Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

弥勒信仰とイカルガの遠い音(IRC-Spring1-4)

2007年01月28日 10時51分00秒 | Ikaruga Road Company
 弥勒菩薩というと、ニッポンでは京都広隆寺の弥勒菩薩像の瞑想風が有名だが、写真のインドの弥勒はただの人間風。中国では七福神の布袋(ほてい)さまが弥勒の化身というのも、所変わればだ。

 (IRC-Spring1-4)そう言えば、君の兄さんにも、パピヨン村の近郊、海辺の温泉ホロノベへ彼女と行った話がありましたな?
ブンペイ ええ、あれは、多分に兄貴の空想もまざっていて、どこまで本当のことだったか分かりませんが、慥かに、そういう原稿がありました。
ブブ その湯治の折、宿の亭主との会話に、兄さんの未完作品『斑鳩の旅芸人一座』の話が出てきて、「ショウトク太子には聴こえたはずのイカルガの遠い音、その無垢な音に耳を澄ます」といった言葉をふと洩らしていました。あれもまったく偶然ではなかったかもしれませんよ。セトナイカイを行き来した太子ならば、ヤナギダ・クニオ(柳田国男)が、『海上の道』(1961年)で指摘したニライ・カナイ(『おもしろ草子』)、すなわち遠く水平線の外にある不思議な憧憬世界、海上の浄土から聴こえてくる音を耳にしたかもしれません。その海は、未来仏ミロク(弥勒)の船が渡ってきた海上の道(road)なのですから。
ブンペイ ニライ・カナイ…、ミロクの船ですか…。
ブブ ええ、白い帆をふくらましたミロクの船が水平線の彼方からやってくる。ヤナギダの本に解説をつけた作家オオエ・ケンザブロウ(大江健三郎)が触れていたように、そのニライ・カナイの水平的な浄土観が、やがてオボツ・カグラ(天上)という垂直的な浄土観とも交錯することがあったのでしょうよ。まあ、海でも山でも、浄土の音楽は聴こうと思えば、どこでも聴こえてくるものなのです。
ブンペイ 浄土の音楽なんて、本当に聴こえるものなのでしょうか…。
ブブ 兄さんが話していた極楽浄土(Paradise)に流れていたよく澄みわたった音というのは、『大無量寿経』(無量寿経とも。『法華経』などと並ぶ初期大乗経典)の上巻に出てくる「自然発生性の音楽」(ナカザワ・シンイチ=中沢新一氏の表現)に比すこともできます。それは、西欧音楽のような人工的なハーモニーとは違う、「打つ音」だったのです。
ブンペイ 打つ音? ……遠く響いてくる太鼓の音のような…。
ブブ ええ、そうです。遠く響いてくる太鼓の音のような、です。兄さんが話していたイカルガの遠い音も、そうした打つ音だったのです。ナカザワ・シンイチという人の説明では、誰も打つ者がいないのに、大空はるかかなたにある打楽器が自然発生的に奏でる打音の響き、極楽浄土の全空間は、静寂をかすかに「打ち」、かすかに擦っていく微妙な音の変化に充たされていた、ということになりますな。
ブンペイ そうでした…。慥かに、あれは、そんな音だったような。
ブブ えっえ? あなたは、その音を、極楽の打楽音を、聞いたことがあるのですか?
ブンペイ まあ…、それは小さい頃のことですけれどもね。
                  *
 ちなみに、ブブ氏は、アスカ(飛鳥)の政治家ショウトク太子も、ゲンロク(元禄)の俳人バショウも、メイジ(明治)の文学者ソウセキも、サムライだったとの持論を持っていて、太子の遺言「世間虚仮、唯仏是真(セケンコケ・ユイブツゼシン)」、バショウのモットー「不易流行(フエキリュウコウ)」、ソウセキの遺言「則天去私(ソクテンキョシ)」を並べて、その証拠のように関連づけて論じる人です。
 もし、子供のころ、カヤノ兄弟が耳にし、兄イチロウが芝居の脚本に書いたように、その昔、湖畔のサムライたちが耳にした太鼓の音が、そして、「斑鳩の旅芸人一座」のIRCからブンペイの耳に届いた音が、極楽浄土の打つ音だったとしたら、その符号(coincidence)は、どういうことを意味するのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖徳太子の道後温泉(IRC-Spring1-3)

2007年01月28日 10時31分46秒 | Ikaruga Road Company
 聖徳太子については、その実在を疑う説からはじまって、業績に対するいろいろ議論もあれば毀誉褒貶(きよほうへん)もある。政治家というよりは、宗教家、イエス・キリストに似た雰囲気もあって、ニッポン人としては特異な存在だ。

 (IRC-Spring1-3)さらに、太鼓の音のことでは、ブンペイの兄イチロウに関連するこんな余談(digression)もあります。
 兄の知り合いで、生前の兄との往復書簡(correspondence)を一冊の本(『科学と風雅』)にまとめた人に、イザヤ・ブブ氏という時代骨董の鑑定人(connoisseur)がいます。このブブ氏とは、これまでのところ、直接面識(acquaintance)を持ったことはないのですが、本の発刊(publication)のことで連絡があり、後には上記の娘たちの失踪(disappearance)事件で頻繁にメールのやり取りをする機会があって、太鼓の音についても思いがけない方角から薀蓄(うんちく、profound remark)を授けてもらったことがありました。
 ショウトク太子という古い時代のニッポンの政治家に関連して、ブブ氏からあれこれ講釈(lecture)を授かった当時のパソコン上の会話記録には、こんな内容が残っています――。

  To. Mr. Kayano Bunnpei
  From. Izaya Bubu
  Subject. Shoutokutaishi

ブブ 596年というから、ショウトク(聖徳)太子が、まだ、二十二才の年齢だった頃、なぜか、カヅラキノオミ(葛城臣)の案内であったらしいが、太子と師のエジ(慧慈)がイヨ(伊予)のドウゴ(道後)へ温泉旅行に出かけたという記事が、『伊予国風土記』逸文に記されています。

〔Comment:原碑はとっくに失われていたが、ドウゴ温泉のイサニワ(伊社邇波)の丘に、「伊予湯岡碑」と呼ばれるショウトク太子建立の碑があったことが、『釈日本紀』(しゃくにほんぎ、日本書紀の注釈書)に引用された逸文の、『伊予国風土記』湯の郡(こおり)の条に見られる。
 カヅラキノオミとは、カヅラキノオミ・オナラ(葛城臣鳥那羅)のことか。この屁(へ)のような名を持った人は、スシュン(崇峻)天皇のとき、シラギ(新羅)征討のためにツクシに向かった四将軍の一人で、太子の寵臣だったと伝えられる。
 ウエハラ・カズ(上原和)という研究者の推測によれば、このとき、太子は「伊予国における彼の領地を巡行していたのである」。太子が創建したホウリュウ寺の『資材帳』によれば、寺が管理している庄(しょう)は、「伊予国」に14カ所もあった。寺領の庄の総数46カ所のうち、わずか2カ所(右京九条二坊壱処、近江国壱処・在栗太郡物部郷)以外は、すべてホウリュウ(法隆)寺のある「大和国平郡郡」を起点としてイヨ国に至る間のヤマト(大和)川・セトナイカイ(瀬戸内海)沿岸に点在していた。
 ウエハラ氏は、ホウリュウ寺の庄がセトナイカイの海上ルートの要所要所にあったことから、太子自身が「朝鮮と畿内とを結ぶ海上の回廊」を押さえていたと想像している。〕

  十年の汗を道後(どうご)の湯に洗へ  〔Shiki〕

ブブ マサオカ・シキ(正岡子規)の故郷マツヤマ、江戸っ子のナツメ・ソウセキ(夏目漱石)の小説主人公「坊っちゃん」が、赤手拭(てぬぐい)をぶら下げて通った、あのドウゴ温泉であります。なんでも、古代の大王家は温泉好きで、キイ(紀伊)のムロ(牟婁)の湯やアリマ(有間)の湯へもよく行ったようですが、セトナイカイ(瀬戸内海)を船で行けるドウゴ温泉も、湯治場として人気があったと申します。
ブンペイ ショウトク太子が、「坊っちゃんの温泉旅行」ですか?
ブブ ああ、やはり君も、意外な感じがしますか。エジはコウクリから来ましたが、コウクリのピョンヤン(平壌)辺りには古くから温泉群があったといいますから、太子は、はるばる異郷へやって来た師を慰めるつもりで、誘ったのかもしれませんね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

良寛の「希音は是れ真音」と太鼓の打つ音(IRC-Spring1-2)

2007年01月28日 10時12分35秒 | Ikaruga Road Company
 良寛は、子供や女性に人気がある。どういう風貌の坊さんだったか、知る由(よし)もないが、あるHPには有名な画家の空想の良寛が集めてある。なかでも、この杉本春良の良寛が飄々(ひょうひょう)でいい。

 (IRC-Spring1-2)不思議なことに、カヤノ・ブンペイには、彼らIRC座員の声が、しかも、複数の声が、常にどこからか聴こえてくるのであります。それらの声は、時には、直前に目撃したことを仲間内に伝え合うささやき声(whisper)であったり、時には、古老(elder)が曾孫(great-grandchild)たちに昔話をしているようでもあり、時には、何か事件に巻き込まれての切羽詰った叫喚(cry)であったり、また時には、深い落胆のため息(sigh)であったりしました。いずれにしても、どこか無垢(むく、innocent)で、悪意のない(harmless)声だと、ブンペイには思われました。
 そして、ブンペイが、少しはリラックスした平穏な気分のときに、もっと注意を集中して耳を澄ましていると、それらの声の背後に、何かの雑音(noise)がまざっていることにも気がつきました。宗教音痴なブンペイにとって、もちろん知識外のことだったでしょうが、初め、それは、自ら「大愚」と号したリョウカン(良寛)という昔のお坊さんが言っていたような、妙音、潮騒(しおさい、the sound of the sea)のようなものとして、彼の耳に届いていたはずです。

妙音(みょうおん)観世音(かんぜおん)、梵音(ぼんのん)海(かい)潮音(ちょうおん)。彼の世間の音(おん)に勝(まさ)って、希音(きおん)は是(こ)れ真音(しんおん)なり。是の故に、我は今頂首(ちょうしゅ)す。
――Ryoukann 『良寛道人遺稿』

 ただ、よくよくブンペイの聴覚(audition)に尋ねてみますと、そのような潮騒に擬す連続音(the sequence of sounds)からなる真音だけとも、ちょっと違う音がするようなのです。潮騒の音が静かに遠のくときなど、そこに、もっと間隔(interval)を開けた何かを打つような音が、あった。その打つ音は、待っているとなかなかしない。でも、忘れたころに、またする。

  永(なが)き日を太鼓(たいこ)打つ手のゆるむ也  〔Souseki〕

 最初は、誰かが、いたずらに、自分か他人、もしくはペットの犬か猫の心臓の鼓動(stroke)に聴診器(stethoscope)のようなものを当てて、その胸の中で打ち叩く音を、いたずらに、何かの仕掛けで流しているのかと疑いましたが、心臓もあれだけ間遠に、それもえもいわれぬリズムをつけて打っていたら、大抵の生き物は胸苦しくなって死んでしまうでしょうから、はてなと思っていましたら、あるとき、それが、幼い頃の朝方、窓ガラスを微かに震わせて、ブンペイの枕元(bedside)まで届いた太鼓(drum)の音、村へやってきた旅芸人一座(road company)のテント小屋から届いた公演告知の太鼓の音と同じだ、と腑に落ちました。

  時空打つ太鼓の音や空の中  〔Tonkyu〕

 しかも、その音は、古(いにしえ)のサムライの耳にも届いた、実在した時を打つ太鼓の音だったとは、最近になって、悟ったことでした。ブンペイが、そうと気づいたのは、亡くなった兄で、劇作家だったカヤノ・イチロウ(茅野一郎)がつくった時代芝居の一場面を観たときでした。その舞台となる太古からあるニッポンの湖、ビワコ(琵琶湖)という大きな湖畔に面した美しい城下町ゼゼ(膳所)にも、藩士たちに登城の時刻を知らせる同じ太鼓の音が響いていました。もしかして、長く疎遠だった兄も、あの同じ太鼓の音に耳を澄ましていたのかと思うと、暗い客席にうずくまったブンペイは、不思議な感じにとらわれたものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブンペイ、火星で人探し(IRC-Spring1-1)

2007年01月28日 10時01分25秒 | Ikaruga Road Company
 火星にはまだ行ったことがない。別に行きたくもない。なんでも赤錆(あかさび)だらけの星らしい。そんなところで人探しとは、ブンペイもごくろうさまだ。

  [Spring]  物語の発端
  The beginning of the tale

 “Ikaruga Road Company”(略称=IRC)というのは、「イカルガ道路会社」のことではありません。「斑鳩の旅芸人一座」が、正解(right answer)です。されど、いつも正解から興味深い物語が始まるとは、限らないでしょう。むしろ、今昔の物語、しばしば逆のケースが多いのでは。今回も、絵空事(pipe dream)、ちょっとした誤解(mistaken belief)が、物語発進の端緒(beginning)となったのでした。

  人の上春を写すや絵そら言  〔Souseki〕

 1.

 かなり前から、一人の男が、知り合いの失踪(missing)した二人の娘がIRC座員(members of a troupe)と一緒にいるかもしれないとして、その所在(whereabouts)を探して、地球上、いや、月や火星(Mars)の基地まで、くまなく歩きまわっておりました。
 男の名はブンペイ(文平)、姓はカヤノ(茅野)。童顔(baby face)で若くは見えますが、それでも年のころは30歳過ぎだとか。名前からしてニッポン系の連邦人のようですが、平均的な日系連邦人に比べると、優に190センチと背丈がずば抜けて高いし、肩幅なんかも肩パッド(shoulder pad)を入れたアメリカンフットボールの選手のようにがっしりと広い。見受けたところ、その体格(build)にしては、意外と内気な性質(a shy disposition)なのでしょう。普段から、顔の上半分が隠れるような、つばの大きい、けったいな尖がり帽(a peculiar pixie hat)を目深にかぶっています。それに、季節や場所柄もわきまえずに冬外套を着込んでいる。春が来たとか来ないとか、寒いとか暑いとか、ここは格式が高いとか場末だとか、今のこの男にとっては、どうでもいいことのようです。

  季節なく冬外套に尖(とん)がり帽  〔Tonkyu〕

 こうした一風変わった風体(eccentric appearances)は、見る人に滑稽(funny)を通り越して、なんだか不審な印象(a suspicious feeling)を与えてきたようです。火星のショッピングモールを奇妙な外見の大男が、しかも、若い娘や幼い女の子の写真を示して、「この人たちを見かけたことはないか」と、尋ね歩いているというので、通報を受けた警察官に、職務質問(police checkup)され、警察署へ連行されたこともありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疑問、なぜ線香の煙を招くとご利益があるのか?

2007年01月26日 10時16分31秒 | Journal
 いつも変わらぬ光景。上海の寺では東西南北に向かって線香の束を持って拝む姿を見かけても、線香の煙を自分の身体に招いて、「ここが良くなりますように」とはやっていなかった。いささか迷信臭いが、どうしてこうした風習ができたのか理由が分からない。大体、この大きな香炉のようなものを何と呼べばいいのか、それも分からない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浅草寺の時の鐘、芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」との関連

2007年01月26日 10時01分17秒 | Journal
 浅草寺の境内にたどりつくと、混雑しているメインスポットは避け、なんとなく脇の方を歩いていると目立たない隅に鐘楼を見かけた。はてな、あれが有名なあの時の鐘であるかと思った。そう、言うまでもないが、芭蕉の「花の雲鐘は上野か浅草か」の浅草の時の鐘である。
 この梵鐘、元禄5年(1692年)8月、五代将軍徳川綱吉の命により改鋳された。昭和20年3月、東京大空襲で火を浴びたが無事に残ったのだとか。鐘楼は昭和25年に再建されたもの。
 芭蕉の上句は、貞享4年(1687年)の作とされ、あるいは、この鐘自体を詠んだものではないのかもしれない。さて…?。なお、写真の手前に句碑のようなものも見えよう。そこには「観音のいらかみやりつ花の雲」(貞享3年)を掲げてあるが、この句碑は寛政8年(1796)10月12日、芭蕉の103回弔に建立され、もとは浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くにあったものを戦後、この地に移転したのだそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝法院通り(浅草)

2007年01月26日 09時22分18秒 | Journal
 東本願寺の境内を見てから、正門から出て、ぶらぶらと田原町まで来て、交差点を渡り、しばらく歩いてから浅草寺方面へ左へ折れる。平日の寒空の下、伝法院通りは、いつものように観光客が多い。なんでも、浅草の伝法院(でんぼういん)は浅草寺の宿坊として用いられてきたのだとか。文京区小石川にある「千姫」で有名な伝通院(でんずういん)もよく「でんつういん 」と間違って発音されるが、「法」は濁音の「bou」使います。「pou」で はありませんのでご注意を、とご親切な注意書きがあるHPにあった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東本願寺

2007年01月26日 09時03分42秒 | Journal
 それから、かっぱ橋道具街のアーケードに沿って歩き、右に通りを入ると、異様な建物が眼に入ってきた。東本願寺である。コンクリート造の巨大な建物だが、古びて、なにやら妖怪然としている。そういえば、この本願寺にはややこしいお家騒動があったのを思い出した。もともと神田明神下にあったのが、大火事の被災からここ浅草に引っ越してきたのだとか。HPに――神田明神下においては、慶長16年(1612)、寛永9年(1632)、そして明暦3年(1657)と、度々火災に見舞われた。特に明暦の大火により、江戸市中ことごとく焼失、死者10万人以上。この頃、東本願寺は14世琢如上人の時代。 明暦の大火以後、幕府は「築地か浅草か好きな方を選べ」とし、東本願寺は浅草を選び堂宇を建立。浅草本願寺時代が始まる。ちなみに江戸浅草御坊は築地へ移転し現在に至る。

 Wikipediaによれば、浄土真宗東本願寺派(じょうどしんしゅうひがしほんがんじは)は,真宗大谷派(末寺数約9,000)から独立した浄土真宗の一派。全国独立寺院の三百数十ヶ寺からなる。本山は東京都台東区の東本願寺。
 1969年(昭和44年)、本願寺と包括関係にあった真宗大谷派内部において、教義上の解釈等をめぐって紛争が発生した(お東騒動)。
 第24代門主(法主)大谷光暢(闡如)は、本願寺の法統を守るためとして真宗大谷派との包括関係を解いて京都の本願寺を独立させようとし、同時に全国の別院末寺にも独立をするよう呼びかけた。これを受けて光暢の長男、大谷光紹(興如)は、自身が住職をしていた真宗大谷派浅草別院・浅草門跡(東京本願寺)の独立を進めた。一方、改革派は、1981年(昭和56年)、「宗憲」を変更、1987年(昭和62年)、「宗本一体」をかかげて、それまで真宗大谷派と包括・被包括の関係にあった宗教法人としての「本願寺」を法的に解散し、派の象徴として門首を設けた(この後、京都の東本願寺の正式名称は、「真宗本廟」となる)。
 東京本願寺は、1981年(昭和56年)6月15日、東京都知事の認証を得て真宗大谷派から独立し、1988年(昭和63年)2月29日、光紹は第25代法主の継承を宣言、同時に東京本願寺を本山とした。全国独立寺院の三百数十ヶ寺からなる「浄土真宗東本願寺派」を結成した。
 光紹亡き後の法統は、その長男である大谷光見(聞如)へと受け継がれた。1996年(平成8年)には「宗規」と「憲章」を定め、「末寺」制度を設けた。また、本山東京本願寺の寺院規則の変更が2001年(平成13年)4月26日付で認証され、名称が「東京本願寺」より「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」に変更となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葛飾北斎の墓(元浅草・誓教寺)と時世の句「人魂で行く気散じや夏野原」

2007年01月26日 07時58分03秒 | Journal
 浅草橋から浅草までとぼとぼ歩いた。すると思いがけない人の墓を見つけた。目立たない寺の、それはまた右側に奥まった一角にあった。葛飾北斎の墓である。世界を驚愕させた、はっきり言って同時代のフランス印象派を超えていた天才画家の墓にしては、立て込んだ中にあってまことにみすぼらしいが、これも市井の画狂老人卍にはふさわしいのかもしれない。
 北斎は、嘉永2年(1849年)4月18日、浅草聖天町の長屋で三女の阿栄(おえい)に看取られて亡くなった。北斎の墓は、幕末まで北斎の父と合葬されていたが、現在の墓は次男の崎十郎かその娘の白井多知が建てたと伝わる。
 墓石の正面には「画狂老人卍墓」と大書きされているそうだが、分かりにくい。右側には時世の句「人魂で行く気散じや夏野原」が刻まれているのだとか。いかにも北斎らしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エドゥアール・マネ「すみれのプーケをつけたベルト・モリゾ」(1872年)

2007年01月26日 07時25分14秒 | Journal
 小生、恥ずかしながら写真の少女に恋していたことがある。
 まだ札幌で大学生をしていた頃だ。机の上の壁に、本から切り取ったこの少女の顔を鋲(びょう)で留めて、いつも眺めていた。なんでも、明日から東京都美術館である「オルセー美術館展」で彼女も展示されるようだ。行くのがこわいような気がする。

ベルト・モリゾ(Berthe Morisot、1841年1月14日 - 1895年3月2日)は、マネの絵画のモデルとしても知られる、19世紀の印象派女性画家。
 マネに絵画を学びながら、彼のモデルを多く務めた。彼との恋仲を噂されることもあったが、実際は1874年にその弟のウージェーヌ・マネと結婚した。1879年に娘ジュリーを出産。
 彼女の画風は自然の緑を基調としたものが多く、穏やかで、母子の微笑ましい情景などが特徴的である。男性中心の19世紀における女性画家ということもあって、フェミニズム研究でのアプローチが多い。
 ルノワールやマラルメとの親交もあった。彼女の死後、マラルメ、ドガ、ルノワールは16歳で孤児となったジュリーの後見人となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする