Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

とんでもない悪ガキだった漱石とその後

2018年07月31日 12時27分34秒 | Journal
 岩波文庫『漱石追想』(十川信介編)を読み終えた。夏目漱石(1867‐1916)の同級生、同僚、教え子、担当医、芸者、子供らが書いた漱石観が49人分載っている。その中でも、篠本二郎という人が書いた「腕白時代の夏目君」というのが出色の面白さだった。まさに抱腹絶倒。文豪と呼ばれるほどの大作家になってからの漱石は、かなり取り澄ました印象だが、子供の頃は、相当な悪ガキだったことを知り、それほどの悪ガキ体験のない小生としては、なおさら、漱石にはかなわないなと思った。

 小学校では、子供時代の漱石は「鈴木のお松さん」という同級生になった愛らしい女の子をこんな風に漫画チックにいじめた。「課外にお松さんが席に未だ居残れる時、お松さんの両端より腰掛けながら、余等(篠本と漱石)一度にお松さんを肩にて押しつぶす程に圧し付けて苦しめてやろう、そうすれば何も証拠を残さぬから大なる罪を受くることはあるまいと一致した。その後この愧(は)ずべきことを実行した。お松さんは顔を赤くして大声で泣き出した。余等は今更驚き狼狽して、共に学校道具もその儘に、門外に逃げ出したが、忽(たちま)ち捕われて、その日より十日間、毎日課外に一時間宛(ずつ)、双手(もろて)に水を盛りたる茶碗を持たされて、直立せしめられたるのみならず、その後は席を更(か)えられて同室中一番薄暗き片隅に移された。」

 極めつけの悪戯(いたずら)は、次のようなものだった。「毎日午後の四時頃に、余(篠本)が邸の板塀の外を二十二、三歳位な按摩が、杖をつき笛を吹きて通過した。此奴(こやつ)盲人に似ず活発で、よく余等を悪罵し、時に杖を打振りて、喜んで余等を逐い廻した。(中略)或時学校で夏目君と一つ按摩を嬲(なぶ)ってやろうと色々に協議した。併し何時も矢鱈(やたら)に杖を振り廻すから、容易にその側に寄る訳にはいかぬ。そこで或時二人して、恰(あたか)も按摩が塀の外を通過する頃、塀に登りて、一人は長き釣竿の糸の先きに付せる鉤に紙屑をかけ、一人は肥柄杓(こえびしゃく)に小便を盛りて塀の上に持ち上げて、按摩の通過を待つ程に、時刻を違(たが)えずやって来た。一人は手早く紙屑に小便を浸して、釣竿を延べて魚を釣るが如き姿勢を取りて、小便の滴(したた)る紙屑を、按摩の額上三、四寸の所に降して、一、二滴小便を額上に落した。この後の按摩の挙動を思い起す時は、今も笑を抑ゆることはできない」云々。ひどいものである。

 多分、漱石は、子供時代のこうした女子や弱者への自ら言うもはばかる悪戯を反面教師にして、『坊っちゃん』のような無鉄砲な正義の貫徹を書いたのであろう。なお、そうした悪戯体験が不足している人間は、小生もそうだが、なかなか自分の中にこれといった本音の正義を見つけ出せないのかもしれない。


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松本智津夫死刑囚の刑執行に想う

2018年07月06日 12時33分59秒 | Journal
 今日朝方、小生と同世代の松本智津夫死刑囚(麻原彰晃、1955‐2018)が他のオウム真理教死刑囚6人とともに処刑された。ところで、松本には、個人的な想いがある。小生は、小学校の5年、6年と父親の転勤で長崎県の佐世保市に暮らしたが、その頃、松本も佐世保から左程遠からぬ熊本県の八代市に暮らしていたはずだ。その佐世保時代、ニュースや先生の言葉に水俣病の怖さをひしひしと感じていたが、盲学校に行った松本はまさに水俣病の犠牲者だったらしい(?)。少なくとも彼の人生(観)に、水俣病が深くかかわっていることは間違いないと思う。海に垂れ流されたメチル水銀化合物による中枢神経疾患と地下鉄に散布された有機リン化合物サリンによる神経麻痺、実行者が企業と宗教団体の違いはあっても、この2つの自然界には存在しない化合物による無差別殺人が一人の孤独な人間の心理中でどこかでつながっていると考えて無理はなかろう。

 水俣病患者の手


 さらに、高校生の頃、小生はやはり父親の転勤で大分市に暮らしたが、その高2時代のクラスメイトに、後にオウム真理教に入団したK君が居た。事件が発覚して、K君が逮捕され(実刑判決後、釈放された)、ニュースに盛んに出てきた写真や名前を知って、もしやと思って調べたら、間違いなくあの県立大分舞鶴高等学校の同じクラスに居たK君である。K君とは、同じクラスながら、一度もまともに口をきいたこともなかったかと記憶する。まともに目も合わせなかったかもしれない。いや、一度だけ、K君と目を合わせたことがあった。それが何のことだったかは、もちろん覚えていないが、その瞬間、彼が小生のことを妙な感じに、怪訝(けげん)というか不安そうな感じにおどおどと見ていたような気がする。あの頃、圧倒的におかしな、周囲から逸脱した印象の高校生だったのは、むしろ小生の方であった。小生は不登校寸前の嫌々学校へ通ってる超絶的に孤立した生徒だったが、高校の寮生だった彼も、陰気で、一人の女子生徒にもてる背の高い優男(やさおとこ)風な男子生徒の後をくっついて離れず、いつも二人だけでつるんでいるような無口な生徒だった。K君は、大人になってもそうだが、顔は彫りが深く目鼻立ちがくっきりとした男前だったが、背丈は小生よりも大分低く、寮生らしくふけが目立つ学生服姿に幅広にがっしりとした猪肩が印象的だった。絵画をクラブ活動でやっていたのか、画帳を手にしていた姿も微かに覚えている。そんな大人しいK君が、世間を背にして反社会的宗教団体にくみし、一連のオウム事件でああいうことになるとは、事の余りの展開に不思議な気がする一方、ひょっとしてあり得たなとも感じる。今度のK君は、優男でなくひげ面の盲目の大男、教祖麻原の後に控え目にくっついていた。集団に帰属することや何事につけ他人に指示されたり命令されることが嫌いで、しかも小心に危ないことは未然に避けようとするタイプの小生など計り知れない人生の艱難(かんなん)が、K君には起きたであろう。それこそ人生いろいろだ。高校時、肌合いが合わなかったが、彼の付き合った教祖麻原とオウム幹部の7名が突如死刑になり、この世で急に7人分の欠損が生じたためなのか、生きているK君に対して妙に少し懐かしい気持ちが働く。K君は、今も健在で静かに暮らしているようだ。彼の方では、高校以来、小生のことなど思い出すことなく、とっくに死人も同然の欠損扱いになっているだろうが。なお、下の麻原の有名な「空中浮揚」写真を撮ったのもK君だったらしい。オウムもグル麻原も知らない1世紀後の人間が、インターネット上にこのバカバカしい写真を見つけたら、果たして何と思うであろうか? それを考えると、この写真は、後世に残るK君が尊師のあり得ない苦行を描いた謎深き傑作だったかもしれない。





 小生がアメリカ留学中に、俄(にわ)かに、麻原やオウム信徒が国政選挙に打って出た。インターネットがまだ普及する前だった。田舎の州立大学の図書館で、週に1度届く日本の新聞で奇態な姿の麻原やオウム真理教なる教団の出現を驚きをもって知った。そして、異郷の地で小生も日本のオウム現象を記事中に貪(むさぼ)り読んで異常なほど興味を抱いたのは事実。今になって知ったことだが、K君は教団が選挙に立候補者を出すか賛否を幹部に多数決で取ったときに上祐氏と二人、唯一否定派だったらしい。そこは、さすがだ。K君は、議員などなりたくなかったろうし、そもそも社会で変に目立ちたくなかったのだろうと思う。アメリカから戻って数カ月後に、いわゆるオウム事件が次々に明らかになった。K君がオウム信者で幹部の一人だったこともその時になってようやく知ったのである。

 K君が撮ったとされる滑稽で笑いごとのような重力に逆らった麻原の必死な空中浮揚にしても、どこか、笑い切れない部分が自分の中にあった。ラララと空飛ぶ科学の子・鉄腕アトムをテレビで見て、その右肩上がりな輝かしい科学的未来像を抱かせる浮かれたファンファーレ調に所得倍増と舞い上がった高度経済成長期に学齢期を過ごし、一方で、公害ニュースに社会の影を肌に感じた、そんな世代である。佐世保では、米軍原子力空母エンタープライズの寄港で学生と機動隊の衝突を子供ながら渦中に目撃した。大学に入った頃には、三里塚闘争など校舎入口にバリケードがうず高くまだ残ってはいたが、配られる読むに堪えないビラを感動的に読んで学生運動に身を投じる人間は少数派になっていた。学食で紋切(もんぎ)り型に文面も下らない汚いビラを目の前に置いて一人ホッケ定食を食べていると、近づいてきた痩せた男(新実智光死刑囚に風貌が似ていた)から額や後頭部に手をかざされ、「何か感じるか?」と光の宗教に勧誘されたことがあった。前途のどこにも光が見えず、されど切実に光を求めていたから、本当はふと感じるところもあったが、あいにく小生は、教条的なマルクス主義の御託(ごたく)も大嫌いだったが、神仏の効能をとなえる怪しげな宗教の押し売りも大嫌いだった。とは言え、松本も小生とまったく同じ時代を日本社会に生きた同時代人である。この世に過ごした心象風景にはかなり似通ったものがあったはずである。彼は、明日から過ごすことになるあの世で例によって薄目をあけて見たいものだけ見えてくる視力を以って、どんな恐ろしい光景をまざまざと見ることになるのであろう。得意の空惚(そらとぼ)ける間もなく閻魔大王から大音声(だいおんじょう)に罵(ののし)られてあの薄気味悪い笑いを引っ込め大いに泣き喚(わめ)くだろうか。この世で極悪人とレッテルを貼られた死刑囚が処刑されて、冥福を祈るとは、犠牲者やその家族の心情を思えば世間的にもなかなか公言できないかもしれないが、数十年後、あの世で麻原に再会したら何とあいさつしていいか、小生には分からない。麻原が笑い飛ばしたであろう日本の伝統仏教は「悪人」こそ救われると説くが、少なくともそうした衆生凡夫的な「悪人」になることを拒んだ教祖麻原に「ご苦労さまでした」などと明るく手軽に言えないだろう。

 小生は、国の死刑制度には賛成できない。どんな重罪の罪人も終身刑にすべきだ。国が執行する死刑は、情を欠き、不条理な、ただの行政殺人、それこそ生きていてはいけない人間は本人のためにも殺してあげる式のポアに思えてくる。どこか、ホロコーストの運営にも似通っているのだ。処刑翌日の新聞によれば、法務省幹部は「オウム事件は、平成を象徴する事件。平成のうちに終わらせるべきだ」と、語ったという。象徴天皇が代わり、年号も変わる前に、早々に事をおさめたかったらしい。天皇に取って代わろうとした男とその一味が抹殺されるタイミングも国事行政の諸般の事情、ただのご都合なのだ。数千万人の犠牲をもたらした戦争責任もうやむやに、戦後の昭和・平成という姑息(こそく)で隠ぺい体質的な社会システムの中で、歴史的にみればいくらでも日本の地に輩出されてきた社会不適合な小悪党ども同様に、彼らオウム一党も一斉にこの世で憲法によって保障された生存権という権利を司法に取り上げられて、首に縄を結ばれ、重力法則に従ってすみやかに落下することで(空中浮揚の修行もむなしく)、それ一気にと露(つゆ)と命を抹消されたのである。テレビドラマ「相棒」の一シーンではないが、霞が関界隈(かいわい)のビルの一室で、ウイスキーでも飲みながら「やれやれ」と安堵(あんど)のため息をついている人間たちの顔が見えてくるようだ。システムや制度が人間を殺すのではない。神になれない人間が人間を殺すのである。死刑執行もまた人間が人間に対する死に至らしめる苛烈な暴力である。歴史における反省や理想を知らない、平等に死者を悼(いた)むことを知らない国や国に仕える人間が行う野蛮な行為である。ここは慣例を変えて、死刑執行に公務のヒエラルキーや分業制をなくし、刑務官でなく命令書にサインした法務大臣本人が出向いて最期のボタンを押すのであるならば、あるいは、罪人も少しは浮かばれる気がするし、たとえ死刑制度を温存してもそこまで執行者が法の門を守る仁王様の気魄(きはく)と形相(ぎょうそう)をもってやる国ならば、オウム事件のような自分という正体を見失ったフニャフニャと情けない集団事件も今後なかなか起きない気がする。しかし、現実の日本社会は、麻原やオウムの無責任を厳しく問えないほど、無責任になりつつある。
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ジェフリー・アーチャーの「THe CLIFTON CHRONICLES(クリフトン年代記)」を読み終える

2018年07月06日 10時19分54秒 | Journal
 ジェフリー・アーチャー(Jeffrey Archer、1940-)の「THe CLIFTON CHRONICLES(クリフトン年代記)」7作目をやっと読み終えた。2011年から1年1作ずつ発刊されて、ようやく最終の『This Was a Man』(2016)にたどり着いた。だから7年越しに読んできたわけだが、最初の数作は次のページを繰るのが待ち遠しいぐらい素晴らしくエキサイティングな読書であったが、以後、出来栄えに凹凸(おうとつ)があり、7作目はかなりの凡作であった。やっぱり、稀代のストーリーテラー、さすがのジェフリー・アーチャーも年かなと思う一方、これだけ長い作を、書き続けた根気には敬服だ。最初の頃が面白かったのは、出世物語の初期が、藤吉郎が秀吉になるまでと、大抵、わくわくどきどきなのと同じで、最後が詰まらないのは、太閤のように、地位を確立し功成ってしまった人生に輝きがなくなり嫌味に感じられるからだろう。手柄話然と、金持ちに金の使い方をえらそうに延々(えんえん)聞かされている気分になる。話は、バーリントン家(THE BARRINGTONS)とクリフトン家(THE CLIFTONS)という縁戚で結ばれる両家出身の主人公たちが継承する事業や政界での冒険性に充ちた物語の展開だが、どの主人公たちも大人びて知恵が働き、活発で、絶体絶命の難局を独力で切り抜けていく能力に長(た)けている。小生のように頓挫の多い真逆な傾向の人間が、人生途上において困り果てとんでもなく不活発な状態に陥ってきた人間が、こうした判断力に優れて運動量の多いテキパキした登場人物たちの人生の様々な局面を読まされて、慥かに、自分もそうありたいと羨望を感じはするものの、結局、自分とは関係ないような人々の物語と感じてしまうのは、少々、寂しい読書体験であった。筋立てだけが突出してしまうと、筋のスピーディーな展開に合致する動物本能的に素早く動く空っぽな未成熟な人間ばかり登場し、逡巡あるリアリティーある心情の人間が描けなくなってしまう。かといって、筋立てがないと退屈な読み物になるし、小説もそこが難しい。





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