大方の建物は死んでいる。生きている建物は世に稀で少なかろうと思う。この道後温泉本館は、幾晩も連続して夢の中に怪異な印象とともに登場しそうなほど、小生にとってリアルな建物であった。高々、温泉場の遊興施設がそこまで強い印象を与えるのは、この建物が温泉場として人間の欲望や便益に対して放恣一途にもこもこと発展したもので、余計な社会的規範や使命を持たなかったからではないかと考えた。
ちなみに、ここの湯は最高だった。世の中に温泉通は多かろうが、小生は、まったく関心がなくて、どこの湯はどうだのと講釈はできないが、入湯して、さらさらと湯の滑りがよく、透明感のある湯質である。さすがに、聖徳太子が先生と湯治にはるばる来た、漱石が松山市街からぶらぶらと来ただけのことはある、品位と魅力を秘めた名湯だ。いい湯は多かろうが、裸になっても心地に品のある湯は少なかろう。
ちなみに、ここの湯は最高だった。世の中に温泉通は多かろうが、小生は、まったく関心がなくて、どこの湯はどうだのと講釈はできないが、入湯して、さらさらと湯の滑りがよく、透明感のある湯質である。さすがに、聖徳太子が先生と湯治にはるばる来た、漱石が松山市街からぶらぶらと来ただけのことはある、品位と魅力を秘めた名湯だ。いい湯は多かろうが、裸になっても心地に品のある湯は少なかろう。