Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

耐震強度偽装での国の緊急調査委員会

2006年01月30日 20時37分49秒 | Journal
 今日は、国土交通省で午前と午後、耐震強度偽装事件に関する2つの会合を取材した。午前は「社会資本整備審議会建築分科会基本制度部会」で、これは建設業界団体の代表が20名以上集まってあれこれ対応策を練る会議。午後は「構造計算書偽装問題に関する緊急調査委員会」で、二人のジャーナリストや主婦連副会長、前日弁連副会長、全国マンション管理組合会長、建築学会副会長など多士済々だが、要は、国民の声を今回の国の行政対応に反映させるための会議だ。
 開催前の写真を撮った緊急調査委員会の方が、表面的には面白かったので、少し様子を書く。座長の巽和夫・京大名誉教授が中間報告の座長私案を読み上げ、それに対して委員が意見を述べるかたちで進行。京大名誉教授の文章を「構成がなっていない」とか「文意がつかめない」と、重箱の隅を突くようにあれこれ若輩の委員たちがケチをつけるのだから、面白くないはずはなかった。
 私案【偽装の有無が専門家が見ればすぐにわかるかどうかについての専門家間の見解の対立】があるとなっているのに対して、和田章東工大教授が「専門家に意見対立など何もない」と言えば、小谷俊介千葉大教授が「そうでもないだろう。この文章は最終答申にぜひ残してほしい」と反論。
 私案【現在の「建築士」は建築技術者の基礎的な資格としてそのまま置き、その上部に、意匠、構造、設備などの各専門分野別に高水準の専門技術者を位置づける必要がある】に対し、白石真澄東洋大学助教授は「そうした報酬も高いであろう高水準な専門技術者に市場ニーズが本当にあるのか。また〝高水準〟とはどう評価するのか。試験や研修を受けたから高水準でもあるまい」と、もっともな意見。
 私案【建築士が、圧力などにより不正をはたらくことのないよう、設計に関する料金などの確保など、建築士の地位の向上について検討する必要がある】に対し、これも白石助教授から「今回の姉歯氏によるレアケースだけで全体的な設計料を上げる方向に議論をもっていくことは、いかが」と待ったが入った。
 一番、委員の意見(不評)が集中したのは、私案【専門技術について、いわゆる専門家の意見が対立することは、国民の不安を引き起こすこととなりかねない。このため、行政が活用しているような安定した技術について、権威をもって国民に情報提供できる仕組みを検討する必要がある】だった。委員たちからは「権威がものをいうとは何事か。こういうところに権威を持ち出すのは良くない。もっと謙虚な表現にすべきだ」と苦情連発。
 それにしても嶌信彦というテレビにもよく出てくるジャーナリストは、まったく設計にも建築関連法規にも無知な様子なのに、実に図々しく発言していた。考えてみると、国民も設計や建築関連法規には無知だから、彼の能弁は国民を代表した弁舌だったのかもしれない。そう、受け取ることにした。
 傍聴者の中に、見間違えでなければ、イーホームズの藤田東吾社長がいた。彼は熱心にメモを取っていた。
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その8 往復書簡⑥:石枯て水しぼめるや冬もなし(芭蕉)

2006年01月29日 11時57分27秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
〈ブブからイチロウへ宛てた手紙――8月22日付けのつづき〉

●〈空間縮景〉と〈時間移転〉の融合

 親愛なるイチロウ殿、製品説明的な話が長くなりましたが、もう少しお付き合いください。

 架空的(fictitious)な可能性(possibility)ではありますが、真空(void)で、時間だって製造されてしまうということを、あなたはご存じでしょうか。前に送ったアメリカ日系人科学者テリー・ナカムラを主人公にした小説『裏山を盗んだ男の物語』。あの小説をすでに読んでいらしたら説明するまでもないでしょうが、あの中では、風景を凝縮し、併(あわ)せて、時間がつくられる空想的(fantastic)な真空-フラクタル技術が紹介されています。

 アメリカ育ちだが、戦前のニッポンで高等教育も受けた「帰米」のナカムラ教授は、トウホク大学のオカベ・キンジロウ(岡部金次郎、後に阪大教授)博士が発明したマイクロ波発振管「マグネトロン」を研究したと物語ではなっていました。マグネトロンは、マイクロ波を発生させる真空管(vacuum tube)ですが、電界と磁界を組み合わせた構造となっており、電子を真空中で螺旋(らせん;spiral)運動させます。

 1927年、実験演習を担当していたオカベ博士のもとに来た一人の学生が、真空管を使った実験で、本来ならばゼロになるはずの電流が途中でまた増える、とデータを見せました。この実験データについて、オカベ博士は、極超短波アンテナ(1926年)の研究開発者として知られる恩師のヤギ・シュウジ(八木秀二)教授と議論し、真空管から非常に短い波長の電波(radio wave)が発生しているのだ、と推測するに至ったのです。

 日米の戦争が激しくなった1943年、出撃する飛行機が常に敵機の待ち伏せに遭(あ)うという事態に至り、ニッポンの連合艦隊は、南太平洋の制空権(command of the air)を完全にアメリカ側に奪われてしまいました。たまたまシンガポールで、イギリス製地上用対空電波警戒機(レーダー;radar)を捕獲したニッポン軍は、そこに「YAGI ARRAY」と書かれていることに気がつき、これは何だとなったのです。陸軍研究所、それに、民間電機メーカーの技師が動員され、いわゆる、「八木アンテナ」であることが判明しました。
 イギリスでは、ヤギ教授らの研究を受けて、マルコーニ社が1920年代後半には早くも商品化していたのですが、ニッポンでは、1935年頃に、海軍研究所の技師が、レーダーの研究開発を上層部に進言したことはあったのですが、「闇夜に提灯をともす」研究よりは、兵の訓練が大事と却下(reject)されました。また、商工省が「重要な発明と認め難い」と特許期限延長を1941年に却下したといいます。

 八木アンテナは、戦後ニッポンの高度経済成長期の街風景の典型ともなった、あの家々の屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナに適用されることになりました。そして、その家の中では、各家庭に1台あった電子レンジ・マグネトロンから周波数が2450メガヘルツの電磁波(electromagnetic wave)が発生していました。この電磁波によって、水分子(molecule)が共鳴(resound)し、激しく振動(oscillate)する。水は熱くなり、水を含んだ食品全体も温められました。冷蔵庫(refrigerator)から冷凍食品(frozen food)を出し、電子レンジで「チンする」は、ニッポンの家庭生活を象徴する利器(convenience)となったのであります。

 小説には、ナカムラ教授が、昼夜を忘れて(around the clock)アリゾナの砂漠地帯(desert area)で見つかった1億年前の恐竜(dinosaur)の卵を甦(よみがえ;revive)らせるべく、巨大な実験装置を働かせていた折、落雷(thunderbolt)があって、昏倒(こんとう;fall down unconscious)してまう。その間に、時空を結びつける奇妙な現象が起きるくだりがあったでしょう。あれは、電界と磁界の間に変位電流が流れ、突起的にナカムラ教授を連れ去る「時間」が形成されたのです。

 光やマイクロ波を含む「電磁波」は、電荷や電流が真空を隔てて力を及ぼし合うので、真空中を伝わる特性(property)があります。電気量である電荷はその周囲に電場をつくり、電荷が動いている状態の電流はその周囲に磁場をつくります。さらに、電場・磁場は別のメカニズムでも形成されることが分かっています。それは時間変化です。ある場所で磁場に時間的な変化が生じると、周りの空間にこの時間変化を打ち消そうと、ファラデーの「電磁誘導」が働き、新たに振動電場が発生しますが、この電場も時間変化を持っているので、そこに変位電流が起こり、これがまた周りの空間に振動磁場をつくり、この磁場がまた電場をつくり、……と繰り返されることによって、光など電磁波は、真空中を物凄い(tremendous)スピードで伝播していく仕組みです。

 小説は、このメカニズムを逆手にとって、実験装置に中で雷による変位電流が時間変化をつくり出したと解釈していたのです。フィクションの域を出ない話だからそう真面目に考えないでもらいたいのですが、要は、真空状態では、普段の地球的環境では起こらないような科学的な神秘性(scientific mystic)が鋭角に広がる、と理解してください。

 昏倒からさめたナカムラ教授は、実験データの解析(analysis)から、とうとう、この装置内で起きた突発的(sudden)な時間創出メカニズムをつきとめます。同時に、彼には、ある途轍(とてつ;abnormal)もない技術的計略がひらめいたのです。それは、<空間縮景>と<時間移転>の融合(fusion)技術でありました。

●真空調理法とフラクタル

 その融合技術の一端は、具体的には、真空調理法を連想してもらえれば、分りやすいかもしれません。

 あの小説の中でも、ナカムラ教授が、インスタントコーヒーを呑みながら、物思いに耽るシーンがありましたね。インスタントコーヒーは、やはり、メイジ時代に、アメリカのイリノイ州シカゴに在住した日系科学者のカトウ(加藤)サトリ(もしくは「サトル」とも)博士によって発明されました。カトウ博士は、緑茶の即席化を研究していた途上で、コーヒー抽出液を真空乾燥する技術を開発しました。1901年、ニューヨーク州のバファローで開催されたパンアメリカン博覧会で「ソリュブル・コーヒー(可溶性コーヒー)」と名づけて発表しました。
その後、真空凍結乾燥法によって香りの蒸発を防ぐ製法が確立された商品です。濃縮(concentrated)の液体コーヒーを摂氏マイナス40度に凍結し、凍って粒になったものを真空に排気(axhaust)して、香り成分の蒸発(evaporate)を防ぐのです。同じ手法でインスタント味噌汁、ラーメンのかやく、乾燥(dehydrated)梅干、血液の粉末までを製造しました。ちなみに、ニッポン俳諧において四季折々の水気(moisture)、匂い(smell)、香り(scent)ってものは、以下のマツオ・バショウ(松尾芭蕉=上掲写真)の句にあるように、最重要課題ですからね。

 石枯(かれ)て水しぼめるや冬もなし

 何の木の花とはしらず匂(におい)哉

 菊の香やならには古き仏達(ほとけたち)

 真空凍結乾燥法、ただ、これだけなら、水分を抜いた食材縮小の域を出ないのですが、小説らしい大胆な省略(omission)と飛躍(leap)というのか、ナカムラ教授は、先の昏倒以来開発にいそしんだ電磁波を留める四角い小さな穴あき箱を中心に据えた、電子レンジを改良したような奇妙な装置を考案して、大学裏の赤松がある渓谷(valley)の実際風景を、水気を保持したまま、盆栽サイズにまで縮める画期的(revolutionary)な技術の実用化に成功しました。

 上述の四角い穴あき箱というのは、実は、ニッポンでも開発が進んでいた次の研究と関連があったようです。2004年1月7日、ニッポンのアサヒ新聞朝刊1面に「電磁波蓄える〝宝箱〟 信州大・阪大など開発 穴あき立方体1千万分の1秒とどまる」という見出し(headline)が躍(おど)ったことがありました。

 信州大、大阪大、物質・材料研究機構の共同研究グループが、1箇所に留め置くことが困難だった光を含む電磁波を穴あきの立方体(cube)の中に閉じ込める技術を開発、アメリカの物理学誌「フィジカル・レビュー・レターズ」に論文(article)を掲載したのです。

 立方体は、細部と全体の構造が相似(similar)のフラクタル(fractal)構造であり、穴も正方形(square)とすれば、構造は「フォトニックフラクタル」(グループ命名)になる。なんでも、阪大接合科学研究所のミヤモト・ヨシナリ(宮本欽成)教授が、使い慣れていた酸化チタン系の微粒子を混ぜたエポキシ樹脂だけで27㍉角、約9㌘の穴あきの立方体を作り、周波数8ギガヘルツの電磁波を照射しても、反射も透過もしなかったとか。そして、照射を止めても、1千万分の1秒間、中心部の空洞に留まり続けていたといいます。同じ素材、同じ大きさでも、穴のないものは反射も透過もした。また、立方体の1辺を10分の1の2・7㍉角に縮小すると、周波数は10倍の80ギガヘルツの電磁波を閉じ込める効果がありました。しかし、当時、ニッポンのグループは、こうした単純な素材と構造だけで、なぜ、こうした効果(effect)が出るのか、その理由は解明できていなかったのです。

 「フラクタル」とは、その輪郭が古典的なユークリッド幾何学(geometry)で扱うように線や曲面のようになめらかではなく、不規則で鋭角的にジグザグとなっている幾何学的対象を呼びます。ソウセキの弟子テラダ・トラヒコ(寺田寅彦)も、フラクタルに興味を抱いて、ガラスを何百枚も壊して砕片の数分布を数えたとそうです。
 この図形は、「分数(フラクション;fraction)の次元を持っていると、当初、考えられました。古典幾何学では、直線は一次元(one dimension)、面は二次元、立体は三次元と、整数(whole number)の次元なりますが、フラクタルでは、砕けたガラスの破片の縁の形が持つ次元は、1.54とか2.37と、不思議な次元になるから、その半端(はんぱ;odd)なところに魅了される科学者もいるのです。

 ところで、1978年に、フランスの数学者マンデルブロが非整数次元の幾何学というものを発表するまで、不思議次元のフラクタルの解析方法はまったく見つからなかったのです。フラクタル次元の分析には、虚数の入った複素数関数(z2 + c)が重要な武器となります。マンデルブロは、IBMの研究員時代に、複素数関数を嫌というほど反復的に演算(arithmetric calculation)させる作業をコンピューターに任せ、人工の海岸線を描くことに成功しました。「はじめてその海岸線が現われたときは、みな唖然としたよ。何しろまるでニュージーランドそっくりだったんだからね!」(『アインシュタインの部屋』から)。

 後世、特に、フラクタルと言うとき、地形の起伏や雲、樹木や血管(blood vessel)の構造で、任意の一部分が常に全体の形と相似になるような自己相似的図形のことを指すようになります。拡大しても縮小しても同じように見え、対称性(symmetry)を持った複雑な構造を指しました。

 小説のナカムラ教授は、その真空-フラクタル技術を、一般的なアメリカ人教授がしたように特許にして、ベンチャービジネスの会社を興し、巨万の富(wealth)を築くでもなく、田舎の貧乏学者の境遇(circumstance)に甘んじて長らく秘匿、一人で技術の完成に努めたとあります。

 結果的に、コンピューターの処理能力が量子(quantum)技術を使って格段に増す数十年後まで、ナカムラ教授は、これを応用技術として確立できなかった。そうして、最初の実験から思わぬ歳月をへた二十一世紀の初頭、齢(よわい)八十才に達して、死期を悟ったナカムラ教授は、長年住み暮らしてきたユタ州ローガン(Logan)の風景とも似たところがある祖国ニッポンの山奥(deep in the mountains)に分け入って、あの前代未聞(unprecedented)な【風景剥奪(scene plunder)】という盗み(larceny)を働くに至った、と小説は描いています。

 こうした小説に出てくるような空想的な真空-フラクタル技術をうまく利用して、われわれも「風雅のブリキ缶」のプロジェクトを推進してみてはどうかというのが、提案(proposal)の趣旨であります。実際、ナカムラ教授が創出したような〈空間縮景〉と〈時間移転〉技術のうち、後者はともかく、前者は連邦時代に入ってかなり実用化が進んでいることは、あなたもご承知置きでしょう。いわば、死の床にあったマサオカ・シキ(正岡子規)が、『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』(1901年)の一節(9月26日)に記した、「小草(おぐさ)の盆栽に蟷螂(かまきり;mantis)の居るをそのまま枕元に持て来ておく」といった無造作な移転趣味であります。

 このような技術的な背景(background)を持つ真空ハイク缶によって、あなたが芝居で表現したかったようなバショウやキョクスイの俳諧への思いが、超鮮度(super-freshness)で保たれる風にならないかと、小生は考えたのであります。

 アッハッハ、奇想天外(fantastic)でしょう。でもまったく素晴らしいアイデアでありませんか。そうは思いませんか。最後に、われわれのプロジェクトが、そうはならないように、反面教師として、バショウの一句を献じて終わりとしましょう。          ブブ

 物好(ものずき)や匂はぬ草にとまる蝶(ちょう)  芭蕉           

追記――「真空科学」という用語自体、耳慣れないと思うので、少々長くなりますが、真空科学について年譜的(biographical)に触れた小生の論文「真空科学の年譜的考察」をここに同封しておきましょう。
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その7 往復書簡⑤:筍は缶詰ならん浅き春 (漱石)

2006年01月29日 11時11分02秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
〈ブブからイチロウへ宛てた手紙――8月22日付け〉

●「ハイク缶」の提案

 小生、あなたが持ち出した「ザ・ワールド・テクニック」という言葉の響きに、実に感動しました。文学青年風なあなたから、そうした気の利いた具体的な方法概念(methodological concept)が飛び出すとは思いませんでした。

 しかし、唐突にどう考えますかと問われて、食にうるさい小生としたことが、座る席、座る時刻まで決まっている行きつけのフレンチやジャパニーズ・レストランに出向くこともなく、来客もなくガランとした事務所のソファに深々と沈み込んで、イワシ缶やカップヌードルでしのぎながら、三日三晩も考えてしまったのも、事実であります。

 やがて、自分でも予期せぬ方面から、啓示(reveal)を得ました。

 小生は、ヘビースモーカーというほどではありませんが、知人から贈られて気に入った復刻版(reprinted edition)のニッポンタバコをときどき愛煙しています。最近は、女性に毛嫌いされるというので男のスモーカーは激減(sharp decrease)しましたが、小生はそんなことにまったく頓着(とんちゃく)しません。お蔭(かげ)で、あなたは臭いなどと邪険(じゃけん)にされて、この年まで独身ですが、アハハ。

 さて、このアンティーク・タバコは、なかなか凝(こ)っていて、二十世紀のニッポンの空気が真空(vacuum)密閉(sealed off)のブリキ缶に永久保存(permanent preservation)してあります。缶の蓋(lid)を開けた時点で、空気は拡散(diffuse)して、どこかに行ってしまうのでしょうが、タバコを燻(くゆ)らすと、何とはなしに二十世紀の香りが鼻先に漂い出すのであります。その鼻腔(nostril)への快い仕掛けが、ガンや心臓疾患に好い気持ちがしない小生にも、つい手を伸ばさせる誘惑(temptation)因になっているのだろうと想像されます。小生は、ニコチンでなく二十世紀という時代へのノスタルジア(郷愁;nostalgia)に中毒(addict)してしまったようであります。

 余談はさて措いて(So much for the digression)、その机に置かれた缶入りタバコのケース(50本入り)、鳩が三つ葉(honewort)の小枝(twig)をくわえる意匠画を施した「Peace(ピース)」なる濃紺(navy blue)の紙カバーを貼ったブリキ缶が、あなたからの依頼事を解く意外なヒントになりました。

 ブリキってのは、薄鉄板を錫(すず;tin)でめっき(plating)被覆したもので、十三世紀後半から十六世紀前半にかけてボヘミアで発明されたといいます。ニッポンには、エド(江戸)時代に、オランダ人からナガサキ(長崎)にもたらされ、オランダ語の「ブリク(blik)」がなまって「ブリキ(buriki)」になったものです。ニッポン人は器用(dexterous)ですから、幕末には、精巧(elaborate)なブリキ玩具までつくり始めました。

 ブリキ製の缶詰(can)は、1810年、イギリス人のピーター・デュランによって開発されました。黎明期(the incunabula)のブリキ缶は、とても厚く、熟練工でさえ、日に10缶作るのがやっとであったそうです。また、缶を開封する缶切りのような道具もなく、斧(ax)やハンマー(hammer)で壊して開けていました。斧やハンマーで開けていたぐらいですから、最初の頃の缶はサイズ的にバケツ大でした。そのためもあってか、中まで十分に火が通らず、バクテリア(bacteria)が繁殖(propagate)しやすく、食中毒(food poisoning)の恐れから、1846年には、イギリス海軍が購入した缶詰を大量に廃棄するなんて事件(incident)もあったといいます。

 なお、ニッポンで、小生が食べたような「イワシ油漬缶」が初めてつくられたのは、1871年(明治四年)のナガサキにおいて、フランス人のL・デユリーの手ほどきを受けたマツダ・ガテン(松田雅典)によってであります。その後、1877年には、ホッカイドウ(北海道)イシカリ(石狩)の開拓使工場で、サケ缶の商業生産も始まっています。

 ブリキ缶を製造する「すず鍍金(めっき)」法については、当初、熱漬法(どぶ漬け)が主流でしたが、後には、電気めっき法が普及しました。これだと熱漬法に比べて、3分の1程度に薄く被覆でき、しかも、めっき面が均一できれいになるメリットがありました。

 アハハ、ちょっとばかりブリキ缶の講釈が長くなりましたな。イチロウさん、驚かないでください。小生のザ・ワールド・テクニック案は、健康に悪いタバコの代わりに、旬(しゅん)の俳句を、このブリキ缶に封入してはどうかというものであります。まさに、下記のソウセキの句(大正3年)のごとく、筍(たけのこ)の浅き春を密封保存する趣向であります。

 筍は缶詰ならん浅き春  漱石

 そう、われわれの「風雅のブリキ缶(fuga-buriki-can)」は、「ハイク缶」であります!

●風雅の造形――箱庭と盆景

 あなたが話に持ち出した「箱庭療法」と言っても、なにも箱の中の砂地にプラスチック製のキャラクター人形(doll)やら怪獣(monster)、戦車(tank)が載(の)った月並みな心理学(psychological)箱庭を発想しなくてもよいでありましょう。あるセラピストの話では、玩具(toy)売り場で売っているような既製(ready-made)、出来合いのパーツ(材料)を使って、決められた枠の中でそれらパーツの組み合わせとして自己世界のイメージを噴出させるのが、箱庭の強みであり、絵のように上手い下手が気になったりしないところがいいのだということですが、やはり、われわれの「風雅」という古びた基準(criterion)は、譲りたくありません。あくまで、箱庭は、風雅の器なのです。

 1929年、イギリスのローエンフェルト女史が子供に対する治療手段として考案し、後に、スイスのカルフ女史によって国際規格化された箱庭は、慥か、縦57㎝×横72㎝×深さ7㎝の寸法の箱に砂を敷いたものだったと思います。箱の内側は砂を掘ると底に海や川の感じが出やすいように水色に塗ってあったとか。

 厳格(rigid)な寸法付きの西洋箱庭というのは、……患者に〈自由にして保護された空間〉を与えて自分の世界を表現させると同時に、一律に規格化された箱の枠がイメージ表現に「制限」を加えることで、自己治癒力を最大限に発揮させる仕掛けである、と説明されても、やはり、ああした無粋な道具立ては、どうもゾッとするばかりであります。

 もともと、ニッポンの箱庭というのは、「盆景」という縮景技術の一派でありました。盆景は、箱に砂を入れる箱庭と違って、深さ(depth)もない盆に赤土を盛ります。歴史はかなり古く、起源はスイコ(推古)天皇の時代にクダラ(百済)渡来人が伝えたとされます。ショウトク太子が住んだイカルガ(斑鳩)宮跡からも玉石をまばらに敷いた小さな流水路が見つかり、自然石でつくった小さな池庭があったことが分っています。太子もある種の「盆景」を楽しんだのかもしれないですな。

 やがて、ヘイアン(平安)貴族によって慈(いつく)しみはぐくまれるようになったのが、素朴な「鉢山」や「盆庭」でした。それがメイジの頃から、化土(けど)といって、アシやマコモが地中に長く埋もれてできた弾力性(elasticity)のある土を使う、造形的(figurative)な技巧作品に変遷(transit)していったのです。

 一方、盆景の一派(sect)として、もう少し気楽な愉しみ方もムロマチ(室町)時代からありました。盆に石を乗せ、その周辺に砂で風景を描き、座敷に置いて飾りとしたものです。石が海岸の巌(いわお)ならば、砂浜や波、月、雲まで風流の素材(subject matter)を砂で描き分けました。いずれにしても、メイジ(明治)時代には、箱庭に代わって、盆景が、この手の縮景的娯楽(amusement)の主流(mainstream)になっていました。

 アメリカの強制収容所で、日系人がこしらえた「盆栽」も、この盆景文化の一分野でした。一般に、鉢植えの植物ではそのままに育てて等身大(full-length)の自然美を愛(め)でるのですが、これに剪定(せんてい)など徹底して手を加え、樹形を整え、逆説的(paradoxically)に、大きな風景を連想させるような大自然の縮景を眼前に再現すると、盆栽の世界になります。盆栽は、チャイナの発祥らしいですが、詳しいことは分っていません。それだけ東洋人にとって、自然発生的な趣味(interest)だったのかもしれませんな。

 1965年に、カワイ・ハヤオ(河合隼雄)氏が「箱庭療法(Sand Play Technique)――技法と治療的意義について」(『京都市カウンセリングセンター紀要』第二巻)によって紹介したユング派の「箱庭療法」が、ニッポンで発展され、定着したのは、こうした盆景文化の素地が底辺にあったからでしょう。カルフ女史のサンド・セラピーが、ユングの「象徴理論」に則(のっと)って、クライエント(client)の箱庭作品を厳密に解釈(interpret)しようとしたのに対し、カワイ氏は、そういちいち目くじらを立てて解釈しなくてもよろしい、全体として見ていったら結構、セラピストも余り細かいことを言わなくてもよいとしました。
                          ―次回につづく―
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水の守護神(山下公園)とホテルニューグランド

2006年01月28日 18時04分05秒 | Journal
 山下公園に「水の守護神(GUARDIAN OF WATER)」という噴水彫刻を見つけた。見つけたといっても、ほぼ中央の目立つところにあるから、今まで気がつかなかった方がおかしい。由緒書きのプレートに、サンディエゴ市民から寄贈されたとある。どうも、サンディエゴにある石像の複製らしい。いかにも感じの好い石像である。二羽のカモメもさぞかし休み心地が好いであろう。
 写真の左側に見えるビルは、有名な「ホテルニューグランド」である。終戦後、進駐軍のマッカーサー元帥が最初に泊まったという。構造はSRC(鉄骨鉄筋コンクリート)造とか。耐震問題に関する講演会に向かう途中だったので、なんとなく、ホテルの案内掲示をしげしげと眺めて、「そうか、SRC造か。そんな昔からあったのか」と感心して、首をかしげたものである。
 講演会の構造設計者は、「個人的には、やはり、コンクリートの中に鉄骨が入っていた方が、なんとなく安心な気がする」と、これまた感想のようなことを話していた。姉歯元建築士が多く手がけたような中層のマンションやホテル物件は、ほとんどが少し前までは細くても鉄骨柱を入れたSRC造だったが、コスト高と施工の面倒さで、軒並みRC(鉄筋コンクリート)造へ構造変更されてきた。まさか、マッカーサー元帥が、日本は地震国だからSRC造のホテルをわざわざ宿泊先に選んだということもあるまいが、これからは、命が心配ならば、そうしたことも考えなければなるまい。
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山下公園、カモメとモデル

2006年01月28日 07時24分26秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 昨日、山下公園の前にあるマリンタワー脇のメルパルクで、鉄構組合の新年会などがあり、日本橋から銀座線で渋谷へ出、さらに東横線で元町まで出た。写真は、昼飯がてらの理事会が終わった後、耐震問題に関する講演会まで時間が30分ほどあったので、山下公園を散策した折のもの。なぜカモメは飛び回るのか、モデル撮影は雑誌の広告なのか何なのか、よく分からない。

春浅くカモメとモデルあやあやと  頓休
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日本建築家協会(JIA)の耐震強度偽装事件シンポジウム

2006年01月23日 21時39分50秒 | Journal
 今日の午後2時から、飯田橋のホールで、日本建築家協会(JIA)主催による耐震強度偽装事件に関する緊急シンポジウムがあった。
 写真のごとく、建築家の黒川紀章氏とか俳優の渡辺篤史氏など、おなじみの有名顔が壇上のパネラーであった。ほかに、事件被害者であるグランドステージ住吉の住人・清水克利氏、消費者問題対策委員会土地住宅部会メンバーとして活躍する弁護士の神崎哲、河合敏男の両氏、ニューヨーク在住の建築家・芦原信孝氏。あくまで会社の取材の仕事で行ったので、記事とまったく同じように書くわけにはいかないが、公開のシンポジウムであったのだからここに少しばかり書いたらから会社に対して罪になるということもあるまい。印象に残った発言を抜き出すと――。

【偽装マンション住人の清水氏】世間からは安いマンションを購入したと揶揄(やゆ)されたが、坪単価ではそんなに安くなかった。住民の中には40万円を払って一級建築士に設計図書をチェックさせた人もいたのに…。ヒューザーの社員はとても良く教育されていた。あの社長の下で、なぜといったほど。

【俳優の渡辺氏】数日前の朝日新聞に書いてあったが、今回のマンション住人に対する公的支援など北側一雄国交大臣の対応の早さには、同じく地震倒壊の不安を抱える新耐震基準を満たさない既存不適格1150万戸の存在があったと思う。(問題が大きく波及しないように、くさい物にあわてて蓋をしたのだ。)

【神崎弁護士】京都で独自に調査したところ耐力壁不足などで木造3階建ての欠陥住宅は1000軒のうち91.3%あった。欠陥住宅問題を解消するには建築士法の改革が必要。建築士は施工をコントロールする役割も大きいはず。それには地位が低すぎる。

【河合弁護士】建築士には工事監理でもっと大きな役割を発揮してもらいたい。設計は偽装すれば証拠が残ってしまうのでまさかと思った。最後の防波堤は建築士になるが、建築士の資質もピンキリだ。弁護士は弁護士会に属して倫理面も含め研修を受けなければならない。強制加入団体を設け自浄作用を促す必要がある。建築確認検査は利潤追求の民間から行政に戻すべきだ。

【建築家の芦原氏】これは、かつてニューヨーク州知事ロックフェラーが言ったのだが、専門家にはプロフェッショナルとエンタープライズの2種類がある。路上に心臓麻痺で倒れている人を見かけて懐を探って財布に2000㌦入っていれば自分の病院に搬送する医者はエンタープライズだ。プロフェッショナルはそんなことをしないで近くの病院へ運ぶ。今回の事件でマンションの担保価値を考え、なぜ銀行の融資責任が出てこないのか不思議。アメリカにはコンストラクション・ローンと言って銀行が金を払って工事監理を厳しくし、工事中の担保価値までみる。あのビジネスシーンでは絶対に損しまいと必死に考える国では、それが非常にうまくfunctionする。

【小倉善明JIA会長】欧米では建築家(アーキテクト)の下に構造エンジニアと設備エンジニアが付く。もちろん別々の資格だ。日本はその全てを建築士で網羅している。姉歯元建築士は建築事業者からのプレッシャーと生活のために偽装したと話しているが、構造設計のみならず建築の設計料は安すぎる。公共建築の設計が入札制になっているのもこの傾向に拍車をかけている。あれは物品納入と同じ扱いになっているからだ。

【建築家の黒川氏】アメリカの建築家は全部で1万7000人。ロサンゼルスでは設計者が構造審査に呼ばれ、3日間かけて4時間ずつ説明する。日本は建築士が30万人近くいるが、実際に設計をしている人はそのうち10分の1。この実務者に責任と権限を与えるべきだ。建築確認も彼らが行うべき。アメリカのインスペクターには工事指し止めの権限が与えられている。日本は建築が金儲けの手段になっている。一級建築士は免許制、設計事務所は登録制の矛盾もある。事務所は許可制にすべきだ。多数を占める従業員1、2人の零細事務所では保険にも入れない。(ちなみに、黒川氏の事務所は70人だそうだ)

 個人的には、勇気ある女性の出席者が質疑で述べたのだが、保険制度を拡充し、建築確認制度を撤廃するという提案が一番分かりやすく気に入った。もちろん、行政の出番であるはずの公的部分、集団規定までも民間確認検査機関に譲渡したような現在の制度固有の問題は残る。作品にそくして言えば、〈風景略奪〉を防ぐのは、行政なのか、保険なのかとなる。

*「集団規定」とは、「単体」に対する「集団」。建築物を集団としてとらえ、集団としての秩序を保つために建築物の相互間の取り決めた部分を指す。具体的には、建築基準法の第3章、第4章に規定されいている。用途地域、建ぺい率制限、容積率制限、斜線制限、日影規制、接道義務などが「集団規定」として挙げられる。

 この日、帰宅すると、ライブドアの堀江貴文氏が証券取引法違反の容疑で逮捕されていた。上記の耐震強度偽装事件にしてもホリエモン錬金術にしても、共通して、詐欺的と映る、元下関係の中で吸い上げる、見えにくい複雑な金の流れ(還流)をつくりだしている。仕組みは分かりやすく見えやすくした方がよい。特に、株とか金は、人目から隠れさせてはいけない。ルドルフ・シュタイナー風に言えば、悪さをしないように躾(しつ)けなければならない。
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その6 往復書簡④:ある時は鉢叩かうと思ひけり(漱石)

2006年01月22日 16時56分45秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
〈イチロウからブブへ宛てた手紙――8月14日付けのつづき〉

 今、こうして、ブブさんに改めて手紙を書いていて、ふと、あることを思い出しました。図書館(library)の古い新聞ででも読んだのでしょうが、ニッポンとアメリカが戦争したいた頃、爆撃機(bomber)のB29に爆撃手として乗り込んでいた元兵士(soldier)が、「5万フィートの上空からでも人間が焼かれたにおいを感じた」と語っていたことです。

 少年が、マッチの炎に焦(こ)げて蟻が死ぬ情景を、ある高さからじっと「俯瞰(ふかん)」していた眼も、あの無差別爆撃で、兵士が上空から地上の「人間が焼かれたにおい」を感じた殺戮(さつりく)を思い起こさせるものがあります。

 実は、少年の母親は、3年前に、首をくくって亡くなりました。三十才でした。

 話はとびますが、ブブさんからの手紙に、ブブさんの祖先で、旧アメリカ国において強制収容所に収監された日系移民の方が、盆栽を育てて慰めにしたと書いてありました。それに連想(connection)が働いたのかもしれませんが、僕は、心理療法の分野に専門的な知識(knowledge)はないのですけれども、ロンドンの小児科(the pediatrics department)の女医マルグリット・ローエンフェルトが発明した世界技法(The World Technique)というのがあることを、ふと思い出しました。ローエンフェルトは、治療に来た子供たちが、H・G・ウェルズのSF小説にヒントを得て、床の上に玩具(がんぐ;toy)を並べ、「この世界(ザ・ワールド)」と名づけて遊んでいるのを見て、しかも、その架空世界に内面を表現することで、子供の病気が癒されていったことから、1929年に、「ザ・ワールド・テクニック」という名称で、その方法を発表したのです。

 心に病がある患者(かんじゃ;patient)に思い思いの箱庭(miniature garden)の世界をつくらせて、自分の潜在意識(the subconscious)を表現させるなかで、自己治癒力を高めようといった試みだったと思います。

 早い話、音楽や絵画だって、それに僕がかかわってきた文学や演劇の世界だって、世界技法のヴァリエーションを提供しているだけなのですが、……まあ、現実には、そんな高等な目的意識よりも、出世欲、お金と名誉が最初にあって、その治癒的自覚は、つくっている側には割と欠落しているかもしれません。

 ともかくも、そこで、僕なりに身近なところで考えてみたのですが、あのブブさんに鑑定していただいた時代芝居『麦ひき延ばす小昼』に取り上げたバショウの文学の場合は、どうだったかなと。そもそも、バショウが、晩年に編み出した『野ざらし紀行』に始まり、『鹿島詣(かしまもうで)』『笈(おい)の小文』『更科(さらしな)紀行』『奥の細道』『嵯峨(さが)日記』とつづいたハイクまじり紀行文の世界は、自己治癒力を高める「世界技法」の実験、つまり、箱庭装置だったと考えられないかと。

 うろ覚えなのですが、『奥の細道』の目立たぬ箇所に、バショウは、「山中や菊はたおらぬ湯の匂」と詠んでいます。バショウが泊まったそのヤマナカなる村の宿の主人、クメノスケ〔久米之助〕は、弱冠十四才の少年でした。クメノスケの話に、父親がハイカイを好んだこと、あるとき、キョウトの若いハイカイ師がやってきて、父親から「風雅に辱しめられ」、キョウトに帰ってから大いに発奮、世に知られるようになったという。そして後々、そのハイカイ師は、ヤマナカ村の者からはけっしてハイカイのことでお金〔点料〕を受け取らなかった。さらに、クメノスケもバショウから俳号「桃夭」をもらうことになった。――そんな実話(true story)があったと思います。これなども何か参考になるでしょう。

 また、バショウが、キョクスイに書き送った「志を勤め、情を慰め、むやみに他人の評価を気にかけず、俳諧によって実の道に入るべき器の者」とは、蕉門流の世界技法のすすめだったのではないかと思われます。

 キョクスイが晩年の句に、「おもしろや叩かぬ時もはちたゝき」というのがありました。鉢叩(はちたた)きというのは、聞きなれない言葉ですが、調べてみると、元来は、米や銭の施しを受ける鉄鉢(てっぱつ)を打ち鳴らしたことに由来するとか。後に、鉄鉢は瓢箪(ひょうたん;gourd)に代わり、「空也上人忌(くうやしょうにんき)」の法会(ほうえ)で、十一月十三日から歳晩(さいばん)にいたる48日間、夜な夜な鉦(かね)や瓢箪を鳴らし叩いて、「空也念仏」を唱えながら、京の洛中(らくちゅう)を勧進(かんじん)するとともに洛外の墓所(grave)や葬場を巡り歩く風習があったそうですね。「その声からびて、哀れなるふし多し」とキョライ(去来)の言葉が伝わります。バショウの句にも、「干鮭(からさけ)も空也の痩(やせ)も寒の中(うち)」とか「納豆きる音しばしまて鉢叩」というのがあります。納豆は、当時、刻んで、味噌を加え、だし汁でのばして豆腐や葱(ねぎ;scallion)などを実にした納豆汁にして、食すのが一般的であったようです。バショウは、京の鉢叩きを聞こうと、わざわざ、キョライを訪ね、徹夜までしたとか。ああ、これまた、ブブさんに余分な注釈をしてしまって、誠に恐れ入ります。

 仕様のない俗物に天誅(てんちゅう)を下し、刃を己の腹に突き刺した切腹サムライに、外見上は何ほどか凄惨(せいさん)さはあっても、内面にこの浮き浮きしたもう止まらない「はちたゝき」式の律調(rhythm)があったとしたら、あの事件についても、今までとは違った印象も芽生えてきます。必ずしも、キョクスイの行為(behavior)は、自己犠牲(self-devotion)の産物だけだったとは言い切れないのではないかと。

 あのとき、「風雅の武士」としてのキョクスイは、澄んだ心持に嬉々(きき)としていた、心の芯は凛(りん)としていた、颯爽としていた――そんな感じを持つのです。

 これは、人は人を殺してはいけないのだというヒューマニズム(humanism)の一見した思潮(しちょう;thought)には反しているわけですが、キョクスイは確固たる人格的意志をもって殺人を犯したと思います。それは狂気(insanity)に駆られた暴力でなく、不正によって虐(しいた;persecuted)げられた者たちの悲しみを代行する行為だったでしょう。そして、なにより、恥じるところないサムライの本懐(ほんかい;his long-cherished object)をとげる魂のリズムであったと思います。ああ、それから、文学に本懐を求めたソウセキにも、次のような鉢叩きの句(明治32年)があったことを思い出しました。

 ある時は鉢叩かうと思ひけり  漱石

 ブブさんが手紙に書いておられたように、サムライ主義みたいなものがあって、それは葛藤(かっとう;conflict)する人間に何か名状し難い勇気を注入するものなのかもしれません。ヒューマニズムなんかよりもまず世間体があって、躰(からだ)をはって戦うことを恥じさせるような教育を僕も受けてきたし、多分、今の子供の世代も同じだと思います。それではいたずらに葛藤要因だけが内面で複雑にふくらんでしまうのではないでしょうか。

 もし大人になればといった期間の猶予(ゆうよ)、親が望むような常識的なペンディング措置を拒否したとしたら、そんな風に、自らを追いつめる少年には、他者の存在破壊、もしくは、自分という存在の抹消(まっしょう;erase)しか、残されていない気がします。

 そこでブブさんにお願いがあるのですが、バショウのサムライ・ハイカイと箱庭療法をうまく統合する工夫はないものか、恐喝(きょうかつ;extort)されるロベルトくんや蟻殺しに耽(ふけ)るデルジェくんのような暗い心理の少年に、颯爽とした「風雅の少年」の面目(めんもく;honor)をつくってやれないものか。ソウセキの生涯最初の一句「帰ろふと泣かずに笑へ時鳥(ほととぎす)」(明治22年)も、喀血(かっけつ;spit blood)したマサオカ・シキ(正岡子規=上掲写真)を激励する俳句だったではありませんか。僕にも、少年たちに何かしてやれることがあると思います。

 ブブさんは、どう考えますか。お便りを待っています。    イチロウ
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大雪の田園都市線、運転手の見る雪景色

2006年01月22日 11時46分13秒 | Journal
 昨日は大雪の中、土曜出勤だった。帰りの電車は決まって先頭車両に乗る。先頭車両の前に座るのが、推進力の関係か、安定感があって一番乗り心地がよい。事故があれば必ず死ぬだろうが。
 写真は午後3時近く、終着駅の中央林間に近い地点を走る運転席の情景。鉄道マニアでも特に運転好きでもないが、ときどき運転士がうらやましくなる。サラリーマンの中では、こうした仕事の方がいいと、隣の芝生的に思ってしまう。
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ニュートンも青ざめた株の「大馬鹿者理論」

2006年01月19日 20時25分28秒 | Journal
 『バブルの歴史』(エドワード・チャンセラー著)を紐解くと、ライブドアショックのような風景は歴史に嫌と言うほど繰り返されてきたことが分かる。
 大体、株式会社とか株は、ローマ時代からあったというから驚きだ。帝政になる前のローマは、徴税から神殿建設まで、政府のさまざまな業務を資本家が作った企業(プーブリカーニ)に請け負わせていた。今でいうPFI方式だ。株式も大口、小口と2種類あった。それにしても、今日に残るローマの壮大な遺跡群の初期のものが株式会社によって建造されたとは、意外である。

 *日本政府の広報HPによれば、PFI(Private Finance Initiative:プライベート・ファイナンス・イニシアティブ)」とは、公共施設等の建設、維持管理、運営等を民間の資金、経営能力及び技術的能力を活用して行う新しい手法とある。ローマ時代からあるのだから別に新しくもない。

 中世に、トマス・アクィナスが「物をその価値より高い価格で売り、低い価格で買う」行為は不公正だと唱え、バブルの歴史は一応抑え込まれた。ルネッサンス期に復活した投資熱は、オランダにおいて1634年頃に始まった「チューリップ狂」で一つのクライマックスを迎えた。一時は、球根1個に2500グルデンの値が付き、その金額で小麦27トン、ライ麦50トン、太った雄牛4頭、太った豚8頭、太った羊12頭、ワイン大樽2樽、ビール大樽4樽、バター2トン、チーズ2トン、ベッドとシーツ一式、ワードローブ1個分の衣装、銀コップが買えたという。

 1687年頃、イギリスに企業設立ブームが起った。後年、ロビンソンクルーソーの物語(1719年)を書いたダニエル・デフォーは、これを「企業熱」と呼んだ。さまざまなアイデア会社、今で言うベンチャー企業が誕生した。この年に、ウィリアム・フィリップ船長がカリブ海のイスパニオラ島沖に沈没していたスペインの装甲船から32トンの銀と宝石を引き上げた。出資者への配当は、出資金の1万%にのぼった。すぐに幾つか潜水会社が設立された。1682年にハレー彗星の軌道を計算した天文学者のエドムンド・ハレーは、「潜水鐘」なる円錐形の潜水装置を考案し技術特許を取り、そのパテントを持つ難破船引揚げ会社は初期の株価表に「ダイビング・ハレー」と書かれた。デフォーは別の潜水鐘会社に秘書兼財務役として雇われてもいる。科学者も作家も、企業熱に浮かれたのだ。デフォーは「株式会社、特許会社、潜水器具、事業会社の株価が、大げさな言葉で吹き上げられ」、ある潜水会社の株価が500%上昇したと書いている。そのデフォーは、自分の勤める潜水鐘会社に投資した200ポンドを失い、「特許を売り物にした会社についてなら、面白い物語を書ける。鴨にされたのは、わたし自身なのだから」と書くことになる。

 なお、ハレーは、潜水鐘を考案するかたわら、1693年にプロイセンのブレスラウ市の記録に基づいて、生命表を作成し、この表によって死亡率が計算できるようになって、保険数理学が確立され、生命保険産業の土台が築かれたという。小生の亡き父親は、日本生命の社員だった。

 株式取引における史上最初の有名なバブル崩壊劇は、1720年、イギリスで起った「南海泡沫事件」だ。イギリス政府は、国債を南海会社という貿易会社(南アメリカへの奴隷販売の独占権を与えられていた)の株式に転換する政策を取り、株価を高値に操作した。結局、南海株はピーク時の15%まで下落し、イングランド銀行株や東インド会社株など有力株も3分の2近く下落した。造幣局長官の地位にあった晩年のアイザック・ニュートンも、相場が上りきらないうちに南海株を売却し、相場の頂点で買い戻したために、2万ポンドの損失を被った。死ぬまで、南海会社が話題になると、顔が青ざめたといわれる。「天体の動きなら計算できるが、群集の狂気は計算できない」とは、後世に伝わるニュートンの述懐である。

 株の世界には、「大馬鹿者理論」というのがあるそうだ。もう少し、穏当に言えば、合理的バブル理論とかモーメンタム・インベスティング(勢いにつく投資)理論。これは、本来的価値を上回っていることを承知の上で、投資家が株を買う根拠に使われてきた。世の中には、自分よりももっと馬鹿がいて高値で買ってくれるから人気株を買っておけということらしい。まさに、一連のライブドア株と同じカラクリである。

 写真は、永代通りに面したライブドア証券(本店営業部)。この会社は、昭和10年に田丸屋田村新吉商として創設。昭和19年、株式会社に組織変更し、田丸屋證券株式会社を設立。 昭和24年、東京証券取引所正会員となる。昭和24年、偕成証券株式会社に商号変更。昭和40年、大興證券株式会社と合併。平成10年、日本証券株式会社、山加証券株式会社と合併し、商号を「日本グローバル証券株式会社」に変更する。平成16年7月 商号が「ライブドア証券株式会社」に変更された。つまり、新興ライブドアに買収された会社の一つである。

 昨今のインターネットを使った個人取引で業績もさぞ良いだろうなと、毎朝、地下鉄の茅場町駅から昇降口を出てきて、まず目に止まる看板を眺めながら、何度も多少の羨望を抱きながら思ったものである。詐欺事件発覚の翌朝は、どうかと、中を覗くと、顧客が座るフロントの椅子にコートが置き忘れられていて、一人の私服の地味な感じの女性社員がやや暗い顔で立ち上がって動く姿が見えた。まあ、社員に責任も何もないのは、当たり前である。

COMMENT:【ライブドアで人生が終わった人のスレッド】に、こんな「大馬鹿者」の笑えない書き込みがあった。
・「アダムスミスが間違ってたってことだな。 自由主義経済を貫けば、こうなるのは、ニューディール政策の昔から分かってたことだと思う。」←アダム・スミスは、宝くじの購入を「リスクを軽視し、根拠なく成功を期待する」例として挙げるなど、人間の投機的傾向に批判的だった。スミスは、『国富論』(1776年)に、「(南海会社の)株主はきわめて多かった。…したがって、その経営に愚挙、怠慢、贅沢が広がるのは当然のことと予想できた。同社の株価操作の不正行為と放埓ぶりは十分に知られており、…」と書いている。
・熱狂的堀江信者「私が思うに、税理士、弁護士、公認会計士など法律を扱う人々で真に優秀な人物というのは、 法律の隙間を抜ける方法論をクリエイトできる人。もしライブドアが負けるのなら、僕は新渡戸稲造著「武士道」をこよなく愛する日本人だからこそ、いまの日本を出て行く覚悟がある。腐りきった国家に見切りをつける。腐りきった日本国に日本人として見切りをつける。」
・上記の反論「今回のブタの件は武士道とはなんら関係のない策士策に溺れるというやつだろ。それ以上に文面から鑑みて、あなたが武士道を語ることこそおこがましい。武士道とは死ぬこととみつけたり。(18日に那覇市のホテルで自殺した)野口(エイチ・エス証券の野口英昭副社長=38歳)は武士だったんだ。」
・「まぁ、豚にもいいとこあったよな。豚証券の破格な手数料は正直インパクトあったよ。」←ライブドア証券には、ライブドアトレード・プレミアムトレードパス購入で、連続3ヶ月間の現物および信用取引での手数料を完全無料にする定額制サービスがあった。
・「ホリエモンの事叩いているやつ多いけどさ、リーマンだのGSだの外資の魑魅魍魎に比べれば数倍マシだろ。エグさの度合いから言えば外資の方が数倍エグイ。はっきり言って、今叩いているやつだってLD株持って無いから、豚だの詐欺だの叩いているけどさ、じゃあお前らは新興株とかまったく買ってないのかと、てめぇらがたまたまLD関連株持って無いから煽ってるだけちゃうんかと。ラッキーだっただけじゃねぇか、たまたま、あと一日遅ければお前らだってLD買ってたかもしれないだろ。わかったか、クズども、おまえらも他人事じゃないんだよ、明日はお前らの番かもしれないんだよ、煽ってんじゃねーぞ。ろくでなしどもだよ、おまえらは。…はぁ、でも、ここで愚痴ってもしょうがないんだよな…。すまん、興奮してた。もう寝る。」
・「世界は実はマンガだったというのはどうだろう? われわれは現実の人間ではなくて、経済マンガの中の登場人物なのだ。だとすれば万事解決。」
・「いえ、私たちの住む3次元宇宙そのものが実は4次元空間に住む勝者の子供たちのおもちゃなのです。がちゃがちゃの景品に私たちの住むような宇宙が入っていて子供たちは俺の宇宙のほうが優秀だぞ!などと言いながらカプセルの中身競争しています。飽きられたり、勝負に負けたカプセルはそのまま放置されたり踏まれて中身が壊れたりします。これはイコール宇宙の死を意味します。」
・「俺、美容整形医やってて年収6000万なのに今回の件で3500万も損した…。半年タダ働きするのと同じかよorz。チンコの皮切りのバイト増やすしかないな…。マジで地獄だ。」
・「ケインズが最終的に辿り着いた『投資の三原則』:1.将来性が高く、しかも本来の価値から考えると割安感が強い、少数の優れた株を注意深く選別する。2.こうして選別し投資した株については、相場が良い時も悪い時も、その見込み(当初考えた将来性)が実現するか、あるいは、その見込みが間違いである事が明らかになるまで、断固として保有し続ける。3.ポートフォリオは、同じ性質やリスクを持った銘柄ばかり選ぶのではなく、反対の性格やリスクを持つ銘柄を組み合わせ、バランスを考える。」←ジョン・メイナード・ケインズは、『一般理論』の中で、こう書いている。「投機家は、企業活動の着実な流れに浮かぶ泡沫であれば、害にはならないだろう。しかし、企業活動が投機の渦巻きに浮かぶ泡沫になれば、深刻な事態になる。一国の資本の発展がカジノの活動の副産物になったとき、資本を発展させる仕事はうまくいかない可能性が高い。」まさに、今回のライブドア・ショックの本質を言い当てた言葉ではないか。
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全取引停止になった東京証券取引所

2006年01月18日 20時18分49秒 | Journal
 ライブドアショックで株価は昨日今日と全面安。午後3時半すぎ、やや日も暮れかけた街路を人形町方面からとぼとぼ兜町に歩いてきて、橋を渡りかけたところで撮った東京証券取引所も、なんとはなく活気を口から吐き出して寒そうな風情。ここまで市場が全身反応するとは、やはり株の世界は怖い。そのときは館内に入って、今日はいつもより早く取引が終わったのかなと、ボードのお知らせを眺めていた。
 株式新聞社の速報ニュースによれば、「18日後場の東京株式市場では、全面安商状が続いた。東証は午後零時50分頃にきょうの約定件数がシステムの処理可能件数を上回る可能性があると発表、約定件数が400万件を超えた場合は全銘柄の取引を停止するとした。これを受け、株価指数先物主導で売り優勢の展開となり、平均株価は午後1時21分に1万5059円(前日比746円43銭安)まで下げ幅を拡大した。その後は自律反発期待の買い物に下げ渋りの動きとなったが、戻りは限定された。24時間取引のGLOBEX(シカゴ先物取引システム)でナスダック100株価指数先物が下げ基調となり、ライブドアショックによる追い証発生懸念も市場心理の後退要因となった。なお、東証は午後2時40分から全銘柄の取引を停止した。東証1部の業種別株価指数では、33業種すべてが下落し、値下がり銘柄数は全体の94%弱に達した。平均株価は取引停止時で前日比464円77銭安の1万5341円18銭と3日連続の大幅安となった。」
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