Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

豊作のレモン

2023年11月22日 14時47分39秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 暑い夏であったことがレモンの木にとって幸せだったのか、庭のレモンが豊作である。昨年は1個のみ、それもいつの間にかなくなってしまったが、今年は木陰に数えてもざっと30個ぐらいは枝枝に分散したのがたわわに実(みの)っている。



 秋深く涼んでみせるレモン哉  頓休
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カマキリと丸葉

2023年11月19日 10時03分34秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 日曜日の今朝、新聞を取りに庭に出ると、マルバノキの丸葉にカマキリが留(と)まっているのを見つけた。それだけのことである。今日は、小春日和。風もない快晴で、カマキリも日向(ひなた)ぼっこの休日の秋眠にうってつけだ。



 日向来てカマキリも秋の休日哉  頓休
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こぼれ写真と雑文(ローマ編)

2023年10月14日 17時44分54秒 | 雑文
 という次第で、炎天と最後にはコロナに罹ったことで印象がすっかり悪くなった今回の2週間に及ぶイタリア、パリの旅行(9月6日~20日)であったが、それでも後から思い起こせばあんなこともあったなと懐かしめるような感慨も少しは残った。写真に雑文を付しながら、その感慨とやらを紹介しよう。まずは、ローマ編(9月7日~11日)。


 中継地のパリ(空港のホテルに一泊)から朝方ローマに飛んできて、泊まることになったホテルからさっそくポポロ広場(Piazza del Popolo、古く巡礼者のローマへの入り口であった)→スペイン広場(Piazza di Spagna、単に間近にスペイン大使館があるからこう命名された)へと歩いて向かった。途中、テヴェレ川にかかる橋から撮ったこの写真が、一番ローマらしさを感じさせるベストショットであった。こういうもの侘(わ)びたローマをもっと満喫したかった。それには、目的的な旅でなく、ぶらり散策風に歩かなければならないが、初めてローマのような大きな街、然(しか)も名だたる観光スポットが集中する街を数日間訪れて、それが可能かという、はてな印の疑問が残る。


 ポポロ広場。右側に見える路地を入ったところに、1786‐7年、ヴァイマル公国の宰相(さいしょう)という身分を捨ててイタリアへ出奔したドイツの文豪ゲーテが、暫(しばら)く住んでいたらしい。


 ローマ近郊におけるゲーテ。ここまでポーズを決めてファッショナブルな装(よそお)いに気取って見せられる文人も少ないであろう。漱石は、ゲーテとトルストイを毛嫌いするようなところがあったらしいが、多分それもこうした貴族風な気取りを二人の文豪の作品に読み取っていたからであろう。対極的に、漱石はシェイクスピアとドストエフスキーを喰うために必死に書いた職業作家として評価している。漱石自身、大学の教職を捨ててなったものの職業作家の辛(つら)さが骨身に沁(し)みていたようだ。


 ドイツの文豪探訪よりは目先のイタリア観光とゲーテへの道を選ばずに、スペイン広場へ最短と思われる右側の道を暫(しばら)く歩いていくと、レストランがあった。ここでとりあえず食べようとなって、魚料理を注文したら、刺青(いれずみ)の二の腕が調理した魚をさばくかような趣向となった。昔、北京で北京ダックをこういう風にさばいてもらったことを思い出す。


 さばいた結果は、皿上のこんな料理である。何をどう調理したのか、魚はからっきし味がしない。結局、イタリアで食べたイタリア料理らしいのは、スパゲッティ以外だとこの淡泊な魚料理だけであった。


 考えてみると、このレストランはレストランが本業なのか、本来は写真のような古物の骨董屋なのか、判然としない店であった。


 これは妻が撮ったスペイン広場の写真だが、私のより出来がいい。


 翌日は、ヴァチカンに行った。まず、ヴァチカン美術館に入る。写真は出口の方。


 ヴァチカンの権威を象徴する立派な絵がたくさん並んでいるが、こうたくさんだと二束三文(にそくさんもん)と適当に見過ごすしかない。おそらく日本の美術館にこのうちの2、3点運んで来たら、観客を数十万、百万人と動員できそうな絵画群であることに違いはないのだが。


 こんな風に回廊の天井に画を隙間(すきま)なく並べられても、ぞろぞろ歩きながらそれらを少しは丁寧(ていねい)に見ようと打ち仰いではみても首が草臥(くたび)れてそんなに鑑賞できるものではない。


 ラファエロ「アテナイの学堂(Scuola di Atene)」(1509‐10)。ラファエロ(Raffaello Santi、1483‐1520)の最高傑作として有名な絵らしいが、感じるものがない。これは油絵のように塗り込めない漆喰(しっくい)に顔料で薄く描くフレスコ壁画(水彩画のような平板な印象を受ける)で、画として奥行き・陰影が描けないという点はあろう。然し抑々(しかしそもそも)、若いラファエロにアテネの哲人を描くことは、無理があったのでは。ラファエロは「新プラトン主義(Neoplatonism)」を芸術作品に昇華したと評価されるそうだが、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを舞台に配置した役者のように派手(はで)な衣装を着せて描くのが、彼の本意であったか疑問だ。尚(なお)、この絵の中のプラトン役は先輩のレオナルド・ダ・ヴィンチがモデルになっているらしい。


 ラファエロの自画像(1506、ウフィツィ美術館)、3年後、「アテナイの学堂」を描く。尚(なお)、フィレンツェでウフィツィ美術館を訪ねたが、この若々しく麗(うるわ)しいラファエロの自画像が目に止まった覚えがない。どこにあったのであろう。残念だ。ただ、一般に画家による自画像は、変な顔が多い。売るつもりもなく、他者に譲るつもりもなく描くから、特段に男っぷりよく美男に仕上げる工夫は要(い)らない。そうすると、鏡に映ったままに芸術家らしく物憂(ものう)い得てして醜い顔がキャンパスに描出されることが多い(例えば、⇒ゴヤの自画像)。ラファエロは本当に若くて美男だったかもしれないが、やはり鏡の中の男をそのまま疑いもなく屈託もなく美男に描いたとしたら、画家としてどんな苦悶を抱えていたか怪しまれる。もっとも鏡の中の自分を見つめるのが女性だとしたら、女流画家だとしたら、その辺は納得できるのだが……。そういえば、このラファエロには、どこか女性的なところがある。
 ゴヤ(Goya、1746‐1828)の自画像⇒(写真をクリック)


 従って、変な顔でラファエロの最高傑作を「分からないな」と疑心暗鬼(ぎしんあんき)に眺めるしかなかった。隣の日本人らしい人は音声ガイドの解説を聴きながら鑑賞しているが、そうでもしないと分かったことにはならないのかもしれない。


 慥(たし)かに、四方、壁という壁にイタリア・ツネサンスの最高傑作があって、何をどう見ていいのやらただ鑑賞するにも大事(おおごと)だ。


 ミケランジェロ「最後の審判(Giudizio Universale)」(1536-41)。流石(さすが)に、壮大は壮大である。ミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475‐1564)は年下のラファエロを見下して「彼(ラファエロ)の芸術に関する知見は、すべて私(ミケランジェロ)から得たものだ」と豪語していたそうだが、ミケランジェロの製作中の「システィーナ礼拝堂天井画(Volta della Cappella Sistina)」(1508‐12)をラファエロがこっそり盗み見て、「アテナイの学堂」を描いたことは事実のようである。


 1889年と少し時代が新しい為(ため)か、この恋人或いは夫(?)の首を抱く女性の絵(誰の作か?)のおどろおどろしい劇性は気持ち悪いながらに理解できる。


 そろそろ館内見物も終わりに近づいて、通りがかった小部屋にふと立ち寄ってジョルジュ・ルオー(Georges Rouault、1871‐1958)の素朴な絵(「秋またはナザレット」、1948)と出合った時は、少なからずほっとした。


 左は、藤田嗣治(ふじた・つぐはる)の「聖母子」(1918)か?


 先程の出口から美術館を出てきて、道を渡った前のレストランで妻が頼んだこのぶっきら棒な果物盛り合わせを殆(ほとん)ど私一人で食べた。


 実際に通りがかったのは翌日だったが、ヴァチカンから道一筋のサンタンジェロ橋(Ponte Sant'Angelo)上の妻。この日も朝から暑かった。


 サンタンジェロ橋の欄干(らんかん)から撮ったテヴェレ川の風景は、聊(いささ)かの涼を運んでくれる。


 サンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)の方角からナヴォーナ広場(Piazza Navona)へ向かう。


 到着したナヴォーナ広場も酷(ひど)く暑苦しい。広大な広場とされるが、案外にこじんまりしていると思えた。


 広場のすぐそばに内部にラファエロの墓があるというパンテオン(Pantheon)がある。薄汚れている。日本ならば弥生時代、竪穴式や高床式の粗末な住居に住み暮らしていた、紀元前25年の建設(焼失後、118‐128年に再建)というから、汚れているのは当然か。内覧はスル―。


 妻が撮ったパンテオンのお尻(裏側)。ローマ感が出ている。フェデリコ・フェリーニ風に奇妙に想像を逞(たくま)しくすれば、この大きなお尻が屁(へ)をこいたら路地裏はどういうことになるか。蜘蛛(くも)の子を散らすように、人っ子一人居(い)なくなる?


 妻は、コロッセオでこんな写真も撮ってくれた。「やけのやんぱち日焼けのなすび 色は黒くて食いつきたいが わたしゃ入れ歯で歯が立たない」は寅さんの台詞(せりふ)だが、私もやけのやんぱちで柄(がら)にもなく変なポーズをとる。


 コロッセオ見物を終えて、何故(なぜ)かご苦労さまにも日陰(ひかげ)から日向(ひなた)へ一周して最寄りの駅へ行く途中の写真。


 コロッセオ見物後、くたくたになった末に、B線からA線に地下鉄を乗り換えて帰ってくると、ホテル近くのカフェで一休み、こんな軽食を食べて一服(いっぷく)した。


 いつもながらに不機嫌で詰まらそうな顔である。このお菓子のような前菜的食べ物(生のむき海老と鮭がのっかったパイのような食べ物はよくカフェのガラスケースに見かけた)が旨(うま)かったか、どうも私は忘れてしまったが、妻は大層評価している。私は、ただ、ただ、神妙に白ワインを有難く頂いた。尚(なお)、別の日であったかと思うが、慥(たし)かローマ最後の夕刻に、その日は日曜日で休みが多い中、ホテル周辺に営業しているレストランを探し歩いて、やっと見つけたレストランでボンゴレのスパゲッティを食べた。これは紛(まご)うことなき一品であった。シンプルにアサリの味が出ていて何より麺が素晴らしい具合に茹(ゆ)で上がっている。シンプルに麵だけでも旨いに違いない。生涯忘れられないスパゲッティとなった。やはり、地元の人が好んで来るようなレストランは、味がいい。もう来ることはないと思うが、もしローマに来たら、このレストランでこのスパゲッティを食べたい。生憎(あいにく)、写真は撮らなかった。見た目はただのボンゴレですからね。

 ローマの観光地巡りとしてはこんなところであったが、旅行では肝心となる宿泊したホテルの所在地は、ヴァチカンにも徒歩圏内のタウンハウスであった。はじめは便利なローマ・テルミニ駅(Stazione di Roma Termini)近くに予約してあったが、治安の良し悪しを考えて、滞在先を変えた。ホテルは道を挟んで正面に裁判所があるような場所で、閑静な住宅地と言える立地であった。4泊で12万円は、円ユーロの不利な為替を前提とすればローマとしては高くも安くもない宿泊代であろう。タウンハウスというだけあって、普通のホテルのような看板もない。最初の晩、スペイン広場から戻ってきて、同じような大きなドアが並んでいて、あるドアを預かっていた鍵を使って開けようとするが出来ず、帰ってきた住民の後にくっついて入ると、そこは同じような中庭があって似ているが何か違うと、一体何処(どこ)が自分のホテルなのか探しあぐねて途方(とほう)に暮れたことがあった。


 タウンハウスの前の交差点を渡る。ここは数駅でヴァチカンへ行けるトラムの停車場でもある。左が裁判所、右がタウンハウス、いや、もしかしてアベコベかも、失礼。


 こういう建物は、目印がないので、住所を控えておかないと闇の中では全く分からなくなる。
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パリ・ルーブルでコロナに罹ったか⁉ これも自他に於けるオーバーツーリズムの結末なり。

2023年09月25日 10時59分05秒 | 雑文
 「オーバーツーリズム」という言葉をよく耳にするようになった。近現代に於(お)ける観光の産業化の帰結であろうが(因〔ちな〕みに、日本でも江戸時代になると貨幣経済の拡張、封建制度の緩みもあったのか、大山詣〔もうで〕とか江の島詣という浮世絵師が好んで描くような艶〔あで〕やかな旅行ブームがあった)、コロナ禍を経て、世界中で異常な感じになっている。昨年までインバウンド需要がどうのこうのと経済的メリットで叫ばれていたが、足元、オーバーツーリズムのデメリットが耳目(じもく)を集めるようになっている。


 歌川広重作「相州江之嶋弁財天開帳参詣群衆之図」(藤澤浮世絵館)

 ところで、3月に京都へ行った際は、コロナ前は中国人観光客でごった返していた京都の金閣寺も、外国人はほぼ欧米の観光客中心になって、写真を撮るのも押し合いへし合いは避け得たし、金閣を撮る隙間(すきま)を見つけやすかった。京都のオーバーツーリズム問題は、また中国の団体観光客が戻ってきてからであろう。但し、最近行った関西や金沢では、団体や個人旅行の韓国人があふれかえっていた。爆買いで勇名を馳(は)せた中国人と違って、韓国人の場合、観光地に於(お)いて日本人と見かけや行動様式が殆(ほとん)ど変わらないから、目立たないから、オーバーツーリズムも余り話題にはならないのかもしれない。


 写真映(ば)えの観点からは、金色に輝く金閣は金髪の欧米人ツーリスト向けですな。着物を着ようが黒髪は余り似合わない。


 虹の金沢・茶屋街。傘をさして歩いている観光客の多くは韓国語を話していた。そうした韓国人観光客に混ざって私のような年老いた日本人が一人、有名な観光地できょろきょろとうろついているのは、却(かえ)って奇妙に浮いた感じがした。

 最近の報道では、イタリアのベネチアはオーバーツーリズムへの対応不十分と深刻な高潮や干ばつなど気候変動への対応不足でユネスコから「危機遺産リスト」への登録も検討されているという。ベネチア市議会は滞在者以外の観光客(ベネチアはホテル代が高いので近隣に泊まって日帰りでやってくる観光客も多いようだ)に5ユーロ(1,000円弱)を賦課するとか。実際、今回、ローマ、フィレンツェに続いてそのベネチアへも行ってみた。
 尚、このブログには自分の写真は余り掲載しないようにしてきたが、今回は妻が私の写真をたくさん撮ってくれたので、そこに現われた私という、旅行ガイドブックの「王道プラン」やら「大満喫モデルプラン」を頼りに、滞在中はそれらが提示する有名観光地を網羅(もうら)したプランを次々に消化することに心を奪われ、挙句(あげく)、すっかりオーバーツーリズムに洗脳された人間の馬鹿らしい顛末(てんまつ)も紹介したい。その結果、なんだか有名人を気取ったインスタグラムのようになってしまった。考えてみれば、インスタの流行などもオーバーツーリズムの産物として最たるものであろう。


 水没でこのサンマルコ広場(Piazza San Marco)をプールにした高潮は知らないが……。


 干ばつで水路に水がないとなったらこの粋なゴンドラ(gondol)も営業停止となって不思議はない。


 しかし、この美しい景色に観光用のゴンドラは欠かせないな。


 誠に暑くへとへとであったが、写真では、オーバーツーリズムの片棒(かたぼう)を担(かつ)いで元気そうにも見える。

 イタリアは、9月7日に経由地のパリ(空港のホテル一泊)から飛んで来て、ローマに4泊、フィレンチェに2泊、ベネチアは1泊であったが、兎(と)に角(かく)、どこも暑かった。今夏は日本も暑かったから、同じようなものだが、為替に気をもみながら大金を支払ってはるばる来たヨーロッパ、冷房の効いたホテルの薄暗い部屋で費用対効果もなく漫然と涼んでいるわけにもいかない。それ名だたる名所旧跡への観光と炎天下をあっちこっち歩き回る。結果、老夫婦にとって、大変な行脚(あんぎゃ)の旅となった。
 ローマでは、こんな次第。写真で見れば、それほどと感じないが、現地の混雑ぶりはこんなものではない。財布もパスポートもすられたくないと鞄を前に抱えて、『ローマの休日』を思い浮かべる余裕もなく観光客の一員となって有名観光地を群衆に紛(まぎ)れてうろうろと歩くしかなかった。


 スペイン広場(Piazza di Spagna)


 映画「ローマの休日」から


 グレゴリー・ペックの「ローマの休日」風とはいかず、神妙に堅苦しく鞄を抱え込む私


 ヴァチカンの行列


 腕組みして眺めるばかりで、行列に並んで中へ入る気にはなれなかった。


 ヴァチカン美術館(Musei Vaticani)内の妻、ここもかなり混んでいた。Wikipediaに「毎年、1800万人以上の来場者が7キロにおよぶ諸室と廊下に展示された美術作品を鑑賞する。」とあるのも頷(うなず)ける。


 映画「ローマの休日」から


 奥が「真実の口(Bocca della Verità)」。来る者は皆、例の穴に手を突っ込む写真を撮るから列ができる。


 列の先には、写真を撮影してくれる常駐のボランティアおじさんが居て、妻との写真を撮ってもらう。ちょっとばかりお布施(ふせ)をする。


 フォロ・ロマーノ(Foro Romano)、暑すぎてこのローマの古跡を仔細に見る気にもなれなかった。


 フォロ・ロマーノからコロッセオ(Colosseo)へ


 コロッセオの前で、強烈な陽射しに手をかざさないでは居られないほど眩しい。


 コロッセオの中へ


 コロッセオの中


 混雑するトレヴィの泉(Fontana di Trevi)


 それでもここに集まってくる理由は? 多分、涼をとるため、それとも単に有名だから?

 「花の都」として嘸(さぞ)かし清々として綺麗かと思ったフィレンツェも同じこと。観光客が余り写らないように殊更(ことさら)に撮った写真はーー。


 昼のドゥオモ(Duomo)


 夜のドゥオモ、多少は観光客が減ったが……


 ヴェッキオ橋(Ponte Vecchio)の夜景。


 橋の上(中)は両脇に宝石屋が煌煌(こうこう)と店を連(つら)ねる。流石(さすが)に、「ベニスの商人」の街である。


 昼のヴェッキオ橋上から


 ミケランジェロ広場(Piazzale Michelangelo)からヴェッキオ橋方面を撮る


 ボブ・ディランのコンサート用に買って使えなかったオペラグラスでフィレンツェの街を仔細(しさい)に眺める


 アカデミア美術館(La Galleria dell'Accademia a Firenze)のダヴィデ像(David)。人々は、スマホをかかげて熱心にダヴィデお兄さんの小さなチンポ目がけて写真を撮っている。

 どこも建築物の記憶よりは人込みの記憶が鮮(あざ)やかで、正直、「同じ押し合いへし合いならば、浅草の三社祭を見ていた方が気楽だ」と感じた。では、9月15日から20日まで滞在した「花の都」パリはどうであったか。中心部を観光客にすっかり占拠されたようなフィレンツェと違い、パリは少しは大きな街だから、観光客一色という訳(わけ)ではなかったが、間違えて観光地へ行くと、そこは安っぽい喧騒(けんそう)の世界である。パリは、40年ぶりであったが、40年前のパリはもう少し落ち着いていた気がする。ただ、パリの空は相変わらず綺麗だ。この空だけをしかと見届けて、さっさと日本へ帰った方がよかった。今回、最初にシャルルドゴール空港(Aéroport de Paris-Charles-de-Gaull、CDG)に着いた時、空を見上げて、やはりパリの空は良い。40年前、オルリー空港(Villeneuve-Orly Airport)からパリ市内に向かうバスの窓からほれぼれと見惚(みと)れて、「これが印象派の画家たちが描いた空だ」と心の中で呟いた、あの絵になる色合いに染まった美しい空である。


 「オー・シャンゼリゼ!(aux Champs-Élysées!)」と晴れやかに歌う気にはなれなかった。最近は堕落著しいが、特に威(い)を張らない銀座並木通りのこじんまりした雰囲気が少々懐かしい。


 凱旋門(Arc de triomphe de l'Étoile)。近くによれば、立派は立派だ。


 ルーブル美術館(Musée du Louvre)へ。あのくだらないピラミッド(Pyramide du Louvre、1989)が見えてきた。これは、中国系アメリカ人建築家Ieoh Ming Pei(貝聿銘)の設計になるそうだ。貝氏は「幾何学の魔術師」の異名を持つ。『方法序説』(1637)に於(お)いてデカルト座標系(Cartesian coordinate system)を考案したルネ・デカルト(1596‐1650)に就(つ)いて考えれば分かるように、フランス人は伝統的に幾何学が大変好きである。


 先日、京都の銀閣寺(慈照寺)を訪れたが、円錐形の頂点をちょん切ったような砂の宇宙的意匠(向月台)と質朴に侘(わ)びた銀閣寺の取り合わせは、流石(さすが)意表を突く唐突感(とうとつかん)は否(いな)めないにしても、幾何学的な意匠として少なくともルーブルのピラミッドよりは工夫されて優れている気がする。


 ルーブル前で、一応、にやにやと愛想笑いする。ピラミッドもない40年前、大学時代の友人とこの建物の前で落ち合った。あの頃は、こうして愛想笑いするような人間ではなかった。


 先般は、日本の女性議員(松川るい参院議員以下、自民党女性局総勢38人のフランス研修ご一行様)もSNSのポーズ入り写真で大変お世話になったエッフェル塔(La tour Eiffel)。


 こうしてブログに自分の写真を載せるような私に松川氏の迂闊(うかつ)が全くないとは言えないが、少なくとも私は羞恥心(しゅうちしん)がまさるのでああしたポーズは決めない。それにしても、彼(か)の『脂肪の塊(Boule de Suif )』(1880)や『女の一生(Une vie、生涯)』(1883)を書いたモーパッサンが、パリ万博(1889)に合わせて建ったこのエッフェル塔を嫌い、眺めずに済むからと、敢(あ)えて塔1階のレストランで食事したという逸話が、面白い。自民党の女性議員さんは、研修と称してパリ見物などする前に、こうした社会と人生に関する皮肉を含んだ作品を読んでおいた方が良かった。私自身は、少なくとも中二のとき『女の一生』を読んで、それを教室で国語の先生が「最近、何を読んだか?」と尋ねるからすくっと立ち上がって「女の一生」と答えたら、クラスメイトの失笑を買ったことが今も深く心に刻(きざ)み込まれている。(受け狙いがあったことは言った瞬間にも自覚していたが)それでもなんでそんなに笑うのだと憤慨(ふんがい)している自分があった。あの頃から、モーパッサン程(ほど)ではないにしても、なんだかすっかり甲斐(かい)なしの皮肉屋になってしまった気がする。尚(なお)、『脂肪の塊』は、未読である。アマゾンで注文した。近日中に読むつもりである。


 二度見ても仕方がない豪華で悪趣味なヴェルサイユ宮殿(Palais de Versailles)。金色ならば、何度見てもはっとする金閣の方が数段上等だ。


 40年前見たヴェルサイユの庭(完璧なシンメトリック趣味で辟易〔へきえき〕した)とはちょっと違った印象を受けた。その後、変えたのかな?


 然(しか)し、このパズルのような幾何的文様(均斉的秩序?)に対する執着は異様でもある。ペルシャ絨毯(じゅうたん)の柄(がら)でも模(も)したのであろうか? 第一回十字軍の先立ってイスラム教徒から聖地エルサレムの奪還をお題目に民衆十字軍4万人が、フランス・アミアンの隠者ピエール(Pierre l'Ermite)に率(ひき)いられて出発したのが1096年のこと。途上の各地でユダヤ人を虐殺していったという。1000年間、ヨーロッパではこの歴史の傷が解消されていない。民衆に見せびらかす為(ため)に造営されたヴェルサイユの庭は、そうした民族と人権に関する矛盾を糊塗(こと)できないでいる。


 この里山風な景色は、何処(どこ)ぞの名もない日本の田舎の風景ではない。後水尾天皇(ごみずのおてんのう、1596‐1680)の指示で江戸時代の初期に造営された京都近郊の修学院離宮の庭である。同じ頃、パリ近郊にルイ14世(1638‐1715)が建設したヴェルサイユ宮殿の庭に少なからぬ違和感を覚えるのは、所詮(しょせん)は、こうした赤とんぼでも似合(にあ)いそうな里山風な田園風景を黙然(もくねん)と眺めていることに嗜好(しこう)の原像を持つ所為(せい)かもしれない。

 「人よりも空(そら)、語よりも黙(もく)。……肩に来て人懐かしや赤蜻蛉」漱石


 つくづく東京の隅田川の良さが分かったパリ・セーヌ川(la Seine )下り


 知らずとは言え、目下、感染・発症中の為(ため)悪寒(おかん)にふるえながら、あの世を彷徨(さまよ)うが如(ごと)く、この世のものともなくふらふらになりかけていた。

 確証はないが、コロナはルーブル美術館(Musée du Louvre)で罹患した、らしい。二日後、帰国前日に、エッフェル塔を見てから電車で郊外のベルサイユ宮殿へ行ったとき、段々に調子が落ちてきて、パリ市内に戻ってセーヌ川をクルーズ船で観光したときには最悪になった。この日は、暑かったパリも急に寒くなって、てっきり風邪を引いたのだと思ったが、それにしてもまったく寝れないほど躰(からだ)の節々(ふしぶし)が異常に痛む。朝になって心配した妻が体温計を薬局で購入してきたが、使い方が間違っているのか、熱は平温以下である。まあ、風邪でもこういうことはあるからと自分を納得させながらそのまま空港へ向かい、空港内で半日を潰した後、地球を半周する不愉快極まる長旅の末に帰国した。翌日になって念のために私の方は手持ちの抗体キットで検査してみると二本線がくっきりと出て陽性であった。電話をかけてから症状のない妻と一緒に近くのクリニックへ行くと、妻も抗体検査で陽性だと判明した。そのときになって後(あと)の祭り、「ああ、あのルーブルで、モナリザ観(み)たさの雑踏の中で、コロナになったか!」と痛感した次第である。40年前は、入館してすぐにモナリザを眺めて、「ああ、こんなものか。結構(けっこう)小さいな」と冷(さ)めて思ったものだが、当時は、モナリザを展示する一角(いっかく)に絵を取り囲んでせいぜい十数人から数十人が居た程度であったと記憶する。個室に数百人が押し掛けている今日の殺気ある光景に比べてれば、至極呑気(しごくのんき)なものだった。コロナ後、人々はモナリザの微笑みに何か癒しを求めて詰めかけていると言えば、綺麗ごとになる。寧(むし)ろ、ウクライナやイスラエルの戦争が象徴するように、人々は知らず狂暴になって(或いは狂暴を避けて)幸せそうなモナリザの微笑みを喰(く)いに押し掛けているのかもしれない。


 ようこそ、ルーブルへ


 ルーブル美術館内の豪華絢爛な回廊を引率されていく


 ミロのヴィーナス(Vénus de chauve)


 二つ上に同じ。一路、「モナリザ(Mona Lisa、別名、La Gioconda〔幸せな人〕)」(1503‐6)の部屋へ


 詰めかける群衆の最後部で(20メートルぐらい離れて)スマホに撮ったためもあろう、そう、この薄(うす)ぼんやりしたモナリザを撮るがためにコロナウイルスに曝(さら)されたのだ。

 コロナから開放されて、ヨーロッパの人々は待ちかねたように観光地に殺到している。マスクをしている者はいない。20個ぐらいマスクを持って行ったが、イタリアでもフランスでもとうとうかけるチャンスは一度もなかった。流石(さすが)にルーブルなど美術館の混雑を目の当たりにしてこれはあぶないと思ったが、抱えた鞄からマスクを取り出すことはしなかった。そうした不精(ぶしょう)が祟(たた)ったな。それ以上に、有名な観光地を闇雲(やみくも)に目指した自分の中のオーバーツーリズムに祟られた。それと先年、コロナに死んだ母親のことを思い出しながら、また、自分の軽薄さ故(ゆえ)に親不孝をしてしまったと考えたものだ。今回のヨーロッパ旅行は、当初、オーストリアのウィーンとハンガリーやチェコの中東欧へ行くつもりであった。ウクライナでの戦争が始まって、然(しか)も計画当時、ロシアによる原発攻撃や核兵器の使用が懸念されるようになっており、ウクライナに近い中東欧諸国を観光するというのは、どうも不安になった。そこで、ヨーロッパの中でも安全そうなイタリアとフランス・パリに行き先を変更した。そのイタリアへ行ってみると、スロバキア、スロバニア、ハンガリー、(ポーランド?)といったウクライナに接する中東欧の国々〔最近は「ウクライナ支援疲れ」が言われる国々でもある〕からの観光客が自家用車(然も、結構な高級車)で押し寄せていて、彼らも「安全国」へ逃避してきた高等避難民であった。遠く車とはいかなくても、パリも多分、同じことが言えるのではないか(但し、パリでは地下鉄などで旅行用のトランクさえ持たない貧しそうな観光客或いは移民を多く見かけた。もしかしたらウクライナから来た人たちかもしれない)。従って、今回の旅は、戦禍の観光旅行となった訳(わけ)で、我が身にふりかかったルーブルのコロナ禍をいつまでも憂(うれ)えていても仕方がない。


 歌川國芳作(藤澤浮世絵館)

 老人には、地球を半周して高コストな海外旅行よりは安全安心な国内旅行が賢明な気がする。上掲、この平和だった時代の浮世絵のように、江の島への楽しい日帰り旅行でもいい。車で一時間余も走れば、そこにはパリの空にも決して見劣(みおと)りしないジャパンブルーな、ベロ藍(あい)な湘南の海がある。
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ボブ・ディランを見に行く

2023年04月17日 14時10分17秒 | Journal
 昨日、ボブ・ディラン(Bob Dylan、1941‐)の東京公演(東京ガーデンシアター)を見に行った。このブログに前にも書いたと記憶しているが、何年か前にピーター・ポール&マリー(Peter, Paul and Mary)の歌だと思い込んでいた『風に吹かれて(Blowin' in the Wind)』(1963)がボブ・ディランの作詞作曲と知り、その歌いっぷりを聴いて、すっかりファンになったのだが、それ以外の曲は、妙にソフィスティケートされていったというか、訳の分からないものが多く、歌手としての評価は1曲のみにすがりついて、『高校三年生』(1963)の舟木一夫(1944‐)と大して変わらない気がした。ノーベル文学賞(2016)を受賞しても、ファンとして嬉しくはあってもなんだかお門違(かどちが)いの過大評価ではないかと思うこともあった。ところで、昨日、念願だったコンサートへ行って、大枚(たいまい)2万6000円(妻の分を合わせると5万2000円!)のS席で遠目に暗闇の中に鼻も目も口もなく米粒のようにしか見えないボブ・ディランの顔を眼鏡を傾けながら凝視していて、あの顔かたちは慥(たし)かにディランその人だと思うとともに、彼の音楽の何がユニークであるか、少しは分かった気がした。コンサートでの彼は、創造のカオスの中に身を置いて遊ぶように楽しんでいるのだ。観客に向かっての演奏ではない。自分の中心に向かって演奏している。だから、ある意味では、聴衆は彼の一人遊びの音楽から疎外されてしまう。老境に達して、晩年のピカソがそうであったように稚児(ちご)のように自在に自得に自己表現を楽しんでいるのを、外から眺めている父兄一同のようなものである。今やボブ・ディランの楽曲は、単純な音を複雑に絡み合わせて旋律を醸し出す点で、バッハ(Johann Sebastian Bach、1685‐1750)に近づいている。創造の結果である作品ではなくて、作品という結果が生み出される瞬間を再現してみせる域に達している。

 撮影禁止だったのでこれ一枚

 ボブ・ディランで好きなのは『風に吹かれて』以外でも、彼がスタンダードナンバーを歌ったもの、例えば、フランク・シナトラ(Frank Sinatra、1915‐98)の持ち歌『わが人生の九月(The September of My Years)』(1965)は、あの市場のセリ人のような嗄(しゃが)れ声がマッチして秀逸だ。アメリカ・エンターテイメント業界の大御所(おおごしょ)シナトラが歌うと、単に『マイ・ウエイ(My Way)』(1969、原曲はフランスのクロード・フランソワのシャンソン『いつものように(Comme d'habitude)』)の延長線上にある洒落た曲でしかないが、ディランが歌うと深々としたいぶし銀の感慨の曲となる。ああ、つくづくうまいなと思わせてくれる。今回のコンサートでも、曲のニュアンスとしてそうしたうまさが随所に出ていたが、彼はまたそのうまさの露出にも蓋(ふた)をして、ガンガンと喧(やかま)しくわが吟遊詩人の道を模索しているように思えた。隣で、演奏の音響の大きさに耳をふさいで、小生がフォーク歌手と感じてきたディランをロック歌手と認定し「だからロックはうるさくて嫌い」とぶつぶつ嘆いた妻に対しても、もう少し静かに歌い込んでくれるバラード風な楽曲を多くしてもらえると有難かった。とは言え、物価上昇の折、2万6000円の価値は大いに認めたいボブ・ディランのコンサートだったと小生は満足している。7時近くいい加減に年季の入った沢山のロックファンとぞろぞろ場外に出て、有明ガーデンの陳麻婆豆腐を夕飯に食べて、妻の運転する車が橋にさしかかると東京タワーが下の方から浮き出てきて満月とコラボしているような夜景を眺めながら神妙に帰途についた。あのお月さんがディランの顔に見えたのは、多分、この世で小生だけであろう。(4月16日、月はかなり翳っていて満月など見えたはずもないのだが?)

 フランク・シナトラ

 ボブ・ディラン

 ボブ・ディランよ、さようなら

■追記 ボブ・ディランの声について考えていたら、『遠くへ行きたい』(永六輔作詞、中村八大作曲、1962)のジェリー藤尾(1940‐2021)の声を思い出した。彼ら、ディラン、舟木一夫、ジェリー藤尾、やはりあの世代の歌手(の声)には、どこか不良っぽい、ひとりぼっちの暗いやるせない感じが宿っている。品行方正に、『遠くへ行きたい』をダ・カーポで聴き、『風に吹かれて』をピーター・ポール&マリーで聴き、そして、『高校三年生』を岡本敦郎(おかもと・あつお、1924‐2012)で聴くとしたら……。レコード会社は、『高原列車は行く』(1954)を高らかに清く明るく歌って大ヒットさせた岡本敦郎で『高校三年生』をレコーディングしようと当初考えていたが、39歳になる岡本が「高校三年生」を歌うのはまずいといったんはお蔵入りにしたのを舟木のデビュー曲に持ってきたらしい。岡本の朗らかな歌声も聴いてみたかった気がするが、『高校三年生』と言えば、やはり舟木一夫の暗めに少し上ずった声であろう。それやこれら、さて最近は、そんな楽曲にまつわるエピソードを探るのが、一つの面白がり、趣味になっている。これまで長い間に耳にしてきたが、先入観で思い込んでいたのとは違う意外な面も発掘できるし、別の歌手で同じ曲を聴き比べて、曲の本質がよく分かる場合もある。

ジェリー藤尾

岡本敦郎

 ちなみに、岡本敦郎については、亡き母親がファンだったので(グレゴリー・ペックと岡本のプロマイドを持っていたそうだ)、小生も親しみを感じていたが、なんとなく歌手というよりは女学校の気取った先生風であり、その容貌から「ウラナリ」という綽名(あだな)をつけて、テレビの懐メロ番組に彼が登場すると「ウラナリ先生がまた出ている」などと母親をからかったりしたものだ。
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魯迅と范仲淹

2023年02月24日 19時50分51秒 | 雑文
 なんでも魯迅(ろじん、1881‐1936)先生は、生涯に小説集3冊、雑文集17冊、散文詩集1冊、回想記1冊を刊行したそうである。魯迅は『狂人日記』や『阿Q正伝』といった現実の中国社会を批判して画期的なフィクションの書き手、小説家として有名であるが、作家人生の後半は、北京から「政治亡命」した彼は上海に暮らして専(もっぱ)ら雑文ばかり書いていた。然(しか)し、ここで言う魯迅の雑文とは何か?主張性の強い随筆評論と言えるかもしれない。或いは、小説にできなかった時事的政治的文章と言えるかもしれない。小生もできたら小説(正確には日本の伝統にある物語文学のような文芸作品)を書きたいとずっと思ってきたが、その気持ちになって書いているうちに、暫(しばら)くすると、当初の方針が揺らいで、まるで随筆文か評論文のような、或いは魯迅の雑文のような文章になってしまう。理由は幾つかあるが、一つは、調べたことの引用文が多くなって、その分、本文が痩せ細ってもはや小説とは言えなくなってしまう。おまけに筆者は他人(ひと)が書いた文章を咀嚼(そしゃく)して自分のものとしてお利口そうに書くことがどうしてもできないタイプで、他人の文章(考え)は原則、かぎ括弧の「」などに入れて明記したうえで、何らか自分のコメントを拙劣でも愚かでも加えるといった書き方しかできない。それからもう一つは、文章に自分の主観が真っ先に出て、他人の共感を得るようなじっくりした客観的な書き方ができない。然(しか)も、小説としての微細な叙述(ディテールを書き込むこと)が面倒(めんどう)であり苦手でもある。そんなこんなで、理由は違うのだろうが、小説を書かなくなった後半生の魯迅先生のように、このブログでは雑文をもっと書いてみようかと思う。
 考えてみれば、このブログも、その雑文の折々の集積物でしかなかったのだが、今後は雑文たることを余り苦にせずに大いに書こうと考えるに至った次第。それでも問題は残っている。小生がまだ生き永らえている問題である。齢(よわい)六十七の身に一寸先は分からないが、直(す)ぐには死にそうもない。そうなると経年的にたまった塵芥(ちりあくた)は雑文で処理できても、鬱憤は発散できても、一方で、老いの果ての見晴らしが多少よくなったところで消えずに見えてきた一縷(いちる)の創造性の蔓(つる)は、やはり若い頃に考えた創作的な物語(『斑鳩(イカルガ)の旅芸人たち』)まであきらめずにつなげていきたいという望みはある。
 因(ちな)みに、魯迅は「『墓』の後に記す」(1926、竹内好編訳『魯迅評論集』)という雑文に、執念深くこんなことを記している。

 ――私の作品を偏愛する読者は、よく私の文学が真実を書いていると批評する。しかしそれは、褒(ほ)めすぎである。偏愛による褒めすぎである。私はむろん、そう人をだまそうと思っているわけではない。だが、心に思うことをそのとおり言いつくした覚えは一度もない。たいていは、もうこれくらいでいいと思うところで筆をおく。たしかに他人を解剖することも、ないことはなかったが、より多くは、より苛酷に自分を解剖することであった。少し発表しただけで、ひどく温暖ずきな連中は、もう冷酷だといった。もしも私の血肉を全部露出したら、末路はいったい、どうなるだろう。また、こんなことも考える。こうして他人を駆除していって、そのときになっても、なお私は見棄てぬものは、梟蛇鬼怪(きょうだきかい)といえども私の友である。それだけが真の私の友である。万一、それさえないならば、自分はひとりでもかまわぬ。だが今は、そうでない。私はまだそれほど勇敢でないから。その原因は、私がまだ生きたい、この社会に生きていたいからである。もうひとつ、小さな理由がある。前にもしばしば言明したように、いわゆる正人君子のやからに、少しでも多く不愉快な日を過ごさせたいために、ことさらに自分が若干の鉄甲を身にまとい、立ちつくし、かれらの世界にそれだけ多くの欠陥を加えてやりたいからである。私自身がそれにあき、脱ぎ棄てたくなる日の来るまでは。

 考え深い仁宋皇帝と毅然とした皇后(互いへの愛情があってもボタンのかけ違いで気持ちがすれ違う夫婦であったが……)
 
 コロナもあって家に引きこもっていた中で、中国のテレビ時代劇を大部観(み)た。日に3作、3年間でざっと15から20作ぐらい観たか。優れたドラマもかなりあったが、いま観ている『孤城閉』(2020)という北宋の仁宋皇帝(1010‐63)とその皇后を描いた作品は、日本の大河ドラマなどと比べても映画のような映像美、描写の重厚さ完成度において頭二つぐらい抜きん出ている。ドラマのあらすじや役者の演技などについてはインターネット上に紹介もいろいろあるので割愛するが、北京出身の妻によれば、俳優たちの北京語は素晴らしいもので普通ではないレベルらしい。慥(たし)かに、テレビドラマと言うよりは名優たちによるしんみりとした舞台芝居を観ているような錯覚にとらえられる。さて、ここではドラマでも決して妥協しない自己の主張に反駁(はんばく)されることを恐れない正義の官僚としてユニークな存在感を出している范仲淹(はんちゅうえん)(989‐1052)という文人政治家に関連して、少し記しておきたい。何故(なぜ)なら、多分、文人に容赦しない苛烈な魯迅が北宋の時代に生きていたならば或いは范仲淹のようになっていたであろうし、政敵に容赦しない苛烈な范仲淹が19‐20世紀の中国に生きていれば或いは魯迅になっていたかもしれないと思うからである。

 范仲淹 (写真をクリックすると拡大)
 上海の魯迅、バーナード・ショー、蔡元培

 なお、随分(ずいぶん)前の本ブログ(2006.4.29.)に、以下のような記事がある。
 ――講演会の取材が終って、まだ日が残っていたので、小石川後楽園の寄った。大人一般300円の入園料。
 ここは、寛永6年(1629年)、水戸徳川家の祖、頼房(よりふさ)が、その中屋敷(のち上屋敷)として造ったものを、二代藩主の光圀(みつくに、黄門さま)が庭園として完成させた。
 庭園の様式は、回遊式築山泉水庭。明の遺臣、朱舜水の意見を用い、円月橋や西湖堤など中国の風物を採り入れた。「後楽園」の園名も、舜水が中国の『岳陽楼記』の一節にある「(士はまさに)天下の憂(うれい)に先だって憂い、天下の楽(たのしみ)に後れて楽しむ」から命名した。

 後先なく春の憂い後楽園  頓休

 この記事には触れていなかったが、「後楽園」の名の由来である『岳陽楼記』という詩賦を詠んだのは、誰あろう范仲淹であった。范は、湖南省に左遷された知人に依頼されて、見たこともない洞庭湖の東北端に建つ岳陽楼(がくようろう)の詩賦(しふ)として『岳陽樓記』(1046)を詠んだのであるが、その知人から贈られた洞庭湖の画(え)を参考に詠(よ)んだものらしい。当時、范も河南に左遷されており、真に優れた人物は見る物や私情に左右されず天下を憂うことが第一だとの気概を詩に盛った。「後楽園」とは、詩の「先天下之憂而憂、後天下之樂而樂歟」に因(ちな)む。范は、仁宗皇帝(1010‐63)の治下、余剰な官僚・余剰な兵士「冗官(じょうかん)・冗兵(じょうへい)」の整理など行政改革に辣腕(らつわん)を振るったが、実力者の宰相・呂夷簡(りょいかん)(979‐1044)に抗論して左遷されるなど苦節があっても、その言説は一貫して天下を論じて曲げず、支配階級になった士大夫(したいふ)(科挙官僚)の気節を奮(ふる)い立たせるものであった。

 岳陽楼

 嗟夫。予嘗求古仁人之心、 
  (嗟(ああ)、予(よ)、嘗(かつ)て古(いにしえ)の仁人(じんじん)の心(しん)を求むるに、)
 或異二者之為、何哉。
  (或(あるい)は二者(にしゃ)の為(しわざ)に異なるは何(なん)ぞや。)
 不以物喜、不以己悲。
  (物(もの)を以(もっ)て喜ばず、己(おのれ)を以(もっ)て悲しまず。)
 居廟堂之高、則憂其民、
  (廟堂(びょうどう)の高きに居りては、則(すなわ)ちその民(たみ)を憂(うれ)ひ、)
 處江湖之遠、則憂其君。
  (江湖(こうこ)の遠(とお)きに処(お)りては則(すなわ)ちその君(きみ)を憂(うれ)う。)
 是進亦憂、退亦憂。 
  (これ進むも亦(また)憂ひ、退(しりぞ)くも亦た憂うるなり。)
 然則何時而樂耶。  
  (然(しか)らば則(すなわ)ち何(いず)れの時に楽しまんや。)
 其必曰「先天下之憂而憂、後天下之樂而樂歟」。 
  (それ必ず「天下の憂ひに先んじて憂ひ天下の楽しみに後れて楽しむ」と曰(い)はんか。)
 噫、微斯人、吾誰與歸。  
  (噫(ああ)、この人(ひと)微(な)かりせば、吾(われ)誰(だれ)にか帰(き)せんや)
                                                 ――『岳陽樓記』より






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月見がてらに糞をしていったハクビシン

2022年11月20日 12時20分31秒 | Journal
 先日の皆既月蝕(11月8日)の当夜のことだったか定かでないが、ここ王禅寺の古い主(ぬし)ハクビシンが我が庭にやってきて、芝生の上に糞を垂れて行った。この毎度の糞に嫌気がさしていた小生は、毎朝、コーヒーを飲んだ後、ハクビシンが嫌悪するという煎れたコーヒー豆の残滓(ざんし)を芝に撒くのを日課としているが、綺麗だと皆が言う地球の日陰者になった哀れな月を求めてスマホを手に近所を歩いた夜が明けて、家の庭の芝の上にまたも丸々とトグロヲ巻いた糞を見つけた。ハクビシンは乙(おつ)にも月見に野糞をしたのである。さぞ気持ちが良かったであろう。糞に顔を近づけシャベルで処理して、「今回の糞は、臭いのなんの」と鼻をつまんで家へ入ったら、妻がコーヒー滓の効果を疑ってインターネットで唐辛子エキス入りの「ハクビシンよグッバイ」なる忌避剤を取り寄せてくれた。それを撒くとき、頻りとくしゃみが出た。成程、唐辛子である。



 ところで、秋も深まり、我が家の丸葉とかカツラの樹々もすっかり紅葉を深め風に散り始めている。カツラの幹を隠していた葉がなくなってあらわになったところを眺めると、小鳥の巣のようなものが引っ掛かっている。はじめはハチの巣ではないかと疑ったが、特に周囲にハチを見かけないので、鳥のものであろう。しかし、この木に止まる鳥もそう見かけないので、空き家になって久しいのかもしれない。








 昨日(11月25日)、植木屋さんが入って庭木の剪定をしてもらった。すっきりさっぱり淋しくなった。
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映画『カルメン故郷に帰る』の浅間山を眺める

2022年08月04日 11時41分52秒 | Journal
 昨日まで二泊三日で軽井沢へ行ってきた。コロナ禍もあって旅行は久しぶりである。軽井沢行きは二度目であり、行く前から観光では浅間山を見るぐらいしか思い浮かばなかった。泊まったマリオットホテルがある中軽井沢から146号線で北上し途中から有料の鬼押ハイウエーとかで浅間山が一望できる展望地「鬼押出し園」までドライブした。駐車場に車を止め、軽井沢にしてはカンカンとした強い日差しに辟易(へきえき)しながら園に入ると、ここは溶岩がごろごろしていて少し興醒(きょうざ)めだったが、雄大な浅間山の迫力がある風景を眺めることはできた。





 この浅間山を眺めていて、子供のころテレビで観た『カルメン故郷に帰る』(1951)という木下惠介監督、高峰秀子主演の映画を思い出した。あの映画の背景にあった山は、この浅間山に違いないと。白黒テレビで観たから総天然色であったわけはないのだが、何故か、鮮やかなカラーフィルムとして記憶に残っているのも不思議。





 映画の中の軽井沢の村人同様、小生も子供心に東京から帰郷したストリッパー(高峰秀子)の圧倒的な明るさに圧倒されたものだ。メリナ・メルクーリ主演のギリシア映画『日曜はダメよ』(1960)に匹敵する天衣無縫(てんいむほう)な明るさである。差別とか何かと社会的な慮(おもんばか)りで今どき表現が難しくなってしまった明るさである。山田洋次監督のハナ肇主演『馬鹿まるだし』(1964)や柴又の団子屋の裏手にある印刷工場の職工を「労働者諸君」と小馬鹿にした初期の「寅さん」の的屋風(てきやふう)なセリフ、田舎者の意地の悪さを散々に揶揄(やゆ)した漱石の『坊つちゃん』にも、そして、魯迅の『阿Q正伝』にもこうした明るさがあった。いずれも常識外、規格外、社会のはみだしものが主人公である。迫害にめげない明るさだけが生きる力になっている。映画の舞台となった浅間山もこの手の屈強な明るさをあらわにした変った山である。

 『日曜はダメよ』


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母親の一周忌

2022年02月24日 21時39分42秒 | Journal
 早いものでと月並みに書くべきか分らないが、昨年の2月23日に亡くなった母親の一周忌で昨日、厚木の墓に行ってきた。浄土真宗の坊さんの読経を聞きながら、空を見上げていた。鳥が上空をゆったり旋回していた。鳶(とび)だろうと思っていたら、「ピーヒョロロッロッロ」と笛(ふえ)を吹くでなく「カーカー」と鳴いたので、なんだカラスがトンビを真似(まね)てやがると思った。子規が「うらゝかになりぬ舞ふ鳶鳴く鴉(からす)」と詰まらない句を詠んだのは、このことかと変に納得した。その墓石に置かれた母親の写真が、煮え切らないでいつまでもはっきりしない頭を持て余している息子を、浜っ子の気っ風(ぷ)のままに様(ざま)あないと見やってニヤリと笑っていた。母親は施設の色紙に「悪いわねぇ、昔はサッサとできたのに、今じゃ気持ちがスタコラサッサ」と書くような人だった。母親の墓前で息子は「なんでェ、鳶が鷹を産まないから、この体たらくだい!」と啖呵(たんか)に威勢(いせい)よく言ってやれなかったのが残念だ。いまだに、母親の死については自分に過失があったのではないかと責任を感じている。母親は、施設でハンガーストライキをしていた時点で、もう十分と余命は望んでいなかったのだ。入院先で余計な延命をさせた挙句(あげく)、コロナで死なせたのは、やはり自分の浅はかな考えの所為(せい)であったかと疑っている。肺炎で苦しそうだったから、栄養を補給して少し息が楽になってから、できれば老衰で死なせてあげたいと考えたわけだが、こうした一見尤(もっと)もらしい思考法も自分自身が「死ぬ」ということをまともに考えてこなかった証(あかし)だったかもしれない。

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母親の骨葬

2021年03月04日 17時36分05秒 | Journal
 母親の遺体は、火葬にしてから祭壇に祀(まつ)る骨葬となった。斎場の火葬場では、髑髏(しゃれこうべ)と言うには余りに少量までカランカランに徹底して乾燥され、鉄板に横たわった骨は粉末にいたるまで鉄板焼きで使うような金属の箆(へら)で馬鹿丁寧に搔き集められて骨壺に収納された。それでも、何となくその鉄板上の髑髏に親しみというか母親らしさを感じた。最初に骨を会葬者二人で箸の先につまんで壺に入れる。フェースシールドをした太った係の人は、下半身の骨を壺へ先に入れるとゴリゴリと押し潰すように棒で乱暴に押し込んでから(実際、骨が粉砕する音がした)、上半身分を入れ、さらに頭蓋骨を一々、「これは喉仏です」「これは側頭部ですね」「これは頭頂部です」と紹介しながら納め終わり、4名の参列者一同で合掌した。翌朝、セレモニーホールに骨を運んで、浄土真宗の坊さんがありがたいお経を長く読んでくれたが、結論としては、人の一生の理(ことわり)は諸行無常で虚しいだけ、兎(と)にも角(かく)にも南無阿弥陀仏であった。母親は、こうして生涯を正式に閉じた。生前、強がって明るい顔をみせてきた母親を思うと、こんなことかと気の毒で気持ちが真っ暗になる。

 四十九日まで実家の床の間が仮の宿となる。

 遺影は10年前にグループホームで小生が撮った写真を使った。

◆追伸 新聞を読んでいたら新型コロナ感染で死んだ人間の遺骸は病院から「納体袋(ボディバック)」に入れたまま運ばれて火葬されるとあった。一応、火葬場では粗末な棺に入れられていたが、その中はこの非透過性のビニール袋で、母親はそんな完全密封の寝袋に入ったままだったのだ。それが死んだ母親にとって特段嫌なことだったとは思わない。しかし、木の箱に入ってあっちこっち連れまわされるのと、ビニール袋に入って荷物のように運ばれるのとでは、取扱いが違う。この世の最期にしては不当な扱いだ。インターネットを調べていると、「新型コロナウイルスにより亡くなられた方の遺体の取扱いについて」とするお役所文書が、地域医療課食品生活衛生課から出ているのは、ひどくがっかりさせる。そりゃ、あんまりじゃないか!

 12年前の母親「おや、まあ」と言いそうだ。(座間谷戸山公園にて)
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梅と桜を同時に見る。母親の病態、そして死

2021年02月22日 14時35分47秒 | Journal
 昨日の日が落ちる前、妻と散歩がてらに王禅寺ふるさと公園に出かけると、紅白の梅が満開と咲いていた。それは納得と仰(あお)ぎ見ながら枝の下を通り抜けると、梅よりは明るい花が咲く木々が見えてくる。近づくと、どうも桜である。河津桜というのは伊豆で見たが、早咲きの河津かと思って眺めていると、樹の幹に「玉縄桜」と掲示がある。ソメイヨシノの早咲き品種らしい。満開の梅に続いて桜の咲くを同時と見て、それで幸福感が増したかというと、そうでもない。今日、母親の入院する病院に電話をかけると、母親は特に目立った高熱が出るでもなく(37度7分以下)、肺炎の兆候があるでもなく(抗生物質は投与している)、症状は小康しているようだが、痰が多く、尿量が極端に少ないのが心配だと看護師は話した。尿が少なくなり、血圧に異常(低下)が出ると、呼吸に問題が起きるという。インターネットで「尿量、血圧、呼吸」を検索すると、「脳や腎臓への血液供給が不十分なことから、意識障害や尿量の減少が起こる」ということが分かった。母親の意識は、どこにあるのか。看護師によると、2月9日にPCR検査で陽性となったが、10日以上たち72時間以内にコロナの症状がなければ、再検査しないのが厚労省の方針だそうだ。母親は、コロナから回復(寛解)したと言えるのか、死ぬのならばまだコロナ死なのか、そもそも分からない。ともかく、自宅待機だった職員も徐々に職場復帰し、明日、明後日からコロナで閉鎖された病棟を徐々に開放する話になっている。おしっこが思うように出ないで病室のベットに大概とかたく目を瞑(つぶ)っている母親が、朦朧(もうろう)とも夢でもふと薄目(うすめ)を開けて、病院の白い天井を日差しが落ちてくる澄み渡って広く青い空にして枝先の梅と桜を今生(こんじょう)の目出度(めでた)さと垣間(かいま)見ることができるか、それが問題だ。

 梅の花

 桜の花

 母親は、大正12年(1923)の春3月に生れたので名を「はる」という。その年の関東大震災では、ぐらぐら来ると、愛知に住んでいた母親の母親が、赤ん坊の母親をおぶって大きな空鍋(からなべ)を持って家の外に飛び出したそうである。

   陽だまりに梅と桜が手向けなり  頓休

◆追伸 今日2月23日の天皇誕生日の日の午前8時50分、母親は永眠した。享年97。病院からの電話では、8時30分頃から急に酸素飽和度が低下し、呼吸状態も弱くなり、静かに安らかに死んだそうだ。コロナ関連死なので業者によって火葬にされてから遺骨は遺族に引き渡される。コロナ関連死ということでは、新型コロナが猛威をふるいだした1年前から、老人施設で徐々に食事をとらなくなった母親は、骨ばかりと衰弱して、誤嚥性肺炎もあって病院に入院した。自分とは大して関係ないような今回のコロナ禍だったが、最後になって、コロナで母親を失った感じがする。ここ数カ月、点滴のみで余命を永らえていたので、そうした寝たきり状態で余り長くならずに死ねたのは本人にとっても幸いだったと思う。
 ちなみに、母親の遺体は、業者に引き取られて、火葬があるまで、わざわざ東京の阿佐ヶ谷の死体安置所まで運ばれていくそうだ。そこでしか、コロナ関連の死体管理ができない由(よし)。場所は明らかにされないが、グーグルの地図で見れば、小生が幼少期に住んだ中野や杉並にも近い場所と思える。多分、霊柩車に乗せられて、母親は国道246号(?)を通って多摩川を渡り、かつて家族で住んだ場所に連れていかれるのだから、それもありかと考えることにした。


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E.T.になった母

2021年01月07日 14時15分01秒 | Journal
 一昨日の火曜日、相模大野の病院に母親を見舞った。と言っても、コロナ禍だから「オンライン面会」というリモート形式である。階ごとに週1回のオンライン面会日が決まっており、母親は3階に病室があるので毎週火曜日の午後2時30分から1時間の間に割り当てられている。前日に39度の高熱だったので(そのときは尿路感染によるといった説明だった)、面会できるか分からなかったが、自宅近くの神社で買った病気平癒のお守りを渡したくて出かけた。体温は平熱近く36.7度まで下がったとかで、玄関わきのブースでオンライン面会が実現した。入院して以来、はじめて母親の顔を見る。パソコンの画面越しに見た印象は「母親はE.T.になったな」というものだった。「E.T.」とは、The Extra-Terrestrial(地球外生命体)のことで、スピルバーグの映画(1982)のタイトルになっている。つまり、人工的に栄養を補給していなければ、母親は最早(もはや)、この世(=地球)の人ではなかった可能性が高く、いわば、E.T.、地上の人間事に先入観のない無垢(むく)な「宇宙人」である。顏の上、数十センチにかざされたタブレットの中に映る人物が「お守りを持ってきたよ。気をせいぜい楽にしてね」などと話しかけてくるのを、碧(あお)い瞳に、これは果たして何某かと不思議そうに見返しているのである。
 映画『E.T.』から

 そこで一つ分かったことがある。これまで父親の死(遺骸)の印象から、死ぬとは、結局、生命体が収縮して石(ただの物質)に戻ることだとの観念を持ってきた。母親の今を見て、死ぬとは、石は石でも宇宙からの石に戻ることだと分かった。地球で、生命が育(はぐく)まれ、人間もできたわけだが、それは地球という制約条件の中での出来事。死ぬと、その制約条件から解き放たれて、物的にも、もしかして精神的にも、宇宙に還(かえ)ってしまうのだ。それが良いことなのか悪いことなのか、幸か不幸か、それは分からない。
 ここまで書いていると、兄から電話があった。病院の医者が、病状説明の中で母親の体温は年初来高低があっても高めで推移しており(中心静脈点滴での感染の可能性が加わる)、こうした状態が1週間続くと、ストレスが蓄積されて、何が起きるか分からない、親族にも知らせておいたほうがいいといった趣旨の話をしていたそうだ。E.T.となった母とのお別れも近いのかもしれない。月にも届かぬ地球の言葉で何が適切なのか、考えても思っても、取り乱してひどく情けなくとも、白髪の老人が「お母さん」としか、とても出てきそうにもない。


◆追伸1 昨日(12日)は火曜日で、母親のところへオンライン面談に行こうと、体調が可能かどうか午前中に病院へ電話を入れると、緊急事態宣言が出たのでオンライン面会は休止にしたという。仕方ないので3階のナースステーションに電話を回してもらって、母親の状況を尋ねると、中心静脈のカテーテル挿入位置を変えて、熱も下がり、血圧も正常になったと言う。声をかけると反応もあるらしい。「それでは、母親の体調は安定しているということでしょうか?」と質問すると、それは医師でないから答えられないと、診断にかかわることは判然としない。ともかく、高熱は中心静脈カテーテルからの感染だと考えられることが分かった。このことは、入院時にも、医者に懸念を質問して、それほど心配ないようなことを言われていたので、現実にはそんなことはなかった、やはりな、と思った。今は、母親の年齢の人がコロナに感染して、重症化し、どんどん亡くなっていく。それに比べて血管に挿入される栄養に延命している母親はまだしも「幸運」なのかもしれない。しかし、片道のロケットに乗せられて、無限の宇宙空間へ放り出されてしまったような絶望感はないのか、さぞかし心細かろうと思う。

◆追伸2 今日(2月9日)の夕方、病院から電話がかかってきて、院内で新型コロナが発生し、職員3人と患者10人がPCR検査の結果、プラス、感染が判明し、その中に母親も含まれていたという。返す言葉を失う。「クラスターですね」とだけ短く語気強く確認する。今のところ熱も出てないようだが、急変し重篤化するのがコロナだから、先は見えない。人工呼吸器は付けないことになっているが、コロナの場合、どうするのか、アビガンとか薬はどうするのか、と訊ねる。人工呼吸をするならば、転院しかないが、今はこういう状況だから難しいと看護師は曖昧に答えた。コロナ患者を受け入れている病院が高齢者に処方するような薬があれば、せめて投与できないか、医者に話してくれと依頼して、電話を切る。ワクチン接種が来週から医療関係者に始まるという。どうも母親にとっては遅すぎた話になった。
 家の庭に、秋に種を撒(ま)いたきり冬中ほとんど水をやらなかった所為(せい)で成長不足の菜の花が小さく咲いている。こうした花でも母親に手向(たむ)けるしか今はないのだ。宇宙の石になっても、地上のこうした小さな花はやはりいじらしく美しく懐かしく見えるだろう。


 その昔、蕪村が芭蕉を慕って、金福寺に芭蕉庵を再興したことがある(1776年)。

    菜の花を墓に手向けん金福寺 蕪村
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療養型病院に母親を運び入れて

2020年12月04日 14時29分05秒 | Journal
 これまで母親が入っている病院(急性期病院)から療養型病院へ転院する必要があることから、2つの病院を訪ねて、面談を済ませた。1つは、新百合ヶ丘の家に近い小高い丘の上にあるうような静かな病院。もう1つは南林間の実家により近い駅のロータリーに隣接した便利な病院。丘の上の病院は、待合室もホテルのロビーのような明るい雰囲気があり、良い感じだったが、引っかかったのは病院なのにコロナ対策が皆無なところ。一応、入院予約をとっておいたが、もう一つの駅近の病院を見てから決めることにした。その病院を兄と訪ねると、玄関で検温をし、その体温や健康状態などシートに書き込み、中に入っても消毒液が置いてあるなど普通にコロナ対策はしている。丘の上に比べると、古くて薄暗い待合室である。60年も前、中野に暮らした幼い頃、小さな川を挟んで「組合病院」があったが、その病院は今も古ぼけたままほぼそのままにあり、なんとなくあの「組合病院」のことを思い出す。父親が結核の自分の母親をおんぶして小さな橋を渡って病院に入院させた様子を幼心にも記憶している。また、小生にしても、病院に日参しては待合室で患者さんや看護婦・医者を前に一種の「演芸会」を披露していたようだ。それで、少々、薄暗くて薄汚い病院が妙に懐かしくなる。
 結局、後者の駅近の病院にした。昨日午前中に、中央林間の病院から転院先の相模大野の病院まで救急車で母親を運んでもらった。20分ぐらいのドライブ。多分、コロナ禍が去らない限り、この搬送の間と病院に着いてから病室に移ってからまでぐらいしか、母親を見ることはもうあるまいと思うので、今生(こんじょう)のお別れと救急車に兄と妻と同乗した。本人は、中心静脈栄養のお蔭か、前よりは顔色もよく、そう苦しそうな表情もなかった。午後から担当医との面談もあって、CT検査や血液検査の結果から、やや脂肪肝ぽく肝機能が少し悪いとか、心臓や脾臓は少し肥大しているとか、内臓下垂の傾向があるとか、小さな発疹があるが薬の副作用かもしれないとか、脳は年相応だが、前頭葉に少し萎縮が見られるが、14年前の硬膜下血腫の跡は奇麗になくなっているとか、いろいろ話があった。概ね栄養も足りた状態で、データも「少し悪い」ばかりで致命的なものはなく、すぐに死んでしまうような印象は受けなかった。脳のCT画像を眺めながら「お母さんは男性的な脳をしている」と医者が妙な感想を述べたので、「中身よ 中身」の母親の性格をふと思い出した。最後に、DNR(蘇生処置拒否)について確認した。医者は「転院して2カ月ぐらいは、環境が変わって急変することもあるから要注意期間です」と念を押すことを忘れなかった。それから思ったよりも日差しも燦燦(さんさん)と入って明るい病室を訪ね、4人部屋の窓側に寝ていた母親に「お母さん、また来るね」と呼びかけると、母親が入れ歯のない口で大層嬉しそうに必死になって笑い返してくれた。病室では、各患者の脇に置かれた4台のテレビがつけっぱなしになっている。人間の聴覚を刺激するためらしい。母親は、民放よりもNHKの方がいいと看護の方に言っておくのをつい忘れて帰って来た。



 家に帰って、丸葉の葉が大方、芝生に落ちている様を眺め、家の中に入って母親が以前、新聞紙で作った2体の西洋人形を眺めた。この人形はいつ首がポキンと崩れ落ちてもおかしくないほど弱くなっている。そのうち、顏が自然落下して、何十年も前に敦煌(とんこう)で買ってきたお釈迦様の丸髷(まるまげ)の頭にぶち当たるかもしれない。



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「中身よ 中身よ 形より 中身よ」母親の口癖

2020年10月27日 21時42分58秒 | Journal
 今日、母親の写真を集めたフォルダを見ていたら、「中身よ 中身よ 形より 中身よ」という言葉が書き込まれたノートブックの写真が目に留まった。こんなのも口癖だったなと思い出しながら、この口癖の対象が主(おも)に自分だったことも思い出した。最近は、真似(まね)しているのか妻にもよく同じことを言われるが、小生は何を言っていると穴があいたような空疎(くうそ)な顔を向けるだけである。大して中身がないことは自分でも気が付いている。どちらかと言えば、「中身より 形よ」で生きて来た気がする。

 2010年頃

 2012年の母親

 近頃は、母親のこともあって、家の庭を撮ってもちっとも面白いとも奇麗とも感じなくなっている。





◆追伸 今日10月29日に、医師との面会予約のために病院へ電話をかけ、ついでに看護師に母親の様子を聞くと、1週間ほど前は40度近くあった熱も下がり、日中は話をすることもあるという。26日から行っている中心静脈栄養の効果が少し出ているのかなと思う。
◆追伸 今日11月2日、病院へ行く。医師から母親の容体に特に変わりはないと告げられる。良いようなものだが、余り良くもなかった。吸引痰の細菌学検査でMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)、つまり抗生物質が効かない耐性菌が検出されたという。次に、肺炎になったら多分、命取りになると告げられる。中心静脈栄養で日に1000キロカロリーの栄養を摂取している。今の母親にはこれで十分という。普通の点滴(末梢静脈栄養)の上限が同じ1000キロカロリーだから、そんなに多くない。胃瘻は手術が必要になるし、母親にとっては苦痛なだけだとすすめられなかった。ここは急性期病院だから病状が安定するといずれ出なければならず、医者との面談が終わると相談員と療養型病院へ転院する話をして帰ってくる。中心静脈で少し元気になって、また口から食べられるようになるかと期待していたから落胆が大きい。誤嚥性肺炎のリスクもあり、今はもう口から食べる訓練はしていないそうだ。栄養的観点から見ても、母親は、良くて現状維持か、いよいよ末細りの命運になってしまった。ベッドに寝る母親の顔は、10日前よりは安らかだった。死神はまだワイワイガヤガヤと騒がしくなっていないようだ。あの劇作家シェークスピアならば、母親のこういう状況をうまく書けるだろうが、小生には難しい。そのシェークスピア自身は、腐ったニシンを食べて感染症で52歳の生涯を閉じている。人間は、食べられなくなって死ぬが、食べて死ぬこともある。母親の中心静脈栄養をこれからどうするか、医者に「今からでも栄養補給を止めることはできるか?」と尋ねると、簡単に「今の点滴(中心静脈)の栄養をなくし、脱水症状だけ防止すればいい」と説明された。「中身よ 中身よ 形より 中身よ」というのは、威勢の良い啖呵(たんか)か、どうしても舞台上の捨て台詞(ぜりふ)に聞こえる。横浜の材木屋の娘だった母親の鯔背(いなせ)な口上だ。こうした粋(いき)に応える術(すべ)を持たない息子は、「命の中身」が分からなくてただもたもたしている。

 シェークスピア  シェークスピアの終の棲家
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母親の生命力と延命措置、岡本太郎のオブジェ

2020年10月23日 20時58分39秒 | Journal
 昨日、母親が入院する病院へ行き、医者に話を聞いた。炎症度を示すCRPが10日前は17あったものが1になるなど、肺炎が治りかけている。胸のレントゲン写真を見ても、白い雲がかなり晴れて黒い領域が大勢を占めるようになっている。医者によれば、何らかの菌がまだ残っているので結核菌を疑って検査してみると、結核菌ではなく「非結核性抗酸菌」であると判明した。咳や痰が続くが、他人に移す危険はなく、風邪のような症状があっても、すぐに命にかかわることはないようだ。高齢の母親の場合、この菌を殺すための治療は必要なかろうということだった。
 肺炎が治(おさ)まりつつあると知って、「人工呼吸はしない」方針だという話も言い出す機会を失った。ただ、今のように点滴で細々と栄養を体内に入れていても(この時点で入院して20日近く経過、点滴での栄養補給はせいぜい10日程度が目安らしい)、数週間後といずれ持たなくなるという。選択肢は、①そのまま点滴を続ける(1カ月内外で終末を迎える可能性が高い)、あるいは点滴以上の栄養を注入する手段として、②中心静脈栄養、③胃瘻(いろう)がある。実は、第4のオプションとして⓪点滴を止めるというのもあるが(医師も特に言及しなかった)、昨日の段階では考えつかなかったし、昨日来た家族の中で小生が先導してしまった所為(せい)もあるが兄2人と孫2人を交えた話し合いでも話題にならなかった。小生としては、②の中心静脈が現代医学を使って苦痛もなく母親の寿命を少し延伸できる選択肢に思えると話し、他の参加者も同意した。そこで、兄が医者から渡された中心静脈を望む同意書のようなものを出すことになった。
 しかし、家に帰ってから段々迷いが出て、今日になって、インターネットで調べてみると、中心静脈と胃瘻の差も「延命措置」という意味では大差がなく、中心静脈は、口から栄養がとれなくなって寿命が尽きかけている人間の命を心臓に近い太い静脈へ高カロリー輸液を注入することで心臓から血液とともに動脈を通じて全身に栄養分を循環させ人工的に引き延ばすことであり、しかも感染症のリスクに加え、栄養分が過多になる傾向があり、かなり無理がある(身体に負担がある)やり方だと理解する。肺炎を治すために抗生剤を投与するのは明白に医療行為だが、栄養を補給するのは必ずしも医療行為ではないかもしれない。自然に眠るように死なせてあげるには、いっそう点滴も止めて何も延命措置を取らないのが確実な方法だと知る。そうすると、人間は徐々に死ぬための肉体の整理を進め、数週間でそんなに苦しみもなく死に至るそうだ。そう分かると、急いで兄に電話をかけた。すると、今、病院に同意書を提出して帰ってきたところだという。
 おそらく、まだ書類を出していないと言われても、では、中心静脈を止めて、できれば、点滴も止めて、母親を安楽死させようとは兄に対して即座に提案できなかったのではないかと思う。そう言うには、まだ躊躇するものがあった。母親の生きる意志は分からないにしても、たまさか効く抗生剤があったにしても、肺炎が治りかけている事実が、母親にはまだ僅(わず)かでも生命力が残っていることを暗示しているように思われ、それに早めにストップをかける権利(判断する根拠)は自分にはないと思えてくるからだ。施設で短冊に書いた「今じゃ気持ちが スタコラサッサ」という表明が、実際の死に際しての母親の気持ちと本当に言えるのか、そこが分からなくなってくる。
 1カ月以上前、車で20分ほどの生田緑地にある川崎市岡本太郎美術館で見た奇妙な形のオブジェに感じた、死の世界を覗(のぞ)き込んでいるようなグロテスクで逞(たくま)しい生命力が母親の中にもまだ残り火のように残っているかもしれない。この進化の過程でありとあらゆる生命に本能として巣食う怪獣に、餌(えさ)をやるべきか、餌を与えずに動かなくなるまで衰弱させるべきか。文明の利便性や科学技術にすっかり侵(おか)された鈍(にぶ)い頭では優柔不断にも、きっぱり判断できないでいる。「自分で食べられなくなれば、人間はおしまい」とは、医学的延命に対する警鐘のように理(ことわり)のように耳に入ってくる言葉だが、生きることと死ぬことの間にある分厚い壁を人一人通過するだけの穴が突貫(とっかん)であくのをじっと見守るのに、この言葉だけでは納得性が足りない、まだ心もとない気がする。

 岡本太郎美術館

母親の顔(2012)

 入院後、母親の血を2、3日ごとに採取した検査時系列情報には「97歳6ヶ月」との記載がある。当然、戦中世代で、娘の頃は、大空襲の中、狭く暗い防空壕で昼夜を暮らすこともあった。戦後も食べるものを得るために横浜から厚木辺りの山間部へ一人買い出しに出かけた話はよく聞いた。「飢餓(きが)」体験は母親の中に深く刻まれている筈(はず)である。小生には、それがまったくない。戦争もなく経済成長が主流を占める60余年、大して働かずとも餓(う)えずにのうのうと生きてきた。その息子が、今、死に瀕(ひん)している母親に「飢餓」を再度与えるかどうかで、21世紀の文明がどうの科学がどうのと迷っているのである。母親は餓鬼(がき)のような有様で病床に寝ているのに、である。こう考えると、何処(どこ)まで行っても太平な世の呑気(のんき)なような話になってしまう。母親は餓鬼(がき)の形相(ぎょうそう)で病床に寝ているのに、である。
 多分、その母親も心の中で、エンドレスに右往左往(うおうさおう)ばかりしている息子を苦笑しているであろうし、馬鹿息子に苛立(いらだ)って、好い加減早くさっさと決断せんかい、と喝(かつ)を入れたいと思っているであろう。息子は大抵こんなものであり、娘は母親に対してもっと果敢な同調者であるとも聞く。
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