Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

明治座の山本周五郎作と菊川怜さん

2005年06月28日 07時05分21秒 | Journal
昨日、昼前に、水天宮近辺で取材を終え、人形町の甘酒横丁をぶらぶら、いつもは途中で引き返すが、ずっと行くと明治座があると思い、数百メートル歩くと、交差点があり、向こう側に高いビル。一階に出し物の時代劇のポスターがあるので、そこが明治座と知る。最近、東京で新装する劇場はみんな高層ビルの中にできる。高層化・多目的化し、投資効率を上げようというのだ。劇場らしい建物を期待する人間には無粋と映る。やはり歌舞伎座のような芝居小屋風がいい。建物が見えてくるとワクワクドキドキがなければ、芝居じゃないだろう。
交差点を渡りながら、近づくと、山本周五郎の「五弁の椿」を上演していると分かる。主演は菊川怜さん。言うまでもなく東大工学部建築学科(コンクリート工学)出身の才媛。東大卒である程度美形だと「才媛」にしておくが、世の慣わしなり。しかし、その才媛が、学校も大していっていない文壇嫌いのへそ曲がり周五郎の作品で初座長をはっているのは面白い。ポスターにいかにも気が強そうな菊川さんの表情が出ている。周五郎が好んで描いた芯があり凛とした江戸の女、それを現代娘に移すと、菊川さんみたいな女性になるのかと、無理に納得した。
しかし、「五弁の椿」を読んだに違いないが、どうしても筋を思い出せない。読んだのに違いないとは、周五郎の時代ものは100%近く、20代に読んだから、そう確信できるのだ。その後、藤沢周平につないで、司馬遼太郎をところどころ挟んで、私の時代小説読みは終わった。学卒後のサラリーマン時代に、江戸時代の話ばかり読んでいたというのは、今から考えると変な感じがする。若い頃、今より現代不適応だった。


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日本橋消防署の火事探索ロボット

2005年06月26日 09時20分03秒 | Journal
会社のそばに日本橋消防署がある。
ここで珍しい消防士の訓練風景を眺めるのは、楽しい。
消防士さんというのは、今もなんとなく鳶(とび)職人の気質を受け継いでおり、キビキビと身体が動き、表情も快活なところがある。火事場で命をさらす者の機敏さと明るさか。
金曜日の昼頃だったか、社を出て、道路を渡った坂本町公園を抜けて署の裏側の路地を通りかかると、署員が真っ赤な火事探索ロボット(Fire Search)の操作をしていた。
消防車に誘導するところらしい。まだ実験機なのであろうか?

町火消しロボット操る時代なり

追記:日本橋消防署(青木新二署長)は明治14年、警視庁消防本署管轄6分署の第一分署として設立された。堀留、人形町、浜町に出張所を持ち、各種消防車両23台、消防艇2艇、職員218人。ごくろうさまです。
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仙台で「伊達の牛タン」を食べる

2005年06月23日 17時53分07秒 | Journal
昨日、仙台へ日帰りの旅。
昼前に着くと、仙台は晴れて蒸し暑い。東京は土砂降りだったのに。
牛タン屋を探して、歩くが、案外ない。
青葉区のアーケードの脇道へ入って一軒見つける。
味噌と塩味を九切れ、スープ、100円の追加料金で山芋、
〆て1200円は安いですな。少なくとも東京より安い。
さらに、東京の牛タンは、相手の顔が透けて見えるほど薄っぺらで、硬い。
仙台の「伊達(だて)の牛タン」は厚ぼったく、柔らかい。当然、うまいのである。
ただ考えてみれば、牛の舌を食べ、舌鼓を打って、「うまい」と感嘆するとは、
なんとも人間も獰猛である。アハハ。
ところで、東京ではまっすぐ歩けない中心街のアーケードも
閑散としているのは、やはり地方都市ですな。のどかな時間経過を感じる。
やや美人少なし。

牛の舌と思わずに食べ伊達のタン
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化けトマトと私

2005年06月18日 11時30分03秒 | 作品スケッチ
「風雅のブリキ缶」は、本編の中で、パピヨン村に療養に来た男が、下宿の屋根裏窓から化けトマト畑を走りまわる子供たちの姿を見つめる情景を描いています。その男は、やがて死んでしまうのですが、分身の私はまだ生き長らえている。
作品もこの辺りは、いかにもメルヒェンチックで、誰でも入ってこられそうなお伽噺の世界構成になっているのですが、だんだんと難しい議論が挿入されてきて、作品の敷居に立ったと思ったらすぐに扉を閉めて、二度と戻ってこない風に背を向けて出て行ってしまう人が多いようです。
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「赤坂五丁目TBS開発新築工事」の風雅

2005年06月18日 08時53分25秒 | Journal
ゼネコンの取材を終え、日枝神社に行く前、TBSの近所の中華料理屋で昼飯を食べた。その店の窓から、「赤坂五丁目TBS開発新築工事」の様子がよく見えた。高さ179メートルのビルが建つとか。
ずっと前に、この赤坂に本社を置く人材教育会社に勤めていた時期があって、多分、今は掘り返された工事現場のどこかにあった地下の中華料理屋で昼食をよく食べていた。胃弱だから、とり鍋ソバという消化の良さそうな煮込み麺を好物に頼んだものだ。あれから10数年過ぎた今も胃弱体質は変わらず、冷酒を飲めば、必ず下す。
漱石の胃弱は『猫』のくしゃみ先生のジアスターゼの逸話で有名だが、酒飲みの芭蕉もよく腹具合を悪くして、旅の途中で苦しんだようだ。芭蕉と漱石を赤坂に招待して、今は幽霊となった地下の中華料理屋でとり鍋ソバを囲み、吟席としたら、さぞ楽しかろう。
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奉納品の野菜と酒

2005年06月18日 08時38分25秒 | 「ハイク缶」 with Photo
茅の輪をくぐった後、脇にあった神輿やら奉納品を見学。山王祭の期間中らしく諸国の酒をバックに野菜たちが賑やかに積まれている。奉納したのは「大根河岸会」とか。
この山王権現(日枝神社)の由来は、なんでも太田道灌が江戸の地に築城するに当たり、守護神と奉ったところにあるらしい。山王祭は、江戸幕府の「御用祭り」だった。江戸の氏子各町の競作によって趣向を凝らした大型の山車(だし)も作られたが、明治30年来の市電開通で、山車の頂上が電線に引っかかったのだろうか、山王祭の山車は中止、神輿に代わったとか。

酒に野菜奉納されてあるを見るだけ

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山王祭の日枝神社で「茅の輪」を見る

2005年06月18日 08時11分26秒 | 「ハイク缶」 with Photo
週の前半(14日)だったか、赤坂のゼネコンの設計本部を訪ね、昼飯を食べた後、「山王祭」期間中の日枝神社に立ち寄った。本殿の前に、「夏越大祓(なごしおおはらえ)・茅の輪」があり、初めてくぐってみる。賽銭なしのただくぐっただけでは、今のところ御利益なし。梅雨に入って、早くも夏ばて気味なり。

案じなく茅の輪くぐれど梅雨曇

茅の輪振り返るな着物美人

追伸:TREE CIRCLE「小さな写真便り」(21)によれば、茅の輪とは、チガヤ、ススキ、藁などで作られるとか。正月から半年間の穢れを輪をくぐって祓うのだそうだ。さらに、概ね、輪をくぐって左をまわり次に右をまわって正面へ進み参拝…とあるのは、古事記の神々の伝記のようで面白い。作品で言えば、左右非シンメトリーへの、あるいはシンメトリーへのこだわりである。
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梅雨入りの日に靖国神社の神門を撮る。小泉首相の思い出。

2005年06月11日 08時51分42秒 | note 「風雅のブリキ缶」
昨日、東京は梅雨入りだった。仕事で、市ヶ谷から九段下の千代田区役所まで歩いた。途中、靖国神社を抜ける。雨の中、傘をさしながら片手で撮った神門は傾いてしまった。1933年、伊東忠太の設計。伊東は漱石や子規と同じ慶応3年(1867年)生まれ。伊東は、漱石がノイローゼにかかってロンドンから帰ってきた1903年に、法隆寺の円柱(エンタシス)のルーツを探ろうと、チャイナ、インド、ペルシア、トルコとロバにまたがった大旅行へ出かけた。築地本願寺や平安神宮も伊東の設計だ。「風雅のブリキ缶」にも、第4巻などで登場してもらった。
この靖国神社へ参詣すると言い張っている小泉首相。8年ぐらい前、彼を議員会館に訪ねたことがある。彼の部屋の前が汚いトイレで、例の足早でスリッパ履きの小泉さんが入ってきて、並んでつれションをした。彼は、業界紙の記者にも一般紙と同じような一本調子で自説を述べていた。話すのが誰であろうと同じように主張するところは、「変人」の所以だろうが、立派なところでもある。しかし、あのとき取材したどことなくもう終わった感じの平議員が、数年後に、首相になろうとは、今でも信じられない。
できれば彼に、靖国神社がその昔、国内初の「九段競馬」やフランスの「スリエ曲馬団」のサーカスが行われた行楽の場所であったことを思い起こしてほしい。境内の中央にたつ伊東の神門は、おそらくブルーノ・タウトが好んだであろう極めてシンプルな建築だが、その超ニッポンらしいシンプルな意匠が、庶民的なゴテゴテした楽しみを封じ込めてしまった感は否めない。
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丸の内で野田聖子議員と「巨大な町」に会う

2005年06月10日 06時32分07秒 | 「ハイク缶」 with Photo
昨夕、丸の内、お堀わきの「東京會舘」であったある団体の懇親会に、つい最近、国会で小泉首相をやりこめた元郵政大臣の野田聖子議員が来ていたので、名刺を交わし、知り合いとツーショットの写真を撮っておいた。デジカメを構えると、「エッ、もう年だから」とか何とか恥らっていた。私の名刺を見て、「うちのだんなは国土交通省の政務次官をやっていたのよ」と仰った。素直一本気で、なかなか話せる女性といった印象。ただし、肖像権もあるだろうから、そちらの写真は掲載しない。
帰り、銀座方面へ出る際、丸の内仲通りで、イタリア・トリノ在住のLuiji Mainolfi(ルイジ・マイノルフィ)作「Citta-Giante(巨大な町)」(1987)を見かける。面白いオブジェだ。彫刻の森美術館の所蔵とある。三菱地所が1972年から1年限定で彫刻の森のさまざまな彫刻を展示している。野田議員も可愛い女性だったが、「巨大な町」氏もチャーミングである。
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深川不動尊付近で、「深川丼」を食べる

2005年06月09日 05時54分24秒 | 「ハイク缶」 with Photo
昨日、仕事で越中島のゼネコンの研究所へ行き、帰りに、深川不動尊へ行った。
この不動尊は、1703年に、徳川吉綱の母親、桂昌院が成田山の不動明王を江戸で参詣したいと我がままを言ったので、成田からご本尊を移送して開帳したのが起こりとか。明治の廃仏毀釈で廃寺に。しかし、すぐに「深川不動堂」として復活、本堂もできるが、戦争で本堂は消失、1951年に、千葉県印旛沼のほとりにあった龍腹寺(1862年建立)の本堂を移築した。14年前、大改修。
本堂を覗き、境内を出てきて、右に小路を入って、深川丼を食べた。赤だしの味噌汁をあさりのまぜご飯にぶっかてあるから、まぜご飯の深川飯と区別して、「ぶっかけ」と呼ばれるそうだ。ただし、店のよって赤だしとは限らないとか。下町の味がして、うまかった。その勢いで永代橋を渡って、隅田川テラスを散策して、茅場町まで歩いて帰った。暑し。

芭蕉庵丼食べて偲(しの)ぶ夏
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