若者と文学者ということでは、やはり漱石だ。魯迅についても同じように若者を引き寄せる魅力があったのかは分からない。しかし、この写真を見る限り、若者に好かれていたことが分かる。あとで中国の方にうかがうと、魯迅はとても政治的見解がはっきりした厳しい姿勢の人で、慥かに若い人には親切だったようだが、例えば、自分よりは若手の文学者にも容赦のない手厳しい批判を繰り出すタイプだったらしい。この写真の青年たちは彼のお気に入りだったのであろう。小生は、基本的には、文学は子弟関係のなかで形成されるようなものではないと考えているので、たとえ隣の席で漱石と魯迅が雑談していても大いに聞き耳はたてはするだろうが、彼らの教えを得たいとは思わないであろう。
1936年当時、中国上海でニッポン人とつきあうことは余り得策ではなかったのでは。内山完造は今も神田にある内山書店の初代。そのHPにある年譜を見れば魯迅との交遊も理解できる。少なくとも、魯迅が長寿だったら、こうしたつきあいも文化大革命で標的にされたであろう。このときの魯迅には、信頼できるニッポン人とならば、何でも話せるような気楽さがあったのかもしれない。
実は、小生も最近53歳になって、不覚を感じている。そして、今日は、1000円の床屋へ行って思いがけぬほど髪を短くされた。しかし、なかなか魯迅先生の風格には至らない。鬚(ひげ)がないというハンディキャップもあるが、同じ53歳に至って、いくら髪を短くしても、魯迅にはなれないということだ。
「奇骨以って 一代を貫かん 意気と情心」とは、いかにも魯迅らしい心意気の表現。奇骨とは今はあまり使わない表現だが、つまり、あまり使われたくない、風変わりでいいという性格を意味する。こうしたところも漱石と似ている。1936年1月とは、魯迅はその年の10月に亡くなるから、ある意味、これは短いが自画像を集大成した言葉ともとれる。
この写真を見ると、いかにもダンディーに決め込んだ魯迅がそこにいる。ファッションとしては、セーターのボタンがやたら大きかったり、どことなく野暮(やぼ)ったいのだが、それでも西欧風を意識してさりげなく決めている。職業作家とは、気取った文章を書く職業だとすれば、魯迅はやはり作家だったのだ。
1932年11月、上海から北京を訪れた魯迅は、北京師範大学で講演をした。この年は上海事変が1月28日に勃発、中国の政情は混沌としていた。上海の魯迅も各所に避難した。同じ11月に、病んだ母を北平に見舞っている。このころの魯迅は講演にかりだされることが非常に多かった。それにしても、講演というから会場は室内かと想像していたら、これは野外である。しかも、ぐるりと四方を群集に囲まれての台に立った講演である。まあ、刺されたら一巻の終わり、まったくの命がけだな。魯迅は、スピーカーもなく群集に語りかけるに十分な声の大きさだったのであろうか。
上海、1933年2月17日撮影の写真だ。孫文の妻だった宋慶齢が写っている。写真は英国の何とかさんが来たので、中国民権保障同盟として歓迎して撮影したもの。英語がうまい宋さんが通訳役だったのであろう。宋氏三姉妹の次女である宋慶齢にはいろんな写真があるが、ここの写真は孫文亡き(1925年)あと、孫文の遺志をついで彼女が激動の時代をいかに自立的に動いていたかを物語る。かたや、54歳の魯迅は温和な表情でゆったりと写っている。
■メールで教えてくれた方によれば、写真の歓待を受ける英国人は劇作家のバーナード・ショーだそうだ。彼の著となるマイフェアレディーの原作『ピグマリオン』は高校生時代の愛読書で、なぜかその原書版を大学入試のときの九州から東京をへて札幌への小旅行でもドストエフスキーの『罪と罰』と一緒に鞄に入れて持ち歩いていたのを思い出す。なお、この写真は、写っている7人のうち何人かは政治的事情から消され、5人になったりと、不思議な運命をたどったいわくつきの一枚らしい。それだけ、ここに写った文化人のその後の運命も時代の荒波に予測がつかない有為転変にみまわれるものだったのであろう。
■メールで教えてくれた方によれば、写真の歓待を受ける英国人は劇作家のバーナード・ショーだそうだ。彼の著となるマイフェアレディーの原作『ピグマリオン』は高校生時代の愛読書で、なぜかその原書版を大学入試のときの九州から東京をへて札幌への小旅行でもドストエフスキーの『罪と罰』と一緒に鞄に入れて持ち歩いていたのを思い出す。なお、この写真は、写っている7人のうち何人かは政治的事情から消され、5人になったりと、不思議な運命をたどったいわくつきの一枚らしい。それだけ、ここに写った文化人のその後の運命も時代の荒波に予測がつかない有為転変にみまわれるものだったのであろう。
人生五十年。魯迅は小説家として有名だが、むしろ雑感文にその真価があったともいう。そうした面もこの年齢に死んだ漱石と似ている。漱石の出発点にある『吾輩は猫である』は雑感文である。漱石はその後、朝日新聞の契約ライターになり新聞小説を書くことにノルマを課せられながら作品を書き続けたが、本来は雑感文の書き手であったという気もする。それにしても写真の魯迅は、漱石の晩年とよく似た感じを与える。二人とも健康を害して疲れたふうなのも共通だが、やはり人生五十年の雑感がにじみでている。
1929年10月、上海。許広平が男子を産んだ。魯迅は49歳にしてパパとなったわけだ。子の名は海嬰。なんでも、この海嬰君が長じてさずかった男の子(魯迅の孫)は台湾娘と結婚し、かなり早い時期に台湾へ移り住んでしまったとか。そういう未来のハプニングがあるとはつゆ知らぬ魯迅パパである。
1927年1月、魯迅は許広平のいる広東へ行き、中山大学文学系の教務主任となった。前年、北京の天安門で開かれた学生の抗議デモで教え子の女性が殺されるという事件が起き、弾圧の手は魯迅にものびた。彼は外国病院?を転々と逃れた。中山大学でも情勢は同じようなもので、逮捕学生の釈放がならぬと知ると4月に魯迅は憤激して辞職。写真は、8月だが、その憤慨が多少おさまったころ撮ったものか。なんだかそんなに怒ったようにも見えない。彼は、若い有能な助手も得、思ったより落ち着いた気分で暮らしていたのではないか。