Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

五重塔を真似る新東京タワー?

2006年11月28日 20時37分44秒 | Journal
 24日、東武鉄道と新東京タワーの両社が進める墨田区押上・業平橋地区の開発プロジェクト「Rising East Project」の核となる新東京タワーの概要が明らかにされた。
 高さは地上610メートル。タワーの形状は、三角形の足元から頂上部に向かって円形へと変化させるもの。地上350メートルと450メートルに展望台を設置する。
 構造は、中心にRC造のチューブ(心柱)をはしらせ、それを鉄骨の編籠構造(塔体)で囲むハイブリッド構造。心柱と塔体の間に、ダンパーを入れ、制振構造とする。これは、五重塔のアイデアからとったと説明した。しかし、五重塔の特徴は、心柱と塔体の関係だけに集約されるものではない。第一、あの5層の軒が大きく張り出してバランスをとっているところが欠けている。まあ、耐風性を考えれば論外なのだろうが。デザイン的には、むしろ塔の上にある九輪に似ているといった感想がある。

 作品(第3巻)には、五重塔はなぜ地震に強いか、こんな注記を付した――ホウリュウ寺に限らず、五重塔がなぜ地震に強いか、西欧から近代建築の知識が入っていた二十、二十一世紀のニッポン人にも不思議だったようである。様々な研究者によって様々な説が考えられた。――①相輪(露盤、九輪その他)が揺れることで搭全体の揺れエネルギーを吸収する「相輪振り子説」。塔身に対する九輪の重量比は約2%、最大層間変形角を30~40%低下させるとされる②揺れた層の木組みに心柱が当たり大きく変形することを防ぐ「心柱かんぬき説」、③心柱が揺れることで搭全体の揺れエネルギーを吸収する「心柱振り子説」、④深く張り出した軒がヤジロベエのようにバランスをとる「ヤジロベエ説」、⑤多数の仕口部でのめり込みや摩擦により揺れエネルギーを吸収する「仕口(接合部)多数説」、⑥太く短い柱は傾いても元に戻ろうとする力が大きい「柱の復元力説」。
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一つ残った柿

2006年11月24日 19時51分31秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 朝、病院へ母親をつれて行く前に、柿の木に、一つ残った柿の実を撮る。数日前、植木屋さんの剪定で残されたのは二つ、一つは鳥にでも食べられたのか。風が少し冷たいが、良い天気だ。

 一つ柿と見上げる空が澄みわたる  頓休
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新宿中村屋本店

2006年11月23日 14時56分03秒 | Journal
 これも幼いころ、伊勢丹で買い物をした帰りに、中村屋でホットケーキを食べるのが恒例となっていた。バターの塊が溶けかけてするっと滑り落ちる、蜂蜜(シロップ?)の沁みこんだホットケーキ。
 そのことを思い出して、昼飯をすませて1時間ほどしかたっていないのに、腹をさすりながら2階にあるレストランに入った。今は、ホットケーキのような安いメニューはないようだ。
 大きな牡蠣が入っているものの、ずいぶん値段が高いカレーだなとつぶやきながら辛いのを我慢して残らず食べた中年男は、その幼い顔の前にかつてあった、張り切って食べだしたのに半分も食べないうちに嫌になって食べ残してしまった、あの甘いホットケーキの味を思い出していた。
 中村屋は、1901(明治34)年、相馬愛蔵・黒光夫妻が東京・本郷の東大正門前でパン屋として創業した。したがって、ロンドンから帰った漱石も立ち寄ったと考えられる。1909年、店舗拡張のため、新宿の現在地に移転。和菓子の製造・販売を始めた。
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新宿伊勢丹本店

2006年11月23日 14時37分35秒 | Journal
 幼いころ、中野に住んでいて、母親に連れられて新宿の伊勢丹に何度もつれられてきた記憶が残っている。まだ戦争の痛々しさをそのままに、新宿の街角で、傷痍(しょうい)軍人がアコーディオンを奏でていた時代だ。小生、あの足を腿(もも)から失った元軍人さんを見るのが何よりも怖かった。その後、東京を離れて各地を転々としたりして、また東京で働くようになっても、そう頻繁に伊勢丹に来ることはなくなったが、それでもデパートと言えば、まず一番はじめに新宿の伊勢丹が思い浮かぶのは、やはり頭が未開拓だった幼稚な時代の先入観に根ざしているのだろう。

 伊勢丹は、1886年(明治19年)、初代小菅丹治が神田旅籠町(現在、東京都千代田区外神田・秋葉原駅前)で「伊勢屋丹治呉服店」として創業した。婿養子に行った米穀問屋の屋号「伊勢又」と小菅丹治の名前の「丹治」を合わせて付けられた「伊勢屋丹治呉服店」が、親しみを込めて縮められ、「伊勢丹さん」と呼ばれたことから正式な社名になったものらしい。写真の新宿本店の外装はアール・デコ様式、東京都の歴史的建造物に選定されている。
 注記(Wikipediaから)――アール・デコ様式とは、流線型やジグザグ模様など直線と円弧を組み合わせた幾何学性が特徴。メタリック調の物が多い。アール・デコのデザインは1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会で花開いた。博覧会の正式名称は「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」(Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels modernes)、略称をアール・デコ博といい、この略称にちなんでアール・デコ様式と呼ばれるようになった。また「1925年様式」と呼ばれることもある。
 キュビズム、バウハウス、古代エジプト美術、ロシア・バレエ、東洋美術などの影響が指摘されている。世紀末のアール・ヌーヴォーは植物などを思わせる曲線を多用した有機的なデザインであったが、自動車・飛行機や各種の工業製品、近代的都市生活といったものが生まれた時代への移り変わりに伴い、より機能的・合理的で簡潔なデザインが流行するようになった。アール・デコ様式の影響を受けた分野は絵画や彫刻、建築、服飾、宝飾、ポスター、生活雑貨など多岐にわたる。
 建築様式としては、ニューヨークの摩天楼(クライスラービル・エンパイアステートビル・ロックフェラーセンターなど)が有名で一世を風靡した。しかし大恐慌によりアメリカ経済が力を失っていくのと同時にブームは去った。日本でも昭和時代初期の一時期、アール・デコ様式が流行した。当時国際都市であった上海の近代建築にもアール・デコの影響が見られる(サッスーンハウス、フランスクラブなど)。
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亀に乗った徳川家康像(江戸東京博物館)

2006年11月23日 14時25分31秒 | Journal
 博物館を出て、すぐの大江戸線の両国駅に行く途中、タクシー乗り場の向こうに亀に乗った徳川家康像を見つけた。写真では分からないだろうが、巨大と言ってもいい大きさの像である。家康公の手には、鷹狩りの最中か、鷹が止まっている。今回の展示作には、白象の上に乗った女とか龍の頭にすっと立った女とか、そんな肉筆画もあったのを思い出す。
 前の記述によれば、江戸の吉原遊郭も、家康公が駿府から持ってきたものらしい。おそらく亀の先導で駿河沖の竜宮城でも移設する計画があったのであろう。
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歌川豊国「吉原大門内花魁道中図」

2006年11月23日 11時58分41秒 | Journal
 豊春の弟子、豊国の「吉原大門内花魁道中図」もなかなかなものだ。「豊国」は初代から何代も弟子が襲名しているが、これは初代の作か?
 この絵のような絢爛な衣装を着た花魁(おいらん)との遊びを思えば、今のソープランドのような素っ裸遊びは短絡で、風雅の数にはいらない。しかし、土手を早籠に揺られて来る男たちの燃え盛る情欲のほの字は、江戸の昔も今の東京も同じこと。空っ風に吹かれている。

 Wikipediaによれば、「吉原」は、江戸幕府開設間もない1617年、日本橋(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生した。吉原の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が駿府(現在の静岡市)、東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説がある(葦=悪しに通じるのを忌んで、吉と付けた)。いずれにせよ、徳川家康の隠居地である駿府城城下に大御所家康公認の公娼があり、そこに七カ丁もの広大な面積を誇る遊郭があった。吉原はその内五カ丁を大御所家康亡き後駿府から移したのが始まりである(二丁町遊郭)。

 明暦の大火(1657年)で日本橋の吉原遊廓も焼失。幕府開設の頃とは比較にならないほど周囲の市街化が進んでいたことから、浅草田んぼに移転を命じられた。以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原(略して吉原)と呼ぶ。江戸城の北に当たるところから「北国(ほっこく)」の異名もある。

 周囲にお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる幅2間(3.6 m)程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側のみと、外界から隔絶されていた。遊女には花魁(おいらん)・新造・禿(かむろ)などの身分があり、店にも茶屋を通さないと上がれない格式ある大店から、路地裏にある小店までの序列があった。大店は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしたこともある。一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けており、初めて上がった客と一緒に寝ることはなく、三度目で馴染みになり、ようやく枕を交わすことができるようになったという。遊客には武士や町人らがいたが、遊廓の中では身分差はなく、かえって武士は野暮だとして笑われることもあった。武士は編み笠をかぶり顔を隠していた。よく知られた川柳にも「人は武士 なぜ傾城(けいせい)に嫌がられ」とある(傾城とは城を傾けるような美女のことで、ここでは遊女を指す)。時代が下がるに従って、武士は経済的に困窮したため、町人が客層の中心になっていった。材木の商いで巨万の富を築いた紀伊国屋文左衛門や、金貸しである札差たちの豪遊が知られ、語り草にもなっている。吉原は江戸時代において文化の発信地としての役割も持っていたが、その実態は女性を前借金で縛る人身売買の場所であったことを忘れてはならない。

 吉原の遊女(明治時代)明治以降、芸娼妓解放令が出され、遊女屋は貸座敷と名を変えたが、遊女は相変わらず「籠の鳥」であり、自由な外出もできず、人身売買の実態は江戸時代と同様、旧態依然の状態であった。明治の吉原風俗は『ヰタ・セクスアリス』『たけくらべ』といった作品からも窺える。特に樋口一葉は吉原近くの竜泉に小間物屋を構えるなど当地との縁が深い。

 江戸時代には度々火災に見舞われたが、近代以降も1911年(明治44年)4月9日には大火が発生した(吉原大火)。また、関東大震災、東京大空襲でもほぼ全焼し、多くの犠牲者を出したが、そのたびに不死鳥の如く復活した。

 第二次世界大戦後、GHQの指令により公娼廃止となり、営業形態も民主化され、特殊飲食店街いわゆる赤線となった。
 1958年(昭和33年)の売春防止法の施行により、赤線は廃止され、吉原は文字通り火の消えたような町になった。店は連れ込み旅館や下宿屋、トルコ風呂(現ソープランド)などに転業していったが、やがてトルコ風呂が全盛期を迎えると、吉原=トルコのイメージが定着していった。 ソープランド店舗数は、最盛時には250軒あったと言われるが、現在は150軒ほどに減少している。それでも全国のソープ(1400軒程度)のおよそ1割を占め、岐阜金津園(70軒弱)、川崎堀之内(50軒弱)といった他のソープ街に、大きく差をつけている。

 1948年に施行された「風俗営業取締法」は、1984年に大幅に内容が改訂されて「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」となり、ここにおいて性風俗営業の営業地域が大幅に制限されるに至った。特に個室付き浴場、個室マッサージ、モーテル類等(トルコ風呂、ソープランドの類)は事実上人の活動する区域においては営業が不可能となったが、同法律を受けて東京都が施行した「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行条例」においては、吉原の実情などを考慮し、「特例地域」として、現行の建物を使用する限りは営業を継続出来ることとなった。従って新規にソープランドビルを建設して営業することは不可能であるが、現行の建物を改装等して継続使用する以上はソープランドを経営することが出来る。都内では「新宿区歌舞伎町の一部」及び「豊島区西池袋の一部」に同様の特例措置が執られている。
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歌川豊春「向島行楽図」

2006年11月23日 11時42分10秒 | Journal
 豊春の「向島行楽図」も良い絵だ。向島は今の墨田区の一画。隅田川の堤をやってきて茶屋遊びをする一行を描いたもの。それにしても着ているものが並みの派手さじゃない。

 古賀道夫氏の説明(HP)では、歌川豊春の名は昌樹、俗称但島屋庄次郎(のち新右衛門に改めたとも言う)。一龍斎 潜龍斎などと号した。墓碑および追善碑の銘により、享保20年(1735)に生まれ、文化11年(1814)1月12日江戸で没したことが知られているが、出世地については江戸 但馬豊岡 豊後臼杵の3説がある。はじめ京都で狩野派の鶴沢探鯨に就き、明和(1764~72)初年ころ江戸に出て鳥山石燕に学び浮世絵師となったと伝えられるが、確証はない。浮世絵の遺品が登場するのは明和4年ころからで、明和末期から安永(1772~81)期にかけて、外国風景や江戸名所などを題材とした 浮絵(うきえ) (遠近法などの洋風表現を取り入れた浮世絵版画の一つ)を多数描き人気を得た。天明(1781~89)期以降は肉筆画に専心し、優品を多く遺している。その門下には初代 豊国(とよくに) や豊広らが育ち、幕末の浮世絵界最大の勢力を誇った歌川派の始祖となった。 
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葛飾北斎「鏡面美人図」

2006年11月23日 11時28分41秒 | Journal
 展示されている浮世絵の中では、やはり筆致・構図的な面で北斎が異彩を放っていた。「鏡面美人図」もその一つ。これは鏡は別世界で、美人の顔の位置や大きさからいっても実際にはこう映るわけがない。
 ボストン美術館の修復作業で、美人が着る絹地の裏に色を塗る、裏彩色という技法が使われていたことが判明したとか。例えば、着物の白えりの部分は裏に施された赤色が透けてピンクに染まって見えるというが、写真では分からない。

 Wikipediaによれば、葛飾北斎(かつしか・ほくさい、宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?) - 嘉永2年4月18日(1849年5月10日))は、江戸時代の浮世絵師である。森羅万象何でも描き、生涯に3万点を越す作品を発表し、版画の他、肉筆画にも傑出した。さらに読み本挿絵芸術に新機軸を出したこと、北斎漫画をはじめ絵本を多数発表して毛筆による形態描出に敏腕を奮い、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところが大であった。葛飾派の祖となり、ゴッホなどフランス印象派にも影響を与えた。代表作に「富嶽三十六景」「北斎漫画」などがある。その功績は海外で特に評価が高く、1999年雑誌『ライフ』の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に日本人でただ一人、ランクインした。
 北斎は生涯に30回と頻繁に改号していた。使用した号は「春朗」、「宗理」、「葛飾北斎」、「画狂人」、「戴斗」、「為一」、「卍」など。この改号の多さについては、弟子に号を譲り収入としていたからとの説もある。
 また、93回に上るとされる引越しの多さも有名である(一日に3回引っ越したこともあるという)。これは彼が絵を書くことのみに集中し、部屋が荒れれば(あるいは汚れれば)引っ越していたからである。当然、食生活も大変乱れていたが、それでも90歳の長寿を全うしたのは、慈姑だけは毎日欠かさず食べていたからだと言われている。
 浮世絵以外にもいわゆる挿絵画家としても活躍した。黄表紙や洒落本・読本など数多くの戯作の挿絵を手がけたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していた。数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、その間に『新編水滸画伝』『椿説弓張月』などの作品を発表し、馬琴と共にその名を一躍不動のものとした。読み物のおまけ程度だった挿絵の評価を格段に引き上げたと人物と言われている。一時期馬琴宅に居候していたことがある。
 飯島虚心『葛飾北斎伝』によれば、元禄赤穂事件(忠臣蔵)で吉良方のヒーローとして扱われている剣客の小林平八郎には、娘が一人いて、その娘が後世、鏡師中島伊勢に嫁いでいて、その子が葛飾北斎なのだという。この噂の出所はどうやら葛飾北斎自身らしい。北斎はこのことをやたら自慢して歩いていたといわれる。真偽のほどはかなり怪しい。
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吉良邸があった両国で肉筆浮世絵展「江戸の誘惑」を観る

2006年11月23日 11時05分04秒 | Journal
 赤穂義士が討ち入った吉良邸は両国にあった。本所松坂町公園に吉良邸跡があるそうだ。ここにも「首洗い井戸」があるというが、あの泉岳寺のは、何だったのか?
 両国へは、この吉良邸見物ではなく、江戸東京博物館で開催されている肉筆浮世絵展「江戸の誘惑」を観に行ったのだ。ボストン美術館所蔵の幻のコレクション80点が出品されているという触れ込み。明治時代に、医者のウィリアム・ビゲロがアーネスト・フェノロサや岡倉天心の助言を受けて数万点のニッポン美術を収集し、本国に持ち帰って、後にボストン美術館に寄贈した。幻というのは、保存上の配慮から館外展示を制限してきたことによるらしい。ボストン美術館へは行ったことがあるが、これらの浮世絵が展示してあったか、忘れてしまった。
 ともかく、葛飾北斎や歌川豊国があるというので、覗きに行ったのだ。大型バスで乗り付けたジイサンバアサンが大挙して入館しており、展示室は大変な渋滞であった。浮世絵はさすがに見事だったが、疲れたよ。
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義士堂・小泉商店(泉岳寺)と山鹿素行

2006年11月23日 09時17分55秒 | Journal
 泉岳寺の中門を出ると、写真のような土産物屋「小泉商店」がある。この店のシンボルとなっているのが山鹿流陣太鼓。山鹿流(やまがりゅう)は、山鹿素行による兵学(兵法)の流派。「仮名手本忠臣蔵」において吉良邸討ち入りを果たす赤穂の四十七士のリーダー、大石内蔵助が叩いていた陣太鼓の流派として有名だが、実際には山鹿流陣太鼓というのは存在せず、物語の中の創作とか。
 Wikipediaによれば、山鹿素行が赤穂に配流になった縁で、藩主が山鹿素行に師事し、赤穂藩は山鹿流兵法を採用していた。
 ――雪の降りしきる夜、赤穂浪士は袖先に山形模様のそろいの羽織を着込み、大石内蔵助が「一打三流」の山鹿流陣太鼓を打ち鳴らす。吉良家の剣客清水一学がその太鼓の音を聞いて「あれぞまさしく山鹿流」と赤穂浪士の討ち入りに気づくのが映画やテレビドラマ、演劇の定番である。実際には赤穂浪士は合図の笛と鐘は用意したが、太鼓は持っていなかった。門を叩き壊す(破っている)時の音が『仮名手本忠臣蔵』で陣太鼓を打ち鳴らす音に変わったのではないかといわれている。また山形模様は『仮名手本忠臣蔵』の衣装に採用されて広く認知されるようになった。
 実際には、赤穂浪士は討ち入りの際は火事装束に似せた黒装束でまとめ、頭巾に兜、黒小袖の下は鎖帷子を着込んだ完全武装だった。羽織などの着用もばらばらだったといわれている。山形模様ではないが、袖先には小袖と羽織をまとめるため、さらしを縫い付けている者もいた。
 なお、1703年12月14日(旧暦)夜(雪が降っていたというのは『仮名手本忠臣蔵』での脚色で、実際は冷え込みが厳しかったがほぼ満月の快晴だったといわれている)、47人の赤穂浪士は江戸市中三ヶ所に集合して、本所吉良屋敷へと向かった。
 実際に襲撃したのは現在の感覚で言えば翌15日に入っての未明午前4時頃であったが、江戸時代の慣習では翌日の日の出までを1日の区切りとしたため、当時の感覚としては「14日の斬り込み」となる、とか。

 Wikipediaその他から追記――山鹿素行(やまが・そこう、元和8年8月16日(1622年9月21日) - 貞享2年9月26日(1685年10月23日))は江戸時代前期の儒学者・兵学者である。父は浪人の山鹿貞以。古学派の祖。陸奥国会津(福島県会津若松市)に生まれる。1628年(寛永5)に6歳で江戸に出る。1630年(寛永7)9歳のとき幕府大学頭を務めていた林羅山の門下に入り、朱子学を学び、15歳からは小幡景憲・北条氏長の下で兵学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ。承応元年(1652年)播磨国赤穂藩に1,000石で仕えたが、万治3年(1660年)に辞す。朱子学に疑問を抱き、寛文5年(1665年)「聖教要録」を刊行、朱子学を奨励した保科正之(家康の孫で会津藩主)らの忌憚にふれたため、旧赤穂藩に配流となった。延宝3年(1675年)赦されて江戸の浅草に居住した。1685年に死去、享年63。
 朱子学の内面主義を批判して日用有用の学を提唱したが、その学統は儒学説よりも山鹿流兵学として継承された。素行は、赤穂に住んだ10年間、藩主の浅野内匠頭や、大石内蔵助らを薫陶(浅野も大石も子供だったと思うが?)。また素行の思想は、吉田松陰や乃木希典の生き様に体現され、脈々と受け継がれ、日本的道義を支えてきたといった評価もある。
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