Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

八木アンテナ(NHK放送博物館)

2006年12月16日 15時03分15秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 1925年(大正14年)、この愛宕山から日本で初めてラジオ放送が流れた。それを記念して昭和31年に開館したNHK放送博物館には、アンティークかつ歴史の場面場面に出てくるマイクロフォンやカメラなどなど、慥かに、放送に関する逸品が展示してある。
 小生が、館に入って最初に出合ったのは、以下のように、作品にも取り上げた「八木アンテナ」。

 ――アメリカ育ちだが、戦前のニッポンで高等教育も受けた「帰米」のナカムラ教授は、トウホク大学のオカベ・キンジロウ(岡部金次郎、後に阪大教授)博士が発明したマイクロ波発振管「マグネトロン」を研究したと物語ではなっていました。マグネトロンは、マイクロ波を発生させる真空管(vacuum tube)ですが、電界と磁界を組み合わせた構造となっており、電子を真空中で螺旋(らせん;spiral)運動させます。

 1927年、実験演習を担当していたオカベ博士のもとに来た一人の学生が、真空管を使った実験で、本来ならばゼロになるはずの電流が途中でまた増える、とデータを見せました。この実験データについて、オカベ博士は、極超短波アンテナ(1926年)の研究開発者として知られる恩師のヤギ・シュウジ(八木秀二)教授と議論し、真空管から非常に短い波長の電波(radio wave)が発生しているのだ、と推測するに至ったのです。

 日米の戦争が激しくなった1943年、出撃する飛行機が常に敵機の待ち伏せに遭(あ)うという事態に至り、ニッポンの連合艦隊は、南太平洋の制空権(command of the air)を完全にアメリカ側に奪われてしまいました。たまたまシンガポールで、イギリス製地上用対空電波警戒機(レーダー;radar)を捕獲したニッポン軍は、そこに「YAGI ARRAY」と書かれていることに気がつき、これは何だとなったのです。陸軍研究所、それに、民間電機メーカーの技師が動員され、いわゆる、「八木アンテナ」であることが判明しました。
 イギリスでは、ヤギ教授らの研究を受けて、マルコーニ社が1920年代後半には早くも商品化していたのですが、ニッポンでは、1935年頃に、海軍研究所の技師が、レーダーの研究開発を上層部に進言したことはあったのですが、「闇夜に提灯をともす」研究よりは、兵の訓練が大事と却下(reject)されました。また、商工省が「重要な発明と認め難い」と特許期限延長を1941年に却下したといいます。

 八木アンテナは、戦後ニッポンの高度経済成長期の街風景の典型ともなった、あの家々の屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナに適用されることになりました。
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縄文スタンプと貨幣の本質

2006年05月21日 07時00分49秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 朝市を見学した場所で、「縄文スタンプ」なる掲示板のポスターを見かけた。
 これは、地域貨幣そのもではないが、そのアイデアの延長線上にあって開発された販促ツールであろう。気になるのは、その便益性、お徳度をアピールして、本来の地域貨幣的な特質を見失っている点だ。せっかくのネーミングが泣く。
 1927年、高垣虎次郎は『貨幣の生成』の中で、「貨幣の起源は祭祀Kultusに属する」とし、貨幣は、本来的に、「神と人との間の交換若しくは代償」の手段だったと書いている。こうした神聖な性格を持つ貨幣が、市場経済の中で、無原則的に他地域と連結され、便利でお得な取引(交換)手段としてのみ強調されてきたのが、最近の歴史の常識だ。
 作品では、ルドルフ・シュタイナーやシルビオ・ゲゼルといった思想家の影響を受けて、エントロピー概念を貨幣に結びつけた、「時を帯びた貨幣(aging money=老化する貨幣)」の概念について、取り上げている。あのアインシュタインは、「私はシルビオ・ゲゼルの光り輝く文体に熱中した。…貯め込むことができない貨幣の創出は別の基本形態をもった所有制度に私たちを導くであろう」と評している。われわれは、時空の相対性における宇宙的貨幣論を、いまだ有していない。ただ単に、地上的原理で金融業を営んでいるだけだ。
 貨幣を介したヨロズ(万)神との交感能力は正月の賽銭に限定し、地域(空間)と歳月(時間)を無際限に欲徳づくにする経済的傾向を、貨幣一身に担わせるのは、ニッポン人(人類)の大いなる罪になるのではないか。小生は、「ライプニッツ貨幣」論で、別の貨幣的展開を考えてみたい。ライプニッツはモナドロジー論の中で、エンテレケイアという単一実体(「宇宙を映し出している永遠の生きた鏡」)を想定した。貨幣は、まさに「宇宙を映し出している永遠の生きた鏡」の面目を甦(よみがえ)らせなければならない。
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ラフカディオ・ハーン『東の国から』について

2006年04月16日 09時45分26秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 先々週ぐらいだったか、岩波文庫のリクエスト復刊でラフカディオ・ヘルンの『東の国から――新しい日本における幻想と研究(上下)』(平井呈一訳)を読む。初め、八重洲ブックセンターで見たとき、ヘルンとあるので、おかしいな、これってハーンじゃないかと首を傾げたが、解説文など読むと、やはりハーン、小泉八雲だ。訳者がドイツ語読みでもしたのであろう。
 主に、他の本と同じく朝の通勤電車の中で日課のようにして読んだこの本に、自作をこれからどう書けばいいのか、少しヒントをもらった気がした。哲学的な思索をどう物語世界に融合させるか、ハーンの作品群の中には、実にうまくこの課題をこなした逸品がある。写真は、熊本時代のハーンとセツ夫人(明治25年5月撮影)。ハーンは小男なり。あるいはセツが大女なり。

 上巻最初の「夏の日の夢」は、松江から熊本へ、人力車に乗った旅の途上での浦島太郎の伝説をもとにしたまことにうっとりとする美しい文章である。小生も、こうした美しい旅をしてみたい。乙姫(おとひめ)のような宿屋のおかみに会ってみたい。
 この作によって、浦島伝説が『日本書紀』にある由緒ある話だったと初めて知る。「雄略天皇二十二年、丹後国餘社郡水ノ江の浦島子、漁舟にのりて蓬莱山に赴く」とあり、また「淳和天皇の御宇、天長二年、浦島子帰る。再びまた行く。その行方を知らず」とか。

 下巻最初の「石佛」も印象的。ハーンは、熊本の高等学校の後ろにある肥後平野を見渡せる岡に、一体の石佛を見つけた。「この仏像は、加藤清正時代から、ここにずっとこうして坐っているのであって、じっと瞑想にふけっているようなそのまなざしは、はるか脚下の学校と、その学校のそうぞうしい生活とを、半眼にひらいたまぶたのあいだから、しずかに見下ろしながら、身に傷をうけながらもそれになにひとつ文句を言えない人のような、莞爾(かんじ、にこやか)とした微笑をたたえている」。
 そして、岡に立った眼前の風景と日本の伝統的な絵にちなんだこの卓越した日本人論。「日はしりえに高く、眼前にある風景は、さながら、日本の古い絵本にあるとおりである。いったい、日本の古い錦絵は、物に影がないということが、原則になっている」「色そのものの価値をはっきり見分けて、そうしてそれを縦横に駆使している、驚くべき技巧によるのである」「風景ぜんたいが光線にひたされているようなぐあいに描かれている」「白日のもとに万象のすがたを暗くし、その美観をそこねる物の陰影というものを、日本人は、いっさい好まなかった」。
 以下の決め台詞(ぜりふ)は圧倒的。「日本人にとっては、外的世界がそのように明るいのとひとしく、内的世界――心の世界も、やはり、そのように明るいものだったのである。心理的にも、日本人は、影のない人生を見ていたのであった」。 
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ライプニッツ『単子論』について

2006年04月02日 10時08分59秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 ライプニッツ(1646~1716年)のモナドロジーについては、作品の中核をなす思想として扱ってきた。これほど美しく詩的で、しかも、この世界に対する曇って混雑した心象に一貫した視点を提供し、晴れやかにしてくれる哲学的なイメージを、小生は他に知らない。

 われわれは自分らがいずれ落ちていく物の世界をひたすら受動的で、死の世界ととらえがちだが、ライプニッツは、物の中に宿る実現力=原始的な力「エンテレケイア」を能動的な力「vis activa」であると説いた。この点で、生死を区分して、結果的に生死を超えられなかった従来の思想宗教と隔絶したところにライプニッツのモナドロジーがある。
 その上で、思想としてのモナドロジーと物理科学のいわゆる量子論の発展的接点を探しあぐねていた小生には、今回、岩波文庫がリクエスト復刊したライプニッツ著『単子論』〔河野与一訳、1951年第一刷、『単子論』(1714年)以外に前後数篇の論文で構成した本〕を読むことで、あらためて、そうだったのかと発見することがあった。以下、事項を整理しながら箇条書きにメモする。

・私は、作品第一巻において、アリストテレスが唱えた「真空嫌悪」の思想以来、真空の存在は、ヨーロッパ世界で長らく否定されてきたが、実は、真空は不毛の空間、つまり単なる空虚ではなくて、底知れぬエネルギーと創造性を具備した場であると書いた。ライプニッツも、「初め私がアリストテレスの束縛を脱した時には『空虚』と『原子』とに夢中になつた。それが一番よく形象的思惟を満たしたのである」(62p)と考えたようだが、さらにいろいろ考えた挙句に、「本当の統一の原理をただ物質即ち単に受動的なものの中にばかり認めるのは不可能である」と気がついたという。

・そして、ライプニッツは、この世界の「多」は、その事象性を本当の「一」からしか仰ぐことができないと考える。この「一」は、形而上学的点と規定される。さらに、「数学的点はこの形而上学的点が宇宙を表出する為の視点である」(74p)とか、「中心即ち点は全く単純なものであるけれどもそこへ集中する線の成す角は無数にあるやうなものである」(148p)とも表現する。

・ライプニッツは、「実体は、作用することのできる存在である」(147p)と主張し、合成された実体というのは、単純な実体即ち単子(モナド)の集まりであるという。
 単子(monade)は、「自然の本当の原子」であり、一口にいへば「事象の要素」である。(214p)
 神だけが原始的な一即ち根原的単純実体であり、凡て創造された即ち派生的な単子はその生産物として云はば神性の不断な電光放射によつて刻々そこから生れて来るものである。(260p)

・小生のもっとも好きな表現、「各の単子は自分自身の視点に従つて宇宙を表現し宇宙そのものと同じ様に規則立つてゐる活きた鏡即ち内的作用を具へた鏡だといふことがわかる」(150p)。
 『単子論』は、このことをさらに作品でも何度も(別の訳で)引用した「物質の各部分は植物が一面に生えてゐる庭や魚が一ぱい入つてゐる池のやうなものだと考へることができる。而もその植物の枝やその動物の肢体やその水の一つ一つが又さういふ庭でもありもしくは池である」(276p)と、詩的につづる。

・以下も、量子論的に読み解くと、含蓄深い表現だ。
 「現在は未来を孕み未来は過去の中に読まれ遠いものは近いものの中に表出されてゐるのである。もし各の精神の襞を悉く開けて見ることができるとすれば各の精神の中に宇宙の美を認めることができるであろう。ただその襞は時間の経過によつてしか人の目に付く程に展開しない」「我々の持つ混雑な表象は宇宙全体が我々に与へる印象の結果なのである」(162p)
 「精神は自分の襞を一度にすつかり展開することはできない。その襞は無限に及んでゐるのである」(272p)

・「神の持つてゐる観念の中には無限に多くの可能的宇宙があるのに宇宙は唯一つしか実在することができないのであるから、神をして他の宇宙を差し措いて此の宇宙を選ぶやうに決定させてゐる神の選択の十分な理由がなければならない」(266p)

・物体は「あらゆる物質が充実空間の中で結合してゐること」によつて宇宙全体を表出してゐるものであるから、精神は「特に自分に属してゐる物体を表現すること」によつて同時に宇宙全体を表現する。(273p)ライプニッツは空虚の存在を否定している。ただ、この否定の仕方は、アリストテレスの真空嫌悪とは大分違っていると思われる。
 「宇宙には未耕のところ不毛のところ生命のないところは一つも無く混沌も無ければ混雑も無い。有ると思ふのは外観だけのことである」(276p)と。

・「可能性から現実性へ移らなければならないことが一旦認められた上は他に何も条件が決定されてゐない限り時間空間(即ち実在することの可能的な秩序)の包容力に応じてできるだけ多くのものが実在することは当然である。恰も定められた面積の中にできるだけ多く並ぶやうに敷瓦を置くやうなものである」(313p)。

・ライプニッツによれば、死もまた連続的な現象である。「我々が発生と名づけてゐることは展開及び増大であり死と名づけてゐることは包蔵及び減少である」(278p)。この観念に立てば、死は、それほど怖いものではなさそうだ。また実際、葬式などで死骸を見ると、死は石の中に包蔵されるようまのだと実感もする。

・「精神と身体とが一致するのはあらゆる実体の間に存する予定調和による為であり、それは又実体が元来悉く同一宇宙の表現だからである」(281p)。

・人は自然を、天然を、宇宙をそれと知らずに模倣している。そのことから、地上で人智がこしらえた経済の因子=貨幣も、文芸の風雅の因子とあわせて、物理の量子的因子とおなじ次元で語られるべきだとする作品第4巻の量子貨幣論の文脈からすれば、次の文章も興味深い。「理性的精神はその上に神そのもの即ち自然の創作者そのものの姿であつて宇宙の体系を知ることができる建築術の雛型によつて或る点まで宇宙を模倣することができる」(284p)。
 「世界の理由といふものは状態の連鎖や相集まつてゐる事象の系列とは異なる或る超世界的なものの中に潜んでゐるのである」(311p)
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弦音にほたりと落る椿かな(漱石)

2006年02月19日 16時30分02秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 漱石の椿の句で作品に取り上げたのは、芭蕉の句「落ちさまに水こぼしけり花椿」との比較で、「落ちさまに虻(あぶ)を伏せたる椿哉」(明治30年)だった。タイトルの句は、明治27年に正岡子規へ宛てた手紙に添えた最も初期の作である。でも、やっぱり漱石風が出ているのは不思議。文体は、持って生れたものが大半なのであろう。
 なお、漱石に私淑した寺田寅彦は、後に、落ちさまに虻の句をモチーフに「空気中を落下する特殊な形の物体――椿の花――の運動について」(”On the motion of a peculiar type of body falling through air – camellia flower”)と題する英文論文を書いている。
 そして、その漱石風にも、もしかして自分で飽きがきていたかもしれない晩年の大正3年に、「藁打てば藁に落ちくる椿哉」「活けて見る光琳の画の椿哉」「飯食へばまぶた重たき椿哉」と詠み、大正4年に、自画賛として「椿とも見えぬ花かな夕曇」がある。写真は、漱石が同年に、京都祇園の野村みきとかいう芸伎さんに贈った画帖中の画である。美しい女性に贈るとて、漱石先生も椿に見えるか心配だったのかもしれない。
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ほととぎす今は俳諧師なき世哉(芭蕉)

2006年02月05日 15時02分06秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 図書館で借りた『芭蕉全句』(袖珍版、監修・堀信夫)という句集で、これまでに見落としてきた芭蕉の句を拾っていて、創作年次未詳の上記の句が目に止まった。芭蕉の時代にも、そう感ぜられたのだなと。
 写真は、句集の表紙にあった小杉放庵筆の「合歓(ねむ)の雨」で、「象潟(きさがた)や雨に西施(せいし)がねぶの花」の場面とか。教養が足りず意味を探すに、芭蕉が雨煙る象潟(秋田)入りしたところ、合歓の花の風情に感じ、美人の西施が物思わしげに目をつむっているようだと、蘇東坡(そとば)の詩を踏んで吟じたそうだ。
 もう20年近く前、自宅の庭にも杜鵑(ほととぎす)がやってきていて、朝などそのホーホケキョの鳴き声で目を覚ます風流もあった。周囲にマンションや戸建て住宅が建ち尽し、それがすっかりなくなって、味気ない。
 俳諧とは、杜鵑の美声に負けない人間の心味なり。今回拾った芭蕉の句に、それを感じてみよう。

 ●夕皃(ゆうがお)にみとるるや身もうかりひよん  (1666年夏)

  *実は、夕顔からは瓢(ひさご)の実がとれるそうな。花に見惚れて、うっかり時を過ごしてしまう。

 ●あさがほに我は食(めし)くふおとこ哉  (1682年秋)

  *近江の出身ながら、宵っ張りの朝寝坊、都会人になりきって派手な句風を興している弟子の宝井其角(たからい・きかく)に対して、我は、早寝早起きで、朝顔を眺めながら朝食を食べるような男であるよ。

 ●馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉  (1683年夏)

  *中国の画にあるように、夏野で馬に揺られる自分を想像する楽しさ。

 ●山路来て何やらゆかしすみれ草  (1685年春)

  *大津へ出る山路にて。解説の要らぬ分かりやすさ。

 ●花の雲鐘は上野か浅草か  (1687年春)

  *ご当地ソングの究極。朧(おぼろ)な花霞の春気色に、鐘の音の出処も定かでない。

 ●冬の日や馬上に氷る影法師  (1687年冬)

  *豊橋辺りを旅のとき、馬上の寒さに凍えながら詠んだらしい。

 ●五月雨(さみだれ)にかくれぬものや瀬田の橋  (1688年夏)

  *以前、大津へ行って、義仲寺に寄った後、ぶらぶらと石山寺に行く途中、この由緒ある川に架かる由緒ある橋を眺めたことがある。今も、マラソン中継を見ながら思い出すことが…。

 ●夕がほや秋はいろいろの瓢(ふくべ)かな  (1688年夏)

  *『源氏物語』に出てくる品のある夕顔も、秋には大小の瓢となるのだからと、おかしがる。

 ●鐘つかぬ里は何をか春の暮  (1689年春)

  *今の世に、鐘を聴くのは除夜の鐘のみなり。どこぞの晩春に、鐘を聴きながら暮らしてみたい。

 ●我に似るなふたつにわれし真桑瓜(まくわうり)  (1690年夏)

  *若い頃の自分を彷彿する俳諧師希望の青年に向かって、温かい訓戒の句なり。

 ●名月や門(かど)に指(さし)くる潮頭(しおがしら)  (1692年秋)

  *堤防のない当時、深川の庵へは満ち潮が門先まで寄せてきたのであろう。

 ●青くても有(ある)べき物を唐辛子  (1692年秋)

  *言われてみれば、秋になって真っ赤になる唐辛子は、それだけ季節に必死なのであろう。

 ●年どしや猿に着せたる猿の面  (1693年春)

  *正月の猿回し、猿に猿の面では代わりばえもない。去年と新年、猿が猿の面を外すだけか。

 ●さみだれの空(そら)吹(ふき)おとせ大井川  (1694年夏)

  *天地俳諧の気宇壮大。

 ●鶏頭(けいとう)や雁(かり)の来る時なをあかし  (元禄年間・秋)

  *中国原産で、「韓藍(からあい)」とも。なんとなく不気味な赤だ。 
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株取引のアニマル・スピリットと「風雅三等之文」(芭蕉)

2006年01月15日 10時34分43秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 インターネットによる株の取引が盛んになっている。ある取材先で雑談に、「おや、株をやっていないのですか。経済の勉強になるし、今は主婦でも気楽にやって、けっこう儲けている」と言われ、頭に残った。
 株のトレンドを見ると、昨年夏からかなりの株が価格上昇に転じている。住金の広報担当者と話していたら、一時40円だった株価が400円を超え、10倍になった。企業業績の実勢よりも素人が飛びつくような情報でいっせいに株価が動く、と話していた。スレッドを眺めれば、年が明けてから500万円、種銭100万円から年間1億円まで増やしたとか、景気のいい儲け話が飛び交っている。投機とは「市場の心理を予想する活動」と定義づけたのはジョン・メイナード・ケインズだ。ケインズは、こうして抑制的理性の範疇を越えてしまう投機家心理を「アニマル・スピリット」とも称した。
 今日、図書館でエドワード・チャンセラー著『バブルの歴史』を借りた。Edward Chancellorは、ケンブリッジ、オックスフォードで歴史学を学び、投資銀行ラザースに勤務した経歴のフリーランス・ジャーナリストだけに、執筆スタイルがオーソドックスだ。その中に、チャールズ・ディケンズの友人、チャールズ・マッケイが、投機(speculation)について、「対象は、小説家すら羨(うらや)むほどの興味をかきたてることができる。…人びとが一斉に理性のくびきを逃れ、黄金の夢を追い求めてがむしゃらに走りだし、それが夢にすぎない事実を認めることを頑迷に拒否し、まるで鬼火かなにかのように沼地に飛び込んでいくさまをみているのが、退屈だとか、なんの教訓も得られないとかいえるだろうか」(『常軌を逸した大衆の幻想と群集の狂気』、1841年)と書いたという記述がある。
 ニッポンでは、俳諧による風雅の極みとこの「鬼火かなにかのように沼地に飛び込む」投機的な金融経済の萌芽が同じ時期、同じ場所に重なった。松尾芭蕉=写真が奇蹟のようなハイクを次々に生み出した元禄期に、穀物の先物取引が発生している。元禄七(1694)年に、芭蕉は、大阪の「御堂前花屋仁左衛門方」で亡くなっているが、その三年後、大阪の「堂島(どうじま)新地」に米のせり場が開設された。後に、このドウジマ米市場は、米価の安定のために先物取引(帳合米取引)を幕府から公認され、シカゴ商品取引所に一世紀以上も先駈けて金融デリバティブ市場の特性を持つに至る。
 ところで、生前の芭蕉は、弟子の菅沼曲水に宛てて以下のような有名な文を書き送っている。風雅と金儲け、現代の株取引と生き方の問題にも通じる「点取り俳諧(はいかい)」=ギャンブル・ハイカイの流行についての感想として貴重。机上で、「芭蕉の風雅」と繰り返しても、損得勘定からなりたつ現世の処世方針として、どこまで通用するのか。芭蕉は懐広く、しかし厳しく「道のハイカイ」を言い放っている。

 元禄五(1692)年、バショウ翁は、キョクスイ宛て書簡(二月十八日付け)に、いわゆる「風雅三等之文」として知られる次の文面を記している。(原文に手を加えてある)

 ――こちらより手紙を差し上げましたところ、あなたさまからもお手紙を頂き、かたじけなく思われました。実際に、あなたさまとお会いし対座しているような心持で拝見しました。いよいよご達者のむね、千万にめでたく存じます。

 ご子息のタケスケ殿はいかにお暮らしでしょうか。さぞかし成長して腕白が日ごとに盛んになっていることと存じます。

 わたしの元旦の愚句が、あなたさまの耳にとまれば甲斐ある心地がして、喜びに堪えません。以下、お手紙の趣旨にそって感じたところを書いてみます。

 さて、幻住庵の屋根の葺きかえを命じられたよし、珍重に存じました。浮世の沙汰が少しでも遠きは幻住庵のあるコクブ山のみと、折々の寝覚め時に忘れがたく思い出されます。このはかない命を長らえましたら、再び薄雪の曙など見たいものだと存じます。

 わたしの考えでは、風雅の道筋は、大方、三等級の者に分類できます。

 一、賭事の点取りハイカイに昼夜を尽くし、いたずらに勝負を争い、道を見ずして走りまわる者がいます。彼らは、風雅のうろたへ者に似ています。点者の妻子はそれで腹を満たし、家主は店賃でお金が入るのですから、悪事を働くよりはましといったことでしょう。=ギャンブル・ハイカイ

 二、その身は富貴にして、だからといって、目立つ道楽は世をはばかるし、他人の悪口や噂に時を送るよりはいいと、日夜、大量の句を採点して、勝っても負けても喜怒もそこそこに、「いざ、もう一巻」などと句作に励み、線香が五分まで燃える間に工夫をめぐらす者がいます。そんなのは少年のカルタに等しいでしょう。されども、そのために料理を整え、酒を飽くまで用意して、貧乏なハイカイ仲間に活躍の場を与え、点者を金儲けさせることは、これまた道の建立の一助となりましょうか。=パトロン・ハイカイ

 三、志を勤め、情に慰め、むやみに他人の是非の評価を気にかけず、ハイカイによって実の道に入るべき者がいます。つまり、はるかに定家の骨をさぐり、西行の筋をたどり、白楽天の腸を洗い、杜甫の方寸に入る者は、都会も田舎も通じ、指折り数えるにわずかに十人とはいません。あなたさまもこの十人のなかに入るよう修行第一とお気張りなさい。=道のハイカイ

 それにしても、ロツウ(路通)がオオサカにて還俗したとの噂は事実だろうと思われます。その傾向は、三年前から見えていたことですから驚くに足りません。ロツウには、とても西行や能因の真似はできません。普通の人が普通のことをなすに、なんの不審がありましょうか。拙者においては、ロツウは破門しません。俗になっても風雅の助けになるは、昔の乞食時代よりまさるとも言えましょう。

 *参照→作中の「風雅三等之文」
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県立座間谷戸山公園の六地蔵さま

2006年01月03日 13時13分09秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 甥が二人来て、車で南林間駅まで送りがてら、反対方向だったが、座間の谷戸山公園まで行く。ここには里山と古い村があったらしく、道祖神や地蔵さん、庚申塚のメッカだ。写真は、「伝説の丘」へ坂道を登る途中に見かけた一列に6つ並ぶ地蔵さま(六地蔵)。その向こうに連なるのは丹沢山系だ。これら地蔵さんの脇(左上)に小さな墓の一角があるのもなんとなく目を惹いた。
 地蔵については、『柳田国男・南方熊楠 往復書簡集』に講釈がある。日本を代表する大学者二人が、地蔵さまについて、こんな試行錯誤のやり取りをしていた事実だけでも興味深い。
 ミナカタ・クマグスからヤナギダ・クニオに宛てた書簡(明治44年8月12日付け)には、「地蔵という語は大乗経蔵中に始めてあらわれ、小乗経律等に見るところは、みな地中に財貨を蔵蓄せることを申し候」とある。また、やはりミナカタからの同年10月10日付けには、「拝啓。貴下の『地蔵木』の考に、地蔵は他の諸菩薩とかわり支那でできた物ならんというようのことあり。しかるに、小生、往年『ダルマ・サングラハ』(ネポール国の仏教用語義集)より書き抜きおきしものを只今見るに、…地蔵(クシチガールブハ)…とあり。故に、とにかくネポール等に存するところを見れば、支那でできしにあらず。大乗教発展の際できし菩薩と存ぜられ候」とある。
 以下の少々長めの厄介なコメントを最後まで我慢して読むと、上の記述についてなるほどと理解が届くはず。

 *参照→「地蔵さま」の詩がある作中の文章

COMMENT:公園のHPによれば、「伝説の丘」とは、その昔、この丘の上にお寺の本堂があったが、武田信玄が小田原攻めの時に、のろし代わりに火を放ち、燃やしてしまった。ここには里山本来の植生が見られるとも。でもなぜ、伝説の丘なのかは不明のまま。寺の本堂が信玄の兵によってのろしとして燃やされたことが伝説なのだろうか? むしろ、地蔵さまの由来を知ることで、作品に応用できそうな新しい伝説がもこもこと小生の脳裏に浮かんできた。地蔵さまは、地蔵菩薩の略。田圃の脇など方々に気楽に座しておられるので軽んじがちだが、調べてみれば、地蔵菩薩は大変な菩薩さまである。*なお、本ブログでも漱石の句で触れた建長寺の本尊は、地蔵菩薩である。

 Wikipediaによると、地蔵菩薩は、仏教の信仰対象である菩薩の1つ。サンスクリットではクシチガルバ(Kstigarbha)という。これは「大地」という意味の語と、「胎内、子宮」という意味の語の合成語で、意訳して「地蔵」と称する。釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされる。
 地蔵像は、密教では、胎蔵界曼荼羅地蔵院の主尊として菩薩形(有髪)に表されるが、一般には比丘形(僧侶の姿)で袈裟をまとい、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ形、または左手に宝珠を持ち、右手は与願印(掌をこちらに向け、下へ垂らす)とする形の像が多い。
 地蔵とは、大地があらゆる命を育む力を蔵するがごとく、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心でつつみ、救うがゆえについた名といわれる。
 「六地蔵」――日本では、地蔵菩薩の像を6体並べて祀った「六地蔵」像が、全国至るところに見られる。六地蔵は、仏教の六道輪廻の思想(あらゆる生命は地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。
 六地蔵の個々の名称については一定していない。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げているものもある。いずれにしても、像容のみからそれぞれの地蔵がどれに当たるかを判別することはほぼ不可能である。
 日本では、六地蔵像は墓地の入口などにしばしば祀られている。中尊寺金色堂には、藤原清衡・基衡・秀衡の遺骸を納めた3つの仏壇のそれぞれに6体の地蔵像が安置されているが、各像の姿はほとんど同一である。
 【地蔵菩薩に関する伝承】過去久遠の昔、インドに大変慈悲深い2人の王がいた。一人は自らが神となることで人を救おうと考え、一切智威如来という神になった。だが、もう一人の王は神になる力を持ちながら、あえて神となることを拒否し、自らの意で人の身のまま地獄に落ち、すべての苦悩とさ迷い続ける魂を救おうとした。それが地蔵菩薩である。
 地蔵菩薩の霊験は膨大にあり、人々の罪業を滅し成仏させるとか、苦悩する人々の身代わりになって救済するという説話が多い。
 菩薩は、如来に次ぐ高い見地に住する仏であるが、地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意でその地位を退し、六道を自らの足で行脚して、救われない衆生、幼くして散った子供や水子の魂を救って旅を続ける。特に、生前の功徳が足りないことから、賽の河原から先へ進めず、石の塔婆作りを永遠に続けなければならない水子の魂を救うため、賽の河原に率先して足を運んでは、仏法や経文を聞かせて水子らに徳を与え、成仏への道を開いていく水子救済の功徳は余りに有名。このように地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩であることから、古くから絶大な信仰の対象となった。
 また後年になると、地蔵菩薩の足下には餓鬼界への入口が開いているとする説が広く説かれるようになる。地蔵菩薩像に水を注ぐと、地下で永い苦しみに喘ぐ餓鬼の口にその水が入る。仏教上における餓鬼は、生前嘘を他言した罪で燃える舌を持っており、口に入れた飲食物は炎を上げて燃え尽き飲み食いすることは出来ないが、地蔵菩薩の慈悲を通した水は餓鬼の喉にも届き、暫くの間苦しみがとぎれると言われている(その間に供養を捧げたり得の高い経文を聞かせたりして成仏を願うのが施餓鬼の法要の一端でもある)。これは六道全てに隔てなく慈悲を注ぐと言われる地蔵菩薩の功徳を表す説であり、施餓鬼法要と地蔵菩薩は深い関係として成立していった。
 ところで、仏教上の非道者を指す一闡提という言葉があるが、これには単に「成仏しない者」という意味もあることから、地蔵菩薩のように一切の衆生を救う大いなる慈悲の意志で成仏を取り止めた仏を「大悲一闡提」と称賛し、通常の一闡提とは明確に区別する。
 先に述べた「六地蔵」とは、六道それぞれを守護する立場の地蔵尊であり、他界への旅立ちの場である葬儀場や墓場に多く建てられた。また道祖神信仰と結びつき、町外れや辻に「町の結界の守護神」として建てられることも多い。道祖神のことをシャグジともいうことから、シャグジに将軍の字を当て、道祖神と習合した地蔵を将軍地蔵(勝軍とも書く)とも呼ぶようになった。
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最近気になっている関係式 : r ⇔1/r

2006年01月03日 08時47分54秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 昨年から気になっている関係式がある。竹内薫氏の『次元の秘密』という本で見つけたのだが、宇宙の根源がひもだとすれば、宇宙における半径rは、r⇔1/rの関係が成り立つというのだ。
 いきなりピンとこないかもしれないが、左辺のrが大きくなると、普通ならば右辺はそれだけ小さくなる。例えば、2=1/2なんてことになったら、頭がひっくり返ってしまう。公認会計士の頭はヒューズが跳んでしまうだろう。われわれは、極めて当然のごとく、2≠1/2の世界に安住している。
 しかし、このr⇔1/rが成り立つ世界では、大きいものと小さいものを交換しても、宇宙は変わらないことになる。竹内氏は、これを「孫悟空対称性」と呼ぶ。いたずらな孫悟空がお釈迦さまの裏をかいて宇宙の果てまで行ってみせても、実は、お釈迦さまの掌から出ていなかっという、あの有名なエピソードから取ったもの。小生ならば、さしずめ「ライプニッツ対称性」、いや、作品の論旨からは「ライプニッツ非対称性」と呼ぶほうがふさわしい。
 実数の世界では、こうした関係性はあり得ない。ひも理論が適用される量子の世界では、虚数が入り込んでくるから、こうした現象が起きるのかとも、小生は感想を持つ。
 この関係性を人間が感じ得る普通の世界、われわれにとって当たり前の世界にも仮説的に適用し、少し攪乱を起こしながら、考えてみようというのが作品の献立に入っている。几帳面にバランスシートを意識しながら金銭勘定をしている人間の脳みそが爆発しようが、風雅の物語では痛くも痒くもない。*参照→量子貨幣論
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宇佐八幡と靖国神社、道鏡と麻原、そして戌年と狛犬、女系天皇

2005年12月11日 12時32分38秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 宇佐八幡(宇佐神宮、大分県宇佐市)は、平安時代の初期に「護国霊験威力神通大自在王菩薩」と呼ばれたそうだが、5世紀前後に新羅(シラギ)征討をしたとされる神功皇后・応神天皇の母子を祀り、白村江の大敗と新羅の半島統一などを受けた国防意識の高揚期に建立されたものと推測されている。後に、サムライの源氏の崇拝を受けることでも有名。つまり、古くからの軍人の守り神、今の靖国神社のようなものだ。ただ、靖国と大きく違うのは、宇佐八幡は、三重塔もある神宮寺を有する神仏習合のもっとも早い例だったとされる点。(これより古いのは、越前気比神ぐらいだとか)。難工事だった東大寺の大仏造立では、宇佐八幡が援助をしている。
 ところで、この宇佐八幡で有名なのが、道鏡の破天荒な一件。道鏡は、巨大ペニスを武器に(もちろん俗説)、女性天皇(COMMENT参照)であった称徳天皇に取り入り、「太政大臣禅師」からさらに上の「法王」(唯一、あの聖徳太子が後世そう称された例があるだけ)にまでのぼりつめ、ついには宇佐八幡の託宣(769年)で自ら「天皇」に、あわや成りかけた。忠臣・和気清麻呂や姉の広虫の活躍で、宇佐八幡の神託を確認し、事を未然に防いだが、あるいは本当に、ニッポンの歴史には、その「万世一系」が巨大ペニス一本で絶たれそうになった瞬間があったのかもしれない。もっとも、道鏡は、梵語(サンスクリット語)にも通じた僧で、ただの生臭坊主でもなかったようだ。
 称徳天皇は、彼女の意にそわない返事が和気清麻呂からもたらされたのでヒステリーを起こし、宣命(せんみょう)で清麻呂を「穢麻呂(きたなまろ)」、道鏡と並んで寵臣だった姉(彼女の本名は法均だったが)を「広虫売(ひろむしめ)」と、各々に蔑称をつけた(『続日本紀』、769年)。この女心、ちょっと憎めなくて、おもしろい。ある意味、こうしたハチャメチャナ、躍動する逸話が、今の皇室を取り巻く真面目くさって硬直した雰囲気にないことが、味気なくもある。嫁に来た人が、気がふさぐのも当たり前だ。
 なお、称徳天皇の父は聖武天皇、母は藤原氏出身の光明皇后。天武系最後の天皇。天平10年(738年)に立太子し、史上初の女性皇太子となった。その前の在位期間は孝謙天皇と呼ばれた。Wikipediaにあった一説に、称徳天皇は蝦夷の出身で、大野東人の率いる朝廷の軍隊が蝦夷に大敗した際に、講和の条件として、蝦夷の王女であった彼女が次期天皇となる旨の一条があり、その結果、彼女が聖武天皇の後を継ぐことになったという。また、彼女が奈良に入った際に持参金として持ち込んだ金が東大寺の大仏建立に用いられたともあるが、真偽のほどは定かではない。彼女は生涯独身だった。
 11月21日、小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」(吉川弘之座長)は、皇位継承は男女を問わず第一子優先を正式決定した。吉川座長は「出世時に皇位継承の順位が決まる。わかりやすく安定した制度だ」と述べた。しかし、本当に「わかりやすく安定した制度」が、そもそも天皇制なのかという設問は、小泉首相が選んだ有識者には浮かばなかったのだろうか。小生からすると、天皇制は、ニッポンの風土において分かりにくいから安定的なのだが…。
 祖先は物部守屋だったと伝わり、修行によって呪験力にも精通した道鏡のような怪僧が、現代に現われる可能性は少ないと、誰もが考えるであろう。現われても、せいぜいオウム真理教の麻原ぐらいだ。というか、世に狂人として滑稽視されることが多い拘置所の麻原は、そうした点では、実に真面目に興味深い「史的人物」なのである。彼は、今の天皇の廃位と、真理国の初代主権者「神聖法皇」は自分「麻原尊師」であると主張していた。
 こう考えてくると、宇佐八幡が政治に出てきた時代も、靖国神社が出てくる今の時代も、表裏一皮のところで大した変わりがないという、進化したシステム社会に生きていると思い込んでいる現代人には、ちょっと信じがたい結論になる。
 話は変わるが、来年の干支(えと)は、戌(いぬ)。写真のように、犬連れの参拝者は靖国神社に入っていけないそうだから、ご注意下さい。しかし、干支なんてものも、チャイナの殷の時代から発展してきた古い知恵。文明開化、明治以降のピュアな神道が、外来の古臭いまじないごとで賽銭を稼いではいけない。特に、犬好きは行かないように。しかし、慥か、靖国神社にも大きな狛犬(こまいぬ)があったような。
 昔は、魔除けをかねて、宮中の門扉、几帳(きちょう)、屏風が揺れるのを止める置物としても狛犬が使われたらしい。Wikipediaによれば、狛犬の名称は、高麗(こま、つまり異国)の犬という意味とされている。一般的には、向かって右側の像は「阿形(あぎょう)」で、角はなく口は開いている。そして、向かって左側の像は「吽形(うんぎょう)」で、1本の角があり口を閉じている。両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多い。中国や韓国にも同様の物があるが、阿吽(あ・うん)の形があるのは日本で多く見られる特徴。これは仁王の影響を受けたと考えられ、平安時代には既に定着していたとか。いろいろな物事のルーツをたどっていると、意外な事実につきあたる。阿吽とは、梵語a-humで、万物の初めと終わりを象徴する。
 それにしても、「阿吽(あうん)の呼吸」(微妙な調子の取り合い)で、この世の中、特に、靖国問題が解決に向かわないのは、やたら糞や小便をされては困ると犬を排除してかかるけち臭い潔癖症への、風雅な置物からのツケかもしれない。

COMMENT:女性天皇は、過去に10代8人いた。一番最近では、江戸時代の後桜町天皇がそうだったとか。女性天皇の場合、男親をたどれば系譜的に男系天皇につながる。過去の女性天皇は、称徳天皇のように、いずれも生涯独身だったり、夫が天皇だったりして、男系は途絶えなかった。今、愛子さんの件で「皇室典範」改正に踏み出そうとしている「女系天皇」の場合は、結婚して、子供ができても、夫が男系天皇につながる皇族でもない限り、天皇の血筋は女系となる。そこで、戦後、一般国民に格下げとなった旧皇族(11宮家)を復帰させて、手ごろなのを女性天皇の夫にするなどという提案が出てくる。つまり、頭がおかしいのである。そもそもの系譜をたどれば、われわれホモ・サピエンスの母は、約20万年前に生きていたたった一人のアフリカ女性「ミトコンドリア・イブ」に絞り込まれる。それなのに、「125代維持してきた男系の伝統」などと、訳のわからない議論をしている。いまだに、ニッポンの歴史(神話)が、世界の歴史に連結されていないのである。まだ、古事記の世界観の方が、ずっとコスモポリタンだ。
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