世の中に業界紙なんてものは何万とあるらしい。小生もその何万もの業界紙の1紙を発行する会社で記者をやっている。その業界は鉄骨業界あるいは鉄構業界、ときにはファブ業界とも言う。ファブとはファブリケーターの略だ。その昔は、鍛冶屋とか鉄工所とも言ったが、刀や包丁、鍬(くわ)をつくるのも鍛冶屋だし、朝のNHK連続ドラマ小説「てっぱん」の尾道のお父さんの工場は造船関連の鉄工所である。そこへいくとファブと言うのは、建築鉄骨に限定される鉄工所である。
ファブ業界は、建設業の専門工事業と分類される。鉄鋼会社がつくった鋼材を鉄骨に加工して建設現場へ納入するので、加工業もしくは製造業という位置づけで経済産業省の所管する業界になるが、発注先であるゼネコンなどに製品を納入し、ときには建設現場で鉄骨の建て方工事に参加するので、建設業界を所管する国土交通大臣がファブの工場を認定するなど、製造業と建設業の二股をかけた業界となっている。役所の許認可で成り立つ業界だから自律しているとは言い難く、業界団体が恒例の新年賀詞交換会を開催すると、決まって経済産業省の鉄鋼課長さんと国土交通省の建築指導課長さんを来賓として招き、有り難いスピーチをしてもらう。
加工する中身は、建物の縦に入る柱と横に入る梁をくっつける稼業である。別に難しい仕事ではないが、変なくっつけ方をしてあると、大地震のときに柱と梁の接合部で亀裂が発生し、建物が壊れやすくなる。もともと鉄骨造というのは耐震性があるという触れ込みだから、これは欠陥鉄骨として糾弾されるべきものだ。柱と梁をくっつけるには、ボルトで接合するか、溶接を使う。どちらもいい加減な仕事だと品質に問題が生じるが、どちらかと言えば、溶接の方に問題点がある。なぜならば、強いはずの鋼鉄も溶接時に大量の熱を加えるともろくなるからだ。だから時間をかけて適当に冷ましながら溶接しないといけないのだが、ゼネコンから納期を縮められ、賃金も安いから、溶接工も面倒になって急いで溶接してしまうことがある。そこで、鉄骨製品をファブの工場から搬出する前に、超音波で接合部の内部を探傷して欠陥を見つける検査を二重にすることになっているが、これもゼネコンが金を惜しむから、ファブと検査会社の両方で抜かしてしまう可能性がある。したがって、二つ、三つの怠慢が重なれば、建設現場に不良鉄骨が白昼堂々と運ばれていくことになる。
こういう問題をジャーナリズムの立場から大いに糾弾するのが、小生の仕事である、のはずなのだが、そこが業界紙である。広告や購読の利害関係が「ジャーナリズムの正義」にぐるぐる巻きついて、真実究明にもう一つ力が入らないと言うか、関係の深い大手が不正をやれば眼をつぶって報道せず、零細や外部者が不埒(ふらち)をはたらけば大いに成敗するといった情けないことも生じる。しかし、それは業界のスケールや利害関係者が違うだけで朝日でも日経でも、どんなメジャーなジャーナリズムも実は、何らかの利害によって動いているのであり、そうした意味からはジャーナリズム業界は真実究明などという表看板を外すべきなのだ。
だから、小生は自分を「ジャーナリスト」と過分に思ったことは余りない。実際、何度かそう思ったときも、例えば、小心翼々と記事中に問題の会社名や氏名を伏せて、A社だとかB氏だとか、どこの誰だか分からないような匿名記事を書いたときなど、苦い気分で「一応、これでも俺はジャーナリストのはしくれのはずなのに」と自分につぶやくぐらいなものである。以前、会社は、掲載した記事がもとで訴訟に巻き込まれ、幹部が大変な思いをしたそうで、それから危険な記事掲載を避けるようになった。慥かに、日常業務をかかえて裁判所通いは面倒は面倒だから会社を一方的に非難する気はない。ただ、自分たちを「業界紙記者」と言わずに「専門紙記者」と称して、ジャーナリストとして恰好をつけてみせるのは笑止千万だ。弾(たま)のとんできそうな場所にはけっして行かないことにしている自称「戦場カメラマン」のようなものである。
ただし、ジャーナリズムを恰好良く考えるには、もっと根本的な疑問がある。つまり、それは真実とは何か、という疑いである。社会という複雑系の中にころがる真実は、大衆が受け入れる分かりやすい真実とは限らない。おおむね、ジャーナリズムが扱う「真実」とは、大衆に分かってもらいたさに単純化した平板なメッセージにならざるを得ない。もし、真実をあるがままに立体的・構造的に書きとめておこうとすると、基底にある物事の全貌をどこまでも掘り下げていかなければならない。掘っていくうちには、ときに不可解な地層に分け入って吟味しなければならなくなる。それを「購読者を増やすために読者に喜ばれる記事を簡潔に書け!」とせっつかれている記者が書くのは至難だ。それでも、小生は可能な場合は比較的長く物事の幹に枝葉末節をつけて書くことにしている。それで真実の近傍に至るかは知らないが、面白いことを表現から逃したくないからだ。やはり、小生の趣味は、ジャーナリストぽくないのかもしれない。
ところで、小生が身を置く鉄骨業というのは、ある意味、もともと分かりやすい単純な物理的真実を持っているので、自分は嫌いではない。写真にあるように、それは鉄でできた柱と梁からなる工作の世界である。その工作の図面は、構造設計者が力学にもとづいて描く。完璧ではないにしても、説明できる程度にはロジックが通っていないと設計はダメだ。昔の大工の棟梁ならば頭に入った図面で現実に木造の家を建ててしまうようなものだろうが、鉄骨造のファブは、設計者から渡された設計図をぶつぶつ言いながら鉄骨用の工作図に描き直し、鋼材を削って穴をあけて組み立てて、必要な個所をくっつける。その流れは正直なものづくりである。センセーショナルな大物を追うジャーナリズムがひっくり返っても到達できない鋼鉄製の小さな真実の破片が、そのものづくりの中に紛れ込んでいるのだ。
そして、こうも考えた。ファブのように、事実という鋼材を削って穴をあけ柱と梁に加工して、最後にぴったりくっつけて、製品を現場に運搬して物語という工作図にしたがって立体的に組み立てるのが自分の天職で、そうした架空の文章構造物を建てる作業が一番、自分に達成感をもたらすだろうし、真実一路になると。そうなれば、事実から逸脱してはいけないジャーナリストは目出度く廃業だ。