Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

竹中工務店の樹齢500年「長蔵杉」

2006年08月27日 07時44分02秒 | Journal
 今週の月曜だったか、取材で、東陽町の竹中工務店東京本店へ行ったら、玄関前に推定樹齢500年の大杉が置かれていた。屋内で「木挽とその道具」展なる展示会をやっていて、その関係らしい。杉は、静岡県春野町、気田川の支流、京丸山の崖の上にあったもので、地元では「水神スギ」と呼ばれていたとか。1976年に伐木。ヘリコプターで運送した。挽き割りは大型の首長鋸で何日もかけて挽いたようだ。現在は、財団の日本・住宅木材技術センターに保管されている。なお、「長蔵杉」とは、長谷川萬治という人が所蔵し、保存するための蔵から取ったというが、何のことだか分からない。
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家康が使ったお茶の水(井の頭公園)

2006年08月13日 16時23分34秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 ぐるっと池を一周した。池は大したことはないが、周囲の森がなかなかに深い。蝉時雨が耳に残る。この地は、さすがに江戸の水道の供給地だっただけあって、それらしい史蹟がある。写真は、狩に来た家康が茶をたてるのに使ったという水が、今も湧く場所。

 こんこんと水湧くを見て蝉時雨  頓休

 Wikipediaに――公園内の井の頭池は湧水が豊かで、園内武蔵野市側の御殿山遺跡から縄文時代の竪穴式住居遺跡も出土しているように、古くから人間の生活に不可欠な水をまかなってきた。江戸時代の始めに神田川が改修されて神田上水が引かれると江戸市民の水がめとなり、また江戸市民の行楽地となって池中の弁財天は信仰を集めた。また三鷹の地名に残るように、この一帯の武蔵野は徳川歴代将軍が鷹狩りを楽しんだ鷹場であり、三代将軍家光が鷹狩りに訪れた際の休息のため、井の頭池を見渡す場所に御殿を造営したことから御殿山の地名が起こった。井の頭池の名も家光によって名づけられたと言われている。

 井の頭池と一帯の林は、幕府御用林として保護されてきたが、明治維新後東京府が買収。1889年に宮内省(現在の宮内庁)御用林となり、1913年には帝室御料地から東京市に下賜。1917年5月1日に恩賜公園として一般公開にいたった。
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井の頭公園の鴨

2006年08月13日 16時10分29秒 | Journal
 幼少の頃、兄に連れられて中野からここまで遠出してきたと聞くが、池のわずかな記憶しか残らない。写真は、鴨が足こぎ白鳥を追跡するシーン。

 Wikipediaによれば、「井の頭恩賜公園」は、武蔵野市の南東、三鷹市の北東に接する、約380,000平方メートルに広がる公園である。
 公園の中心である井の頭池は北西方向の先が二つに分かれた細長い池の形をしており、東南方向からは井の頭池を源流としている神田川が流れている。神田川に沿って公園がしばらく続いており、並んで走る京王井の頭線の井の頭公園駅がある。また、池の西側には御殿山の雑木林があり、東京都建設局井の頭自然文化園が吉祥寺通りを挟んで存在する。雑木林の南側には玉川上水が東南方向に流れており、そのさらに南に400mトラックと三鷹の森ジブリ美術館のある西園に出る。玉川上水の下流側の脇には小さな広場のある東園がある。
 行政区分では、井の頭池、神田川、井の頭公園駅、西・東園は三鷹市であり、井の頭自然文化園と雑木林の御殿山は武蔵野市となる。しかし、井の頭池の北側はすぐ武蔵野市になり、中央線吉祥寺駅の公園口(南口)から井の頭池まで500m弱と近い。吉祥寺駅から井の頭池に行く道の脇には若者向けの商店が発達している。井の頭公園駅からも井の頭池まで近く、こちらは小さな広場や小道を散策できる。
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玄奘三蔵法師像(月窓寺)

2006年08月13日 15時55分18秒 | Journal
 本堂の脇に銅像が重い荷を担いで立っている。
 西遊記で有名な玄奘三蔵法師だという。

 Wikipediaには、玄奘三蔵法師について、こんな年譜がある。
 ――大業10年(614年)13歳で出家し、兄の長捷のいた洛陽の浄土寺に住んで経論を学ぶ。
 武徳元年(618年)隋・唐王朝交代期に、兄とともに長安に入るが、兵乱のため講経を行なう寺がなかったので、蜀(四川省)の空慧寺に入った。
 武徳5年(622年) 具足戒をうけ、成都から草州、相州、趙州をへて長安に戻り、大覚寺に住んで道岳、法常、僧弁(僧辨)といった学僧から倶舎論や摂大乗論の教義を受けた。しかし、多くの疑義を解決することができず、仏教発祥の地の学者から瑜伽師地論を学びたいと、インドへの遊方を決意した。当時、唐では国外への旅行は国禁とされていたので、僧数名とともに請願書を出したが却下された。
 貞観3年(629年) 国禁を犯して求法の途についた。
 高昌(トルファン)国王からの懇請で、伊吾から高昌に向かい、国王から旅費などの寄進をうけた。
 クチャから天山山脈を越えて北路に出、西突厥の統葉護可汗に会う。
 アフガニスタンから北インドに入り、中インドのマガダ国ナーランダに至った。 この寺に5年とどまり、シーラバドラについて瑜伽師地論をはじめとする無著・世親系の瑜伽唯識の教学をきわめた。 その後、インド各地に求法と仏跡巡礼の旅を続け、多数の仏典を収集して帰路につく。
 貞観19年(645年) ヒンドゥークシュ山脈とパミール高原を越え、ホータンを通り、17年ぶりの長安に帰った。

 インドから持ち帰ったのは、仏舎利150粒、仏像8体、経典520夾、657部で、弘福寺に安置された。皇帝太宗は勅を下してただちに訳経を開始させ、はじめは弘福寺で、のちには大慈恩寺で訳経事業を行なった。20年間に訳出した大乗小乗の経論は、大般若波羅蜜多経600巻をはじめ、瑜伽師地論、倶舎論など75部、1235巻に達した。
 門下の窺基、円測、普光らにより法相宗、倶舎宗が興った。弟子の弁機に編述させた旅行記『大唐西域記(だいとうさいいきき)』12巻は、彼の伝記である『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』10巻ともども、具体的かつ正確無比な記述によって、7世紀の西域各地、インドを知る貴重な文献である。
 西安南郊の興教寺に墓所がある。

 玄奘の翻訳は、よりその当時の中国語にふさわしい訳語を新しく選び直しており、それ以前のクマーラジーバ(鳩摩羅什)らの漢訳仏典を旧訳、それ以後の漢訳仏典を新訳と呼ぶ。一例として、『般若心経』も彼が翻訳したものであるが、この中で使われている観自在菩薩は クマーラジーバによる旧訳では観世音菩薩である。サンスクリット語の原語「アヴァローキテーシュヴァラ」は「自由に見ることができる」という意味なので、観自在菩薩の方が訳語として正確であり、また玄奘自身も旧訳を非難しているが、訳文の流麗さは旧訳に譲るといわざるを得ない。ただし、唐の太宗皇帝の姓名は『李世民』であったため、『世』の字を使うのが避諱によりはばかられたからともされる。また、玄奘はこの『般若心経』をはじめとして維摩経など、クマーラジーバ訳に上書きして済ましたかのごとき翻訳もあり、彼の学究としての興味の程度により仕事ぶりが変わるようである。
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吉祥寺と月窓寺の本堂(写真)

2006年08月13日 15時52分59秒 | Journal
 吉祥寺というくらいだから、「吉祥寺」という寺があるのだろう。少し歩くと、ここは寺が密集する地域であることが分かる。

 「江戸期の吉祥寺」に以下のような説明があった。なんでも、その昔、吉祥寺は本郷にあったとか。
 ――吉祥寺という寺院は、明暦の大火の際は、現在の水道橋の北にあったとされ、JR水道橋駅の北側にあったような印象を受ける。しかし、天正19年(1591年)の徳川家康による寺領寄進状に、「寄進 武蔵国豊島郡本郷之内五十石之事」とあり、明暦大火前の吉祥寺が本郷にあったことが判る。本郷はJR水道橋駅の東から東北にあたる。江戸初期は神田台と呼ばれ、本郷台地とつながっていたが、大火後の万治3年(1660年)に深堀りされ(通船できる神田川の開通)、駿河台と湯島本郷台地に分かれている。
 本郷に来る前の創建話はこうである。長禄年間(1457―1460年)、太田道灌が江戸城築造の際に、井戸の中に「吉祥」の文字がある金印を発見し、これを瑞祥として和田倉門の近くに創建したのが縁起である。
 さて、吉祥寺は明暦大火の後に、現在地の駒込に移転する。格の高い寺で、住職の任命は幕府寺社奉行所で行ったという。徳川家の庇護の厚さを思わせる。吉祥寺が他の多くの寺と異なるのは、学寮が設けられていたことである。
 吉祥寺は曹洞宗であるから、諸国から集まってくる学生は寮舎で寝起きしながら曹洞宗の経典などを学んだと思われる。学寮は増上寺や寛永寺にもあったが、吉祥寺の学寮はそれらに比較して貧困な苦学生が多かったようだ。となると、托鉢しながら学んだのであろうか。明暦大火以前の史料はほとんど焼失しているので、吉祥寺の本郷当時のことは分明でない。
 かなり後年になるが、文化年間(1804―1817年)の随筆に「遊歴雑記」がある。この中に、「門内の左側には衆寮数十株ありて、諸国より遍参の所化此学寮に来り集ひ、詫鉢の間々講席に出座して学ぶ事也、此故に当寺の門前町には書物文庫又応量器の類をひさぐ外、商人の仕入れざるもの也」と記されている。所化(しょけ)とは学僧ないしは小僧の意味、応量器とは禅僧が使用する入れ子式の漆器を指す。
 門前町には、学僧相手の書物や寮生活の日用品を売る店舗がほとんどだったわけだ。明暦の大火前も学僧数こそ少なかったであろうが、こうした店舗が多かったと推測できよう。苦学生が多いから利益は出なかったであろうが、借り店舗の営業でなければ生活の足しにはなったと思われる。よって店舗を借りてまでする商売ではなかった。つまり、吉祥寺が移転した駒込まで行ってする商売ではなかった。なぜ苦学生なのか。下級武士や町人、百姓の次男、三男以下が僧侶となって身を立てようと学寮に入ったからであろう。中には途中で諦め門前町に暮らす学僧崩れもいたであろう。
 おそらく、そうした者たちの中には店舗に入り婿ないしは養子となった者もいたはずである。そして、彼らが吉祥寺村の開墾を主導した浪人たちであった。入り婿、養子が突飛な推測なら、大火があり多くの死人が出たのであるから、門前町の店舗の住人の中には一人生き残った者もいたであろう。親しい学僧が開墾の手助けをしたとしても不思議ではない。  

 月窓寺についてはこうだ。月窓寺は、曹洞宗系の単立寺院である。吉祥寺と同宗派となる。開山、開基という言葉がある。開山は寺院の創始者の意味で、開基は寺院創建の経済的負担をした一般信者を指す。月窓寺が吉祥寺村へ移転してくる前の名称は東岸寺だった。おそらく、東岸寺の開山は吉祥寺の関係者か学僧として学んだ者、開基は吉祥寺が徳川家から庇護を受けていた関係から、天暁院殿ではなかったかと思う。
 狭い地域に1社4寺もあるのは、どうしてか?武蔵野市の現在の寺院数は10軒ある。その内の4軒がここに集まっている。それも吉祥寺が町として大きくなってからではなく、開村当初からなのだから不思議だ。安養寺は真言宗、蓮乗寺は日蓮宗、光専寺は浄土宗、各寺バラバラだ。開墾者になにがなんでもこの宗派でなければ、という者がいたとは思えない。それにもかかわらず、新田村に4寺。たぶん、門前町の店舗では宗派を問わず仏教僧に必要な商品も扱っていたであろう。そうした店舗と親しい住職の中に、焼け野原となった江戸府内に寺を再建するより、茅野原の新開地に再建するほうをよしとする者がいたのだと思う。
 なお、吉祥寺学寮は明治期末に曹洞宗大学と名を改め、大正期末に現在の駒沢大学へと名を変えていく。
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月窓禅寺のそうじ小僧

2006年08月13日 15時33分31秒 | Journal
 脇の門をくぐって中へ入ると、眼の前に立派な本堂があるが、それより脇にある写真のそうじ小僧が目につく。
 掃除は仕方なくやるぐらいで余り好きではない。しかし、このそうじ小僧とならば楽しくお掃除ができそうだ。
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月窓禅寺

2006年08月12日 18時35分14秒 | Journal
 火曜日だったか、吉祥寺へ取材で出かけ、取材先から善福寺へ行こうかと思ったが、途中であきらめて、駅の方角にアーケード(サンロード)に入る。そのアーケードに面して写真のような中国風の門の禅寺「月窓寺」があるので、一興と感じ、中へ進む。
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ネプタの後ろ

2006年08月12日 17時56分08秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 ペプタの題材は三国志や歌舞伎から採るのだそうだが(最近はドラゴンボールの孫悟空だとか人気ゲームの桃太郎も)、前から来て圧倒する大型のネプタはともかく、小型のものは、後姿に夏の夜の「哀れ」を感じるし、かなり凝った意匠も見つける。

 哀れなるネプタの後ろ夏を彫る  頓休
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立佞武多、昨年の作「炎」

2006年08月12日 17時48分09秒 | Journal
 立佞武多(たちねぷた)が巨大化したのは最近かと思ったら、資料では、明治時代から高さ20メートルを超えるものがあったという。「布嘉(ぬのか)」とかいう豪商や豪農が競って巨大ネプタを作り、百人担ぎで街をねり歩いたとか。弘前でも天保12年(1831年)に黒石藩(弘前藩の支藩)で約15メートルの大型ネプタが運行されたと記録にある。明治に入ると、弘前で五所川原ネプタと大喧嘩になったというから、前から弘前と五所川原はライバル関係があったわけだ。
 なお、津軽弁の掛け声「ヤッテマレ!」は、他町会のネプタを壊した喧嘩ネプタの名残りで、「壊してしまえ!」だそうだ。ちなみに、青森は「ラッセラー」、弘前は「ヤーヤドー」。
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立佞武多「絆」2

2006年08月06日 21時53分24秒 | Journal
 乳飲み子を抱く吉祥天のような母親の姿を表わして、親子の絆を題としたこのネプタも、電信柱の上に見上げると、なにやら妖怪じみている。
 子供の夢に怪しく出てきそうだ。
 
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