弥勒菩薩というと、ニッポンでは京都広隆寺の弥勒菩薩像の瞑想風が有名だが、写真のインドの弥勒はただの人間風。中国では七福神の布袋(ほてい)さまが弥勒の化身というのも、所変わればだ。
(IRC-Spring1-4)そう言えば、君の兄さんにも、パピヨン村の近郊、海辺の温泉ホロノベへ彼女と行った話がありましたな?
ブンペイ ええ、あれは、多分に兄貴の空想もまざっていて、どこまで本当のことだったか分かりませんが、慥かに、そういう原稿がありました。
ブブ その湯治の折、宿の亭主との会話に、兄さんの未完作品『斑鳩の旅芸人一座』の話が出てきて、「ショウトク太子には聴こえたはずのイカルガの遠い音、その無垢な音に耳を澄ます」といった言葉をふと洩らしていました。あれもまったく偶然ではなかったかもしれませんよ。セトナイカイを行き来した太子ならば、ヤナギダ・クニオ(柳田国男)が、『海上の道』(1961年)で指摘したニライ・カナイ(『おもしろ草子』)、すなわち遠く水平線の外にある不思議な憧憬世界、海上の浄土から聴こえてくる音を耳にしたかもしれません。その海は、未来仏ミロク(弥勒)の船が渡ってきた海上の道(road)なのですから。
ブンペイ ニライ・カナイ…、ミロクの船ですか…。
ブブ ええ、白い帆をふくらましたミロクの船が水平線の彼方からやってくる。ヤナギダの本に解説をつけた作家オオエ・ケンザブロウ(大江健三郎)が触れていたように、そのニライ・カナイの水平的な浄土観が、やがてオボツ・カグラ(天上)という垂直的な浄土観とも交錯することがあったのでしょうよ。まあ、海でも山でも、浄土の音楽は聴こうと思えば、どこでも聴こえてくるものなのです。
ブンペイ 浄土の音楽なんて、本当に聴こえるものなのでしょうか…。
ブブ 兄さんが話していた極楽浄土(Paradise)に流れていたよく澄みわたった音というのは、『大無量寿経』(無量寿経とも。『法華経』などと並ぶ初期大乗経典)の上巻に出てくる「自然発生性の音楽」(ナカザワ・シンイチ=中沢新一氏の表現)に比すこともできます。それは、西欧音楽のような人工的なハーモニーとは違う、「打つ音」だったのです。
ブンペイ 打つ音? ……遠く響いてくる太鼓の音のような…。
ブブ ええ、そうです。遠く響いてくる太鼓の音のような、です。兄さんが話していたイカルガの遠い音も、そうした打つ音だったのです。ナカザワ・シンイチという人の説明では、誰も打つ者がいないのに、大空はるかかなたにある打楽器が自然発生的に奏でる打音の響き、極楽浄土の全空間は、静寂をかすかに「打ち」、かすかに擦っていく微妙な音の変化に充たされていた、ということになりますな。
ブンペイ そうでした…。慥かに、あれは、そんな音だったような。
ブブ えっえ? あなたは、その音を、極楽の打楽音を、聞いたことがあるのですか?
ブンペイ まあ…、それは小さい頃のことですけれどもね。
*
ちなみに、ブブ氏は、アスカ(飛鳥)の政治家ショウトク太子も、ゲンロク(元禄)の俳人バショウも、メイジ(明治)の文学者ソウセキも、サムライだったとの持論を持っていて、太子の遺言「世間虚仮、唯仏是真(セケンコケ・ユイブツゼシン)」、バショウのモットー「不易流行(フエキリュウコウ)」、ソウセキの遺言「則天去私(ソクテンキョシ)」を並べて、その証拠のように関連づけて論じる人です。
もし、子供のころ、カヤノ兄弟が耳にし、兄イチロウが芝居の脚本に書いたように、その昔、湖畔のサムライたちが耳にした太鼓の音が、そして、「斑鳩の旅芸人一座」のIRCからブンペイの耳に届いた音が、極楽浄土の打つ音だったとしたら、その符号(coincidence)は、どういうことを意味するのでしょうか。
(IRC-Spring1-4)そう言えば、君の兄さんにも、パピヨン村の近郊、海辺の温泉ホロノベへ彼女と行った話がありましたな?
ブンペイ ええ、あれは、多分に兄貴の空想もまざっていて、どこまで本当のことだったか分かりませんが、慥かに、そういう原稿がありました。
ブブ その湯治の折、宿の亭主との会話に、兄さんの未完作品『斑鳩の旅芸人一座』の話が出てきて、「ショウトク太子には聴こえたはずのイカルガの遠い音、その無垢な音に耳を澄ます」といった言葉をふと洩らしていました。あれもまったく偶然ではなかったかもしれませんよ。セトナイカイを行き来した太子ならば、ヤナギダ・クニオ(柳田国男)が、『海上の道』(1961年)で指摘したニライ・カナイ(『おもしろ草子』)、すなわち遠く水平線の外にある不思議な憧憬世界、海上の浄土から聴こえてくる音を耳にしたかもしれません。その海は、未来仏ミロク(弥勒)の船が渡ってきた海上の道(road)なのですから。
ブンペイ ニライ・カナイ…、ミロクの船ですか…。
ブブ ええ、白い帆をふくらましたミロクの船が水平線の彼方からやってくる。ヤナギダの本に解説をつけた作家オオエ・ケンザブロウ(大江健三郎)が触れていたように、そのニライ・カナイの水平的な浄土観が、やがてオボツ・カグラ(天上)という垂直的な浄土観とも交錯することがあったのでしょうよ。まあ、海でも山でも、浄土の音楽は聴こうと思えば、どこでも聴こえてくるものなのです。
ブンペイ 浄土の音楽なんて、本当に聴こえるものなのでしょうか…。
ブブ 兄さんが話していた極楽浄土(Paradise)に流れていたよく澄みわたった音というのは、『大無量寿経』(無量寿経とも。『法華経』などと並ぶ初期大乗経典)の上巻に出てくる「自然発生性の音楽」(ナカザワ・シンイチ=中沢新一氏の表現)に比すこともできます。それは、西欧音楽のような人工的なハーモニーとは違う、「打つ音」だったのです。
ブンペイ 打つ音? ……遠く響いてくる太鼓の音のような…。
ブブ ええ、そうです。遠く響いてくる太鼓の音のような、です。兄さんが話していたイカルガの遠い音も、そうした打つ音だったのです。ナカザワ・シンイチという人の説明では、誰も打つ者がいないのに、大空はるかかなたにある打楽器が自然発生的に奏でる打音の響き、極楽浄土の全空間は、静寂をかすかに「打ち」、かすかに擦っていく微妙な音の変化に充たされていた、ということになりますな。
ブンペイ そうでした…。慥かに、あれは、そんな音だったような。
ブブ えっえ? あなたは、その音を、極楽の打楽音を、聞いたことがあるのですか?
ブンペイ まあ…、それは小さい頃のことですけれどもね。
*
ちなみに、ブブ氏は、アスカ(飛鳥)の政治家ショウトク太子も、ゲンロク(元禄)の俳人バショウも、メイジ(明治)の文学者ソウセキも、サムライだったとの持論を持っていて、太子の遺言「世間虚仮、唯仏是真(セケンコケ・ユイブツゼシン)」、バショウのモットー「不易流行(フエキリュウコウ)」、ソウセキの遺言「則天去私(ソクテンキョシ)」を並べて、その証拠のように関連づけて論じる人です。
もし、子供のころ、カヤノ兄弟が耳にし、兄イチロウが芝居の脚本に書いたように、その昔、湖畔のサムライたちが耳にした太鼓の音が、そして、「斑鳩の旅芸人一座」のIRCからブンペイの耳に届いた音が、極楽浄土の打つ音だったとしたら、その符号(coincidence)は、どういうことを意味するのでしょうか。