Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

秋の朝顔が唄う

2011年10月22日 18時32分17秒 | 「ハイク缶」 with Photo


 ベランダの朝顔が咲き終わるかと思っていると、まだ今が盛りと咲き競っている。けなげなものだ。彼女らは大した打算もなく咲いているのだ。雇い主から給料もでない。奇麗に咲いたからとて、見染めてくれる素敵な彼氏もいない。大きなレンズのカメラを寄せてきて、無断で写真を撮るけしからぬ男がいるだけだ。申し訳がてらに彼女らに一句啓上。

 秋の日に唄う朝顔わが娘  頓休
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茅場町で、花王不買運動のデモ行進を見る。

2011年10月22日 09時56分36秒 | Journal


 昨日、昼飯に会社から出てくると近所の坂本町公園で警察官もたくさん出動する何やら不穏な集会。手に手の日の丸に似合わぬ風体の若い人たちが整然と列をつくって行進を待ち構えている。「われわれは警察官に守られて粛々とデモをする」とか、スピーカーメガホンの演説を聞いていてもよく趣旨がよく呑み込めないので、隣に立っていた関係者らしい男に尋ねると「花王」とのみ答えた。「はあ、花王ですか」と鸚鵡返しに言ったが、なお分からない。花王の本社ビルは茅場町にあるから、花王に対する何かの抗議デモだろうとは察する。その後、配られたビラをもらって見るが、このビラが要領を得ない。「花王は偏向内容の反社会的番組を制作するテレビ局に、多額のスポンサー料を支払っています」とある。テレビ局とはフジテレビらしい。さらにビラには「花王の商品を、私たち消費者が購入すると反社会的な番組作りに協力することになります」とある。ビラの裏面には「フジテレビと韓国ブームと政治の簡単なおはなし」とも。サッカーで日韓戦を「韓日戦」として放送するとは何事か、この国難のときに韓流韓国を持ち上げるように報道するとはけしからん、という怒りが見られる。どうもこれは新種の愛国運動かと理解する。議論がもうひとつ見えてこないのは、運動に反韓国の感情的な面が強く出ているためだろう。花王のようなスポンサー企業に果たして責任が本当にあるのかが明確になっていない。今このとき、日の丸をかかげ愛国的不買運動をするのならば、節電協力などではなく東京電力からいっさい電力を買わない運動の方がまだしも理にかなっている。ただ、東電のスポンサーは国だから、やはり日本国政府に抗議するのが筋だ。
 食事をしてから、デモ隊を探して急ぎ足に、花王本社の方まで行ってみたが、デモ隊の影も形もない。本社ビルの前には警備員が入り口を死守するように立っていた。会社の方角へ戻ってくると、交差点でデモ隊を見つけた。なるほど、守られるように警察官に先導されているが、行列は花王とは反対の日本橋方面へ去って行った。極めて従順で大人しいデモ隊である。しかも、なんだかハロウィンか学生サークルの仮装行列のようで、やはり、よく分からない。折角、日本金融業界のメッカ、兜町に立地する公園で集会し行進しているのである。せめて、ニューヨークのウオルストリート集会ぐらいの知的な問題意識でデモをやってもらいたい。生活で見聞きしたささいなことを個人的に気にするのは、ちっとも悪いことではない。それを人と話し合ったり、ときには社会に訴え運動化することも市民の権利だ。しかし、こうしたテーマで特定の議論にこじつけ、攻撃のターゲットを絞り込んでバッシングを繰り返していくと、なんだか不気味で執拗な感じがする。あるいは彼らも、そのことに少しは気がついていて、「静かなデモ」をしているのかもしれないが、どうなのだろうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和田章・建築学会会長と五百旗頭真・防衛大学校長の講演(KKE Vision 2011)からの考察

2011年10月15日 20時56分01秒 | 哲学草稿
 構造計画研究所のKKE Vision 2011という連続講演会が新宿のヒルトン東京で開催され、取材した。そのなかで、特に、14日の和田章・日本建築学会会長の「宇宙原理と建築」と、五百簱頭真(いおきべ・まこと)防衛大学校長の「跳躍の歴史へ向けて」という講演が興味深かった。とりあえず、写真のみ掲載するが、徐々に内容の紹介と感じたことを書き足していく。



  和田氏は、東京工業大学の教授を退官して、今は名誉教授になっている。氏は、講演などで度々、漱石の弟子、寺田寅彦を引用する。小生も、和田先生とは目のつけどころは違うようだが、寅彦のある解釈に関心を寄せてきた。それは、寅彦のエントロピーと「時」に関する記述だ。
 1917年、寅彦は「時の観念とエントロピー並にプロバビリティ」と題する科学随筆で――全エントロピーは時と共に増すとも減ずる事はないというのが事実であるとすれば、逆にエントロピーを以って「時」を代表させる事は出来ないであろうか。普通の「時」とエントロピーとの歩調が如何に一様でないとしても、其処に一つの新しい「時」の観念が成立し得るのではあるまいか――といった考えを述べた。
 さらに、寅彦は、こんな説明を書いている。――瓦斯(ガス)体の分子やエレクトロンの集団或は光束の集合場に於て各個部分の状態を論ぜんとしても普通の「時」を使う力学は役に立たなくなる場合がある。そういう場合にこのエントロピーの有難味が始めて明白になって来るのである。(中略)分子やエレクトロンの数が有限である間はエントロピーは問題にならず、変化は単義的で可逆であるが、これが無限になって力学が無能となる時に、始めてエントロピーが出て来る。
 こうした寅彦のエントロピー観は、晩年の漱石にも影響していたようである。あるいは逆に、当時の西欧科学事情に通じていた漱石が、寅彦にエントロピーを教えた可能性もある。漱石最晩年のメモに「Entropy. 力学ノ行キヅマリ」(1915年)がある。

 和田氏の講演は、このエントロピーの時間的要素とは違う視点の話だった。

 ▼宇宙と鉄のエントロピー

 エントロピーとは、熱力学の概念で原子や分子の「でたらめさの尺度」である。(頓休注記)
 ――物理の時間にエントロピーを習って余りよく分からずにいた人も多いだろうが、ものごとは大体、多いほど良くて少ないほど悪いものなのに、エントロピーは小さいほど精錬されていて、価値があり、増大すると混沌として複雑になり、価値がなくなる。宇宙は整然とした状態から混沌とした状態に進んでいる(エントロピーが増大)。
 例えば、皿に塩と砂糖を分けて置いておけば、塩辛いものが好きな人も甘いものが好きな人も自由に選べるから価値は高い。塩と砂糖を混ぜてしまう(エントロピーが増大する)と価値がなくなる。しかも、混ぜるのは簡単だが、混ざっているものを元の分けた状態(エントロピーが小さい)に戻すことは非常な大変なエネルギーを要するし、難しい。この塩と砂糖の例はほとんど全てのことに成り立つ。
 製鉄所で、酸化鉄の酸素を鉄からはがして純度の高い役に立つ鉄にする過程もエントロピーを小さくすることであり、お陰で超高層ビルが建ったり橋が架けられたりする。一方、そうした鉄でできたビルや橋で大きな街をつくっていくことは、たくさんのエネルギーを使いCO2も排出した結果なので地球を汚してしまうことにもなり、宇宙から見るような大きな意味でエントロピーの増大につながっている。

 ▼良い耐震構造とは

 建物の耐震構造にもエントロピーが当てはまる。(頓休注記)
 ――もし東京に直下型の大きな地震が起きたら112兆円の災害になるということで、東京都も緊急道路沿いの古い建物の耐震診断をきちんと行うような施策を進めている。東京は3500万人も集まって危険なポテンシャルを超えた状態にあり、(他地域よりも)建物をもう少し丈夫に作っておかないと危ない。
 四川地震やハイチ地震の被害でも構造物の一体性は非常に重要であることが明らかになった。レンガをただ積んだような、あるいは穴空きのプレキャストコンクリート版を敷き並べただけの床スラブのような悪い耐震構造は、小学校の先生が学級の子供たちをコントロールしようとしてもなかなか席にもつかないばらばらな状態と同じで、地震が来ると完全に崩壊する。
 耐震性を高めるためには一致団結して地震力に対抗することが大事だが、特に、骨組に強い材料や太い部材を使うことは耐震性を高める。また、材料、部材、骨組には変形しても抵抗を続ける塑性変形能力がないと、部材強度の合計が構造物の全体強さにならない。
 もう1つ大事なのは建物には心棒がある方が良いことだ。心棒つまり強い柱、強い連層壁は多層建築の耐震性を高める。これらの心棒は、建物の振動モードを矯正し、被害を軽減する。



 五百簱頭氏は、最近では、東日本大震災復興構想会議の議長として知られている。日本学術会議会員でもある五百簱頭氏の専門は日本政治外交史、政策過程論など。講演のタイトルは「跳躍の歴史へ向けて~悲惨のなかの希望~」。大体、こんな内容だった。

 ▼国難に結束する国

 日本史では、国難をバネに跳躍することを繰り返してきた。日本史が世界水準の域に達したのは7世紀から8世紀にかけて。663年、白村江(はくすきのえ)の戦いで、大和王朝は2万7000の兵(第二派)を朝鮮半島へ送りだしたが、二日間で完敗した。大和王朝は思いあがって「これだけの大軍を出せば敵は雲の子を散らすように逃げるだろう」と安易な想定をした。事実は想定外で、朝鮮半島の参戦軍だけではなくて、新羅が中国の唐と連合を組んで挑んできた。唐がどんなに強いかについて完全に認識が甘かった。唐の巨大戦艦が両岸に待ち伏せており、攻めていったところを両側からしめるように来たために壊滅した。
 このあと唐新羅の連合軍が日本に向かって攻め込んでくるのではと、出来あがったばかりの大和王朝は大変な緊張感をもって真剣な対応を行った。大宰府に城を築き、熊本に防人用の兵舎や米倉を建設、大宰府が敵に奪われたときはここを拠点に奪回作戦を実行する予定だった。瀬戸内沿いに城塞も築いた。
 そういう防衛だけでなく、大和朝廷は敗戦の翌年から猛然と唐文明の学習を開始した。「われわれは田舎者だった」と負けて分かった。ローマ帝国衰退後、世界で一番強大な文明は唐文明だった。大和朝廷は唐文明のすごさを知ってむさぼるように学んだ。日本を変えていかなければ生きていけない。その努力を50年続けて707年から唐風の律令国家の首都ミニチュアとして奈良盆地に平城京をつくった。ということは、唐文明をあらかた自分のものにした。
 それ以後、ほぼ世界水準とそう違わないレベルで日本史は進んでいる。蒙古来襲のときもそうだが、日本史では、国内で政争が多いのに、国難になると、外国勢と組んで日本史の主人公になろうとする人間がでてこない。逆に、日本人は国難のなかで結束し、跳躍する。

 ▼「認識の三脚」を立て

 明治28年に日清戦争が終わり、翌年、三陸大津波が起きた。町長によっては高台移転を唱えたが、当時の高台移転は不便という代償を払わなければならなかった。そこで万里の長城と呼ばれる高さ10㍍の防潮堤、まるで監獄の塀のようなのを作った。その中に津波を集めて高くするような形状のものがあって、今回の津波で大変な災害をもたらした。津波は高波や高潮と違い、引き波から始まって海面の下から上まで弾丸のように迫って、防潮堤を乗り上げて越えていく。高さ7~8㍍でも十分。しかし、引っ繰り返らない、しっかり踏ん張って、第二波、三波を止められるものが必要。
 私どもの構想は、大自然が猛威をふるうときに、それを完封はできない、減災しかできないという認識に立っている。
 人間は直前の強烈な体験に認識が支配されてそればかりになる。「将軍たちは前の戦を戦い、外交官は前の講和会議を交渉する」という国際政治の言葉があるが、事態も技術も変わっているのに、過去の認識の虜囚になってしまう。もっと視界を広げて「認識の三脚」を立てた方がいい。
 これから第三次補正でわれわれが復興構想で描いたものを実施することになる。重視したのは、一つはより安全な家、より安全な町を作ること。一番望ましいことは津波から町ごと逃げる。高台移転、丘の上のニュータウンは世界でも普通のこと。昔は不便という代償があったが、今は道路さえつければ車で、10分で港まで下りてこられる。
 もう一つは、産業再生。阪神淡路のときは被災者に大企業に勤める人が多かったが、今回は仕事ごと失った人が多い。特区を作り、最先端産業が外国でなく東北に来るような創造的復興を促進する。
 ゆるやかに下っていく日本に大自然災害という国難が来た。国民が全力で復興を手助けし、そして日本全体も再生しようではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋の中の夏

2011年10月10日 19時40分16秒 | 「ハイク缶」 with Photo

 もう10月も半ばにさしかかろうという秋の季節。夏を語ってはおかしいのだろうが、今日のような天気だと、まだ夏がそこにあるような気がしてならない。最初の一枚は、昨日、大和のヤマダ電機で望遠レンズを受け取り、うれしくて隣のローゼンの屋上駐車場で変わった感じに細い雲が十字をきる空を撮った。次の二枚は、今日、家のベランダであさがおをやはり望遠レンズで試し撮りしたもの。真ん中の写真は90度起こすと正常になるが、上を向いて高らかに咲き誇って見えるところが楽しい。ともかくも、秋の陽射しに向かって精一杯に夏を惜しむのは花の哀れであり、小生の哀れでもある。久しぶりに、一句。

 秋の日に夏を惜しむは朝顔や  頓休
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする