Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

エッカーマン著『ゲーテとの対話』を読み始めて、大学時代の『ウィルヘルム・マイスター』を思い出す。

2011年02月26日 11時53分49秒 | Journal


 昨日からエッカーマン著『ゲーテとの対話』(山下肇訳)を読み始めている。岩波文庫全3冊のうちに上中の2冊は前から実家の書架にあって、先日いま住むマンションにも持ってきた。2冊ともすっかり黄ばんでいる。上は1977年の第13刷りだから30年以上眠っていたことになる。昨日、丸善で買った下は2010年の第32刷りであるから、その間にたくさんの人がこの古典作品を読んだのであろう。小生もまったく読まなかったわけではない。上には、その212Pに付箋が貼り付けてあった。何に注目した付箋かとそのページを眺めれば、自作『ヴィルヘルム・マイスター』に関して年若いエッカーマンに語って聞かせるゲーテ自身の解釈として「『ヴィルヘルム・マイスター』の、ちょっと見たところつまらない付け足しのようなところにも、その根底には、必ず一段と高いものがひそんでいるのだよ」と書かれている。



 このヴィルヘルム・マイスターを読んだのは、札幌で大学生活を始めた1年目の冬のことだった。京染めの看板があった下宿屋の2階の自室で、とっくりセーターの18歳の自分が机に向かうというよりは畳に腹ばいに寝そべった姿勢でストーブの灯を眺めながら読んだ記憶が今でもまざまざとよみがえってくる。文庫本ばかりの今よりずっと贅沢に、慥か人文書院のハードカバー『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』だった。けっして短い作品ではないし、今どきの小説に比べればはるかに平板な物語だが、不思議なほど多様な文脈、人間模様がひそんでいる作品であった。大分の高校から遠征した大学受験のときは東京、札幌とドストエフスキーの『罪と罰』をバイブルのように持ち歩いて、北大受験の前の晩も札幌のホテルで読み耽ったが、大学に入ってから初めて迎えた北国の冬は、ずっとこの『ウィルヘルム・マイスター』の余韻が頭に残っていた。思うに、大学生となった私は『罪と罰』が持つ神がかりな啓示性よりもゲーテという稀代な理性人が描いた抑制的な物語性に頼りたい気分が増していたのだ。
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フランツ・カフカと『海辺のカフカ』、それにカーネル・サンダース

2011年02月17日 21時04分26秒 | Journal


 カフカとは、チェコ語のカラスだと村上春樹氏の『海辺のカフカ』で初めて知った。
 作品のなかで、内心の声に「カラスと呼ばれる少年」を持つ15歳の少年、田村カフカくんはフランツ・カフカ著の優雅な処刑装置を描いた『流刑地にて』を感銘を受けた本として語り、母親がかつてつくった「海辺のカフカ」という曲を聴き、母親の初恋の相手が描かれた「海辺のカフカ」という絵画に見入る。なるほどカフカづくしだ。左から2番目の写真は、15歳ぐらいのFranz Kafka。
 ただ、カフカと違うのはその作風である。村上氏は言葉で(しかも、かなり観念的な言葉で)、カフカははるかに映像的な描写力で心理を描いた。村上氏がほぼ同じテーマで書いた『1Q84』より『海辺のカフカ』に好感を持てたのは、少年の実の父親で高名な彫刻家でもある猫殺しのスコッチウイスキー「ジョニー・ウォーカーさん」やケンタッキー・フライドチキンの観念的客体「カーネル・サンダーズさん」が登場したからだ。この二人のマンガ的なキャラクターを描写するとき、村上氏は明らかに筆が走って嬉々としている。観念は茶化され(観念から解放され)メリハリの利いた乱暴なヤクザ言葉が飛びかう。彼らが「外人さん」キャラクターで、外見からして日本人ではない点も重要だ。前にも書いたが、村上氏に限らず日本の現代作家が日本人を描くと、どこか子供ぽく、大人になりきれない抑えつけられた内向きの心象になる。二人の外人さんが登場するシーンだけが外向きで、異彩をはなって妙に活気がある。それはカフカが殺人処刑機の実演を描いた異常な熱気と似ている。また、日本人として登場する中野区在住の記憶喪失の老人「ナカタさん」と中日ドラゴンズの野球帽をかぶったトラック運転手の青年「ホシノさん」のお笑いコンビも、日本的なキャラクターとは言い難い。アニメにでてくる簡単的人物のようだ。多分、日本の人的風土にはあり得ないこれら外人・異質キャラを投入することでテレビのアニメ画像の中に実際の人間が放り込まれたような劇作効果が生まれたのであろう。
 ところで、実際の写真のカーネル・サンダース氏は、田舎のアメリカ人らしく、アメリカン・ドリームと言うにはどこか破たんした人生を歩んだようだ。そして、ケンタッキー・フライドチキンのフランチャイズ1号店が、小生がかつて暮らしたソルトレーク・シティーだというのも何かの奇遇だ。当時、まさか1号店がここだとは知らずにケンタッキー・フライドチキンをけっこうな好物として週末のわびしい昼飯に買ってきて食べたが、だんだんバドワイザーと一緒に3ピースもがつがつ食べるとひどく胃がもたれるようになった。今は、2ピースで十分もたれる。Harland David Sanders氏の20歳ごろの顔写真は、ユタ州あたりでよく見かけた風貌である。

■後記 読了の感想としては、村上氏の、そしてカフカ少年の「神話」がよく呑み込めないという点がある。それを致命的な欠点と感じさせないのは、さすがにページをめくる手を止めさせない村上氏の小説技法のうまさであり、上記の面白いキャラクター登場による作品活性化の成果である。しかし、『1Q84』が結局、仕置き人のロマンチック・スリラーであり、『海辺のカフカ』が近親憎悪と近親相姦の、しかも少年の視座から眺めた好感が持てる物語展開であった以外に、読み終わってこれといって残るものがないのも事実。それほど絶望的ではないが、もっと心に残る何かがあっていいような気がするのだ。(2月26日記)
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青空に枝ぶりかざす紅い梅  頓休

2011年02月11日 09時21分53秒 | 「ハイク缶」 with Photo


 今日の建国記念の日、東京は雪である。昨日、仕事で仙台にいって、仙台駅のプラットフォームに立った瞬間、「仙台はやはり冷えるな」と感じたが、街に雪はまったくなかった。そして、仙台に比べて暖かい東京で雪の朝を迎えた。淡雪で、今のところつもるというほどでもないが、雪の朝の景色はあらたまった感じがする。そこで一句をハイク缶に投じる。

 雪の朝つもらぬ屋根に春めざめ  頓休

 そういえば、数日前、会社のそばにある日本橋消防署のわきに紅梅(こうばい)を眺めた。毎年、眺めている紅梅だが、通勤で使う茅場町の地下鉄出口が変わって、朝、その前を通ることがなくなったので、見ることも少なくなった。そろそろ咲いているはずだと、職場をでるときから頭に入れて、紅い梅の前に立ち止まった。ほんわりと梅の香が蓄膿な鼻にも伝わった。

 青空に枝ぶりかざすや紅い梅  頓休

 夕方、いまだ雪はやまず、少しつもったところをベランダから撮った。その写真を見て、あらためて雪景色とは、水墨画のように天然色を消し去った世界だと思った。

 夕刻の雪降る町は墨絵なり  頓休
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母が入るワタミの有料老人ホーム「レストヴィラ」

2011年02月08日 20時37分59秒 | Journal


 只今、グループホームに入居している母親をワタミの有料老人ホーム「レストヴィラ」(事業主体・ワタミの介護株式会社)へ移そうという提案が兄からあり、日曜日に見学した。今のグループホームにそれほど文句があるわけではないが、1年や2年はともかく、ここに5年、10年と母親を住ませるのはちょおとムリかなと感じていたので、基本的に移すことに同意した。環境的に県立高校がある文教地区といった立地で、まずまず緑が多く、施設は小さな公園と梨畑に挟まれている。さらにここは比較的、母親の実家に近く、以前は、社交ダンスの教室に通うために母親が自転車で抜けて行った遊歩道が脇を通る。小生は、この点を重視した。自分のなじみがない土地(地名)では、やはり不安だろう。
 認知症を持っている老人は、4階建ての2階にまとめられて入ることになる。全体で60室ある部屋はどれも18㎡で、今の施設と違ってトイレと洗面台が各室にある。一応、最低限のプライバシーは保たれそうだが、、一人で下の世話ができるか新たな不安要素もある。これまで転んで怪我を負うのもトイレを出たようなときが多く、最近は介護スタッフがトイレに一緒に入って手伝ってくれていたからだ。
 部屋は、入居金で580~880万円まで価格帯に幅があるが、これは高い部屋が特別良いというわけではなくて、主に介護保険の要支援・要介護ランクで施設に支給される額が決まってくることによって差をつけたものだ。例えば、母親は要介護2だから国から施設への月額保険給付額が19万6722円、入居金は580~680万円。健康な老人は、この月額20万円近い国からの給付金がない分、740~880万円と入居金のみ高くなっている。月額利用料の方は一律で、19万8000円(このうち食費は1日当たり1953円;朝食504円、昼食819円、夕食630円で、月額5万8590円)、それから自己負担金1万9673円(月額保険給付額の1割と設定されている)とその他費用が加算されるから、多分、毎月22~23万円程度を支払うことになる。ワタミの経営だから、そう高級老人ホーム風ではないが、それでも公的年金だけで入れる施設ではない。
 施設側の説明では「ワタミですから、食事には自信があります」というセリフがあった。小生は、残念ながら居酒屋「和民」を利用したことがないからワタミの実力のほどは分からない。ただ以前、小生も数週間入院して感じたことだが、施設に入ると、三度の食事ぐらいしか楽しみがない。三食1953円とは言え、そこは大いに安くてうまいを期待したいところだ。できれば、もっと部屋が広く、窓からの眺めが良い、リゾート気分が味わえる高級施設に入れてやりたいのだが、ぽんと1憶円は払えないし、そうしたところへ入れたところで、本人が有り難がるとも限らない。今まで部屋が北向きで冬は寒く、暖房も昼間は入っていなかったことを考えれば、南向きで日の当たる部屋へ入れてやれることがせめてもの慰めである。写真は、機械式入浴の風呂だそうだが、こういうものを使わないですむ日々が少しでも長くつづけばいいと思った。
 ちなみに、一人当たりGDPが日本の10分の1の中国で、妻のお母さんが北京市で入っている介護付き老人ホームは10万円ぐらいだから、今の中国はこうした福祉面でかなり割高だ。ワタミの説明者に「ワタミは中国に進出しているのか?」と訊ねると、ノーということだった。惜しい。進出する気があるのならば、ぜひ、一声かけてほしい。
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自分の職業を説明する。

2011年02月06日 19時55分34秒 | Journal


 世の中に業界紙なんてものは何万とあるらしい。小生もその何万もの業界紙の1紙を発行する会社で記者をやっている。その業界は鉄骨業界あるいは鉄構業界、ときにはファブ業界とも言う。ファブとはファブリケーターの略だ。その昔は、鍛冶屋とか鉄工所とも言ったが、刀や包丁、鍬(くわ)をつくるのも鍛冶屋だし、朝のNHK連続ドラマ小説「てっぱん」の尾道のお父さんの工場は造船関連の鉄工所である。そこへいくとファブと言うのは、建築鉄骨に限定される鉄工所である。

 ファブ業界は、建設業の専門工事業と分類される。鉄鋼会社がつくった鋼材を鉄骨に加工して建設現場へ納入するので、加工業もしくは製造業という位置づけで経済産業省の所管する業界になるが、発注先であるゼネコンなどに製品を納入し、ときには建設現場で鉄骨の建て方工事に参加するので、建設業界を所管する国土交通大臣がファブの工場を認定するなど、製造業と建設業の二股をかけた業界となっている。役所の許認可で成り立つ業界だから自律しているとは言い難く、業界団体が恒例の新年賀詞交換会を開催すると、決まって経済産業省の鉄鋼課長さんと国土交通省の建築指導課長さんを来賓として招き、有り難いスピーチをしてもらう。

 加工する中身は、建物の縦に入る柱と横に入る梁をくっつける稼業である。別に難しい仕事ではないが、変なくっつけ方をしてあると、大地震のときに柱と梁の接合部で亀裂が発生し、建物が壊れやすくなる。もともと鉄骨造というのは耐震性があるという触れ込みだから、これは欠陥鉄骨として糾弾されるべきものだ。柱と梁をくっつけるには、ボルトで接合するか、溶接を使う。どちらもいい加減な仕事だと品質に問題が生じるが、どちらかと言えば、溶接の方に問題点がある。なぜならば、強いはずの鋼鉄も溶接時に大量の熱を加えるともろくなるからだ。だから時間をかけて適当に冷ましながら溶接しないといけないのだが、ゼネコンから納期を縮められ、賃金も安いから、溶接工も面倒になって急いで溶接してしまうことがある。そこで、鉄骨製品をファブの工場から搬出する前に、超音波で接合部の内部を探傷して欠陥を見つける検査を二重にすることになっているが、これもゼネコンが金を惜しむから、ファブと検査会社の両方で抜かしてしまう可能性がある。したがって、二つ、三つの怠慢が重なれば、建設現場に不良鉄骨が白昼堂々と運ばれていくことになる。

 こういう問題をジャーナリズムの立場から大いに糾弾するのが、小生の仕事である、のはずなのだが、そこが業界紙である。広告や購読の利害関係が「ジャーナリズムの正義」にぐるぐる巻きついて、真実究明にもう一つ力が入らないと言うか、関係の深い大手が不正をやれば眼をつぶって報道せず、零細や外部者が不埒(ふらち)をはたらけば大いに成敗するといった情けないことも生じる。しかし、それは業界のスケールや利害関係者が違うだけで朝日でも日経でも、どんなメジャーなジャーナリズムも実は、何らかの利害によって動いているのであり、そうした意味からはジャーナリズム業界は真実究明などという表看板を外すべきなのだ。

 だから、小生は自分を「ジャーナリスト」と過分に思ったことは余りない。実際、何度かそう思ったときも、例えば、小心翼々と記事中に問題の会社名や氏名を伏せて、A社だとかB氏だとか、どこの誰だか分からないような匿名記事を書いたときなど、苦い気分で「一応、これでも俺はジャーナリストのはしくれのはずなのに」と自分につぶやくぐらいなものである。以前、会社は、掲載した記事がもとで訴訟に巻き込まれ、幹部が大変な思いをしたそうで、それから危険な記事掲載を避けるようになった。慥かに、日常業務をかかえて裁判所通いは面倒は面倒だから会社を一方的に非難する気はない。ただ、自分たちを「業界紙記者」と言わずに「専門紙記者」と称して、ジャーナリストとして恰好をつけてみせるのは笑止千万だ。弾(たま)のとんできそうな場所にはけっして行かないことにしている自称「戦場カメラマン」のようなものである。

 ただし、ジャーナリズムを恰好良く考えるには、もっと根本的な疑問がある。つまり、それは真実とは何か、という疑いである。社会という複雑系の中にころがる真実は、大衆が受け入れる分かりやすい真実とは限らない。おおむね、ジャーナリズムが扱う「真実」とは、大衆に分かってもらいたさに単純化した平板なメッセージにならざるを得ない。もし、真実をあるがままに立体的・構造的に書きとめておこうとすると、基底にある物事の全貌をどこまでも掘り下げていかなければならない。掘っていくうちには、ときに不可解な地層に分け入って吟味しなければならなくなる。それを「購読者を増やすために読者に喜ばれる記事を簡潔に書け!」とせっつかれている記者が書くのは至難だ。それでも、小生は可能な場合は比較的長く物事の幹に枝葉末節をつけて書くことにしている。それで真実の近傍に至るかは知らないが、面白いことを表現から逃したくないからだ。やはり、小生の趣味は、ジャーナリストぽくないのかもしれない。

 ところで、小生が身を置く鉄骨業というのは、ある意味、もともと分かりやすい単純な物理的真実を持っているので、自分は嫌いではない。写真にあるように、それは鉄でできた柱と梁からなる工作の世界である。その工作の図面は、構造設計者が力学にもとづいて描く。完璧ではないにしても、説明できる程度にはロジックが通っていないと設計はダメだ。昔の大工の棟梁ならば頭に入った図面で現実に木造の家を建ててしまうようなものだろうが、鉄骨造のファブは、設計者から渡された設計図をぶつぶつ言いながら鉄骨用の工作図に描き直し、鋼材を削って穴をあけて組み立てて、必要な個所をくっつける。その流れは正直なものづくりである。センセーショナルな大物を追うジャーナリズムがひっくり返っても到達できない鋼鉄製の小さな真実の破片が、そのものづくりの中に紛れ込んでいるのだ。

 そして、こうも考えた。ファブのように、事実という鋼材を削って穴をあけ柱と梁に加工して、最後にぴったりくっつけて、製品を現場に運搬して物語という工作図にしたがって立体的に組み立てるのが自分の天職で、そうした架空の文章構造物を建てる作業が一番、自分に達成感をもたらすだろうし、真実一路になると。そうなれば、事実から逸脱してはいけないジャーナリストは目出度く廃業だ。
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