Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

こぼれ写真と雑文(ローマ編)

2023年10月14日 17時44分54秒 | 雑文
 という次第で、炎天と最後にはコロナに罹ったことで印象がすっかり悪くなった今回の2週間に及ぶイタリア、パリの旅行(9月6日~20日)であったが、それでも後から思い起こせばあんなこともあったなと懐かしめるような感慨も少しは残った。写真に雑文を付しながら、その感慨とやらを紹介しよう。まずは、ローマ編(9月7日~11日)。


 中継地のパリ(空港のホテルに一泊)から朝方ローマに飛んできて、泊まることになったホテルからさっそくポポロ広場(Piazza del Popolo、古く巡礼者のローマへの入り口であった)→スペイン広場(Piazza di Spagna、単に間近にスペイン大使館があるからこう命名された)へと歩いて向かった。途中、テヴェレ川にかかる橋から撮ったこの写真が、一番ローマらしさを感じさせるベストショットであった。こういうもの侘(わ)びたローマをもっと満喫したかった。それには、目的的な旅でなく、ぶらり散策風に歩かなければならないが、初めてローマのような大きな街、然(しか)も名だたる観光スポットが集中する街を数日間訪れて、それが可能かという、はてな印の疑問が残る。


 ポポロ広場。右側に見える路地を入ったところに、1786‐7年、ヴァイマル公国の宰相(さいしょう)という身分を捨ててイタリアへ出奔したドイツの文豪ゲーテが、暫(しばら)く住んでいたらしい。


 ローマ近郊におけるゲーテ。ここまでポーズを決めてファッショナブルな装(よそお)いに気取って見せられる文人も少ないであろう。漱石は、ゲーテとトルストイを毛嫌いするようなところがあったらしいが、多分それもこうした貴族風な気取りを二人の文豪の作品に読み取っていたからであろう。対極的に、漱石はシェイクスピアとドストエフスキーを喰うために必死に書いた職業作家として評価している。漱石自身、大学の教職を捨ててなったものの職業作家の辛(つら)さが骨身に沁(し)みていたようだ。


 ドイツの文豪探訪よりは目先のイタリア観光とゲーテへの道を選ばずに、スペイン広場へ最短と思われる右側の道を暫(しばら)く歩いていくと、レストランがあった。ここでとりあえず食べようとなって、魚料理を注文したら、刺青(いれずみ)の二の腕が調理した魚をさばくかような趣向となった。昔、北京で北京ダックをこういう風にさばいてもらったことを思い出す。


 さばいた結果は、皿上のこんな料理である。何をどう調理したのか、魚はからっきし味がしない。結局、イタリアで食べたイタリア料理らしいのは、スパゲッティ以外だとこの淡泊な魚料理だけであった。


 考えてみると、このレストランはレストランが本業なのか、本来は写真のような古物の骨董屋なのか、判然としない店であった。


 これは妻が撮ったスペイン広場の写真だが、私のより出来がいい。


 翌日は、ヴァチカンに行った。まず、ヴァチカン美術館に入る。写真は出口の方。


 ヴァチカンの権威を象徴する立派な絵がたくさん並んでいるが、こうたくさんだと二束三文(にそくさんもん)と適当に見過ごすしかない。おそらく日本の美術館にこのうちの2、3点運んで来たら、観客を数十万、百万人と動員できそうな絵画群であることに違いはないのだが。


 こんな風に回廊の天井に画を隙間(すきま)なく並べられても、ぞろぞろ歩きながらそれらを少しは丁寧(ていねい)に見ようと打ち仰いではみても首が草臥(くたび)れてそんなに鑑賞できるものではない。


 ラファエロ「アテナイの学堂(Scuola di Atene)」(1509‐10)。ラファエロ(Raffaello Santi、1483‐1520)の最高傑作として有名な絵らしいが、感じるものがない。これは油絵のように塗り込めない漆喰(しっくい)に顔料で薄く描くフレスコ壁画(水彩画のような平板な印象を受ける)で、画として奥行き・陰影が描けないという点はあろう。然し抑々(しかしそもそも)、若いラファエロにアテネの哲人を描くことは、無理があったのでは。ラファエロは「新プラトン主義(Neoplatonism)」を芸術作品に昇華したと評価されるそうだが、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを舞台に配置した役者のように派手(はで)な衣装を着せて描くのが、彼の本意であったか疑問だ。尚(なお)、この絵の中のプラトン役は先輩のレオナルド・ダ・ヴィンチがモデルになっているらしい。


 ラファエロの自画像(1506、ウフィツィ美術館)、3年後、「アテナイの学堂」を描く。尚(なお)、フィレンツェでウフィツィ美術館を訪ねたが、この若々しく麗(うるわ)しいラファエロの自画像が目に止まった覚えがない。どこにあったのであろう。残念だ。ただ、一般に画家による自画像は、変な顔が多い。売るつもりもなく、他者に譲るつもりもなく描くから、特段に男っぷりよく美男に仕上げる工夫は要(い)らない。そうすると、鏡に映ったままに芸術家らしく物憂(ものう)い得てして醜い顔がキャンパスに描出されることが多い(例えば、⇒ゴヤの自画像)。ラファエロは本当に若くて美男だったかもしれないが、やはり鏡の中の男をそのまま疑いもなく屈託もなく美男に描いたとしたら、画家としてどんな苦悶を抱えていたか怪しまれる。もっとも鏡の中の自分を見つめるのが女性だとしたら、女流画家だとしたら、その辺は納得できるのだが……。そういえば、このラファエロには、どこか女性的なところがある。
 ゴヤ(Goya、1746‐1828)の自画像⇒(写真をクリック)


 従って、変な顔でラファエロの最高傑作を「分からないな」と疑心暗鬼(ぎしんあんき)に眺めるしかなかった。隣の日本人らしい人は音声ガイドの解説を聴きながら鑑賞しているが、そうでもしないと分かったことにはならないのかもしれない。


 慥(たし)かに、四方、壁という壁にイタリア・ツネサンスの最高傑作があって、何をどう見ていいのやらただ鑑賞するにも大事(おおごと)だ。


 ミケランジェロ「最後の審判(Giudizio Universale)」(1536-41)。流石(さすが)に、壮大は壮大である。ミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475‐1564)は年下のラファエロを見下して「彼(ラファエロ)の芸術に関する知見は、すべて私(ミケランジェロ)から得たものだ」と豪語していたそうだが、ミケランジェロの製作中の「システィーナ礼拝堂天井画(Volta della Cappella Sistina)」(1508‐12)をラファエロがこっそり盗み見て、「アテナイの学堂」を描いたことは事実のようである。


 1889年と少し時代が新しい為(ため)か、この恋人或いは夫(?)の首を抱く女性の絵(誰の作か?)のおどろおどろしい劇性は気持ち悪いながらに理解できる。


 そろそろ館内見物も終わりに近づいて、通りがかった小部屋にふと立ち寄ってジョルジュ・ルオー(Georges Rouault、1871‐1958)の素朴な絵(「秋またはナザレット」、1948)と出合った時は、少なからずほっとした。


 左は、藤田嗣治(ふじた・つぐはる)の「聖母子」(1918)か?


 先程の出口から美術館を出てきて、道を渡った前のレストランで妻が頼んだこのぶっきら棒な果物盛り合わせを殆(ほとん)ど私一人で食べた。


 実際に通りがかったのは翌日だったが、ヴァチカンから道一筋のサンタンジェロ橋(Ponte Sant'Angelo)上の妻。この日も朝から暑かった。


 サンタンジェロ橋の欄干(らんかん)から撮ったテヴェレ川の風景は、聊(いささ)かの涼を運んでくれる。


 サンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)の方角からナヴォーナ広場(Piazza Navona)へ向かう。


 到着したナヴォーナ広場も酷(ひど)く暑苦しい。広大な広場とされるが、案外にこじんまりしていると思えた。


 広場のすぐそばに内部にラファエロの墓があるというパンテオン(Pantheon)がある。薄汚れている。日本ならば弥生時代、竪穴式や高床式の粗末な住居に住み暮らしていた、紀元前25年の建設(焼失後、118‐128年に再建)というから、汚れているのは当然か。内覧はスル―。


 妻が撮ったパンテオンのお尻(裏側)。ローマ感が出ている。フェデリコ・フェリーニ風に奇妙に想像を逞(たくま)しくすれば、この大きなお尻が屁(へ)をこいたら路地裏はどういうことになるか。蜘蛛(くも)の子を散らすように、人っ子一人居(い)なくなる?


 妻は、コロッセオでこんな写真も撮ってくれた。「やけのやんぱち日焼けのなすび 色は黒くて食いつきたいが わたしゃ入れ歯で歯が立たない」は寅さんの台詞(せりふ)だが、私もやけのやんぱちで柄(がら)にもなく変なポーズをとる。


 コロッセオ見物を終えて、何故(なぜ)かご苦労さまにも日陰(ひかげ)から日向(ひなた)へ一周して最寄りの駅へ行く途中の写真。


 コロッセオ見物後、くたくたになった末に、B線からA線に地下鉄を乗り換えて帰ってくると、ホテル近くのカフェで一休み、こんな軽食を食べて一服(いっぷく)した。


 いつもながらに不機嫌で詰まらそうな顔である。このお菓子のような前菜的食べ物(生のむき海老と鮭がのっかったパイのような食べ物はよくカフェのガラスケースに見かけた)が旨(うま)かったか、どうも私は忘れてしまったが、妻は大層評価している。私は、ただ、ただ、神妙に白ワインを有難く頂いた。尚(なお)、別の日であったかと思うが、慥(たし)かローマ最後の夕刻に、その日は日曜日で休みが多い中、ホテル周辺に営業しているレストランを探し歩いて、やっと見つけたレストランでボンゴレのスパゲッティを食べた。これは紛(まご)うことなき一品であった。シンプルにアサリの味が出ていて何より麺が素晴らしい具合に茹(ゆ)で上がっている。シンプルに麵だけでも旨いに違いない。生涯忘れられないスパゲッティとなった。やはり、地元の人が好んで来るようなレストランは、味がいい。もう来ることはないと思うが、もしローマに来たら、このレストランでこのスパゲッティを食べたい。生憎(あいにく)、写真は撮らなかった。見た目はただのボンゴレですからね。

 ローマの観光地巡りとしてはこんなところであったが、旅行では肝心となる宿泊したホテルの所在地は、ヴァチカンにも徒歩圏内のタウンハウスであった。はじめは便利なローマ・テルミニ駅(Stazione di Roma Termini)近くに予約してあったが、治安の良し悪しを考えて、滞在先を変えた。ホテルは道を挟んで正面に裁判所があるような場所で、閑静な住宅地と言える立地であった。4泊で12万円は、円ユーロの不利な為替を前提とすればローマとしては高くも安くもない宿泊代であろう。タウンハウスというだけあって、普通のホテルのような看板もない。最初の晩、スペイン広場から戻ってきて、同じような大きなドアが並んでいて、あるドアを預かっていた鍵を使って開けようとするが出来ず、帰ってきた住民の後にくっついて入ると、そこは同じような中庭があって似ているが何か違うと、一体何処(どこ)が自分のホテルなのか探しあぐねて途方(とほう)に暮れたことがあった。


 タウンハウスの前の交差点を渡る。ここは数駅でヴァチカンへ行けるトラムの停車場でもある。左が裁判所、右がタウンハウス、いや、もしかしてアベコベかも、失礼。


 こういう建物は、目印がないので、住所を控えておかないと闇の中では全く分からなくなる。
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