Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

坂本町公園の桜Ⅱ、頓休と芭蕉

2006年03月29日 07時17分26秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 一昨日の朝に撮った坂本町公園の桜。22日に載せた写真とほぼ定点観測的な位置関係を心がけて撮ったもの。朝、誰もいない公園の「新鮮な桜」というのは、また格別にすがすがしい。
 なお、22日付けに書いたようには、この桜がソメイヨシノだという確証はない。昨日、東京の開花宣言の標準になる靖国神社の桜の樹を見たら、わざわざ吉野桜と書いてあった。どういう風に見分けるのであろうか? なんでも植物分類の科は「バラ科」 、属は「サクラ属」ということだが、恋と同じく、謎が多い花だ。芭蕉が、元禄元年(1688年)に詠んだ句を下にかかげた。日中は花見客でにぎわう吉野山も、夜明けのころはひっそりとしていて、普段のままに明けていく。

 そわそわと恋のときめきに咲きそろう  頓休

 花ざかり山は日ごろのあさぼらけ  芭蕉

COMMENT:(Wikipedia「ソメイヨシノ」から)
【命名の由来】
 江戸末期から明治初期に、江戸/東京の染井村の植木屋(駒込の西福寺に墓の残る伊藤伊兵衛政武と伝えられる)が「吉野桜(ヤマザクラの意)」として売り出していたものだが、藤野寄命の調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることがわかり、1900年(明治33年)「日本園芸雑誌」において「染井吉野」と命名された。
【交雑種ソメイヨシノ】
 ソメイヨシノ Prunus × yedoensis は、エドヒガン P. pendula Maxim. f. ascendens (Makino) Ohwiとオオシマザクラ P. lannesiana var. speciosa の雑種が起源であることが遺伝子調査から明らかになっている(学名の×は、種間交雑種の印)。しかし、どちらが父でどちらが母かはわかっていない。
 花弁は5枚で、葉が出る前に花が開き、満開となる。開花期は関東地方で3月末から4月上旬ごろ。花色は、咲きはじめは淡紅色だが、満開になると白色に近づく。原種の一方であるエドヒガンと同じく、満開時には花だけが密生して樹体全体を覆うが、エドヒガンよりも花が大きく、派手である。
 近縁種のミカドヨシノとは区別が付けにくく、混同されることが多い。
 自然交雑を起こしやすいため、ミズタマザクラやウスゲオオシマなど、100種近い亜種が確認されている。
【特徴と欠点】
 ソメイヨシノは、街中では他種より目にする機会が圧倒的に多いことから、以前からその起源についてとともに、可否好悪についても、愛桜家の間で論争の絶えなかった品種である。
 江戸時代末期に園芸種として生まれ、接ぎ木や挿し木で増やすクローン植物なので木の成長が早いこと、一斉に咲き開花が華やかであることが好まれたことで、明治以来、さらには戦後にも、日本中に植えられ、戦後の荒廃した国土に爆発的な勢いで植樹され、戦争で荒れた国土を速やかに花で満たしてくれた。
 現在、ほぼ日本全域に分布するもっともポピュラーな桜であり、サクラ前線も、本種の開花状況が基準となっている。
 しかし、ソメイヨシノには大きな欠点がある。寿命が短く「60年寿命説」も唱えられているくらいで、30年過ぎたあたりから樹勢が目に見えて衰えてくる。すなわち、数十年ごとに木の植え替えが必要となる。 これは、前述のように株分けのクローン植物の性質上分裂を繰り返した遺伝子のため情報にエラーが生じやすく元来種としての寿命が短いことが原因と見られる。
 また、街路や公園と言った荒らされやすい場所に植樹されていることが多く、寿命を縮める結果となっている。 今あるソメイヨシノの大半が、昭和天皇の即位の時や、戦後すぐ復興のシンボルとして植樹されたもので、樹齢が50年を超え、ひとつの時代の節目を迎えようとしている。 戦後60年近くが経過した現在、いわゆる花の名所として数百本・数千本のサクラを植えている場所では、植え替えの手間・費用も馬鹿にならず、ソメイヨシノ一色の時代から、ヤマザクラ等を混ぜて植える時代へと変わりつつある。
 なお平均寿命が数十年のソメイヨシノであるが、献身的な手入れにて長命を実現した例もある。 青森県弘前市では、樹勢回復に熱心に取り組んだ結果、多くのソメイヨシノの樹勢回復に成功している。弘前城跡公園には、樹齢100年をこえるソメイヨシノがあり、これは本種の現存する最も古い株であろうと言われる。
【てんぐ巣病】
 サトザクラ全般に共通の欠点として、ソメイヨシノも排気ガスによる大気汚染などの環境悪化に弱いこと、病気や虫の害を受けやすいことが指摘される。特に、ほかのサクラよりてんぐ巣病 (てんぐすびょう) にかかりやすい。サクラてんぐ巣病はTaphrina wiesneriという菌により起こる病気で、その上部では小枝が密生して、いわゆる「天狗の巣」を作る。さらに、開花時には小さい葉が開くので目障りとなったり、罹病部位は数年で枯死したりといった被害を与える。罹病した病枝は、切り取って焼却しなければならない。
【起源の諸説】
 江戸時代末期に品種改良して作出された園芸品種が定説である。 なお、園芸家による作出説と、自然交雑したものを、偶然、挿し木によって増やしたという説とがある。
 過去、伊豆大島原産とされていたが、現地調査で否定された。
 また、小泉源一が1939年に大韓民国の済州島の王桜との類似を指摘して、済州島が自生地であり起源とする説を唱えたが、ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの交配によるものであるのに、オオシマザクラは伊豆諸島で進化したカスミザクラの島嶼型であって朝鮮半島には存在しておらず、学術的に本説は否定された。また遺伝子調査によっても本説は否定された。
 1916年にアメリカのウィルソンによりオオシマザクラとエドヒガンの雑種説が唱えられ、国立遺伝学研究所の竹中要の交配実験により、オオシマザクラとエドヒガンの交雑種の中からソメイヨシノおよびソメイヨシノに近似の亜種が得られることがわかり、1965年に発表された。これを受けて、伊豆半島発生説が唱えられた。
 これに対し、明治初年に樹齢百年に達するソメイヨシノが小石川植物園に植えられていたという記録や、染井村(現在の東京都豊島区駒込)の職人がソメイヨシノを作出したという記録が発見されたことから、岩崎文雄らは染井村起源説を唱えている。
 別説として、アメリカの植物学者にはソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの雑種ではなく独立した種であるとの説を唱えるものもいる。
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中央林間駅に負けた我が南林間駅

2006年03月27日 20時24分54秒 | Journal
 いろいろ外へ出歩いて写真を載せ、解説文もつけているが、自分が住む街は日常的な光景で、なかなか写真を撮る気にも、そうした機会もない。しかし、人生のかなりは嫌でも地元に根ざした部分だ。別に、生まれ故郷でなくても、そうだと思う。
 小生の場合、その地元が南林間である。近くに厚木基地があるため空を横須賀の米軍空母艦載機が低空で旋回し、その度に家が震動するような騒音公害があっても、やはり旅から帰ってくれば、ここが我が安住の場所である。
 最寄の駅は、小田急江ノ島線の南林間駅。先週の土曜日に撮った写真の小田急OXが入る駅ビルは1年ぐらい前(もっと前だったかな?)に建て替えられたもので、その前は…、ああ、慥か、白っぽいビルだったかと思うが、何十年も見ていたはずが、なぜか忘れてしまった!
 かつては毎日、無意識にそこの階段を駆け上がり、降りてきた。もっとも、今は通勤に家から20分かけて中央林間駅まで歩き、東急田園都市線を使っている。少し足が遠のいている歩いて10分程度の小田急南林間駅に申し訳ない気がある。

COMMENT:(Wikipedia「南林間駅」から)1929年4月1日、「南林間都市駅」として開業。1941年10月15日、「南林間駅」に改称。
 駅名の由来――「林間都市計画区域」の南部地域であったことから、「南林間都市」として開業したが、現在の「中央林間駅」「東林間駅」と共に、1941年に「都市」という文字がはずされ、「南林間」と改称した。
 なお、「林間都市計画」発足以前は、駅名が「相模ヶ丘」となる予定であった。座間市相模が丘は、小田急相模原駅西方にあたり、南林間駅からはかなり離れている。←こんな由来話は初めて知った。調べてみるものである。

 ところで最近、南林間駅は著しく凋落気味である。その証拠に、新しくできた快速急行という紛らわしい名の電車(普通の急行よりも止まる駅が少ない)が、南林間を小ばかにしたように素通りしていく。あれは昔は格下だった中央林間にはちゃんと止まるのだ。南林間駅の1日の平均乗降人員は、32,658人(2003年、全線69駅中33位)に対して、中央林間駅は、小田急江ノ島線が 79,540人(2003年、全線69駅中13位)、東急田園都市線が 88,967人(2004年度、田園都市線内第7位、前年度比4,451人増)の好成績だ。

 以下のHP「小田急江ノ島線各駅停車」にも、この一帯の盛衰を知る参考になる内容がある。「田園都市」の名のもと、小田急よりも東急の方が漁夫の利を得たという印象が強い。

 ――夢に消えた林間都市構想

 江ノ島線の最北部には、東林間、中央林間、南林間という3駅がある。変わった名前の駅だと思う人も少なくないだろう。
 これらの駅は、江ノ島線開通当時は東林間都市、中央林間都市、南林間都市という名前であった。その名前からも、当時の小田急が、ここに目黒蒲田電鉄(現在の東京急行電鉄)の田園都市構想に対する林間都市構想をここに描いていたことがうかがえる。注: この当時の田園都市構想は、現在の東急多摩田園都市ではなく、田園調布を中心とした開発構想だった。
 江ノ島線開通とほぼ同時期に、実際に林間都市の建設が開始された。それぞれの駅を中心に区画整理や整地が行われ、南林間都市を中心に分譲も開始された。しかし、戦前の昭和恐慌の時代のことである。林間都市の開発は遅れ,やがて戦争に突入してしまった。さらに戦時統制で、小田急は目蒲電鉄に吸収合併されて東京急行となったため、林間都市計画は挫折に終わったのである。東林間都市、中央林間都市、南林間都市の3駅は、それぞれ都市の名前を落として、現在の東林間、中央林間、南林間という駅名になった。
 その後、東急田園都市線が中央林間に乗り入れたことをきっかけに、林間都市の予定地だった地区は東急多摩田園都市の一角として、急速な発展をしている。歴史の流れとは実に皮肉なもので、小田急がもともと東急の田園都市構想を意識して立てた林間都市構想が、東急との合併によって挫折した結果、現在はその地区がその東急によって、その名も田園都市として開発されているのである。
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開運橋から眺めた岩手山と石っこ賢さん

2006年03月26日 17時49分27秒 | Journal
 そろそろ盛岡駅へ向かわないといけないので、開運橋を渡る際、岩手山がよく見えた。賢治も、明治43年、14歳の6月に、岩手山に初めて登ったという。
 開運橋は、1890(明治23)年11月に、当時の県知事が開業した盛岡駅への玄関口として架橋に尽力した橋で、盛岡市議会の資金的な協力が得られなかったため、知事が私財を投じて完成にこぎつけたというから、賢治も、この橋から同じような岩手山の眺めを何度も見たはずである。『春と修羅』の次のような岩手山の溶岩流をイメージした詩がある。

 そらの散乱反射のなかに
 古ぼけて黒くゑぐるもの
 ひしめく微塵の深みの底に
 きたなくしろく澱むもの

 岩手山では、1719年に流れ出た溶岩流によってできた痕が、「焼走り溶岩流」(やけばしりようがんりゅう)と呼ばれ、国の天然記念物に指定されている。賢治は、子どもの頃から、鉱物に大変興味をもっており、「石っこ賢さん」と言われていたそうだ。
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内丸へ昼飯に急ぐ岩手県庁職員(盛岡市)

2006年03月26日 17時42分43秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 ちょうど昼の12時を数分まわった頃、岩手県庁の前を通ると、県庁の職員が一目散に交差点を渡って、鳥居の向こうの内丸(うちまる)という飲食街に消えていく様子が印象的であった。内丸とは、盛岡城を守る上で、石高の高い武士が屋敷をつらねた場所らしい。東京ならば江戸城を控えた丸の内といったところか。写真の左側には、大きな鐘楼もあったから、昔も今も、武士や役人は、時の鐘で規則正しく昼飯に繰り出す種族に違いない。
 小生も、内丸の蕎麦屋で鍋焼きうどんを食べた。東京の鍋焼きうどんと変わりなし。前日に、盛岡名物という冷麺(れいめん)を食べて、お腹が冷えたから、温かい食事に飢えていた。

 昼の鐘鳥居くぐるや武士の今  頓休
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中津川沿いに風雅な家を見つけて(盛岡市)

2006年03月26日 17時11分35秒 | Journal
 中津川沿いを歩いているとき、今どき珍しく蔦(つた)のからまった風雅な家を見つけた。コンクリを使った家も、こうして緑の化粧をすれば優雅に見える。今は、耐震強度ばかりで、そうした配慮に目が行かなくなっている。
 なお、盛岡市というのは、この中津川、それに雫石川が、北上川に合流する水の都でもある。
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啄木と賢治の対比年譜、意外と高給取りだった賢治先生

2006年03月26日 17時07分29秒 | Journal
 この青春館は、啄木(1886~1912年)と賢治(1896~1933年)を対比させたところにミソがあるようで、写真のような対比年譜パネルが展示されていた。啄木は、賢治よりも10歳年長だった。賢治が16歳のときには啄木は東京で死んでいる。同じ盛岡中学の先輩後輩だが、彼らに直接の接点はなかった。
 パネルには、明治44年、賢治15歳のとき、盛岡中学の先輩・石川啄木『一握の砂』に影響を受け短歌の創作始まる、とあるから、あるいは、少年賢治が啄木を意識した時期があったのかもしれない。
 賢治は、盛岡劇場でチャップリンの映画やオペレッタを観ているモダンボーイだった。大正2年当時、入場料は6段階あって、特等席は2円50銭、5等で35銭。米一升27銭、コーヒー5銭、盛岡-上野間の汽車賃が3円49銭だった。
 大正10年、稗貫農学校(ひえぬきのうがっこう、後の花巻農学校)時代の賢治の給料は、80円、ボーナス5円。翌年には10円昇給、14年には110円となった。その翌年、退職、農耕自炊生活を始める。
 ちなみに、啄木が、明治44年、朝日新聞で俸給25円。夜勤を行ったり、朝日歌壇の選者としての追加で43円を得て、父母と妻らを養ったという。してみると、所得的には、啄木はプロレタリアートで、賢治はプチブルジョアだったといえるかも。
 独身の賢治が給料面では満足していた様子は、作品にも引用した『春と修羅』の第二集序文にも、よく表われている。

 この一巻は
 わたくしが岩手県花巻の
 農学校につとめて居りました四年のうちの
 終りの二年の手記から集めたものでございます
 この四ヶ年はわたくしにとって
 じつに愉快な明るいものでありました
 先輩たち無意識なサラリーマンスユニオンが
 近代文明の勃興以来
 或ひは多少ペテンもあったではありませうが
 とにかく巨きな効果を示し
 絶えざる努力と結束で
 獲得しましたその結果
 わたくしは毎日わづか二時間乃至(ないし)
  四時間のあかるい授業と
 二時間ぐらゐの軽い実習をもって
 わたくしにとっては相当な量の俸給を保証されて居りました
 近距離の汽車にも自由に乗れ
 ゴム靴や荒い縞のシャツなども可成に自由に選択し
 すきな子供らにはごちさうもやれる
 さういふ安固な待遇を得て居りました

 賢治の文学の特質は、こうした贅沢さの恩恵という側面を多分に持っていた、少なくとも生活苦にあえぐ貧乏くさいものではなかったと、小生は考える。
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賢治と宗教

2006年03月26日 16時54分33秒 | Journal
 宮沢賢治という人を考える場合、小生は、自作に引きつけて、「科学と文芸」の融合という視点に注目してきたが、「仏教とキリスト教」という二股性については、これまで考えたことがなかった。こうして外人キリスト教関係者や神父と親交があったというパネルを見ると、そうした面が否定できないような気になってくる。
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賢治、「春と修羅」の原稿

2006年03月26日 16時42分42秒 | Journal
 同じく青春館に展示されていた賢治の「春と修羅」の原稿。
 難しい漢字にルビをふっているところが、おもしろい。書体は、小生のペン字と似たところがある。ボールペンだとグシャグシャだ。
 この原稿は、詩集『春と修羅』の中の「春と修羅」という作品の冒頭部分だ。

 春と修羅
    (mental sketch modified)


心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様
(正午の管楽(くわんがく)よりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路(めぢ)をかぎり
 れいろうの天の海には
  聖玻璃(せいはり)の風が行き交ひ
   ZYPRESSEN 春のいちれつ
    くろぐろと光素(エーテル)を吸ひ
     その暗い脚並からは
      天山の雪の稜さへひかるのに
      (かげろふの波と白い偏光)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
  (玉髄の雲がながれて
   どこで啼くその春の鳥)
  日輪青くかげろへば
    修羅は樹林に交響し
     陥りくらむ天の椀から
      黒い木の群落が延び
       その枝はかなしくしげり
      すべて二重の風景を
     喪神の森の梢から
    ひらめいてとびたつからす
    (気層いよいよすみわたり
     ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)

あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ

(一九二二、四、八)
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賢治の手紙(青春館、盛岡市)

2006年03月26日 16時30分42秒 | Journal
 青春館の展示物に、賢治の手紙があった。花巻の賢治から盛岡の友人・森佐一という人に宛てたものだ。字が余りにも大きいのに驚かされる。
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紺屋町番屋(盛岡市)

2006年03月26日 16時27分31秒 | Journal
 こうした建物を見ると、なんとはなく郷愁がわく。自分の小さな頃に、こんな建物があったかも定かではないが、東京のその街にも、銭湯の煙突があり、なにか火の見櫓(やぐら)があったような、そんな微かな記憶が残っているのだ。
 この建物は、大正2年、消防番屋として建てられた洋風木造建築(保存建造物指定)。今も地域の消防団が機器でも置いているようだ。
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