Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

清潔になった北京と『1984』

2019年09月11日 20時50分07秒 | Journal
 例によって妻の里帰りのお供ということで8月28日から9月5日まで北京に行っていた。今回で一体何回目の北京かも分からなくなったが、街の雰囲気に明らかな変化もあった。清潔になったというか、北京らしい猥雑で雑然とした面が一掃されて、北京がこの前見てきたばかりの深センと似て見えた。王府井(ワンフージン)の名物、観光客相手に夜店が立ち並ぶような街区は奇麗に一掃され、あれだけ街中に溢(あふ)れていたシェア自転車もほとんど見かけない。唯一、泊まったホテルと繁華街の間にある広めの歩道で夜な夜な「広場舞」のパフォーマンスがド派手に繰り返されているが、これはまだ取り締まりの対象になっていないらしい。夜の10時までドンチャンやっている音がホテルの一室まで届くので困るが、こういったものもなくなってしまえば、北京はますます味気ない街になる。
 ちょうど、北京に行く前からジョージ・オーウェル(George Orwell)の『NINETEEN EIGHTY-FOUR(1984)』を読んでいて、後半の一部は北京のホテルで読み、帰りの飛行機でさらに読み、帰りついて最後の数ページを読み終えた。実は、この本を日本に居る間に読了しておきたかったのだが、計画が狂って、北京へ持参する羽目になった。『1984』は、一党独裁の監視社会を描いた著名な作品。まさに一党独裁の監視社会である中国に持っていくのは何となく憚(はばか)られたからだ。この本、書名は知っていてもずっと読まずに来たが、読んでみると、簡明で模範的な英文で書かれた、小説としても大変な出来栄えの傑作だし、まさに今の社会を切々と残酷に描き切っていると感じ入った。そこに描かれたのは、オーウェンが意識したとされる旧ソ連スターリンの徹底した粛清社会ばかりではない。どこか資本主義・自由主義圏に属する今日の日本の社会にも当てはまる怖さである。つまり、オーウェンは主人公の悲劇的体験を通じて個人というものを抹殺しないではおかない「情報テクノロジー化した現代社会」そのものの実態を描いたのである。そんな感想を抱いて北京へ行き、成程(なるほど)なと思いつつ帰ってきた。ちょうど「逃亡犯条例」改正案をめぐる香港問題が深刻化している最中でもあった。今回は、余りテレビのニュースも観れなかったが、香港の小さな活動家たちはやはり社会の秩序を乱す犯罪者として扱われている。こうして社会がどんどん異物を排除して綺麗になっていくと、少しでも変わった動きは不穏(ふおん)なもの排除すべきものとして扱われる。『1984』では、2+2=5であることが党の方針で、それをあくまで2+2=4だと拷問を受けながらも言い続ける主人公は廃人のように無害化された上に平穏な街中(まちなか)で後頭部から弾丸が侵入して突然意識は途切れ排除された。妻の友人に香港問題を問われて、小生は小説の主人公の顛末(てんまつ)を思い出しながらイギリス領だった香港と社会主義国の中国本土では民主化の意味が違っており、天安門事件と香港問題は同一には扱えないなどと、2+2=5式なのか、あるいは『1984』中にやはり出てくる「ダブルシンク(Doublethink:means the power of holding two contradictory beliefs in one's mind simultaneously, and accepting both of them.)」の相反する信念の同時併存的思考法なのか、ともかく無意味な答え方を繰り返して、特に中国政府の姿勢を批判することはしなかった。しかし、考えてみると「1国2制度」というのは、そもそも政治家が妥協のために決めた返還時のルール、2+2=5あるいはDoublethinkだったのではないか。そうだとすれば、香港は本来答えの見つからないデッドエンドに突き当たっていることになる。

 宿泊した天倫王朝酒店(Sunworld Dynasty Hotel)、隣は教会

 奇麗な王府井の秋空

 今回も老舎の記念館は閉鎖されていた

 日中友好ムードのためかCCTVで日本映画が放映されていた

 香港活動家が逮捕されたニュース

 「一帯一路」の唄があるとは!

 王府井名物の雑踏的食事街区は閉鎖されていた

 これは何なのだろう? 原宿スーパーよさこいの王府井バージョンか?

 中国人の趣味が分からなくなる

 一方、北京にはこうした立派な本屋もある

 いかにも懐かしい書店の内部だが、人影は少ない

 
歩くほど健康になれる老人靴を買った。日本での販売が待たれる

 毎夜恒例の教会前の社交ダンスと、一人老人の京劇風パフォーマンスの意味は?

 一方、教会の扉は日中も閉ざされており、信徒の出入りは制限されていると聞く

 『1984』と眼鏡、その他

 George Orwell

 George Orwellの『1984』に、こういう表現がある。—— The Eleventh Edition won't contain a single word that will become obsolete before the year 2050. いま使われている言語バージョンの第11版は、陳腐化が進んで2050年までに1語たりとも残っていないだろう、といった意味だが、主人公が生きる社会では、過去の記憶(文化)を留(とど)める単語はどんどん抹殺されてしまう。つまり、言葉の中に過去ましてや歴史なんてものが含意(がんい)として残っていてはならない。建国後、義務的に簡体字を使うようになり、さらに文化大革命で徹底して過去の文化を否定し、その上で経済大国を目指している中国は、見かけはともかく段階を踏んで『1984』の社会を形成しているのであり、多分、2050年までには、悠々(ゆうゆう)と世界一の覇権国になっているだろう。そのとき具合の好い立ち位置で日本という小国がこの島に残っていられるように、政治家は国民のために首(こうべ)を低くして十分な朝貢関係を築く努力をしておくか、あるいは、どんな政治的介入を受けても「凛(りん)として」困らないだけの、日本とは何か史実に基づいた反省的歴史観と文化的社会観および民主社会的な仕組みを確立しておいて、あとは国家民族的なしがらみや先入観を捨て去って、せいぜい頭を柔らかくして臨機応変にサバイバルするしかあるまい。

 李嘉誠と林鄭月娥(りんていげつが)

 香港の世界でも有数の大富豪・李嘉誠(りかせい)氏は、今の北京・王府井の初期開発事業に携わったことでも知られる(現在は撤退)が、香港の若者と中国政府を和解させようと新聞に声明文を出して、中国政府から儲(もう)けさせてやったのに恩知らずだ!と痛烈な批判を受けている。それに対して、彼は、自分はあくまで一商人で、政治的な立場や意図がある人間ではないと釈明している。政経を分離することがますます困難な状況になっている。かつてマルクス・レーニン主義を標榜した国、貿易戦争を繰り広げるアメリカを意識して「闘争」という言葉を盛んに使いだした国では、尚更(なおさら)である。「私は一商人である」という自負と謙虚に根差した慎ましい言い分を、為政者は耳を貸さない時代になってきた。「豊聡耳(とよさとみみ)」との別名を持っていた聖徳太子ではないが、どこの国の政治家も、太子が対等を求めた中国もそうだが、太子の後輩なのに昨今は教養もなく驕(おご)りが目立つ日本の政治家も、良い耳を持って推移する事態の理解を深めてから社会に働きかけなければならない。多くの中国人の感想は「香港は中国の一部なのに、なぜ騒ぐ?」、一方、多くの香港人は「けっして香港は中国ではあり得ない」というもの。政治家が約束した「1国2制度」は、もともと住んでいる香港人にとっては寝耳に水、意味のないものだったのでは。少なくとも彼らが民主的に選び取った制度ではなかった。現状は、期限の2047年まで待てないと「1国」を強調する中国政府と「2制度」の未来永劫な維持を期待する香港人の根競(こんくら)べになっている。
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