Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

横浜市開港記念会館の全景、大建築家の夢を捨てた夏目漱石

2006年10月29日 15時53分54秒 | Journal
 建築家ならば、建物は文化だと自負するだろう。しかし、このように凛としたたたずまいで、文化財のまま市民に講習会など様々な会合で自由に使ってもらっている幸せな建物は、日本では少なくなりつつある。ちなみに、この会館は国指定重要文化財だそうだ。
 かつて、夏目漱石は建築家希望だったが、米山保三郎なる友人から、「日本でどんなに腕を揮(ふる)ったって、セント・ポールズの大寺院のような建築を天下後世に残すことは出来ない」と断言され、将来は大建築家との夢も立ち消えになったという話は余りに有名だ。地震というハンディキャップがあるものの、容積率だとか効率性重視で巨大な建物ばかり建てたがる昨今の施主や建設業界。小さくて、切なくなるほど美しい建物をなぜ建てようとしない。漱石をいさめた友人の言葉は、今も、それほど修正する必要はないようだ。
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実施設計と建設(横浜市開港記念会館)

2006年10月29日 15時46分14秒 | Journal
 設計がよくても、施工がダメならば建物は信用できない。
 というか、姉歯事件までは、建設業界の常識的見方は、「設計よりも施工に不安がある」だった。土曜日に取材した業界団体主催の講習会の講師は構造設計者で、「工作しやすい設計といっても品質が置き去りにされては…」と初めに念を押していたが、とかくコストと納期に押されて、経済設計ならぬ経済施工へ安易に走りがちだ。関東大震災で倒れなかったこの建物を見習わなければならない。
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大正2年の設計コンペ(横浜市開港記念会館展示パネル)

2006年10月29日 15時33分03秒 | Journal
 コンペで採用された福田重義の設計は、構造的には混合、地階部をコンクリート造、地上部を煉瓦造、高さ約35メートルの塔は鉄骨煉瓦造という組み合わせだった。それにしても、こうした異種の組み合わせにより、風雅な意匠が実現したものなり。
 
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関東大震災で被害(横浜市開港記念会館)

2006年10月29日 15時31分15秒 | Journal
 その後、町会所の建物は横浜貿易商組合会館として使われていたが、類焼で、明治39年に焼失。大正6年に、開港50周年で、今の建物が竣工した。ところが、12年に関東大震災で大被害。躯体や煉瓦壁を残して焼失したという。市内の煉瓦造の建物がほとんど瓦解した中では、骨格を残した分、優秀な耐震性能を証明できたというが、写真で判断する限り、火災には極めて弱く、屋根が焼け落ちて青天井となる、かなりのダメージだ。復旧では、屋上をコンクリートの陸屋根にしたとか。
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旧横浜町会所、横浜の時計台

2006年10月29日 15時21分09秒 | Journal
 明治期には、天心の父親が営んだ石川屋の跡地に、石造り2階の立派な町会所が建っていた。
 明治22年に市制がしかれるまで、明治7年から15年間、ここが横浜の行政庁だったようだ。屋上に高塔があったことから、横浜庶民に「時計台」と親しまれたとか。
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窓から見える神奈川県庁(横浜市開港記念会館)

2006年10月29日 15時00分21秒 | Journal
 実は、昨日の土曜日も中華街で取材があり、みなとみらい線を日本大通で地上に出て、開港記念会館に寄った。
 中区の会館として現役で使われているので、講演会などさまざまな行事が行われていた。2階へのぼると、塔のわきにある半円形の窓から神奈川県庁の建物が見えた。2階のこの窓の一角には、展示スペースがあり、パネルなどで、この建物の歴史が紹介されている。
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岡倉天心が開けた救世観音の神秘

2006年10月29日 14時52分47秒 | Journal
 作品の第2巻『イカルガ・サウンズ』には、こんな叙述を記した。――1884年(明治十七年)、アーネスト・フェノロサと弟子のオカクラ・テンシン(岡倉天心)が、これを開ければ落雷があると怖れる寺僧を諭(さと)して、夢殿の厨子(ずし)を開けました。彼らは800年以上も人目から隠されてきた秘仏に、その醜さ具合に宿る実は物静かで力強い美を見出せるとして、大いにクゼ観音の名誉を回復しました。白人系ガイジンの評価にとかく弱いニッポン人のこと、たちまち「割り切れない美」と評価を覆ってしまった。
 クゼ観音は、ニッポン人のこじんまりとすぐれて自然調和的な美的感覚からすれば、異様に底深く情愛を滲ませた点で、特異であります。いわば、ニッポン離れして「ガイジンぽく、哲人ぽい仏像」でした。著作『東洋の理想』(1903年)で、天心はこんな風に述べています。

 ――これら二つの観音(百済観音と救世観音)から、われわれは、仏教芸術に現われた漢の型を特徴づけている、表現の理想化された純粋さについて判断することができる。釣合いはかならずしもみごとではない――手や足の大きさは釣合いを失っているし、目鼻立ちはほとんどエジプトの彫刻に見るような硬い静けさを持っている。とは言え、これらの欠点があるにもかかわらず、われわれはこれらの作品の中に、偉大な宗教的感情だけが生み出し得たと思われるような、高度の洗練と純粋の精神を見出すのである。すなわち、神性は、国民の自覚のこの初期の段階においては、近づきがたい、神秘的な抽象的理念のように思われたのであり、そして、その自然らしさからの距離でさえ、かえって、芸術におそろしい魅力を与えているのである。
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岡倉天心の生誕の地

2006年10月29日 14時34分35秒 | Journal
 なんでも、この地は、岡倉天心の生誕の地だとか。知らなかったな。
 天心の父・勘右衛門さんが支配人をしていた石川屋(越前藩の生糸売り込み所)がここにあったらしい。こうした碑石があるのだから、その通りなのだろう。天心については二三のことを記憶しているだけだ。まずおもしろい印象的な風貌をしていた。横山大観のスピリット面のお師匠さんだった。「茶の本」という著作がある。少し読んだような記憶もあるが、忘れた。いずれにしても、明治期の日本芸術を開拓していった存在。ああと、あと、慥か作中で触れたが、法隆寺の救世観音について興味深い逸話があったはず。

 Wikipediaによれば、岡倉 天心(おかくら てんしん、男性、文久2年12月26日(1863年2月14日) - 1913年(大正2年)9月2日)は、明治期に活躍した美術家、美術評論家、美術教育者。本名岡倉覚三。幼名は角蔵。弟は英語学者の岡倉由三郎。横浜生まれ。福井藩士だった父親岡倉勘右衛門は貿易商で、幼いころから英語に慣れていた。東京開成所入所。政治学・理財学を学ぶ。英語が得意だったことから、同校講師のアーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝った。
 東京都台東区に岡倉天心記念公園(旧邸・日本美術院跡)がある。また、ニューヨークで英語で「茶の本」を出版して100年にあたる今年2006年には、天心が心のふるさととしてこよなく愛した福井県の大本山永平寺において、岡倉天心「茶の本」出版100周年記念座談会が行われた(10月9日(月・祝))とか。
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横浜市開港記念会館の塔

2006年10月29日 14時26分20秒 | Journal
 一昨日の夕方、パスポートの受け取りに山下公園の産業貿易センターへ出かけ、関内まで歩いて帰る途中、交差点にさしかかって見上げると、そこだけは英国の塔かと錯覚しかねない古風さ。
 まったくクラシックな建物である。横浜の街は、突然、こうした19世紀を現出させる。
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遠足の山下公園とコンテナのオブジェ

2006年10月22日 14時57分47秒 | Journal
 まさに遠足日和。ここは広い芝生もあって、遠足にはいい。
 前から気になっていたコンテナのオブジェは、ルック・デルー氏の《Speybank》というものらしい。「横浜トリエンナーレ2005」の会場入口に作られていた作品で、開催中はイベントのシンボル的存在としてあちこちで写真が取り上げられていたとか。
 さてと、時間もなくなり、楽しい散歩も終わりである。これから中華街のホテルで、退屈な会議の取材なり。
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