強い態度でのぞむと言っているが、もともと先の建築基準法の改正で、国交省が無理やり地方行政の仕事を民間開放し、その結果、できたのがこうした民間の確認検査機関である。(当時の建築主事は役所にしかいなかったので、会社設立に建築主事の存在を必要とした民間確認検査機関は役人の天下り先となった。)これまでも取材した県や市、区の建築指導課で、四方山に話を聞けば、憤りが収まらない調子で、民間のいい加減な検査実態を切実にうったえられたものだ。もっとも、地方自治体の検査官も超多忙なようで、体調を壊して1週間職場復帰しない、検査が延期になったと業者がぼやくのを最近聞いた。
 なお、朝日新聞を含め一般紙が「検査会社」と書いているのは、紛らわしい。普通、検査会社とは、実際に建設現場などに超音波探傷器など機材を持ち込んだ検査員を送り込んで検査する会社のことを指す。普段、余り報道しない分野なので、混同しているのだろう。
 構造計算ソフト(国土交通省認定取得)についても話題になっている。昔は手計算だったが、やはり大変なのでパソコンソフトにデータを打ち込んで、スピーディーに計算をすませる。外力1.0のところを半分の0.5で設定し、柱や鉄筋数、壁の厚さを低減、基準をクリアするという単純な手口が見つからないできた。このソフトに使われてしまう設計実務の問題は、以前から指摘があったことだ。
 今回、問題になったマンションやホテルはRC造(鉄筋コンクリート造)。以前は10階前後のマンション物件は、SRC造(鉄骨鉄筋コンクリート造)が多かったが、施主やゼネコンがコストダウンや施工性を理由に、高い鉄骨の使用を避け、近年、RC造の比率を急速に増やしてきた。慥かにコンクリートは高強度化し、質がアップしているが、それだけに技術力と十分な施工管理が求められる。多くのゼネコンがそうした要件を満たさないまま、設計施工でRC造マンションを乱造ているのが実態。リストラなどでゼネコンの現場工事事務所が管理能力を失っている話はよく耳にする。ある設計者は「RCマンションには住みたくないな」と話していた。
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秋の朝、柿の木を見て、南林間

2005年11月17日 22時07分18秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 ここは南林間。昔はお伽の国、今はただの住宅街。
 今朝、柿が実った柿の木を撮った。1週間ぐらい前に剪定して枝は丸裸だから大きな実が余計目立っている。近づくと電信柱に飛び去ったが、何羽かの大きな鳥が上の方のうまそうな実をつついていた。多分、大和市の鳥「オナガ」ではないか。この渋柿、熟すと甘く、なかなかうまいのだ。

 秋の朝オナガついばむ柿の味  頓休

 なんでも、秋とか柿とか、一句に季語が二つ同居するのは、いけないことだと聞いので、あらためて詠み直すと、ますますひどいから、芭蕉の余りに有名な句を添える。

 朝飯や鳥がついばむ枝の柿  頓休

 里ふりて柿の木もたぬ家もなし  芭蕉

COMMENT:オナガ (Cyanopica cyana ) は、カラスの仲間。 英名"Azure-winged Magpie" 体長34~39cm。尾が20~23cmと長く、頭と体の大きさはムクドリ大。 名前の由来は、尾羽が長いことより。
 作品の第3巻には、大和市南林間について、こうした注釈がある。
 ――昭和初期、小田急は「南林間都市」分譲地の販売促進のために、下見客に無料乗車券を配ったり、土地購入者に3年間保証の無料乗車証を与えるなど苦心したが、売れ行きは芳しくなかった。依然として、雑木林のつづく林間であったことから、とうとう駅名から「都市」の字を削除してしまったという。後の時代に、旧林間都市の施設として残ったのは、小田急の創立者・利光鶴松(としみつ・つるまつ)の長女・伊藤静江がつくったカトリックのミッション・スクール「大和学園」と名門ゴルフ場「相模カントリー倶楽部」のみであった。
 しかし、そうした雑木林の風雅を敢えて好む人種もいる。1930、伯爵歌人であり劇作家でもあった吉井勇は、四十五才にして、南林間都市の妹婿の別荘に独居するようになった。夫人は、相模野のわび住まいを嫌って出ていってしまった。ほどなく、夫人とダンサーのスキャンダルが新聞記事となり、吉井は離婚を決断。華族の体面を傷つけたとして、宮内省は吉井に隠居を内達、爵位を剥奪した。失意の吉井は「檪(くぬぎ)林と松木立と薄原」とに取り囲まれた草庵生活から代表歌集『人間経』(政経書院、1934年)を上梓した。「ひとり生きひとり往かむと思ふかなさばかり猛きわれならなくに」「なまなかに昔おぼえし華奢のため人の知らざる寂しさに居り」「恋もなき身はいまさらのごとくにも恍惚として雲を見るかな」。
 高木蒼梧(そうご)という俳人・俳文学者は、1931年(昭和6年)に、南林間(八丁目)へ移り住んだ。相模野をこよなく愛し、大山と丹沢山越しに富士山を望む庵に「望岳窓(ぼうがくそう)」と名づけ生活した。俳諧の考証的研究に実りを見せ、芭蕉や俳僧蝶夢(ちょうむ)の研究に努めたという。彼の俳句に「見渡しの不二大山や渡り鳥」がある。
 長野県下伊那郡出身の評論家である唐木順三は、京大で西田幾多郎に師事、高校教師をやっていた戦中の1940年に、やはり、義弟を頼って、南林間に移ってきた。当時の自然を書いて、唐木氏に、こういう文章がある。「付近一帯の檪が紅葉する時節は、ほんとにお伽話の国にいるような思いであった。野兎、いたち、蛇、コジュケイ、何でもいた。ここは相模野の片隅の八里橋無しといわれたところである。以前はむちゃくちゃに小鳥が多かった。」(「朴(ほお)の木」、1957年)
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今日の帝国ホテル前、紀ちゃんの披露宴

2005年11月15日 20時30分20秒 | Journal
 3時40分頃、霞ヶ関方面から日比谷公園を抜け、帝国ホテル前の交差点にいた。天皇の長女、紀宮清子(さやこ)さんの披露宴があるというので、大群衆の混雑を予想したら、それほどでもなかった。写真の日テレクルーは警察官にここから撮影は出来ないと制止され、別の場所に移動していった。周りは耳に補聴器をつけた私服警官でいっぱいだ。待つこと10分。白バイに先導されて黒の車が接近、ワーッと歓声と拍手が起こり、向こう側の車線をあっという間に何台か速度を出して通過したと思ったら、帝国ホテルの裏側にまわって消えた。それで婚礼見物は終了。もちろん、車だけで花嫁は見えなかった。でも、紀ちゃん、お幸せに!
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哲学草稿2:仏教は今でも非ニッポン的なのか? 蘇我氏滅亡、神仏習合と廃仏毀釈、小泉首相の靖国神社参拝

2005年11月14日 21時06分49秒 | 哲学草稿
 今日の朝刊1面に、蘇我入鹿(そが・いるか)邸の遺構が、奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか、標高148㍍)東麓遺跡で見つかったと報じられていた。
 645年、入鹿は宮廷の儀式に出席していたところを、「天皇の地位を脅かそうとしている」との理由で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり、後の藤原鎌足)のクーデターにあった。皇子の刃に入鹿の生首が宙に高々と舞い上がったシーンは、あの『新しい歴史教科書』に絵入りで生々しく取り上げられている。見つかった入鹿の邸宅は、クーデターの前年(644年)、宮が見渡せる甘樫丘の谷間に建造され、父親の蝦夷(えみし)の邸宅は丘の上に築かれた一種の二世代住宅だった。クーデターの翌日、敵と対峙した蝦夷は自ら両邸宅に火を放ち、自害して果てたとされる。このクーデターが世にいう「大化の改新」、正確には、その幕開けとなる「乙巳(いっし)の変」である。
 この出来事を少し分析すれば、ニッポンという国の宗教と政治の固定的なあり方を如実に現していると思い至るであろう。あれ以来、昨今の小泉首相の靖国神社参拝問題まで1400年間、ニッポンは変わるところがない。
 まず、コーリア人に対する複雑な感情。ニッポン人と日本文化のルーツがコーリアにあることは、学説にある蘇我氏や天皇家、および官僚群の血筋を考えれば明らかだ。
 最近、読んでいる桓武天皇の伝記にも書いてあったので、ああそうかと思ったが、桓武天皇の母方は百済(くだら)系帰化人であった。そのことは今の天皇自身があっさり認めている。2001年の12月23日、天皇が六十八才になる誕生日を迎え、その記者会見の場で、以下のようにコーリアとの縁についてこんな突っ込んだことを話した。

 ――私自身としては、垣武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。

 そして、桓武天皇はコーリア系人脈をうまく使って治世をした。最初に移った長岡の地を開拓したのは秦(はた)氏で、彼ら帰化人勢力の財力が遷都の財源となったとされる。つづく平安京遷都についても、その主唱者は、渡来系の和気清麻呂や秦島麻呂(はたの・しままろ)、そして、『続日本紀』の撰修者でもあった百済系の菅野真道(すがの・まみち)といった人たちだった。
 岡山県出身の地方豪族・和気清麻呂は、戦前の国定教科書に、道鏡という悪僧が女帝の称徳天皇に取り入って、ついには自ら天皇になろうと策謀をめぐらし、清麻呂も仲間に加わるように誘うが、清麻呂は拒絶して、かえって宇佐八幡の託宣として道鏡一味を除くように天皇に進言、島流しの憂き目にあうが、後に、見事に復権した忠臣として扱われた。
しかも、天皇が住んだ大内裏(だいないり)は、もとは秦河勝(はたの・かわかつ)の邸宅があった場所だったとされる(『拾芥抄』)。河勝は、聖徳太子の参謀格だった人物。さらに、いわばサムライの始祖、桓武天皇が征夷大将軍に抜擢した坂上田村麻呂(さかのうえの・たむらまろ)は、チャイナの高祖皇帝の末裔だとか。また、桓武天皇が遣唐使に送り出した最澄は、近江の膳所(ぜぜ)近辺の人(近江国滋賀郡三津ケ浜=大津市下阪本辺の湖岸)であった。ここは、「志賀郡四郷」の一つで、古代民族が居住した古郷であった。最澄の俗名は「三津首(みつのおびと)広野」と言う。彼が生誕する300年ほど前にチャイナから帰化した後漢の「孝献帝」の一族の末裔ではないかと伝わる。
 つまり、ニッポン文化の真髄、京都の文化は、コーリア系やチャイニーズ系のエリート層によって土台(foundation)は築かれたようなものだ。それを後から差別して、ニッポンの国はニッポン人だけでつくったようにニッポン民族の優位を主張したって、はじまらない相談なのだ。歴史的な無知を露呈しているにすぎない。しかし、古くからニッポン人の中の国粋的思想を持つ人々は、この混合人種、混血文化からニッポンが成った事実を嫌って、歴史を改ざんしてまで彼らの痕跡を抹消しようとしてきた。それが、聖徳太子一族が殲滅(せんめつ)された悲劇や蘇我氏の滅亡につながったと、小生は考える。
 太子一族も蘇我氏も、仏教徒であった。そのころの仏教は、明らかな外来文化であり、ニッポンの文化風土にはなかったがっしりした体系的で稠密(ちゅうみつ)な宇宙観を主張する異教と映ったであろう。仏教には、考えようによっては、執拗で脂っこいところがある。東洋の衣を被ってはいても、キリスト教と同じ粘着の質感がある。一方、ニッポンは、風通しが良い、淡白好みの「生(き)なりの文化」で、オモチャのような鏡・剣・曲玉といった三種の神器を奉(たてまつ)り、刺身を食い、大した理由もなく腹を切り、吹けば飛ぶような木の家に住み、ペンキで柱や壁を塗りたくるようなことはしなかった。ニッポン人は、最近は肉食化し豚骨ラーメンを食って生活習慣病にかかっても、本来は、ゴタゴタした味つけ、脂っこさは、思想だろうが料理だろうが、チャイナ伝来だろうが、ヨーロッパ伝来だろうが、徹底して受けつけないところがある。だから、蘇我氏も聖徳太子も、外国カブレに映ったのである。(つづく)
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秋葉原の強盗傷害事件現場

2005年11月14日 20時22分06秒 | Journal
 朝11時、西船橋で取材し、東西線で茅場町へ来て、日比谷線に乗り換え、秋葉原の取材に向かった。午後1時頃、まだ時間があるので電気街でも見てまわろうかと歩いていると、人だかりがあり、警官と報道陣がビルの一角を取り囲んでいる。
 30分ほど野次馬でそこに立っていたが、鑑識や刑事が出入りする以外、何も起こらなかった。通りがかりの人が、フジテレビの記者に何があったのか訊ね、「強盗です」と答えていたので、強盗があったのだと分かった。しかし、ただの強盗ではここまで警官も報道も集まらないから、誰か犠牲者が出たのだろうと見当はついた。
 夜、家へ戻って、夕刊でチェック。「ビデオ店店長?強盗に刺される 秋葉原のビル」と見出しにあった。午前10時45分頃、東京都千代田区神田松永町の雑居ビルのオーナーから「ビル内のビデオ店で人が刺された」と119番通報があった。ビデオ店の店長とみられる男性が、出勤してきたところを、後ろからきた若い男に頭を殴られ、刃物で腹を数ヵ所刺された上、現金約60万円が奪われたという。警視庁は強盗傷害事件として捜査している。
 ところで、テレビの刑事ドラマでは、刑事も鑑識も土足で現場にどかどか入って行くが、あれは嘘だ。皆、靴を脱いで、靴下の上からビニールの袋を被せて、入っていく。見た目、あまり恰好良くない。
 なお、NHKの撮影クルーは3時までそこで待機してから撤収すると話していたから、どんよりと曇って日当たりもなくけっこう肌寒い中、何のためだかごくろうさまである。フジテレビは若いかなり別嬪の女性カメラマンで、重いカメラを担いだまま何時間も立っているのは、職業とはいえ、肩も凝り、つらかろうと思った。

 
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哲学草稿1:われわれは虚数時間に生きている?

2005年11月12日 14時40分06秒 | 哲学草稿
 今日は、関東で木枯らし1号が吹いたそうな。木枯らしに1号とか2号があるとは知らなかった。春一番より無粋(ぶすい)なり。
 ところで、今週の前半は、取材先から取材先へ、喫茶店などで時間つぶしに、いささか哲学をした。時間とは何かと抽象的な事柄を考えていると、思いのほか、時がたつのも忘れるようだ。
 宇宙が、その臍(へそ)である特異点で誕生し、ビッグバンで急膨張してから、137億年ぐらいたつ。この137億年というのは、気が遠くなるような悠久の時間であっても、実数時間である。われわれは、この実数時間を本当の時間と思い込んで生きている。もちろん、時計で確認する時刻もその実数時間の相対的な一齣(こま)だ。ところが、宇宙が誕生する前を、この実数時間で説明することはできない。誕生した瞬間がゼロ時で、その前は-1時とは勘定できない。それでは、この膨大な宇宙の巨大質量を1点の中に閉じ込めていた秘密が解明できなくなる。アインシュタインの相対性理論と量子理論が両立せず、破綻するそうだ。
 宇宙には生れる前、虚数時間が流れていたと、少なくとも数学的な説明ではそうなると言い出したのは、スティーブン・W・ホーキング博士だ。そして、宇宙の赤子は、陣痛もなく、スーッと産道を滑り出した無痛分娩で生れたと。
 この宇宙が生れる前に流れていた虚数時間は、誕生と同時に、瞬間のごとき短いインフレーション膨張期に、真空エネルギーが熱エネルギー(ビッグバン宇宙)に転換し、実数時間に変換したのであろうか。あるいは、そうではなくて、われわれが本当に生きているのは、虚数時間の中で、実数時間はそのうわべだけのご都合の尺度でしかないかもしれない。実際、量子論では、虚数を使わなければ量子の存在確率を算定できないという。人間も、突き詰めれば、量子と真空でできている。いわば、生れる前の、胎内の宇宙を余韻として残している。
 人間が、〔3次元の空間+1次元の時間〕の4次元世界に生きているというのも、錯覚で、本当はもっと多次元らしい。われわれは、それを4次元に合理化、省略し、虚数世界に蓋をして、「空間化された時間」に不安を感じながらも、けなげに4次元世界という窮屈で無理のある文明的枠組みに適応しようとして生きているのだ。
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顔見世の歌舞伎座、幸四郎の人情噺文七元結

2005年11月12日 07時04分10秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 腹の中のすき焼きを程よく昇天させるために、さらに東銀座まで歩いた。歌舞伎座は、顔見世公演で、ちょうど幸四郎の「人情噺(にんじょうばなし)文七元結(ぶんしちもつとい)」(2幕4場、榎戸賢治作)があったので、ちょっと一幕見自由席(900円)で途中から覗く。つかの間、天上桟敷から見下ろす歌舞伎の舞台は、色合いがなんとも品良く奇麗だった。
 この芝居は三遊亭円朝の口演を歌舞伎化したのだとか。酒好きで面白いキャラクターの左官屋が、借金に火の車の家計を助けようと自ら吉原へ行った娘から50両を泣く泣く受け取り〔置屋のおかみが1年後の晦日(みそか)までに返せば娘を座敷には上げないで身近の小間使いに使っておくと約束してくれた〕、しかしその帰り道、隅田川(?)の川端で50両をなくしたと身投げしようとする大店(おおだな)の手代を助けるために、そっくり借りた金を渡してしまう。翌日、長屋でカミサンにがやがや怒鳴られているところに、大店の主人が手代を伴ってやってくる。と、まあ、やひやしながらも最後には報われるハッピーエンドの噺だ。
 幸四郎ふんする左官屋の長兵衛が、大店の主人が「これからはどうぞ親戚付き合いを」と持ちかけたのに対して、貧窮の長屋暮らしの自らの境涯を意識して、「提灯(ちょうちん)に釣鐘(つりがね)よ」とベランメエ調に照れて言ったのが鮮やかに頭に残った。

 今もちょうちんに釣鐘暮れる秋  頓休
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築地場外市場と朝日新聞社屋

2005年11月12日 06時07分38秒 | Journal
 今回、はじめて気がついたが、隅田川沿いの築地の河岸から市民が買い物に来る築地場外市場まで歩くとかなり距離があった。ここも段々とさびれていくようだ。移転の話はどうなっていたっけ。その向こうには、朝日新聞の茶色の社屋が見える。ここも段々とさびれていくのか…。遠景では、まだ奇麗に見えるが、近づくと外壁の色もあせており塗りなおしが必要だ。

COMMENT:築地市場は「豊洲新市場」に移転するという話だが、「築地市場移転に断固反対する会」も設立されたということだが…。
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吉野家の「牛すき鍋定食」(並480円)は、うまかった

2005年11月12日 06時02分55秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 昼に昼飯を食べ損ねて、勝どき橋を渡ったところにあった吉野家で「牛すき鍋定食」、並盛り480円を食した。漬物の分量が少ないのが気になったが、鍋のすき焼きは、まことにうまかった。牛肉も柔らかく、つゆの味付けと生卵とのマッチングも良い。大きな木綿豆腐も四つに箸で割っておいしく食べられた。腹が減っていたせいか、もっと食べたいぐらいで、今までで一番うまいすき焼きだと感じたな。
 ところで、隣の男性客は、生卵をすき焼きにかけないで残しておいて、最後にまるごと黄身だけを口に放り込んでいた。儀式か何かのように生卵に対して非常に丁重な仕草だった。人によって、いろいろな流儀の食べ方があるものだ。

 魚河岸ですき焼き喰って秋の空  頓休

COMMENT:この日は、アメリカとの狂牛病問題はまったく考えに出てこなかった。食い気がまさっていたのだ。さて、あの頬張った牛肉は、アメリカ産だったのか?
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