東大本郷キャンパスには何度か来ているが、真ん中にこんなに広いグラウンドがあったとは意外であった。朝からの会議がやっと夕刻に終わり、出席者は懇親会場へ去ってしまう。会費を払っていない小生は、引き上げ支度(じたく)に、グラウンドのサッカー風景にカメラを向けた。
昼飯を喰おうと、山上会館を出て、学食の方に歩いていると、写真の猫が目に止まった。これも猫の作者の因縁だろうか。食堂には、美禰子を彷彿(ほうふつ)する奇麗な学生がたくさんいた。中には、若かりし頃の松田聖子みたいに可愛いのがいて、これも東大生かなとしげしげと眺めていると、やはりどことなくお利口さんに見えてくる。
美人も猫も腹満ちて春眠 頓休
美人も猫も腹満ちて春眠 頓休
東大本郷キャンパスの山上(さんじょう)会館で日中の構造設計関係者が会議を持つというので取材に出かけた。赤門を抜け、案内書を示しながら「このやまがみ会館は、どこですか」と守衛さんに訊ねると、「これは、さんじょうと読みます」と丁寧に訂正を受けてから、分かりやすく道順を説明された。なんとなくインテリ風な守衛であった。さすがに東大だ。山上会館は三四郎池の隣にあった。会議の開始時間に迫っていたが、坂を下りて、池を撮った。この池だけは、漱石の時代からの佇(たたず)まいを保っているのであろう。
中国から設計者や学者の団体が来日し、建設中の赤坂TBSタワーを見学したので同行取材した。写真は、その上階から真下を撮ったもの。中国は高層ビルの建設ラッシュだが、団長さんの話では「走っていて、あれこれ考えている暇がない」状況だとか。技術面で日本から学ぶ(盗む)点は多いようだ。日本側も日中友好の建前から親切に教えてはいるものの、設計実務者の中には技術を無断で盗まれるといった不安な感覚はあるようだ。
この蜂が蜜を吸う花は東菊なのだろうか。もしそうならば、小生の「イカルガ・サウンズ」に以下の記述がある。
漱石のクマモト時代に東京で病臥するシキから一枚の画が送られてきた。ソウセキは後にこの東菊(あずまぎく)の画について「子規の画」(明治四十四年)という随筆にしみじみとした文章を書いている。
――(前略)子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかった様に見える。僅か三茎の花に、少なくとも五六時間の手間を掛けて、何処から何処まで丹念に塗り上げている。これ程の骨折りは、ただに病中の根気仕事として余程の決心を要するのみならず、如何にも無造作に俳句や歌を作り上げる彼の性情から云っても、明らかな矛盾である。(中略)
東菊によって代表された子規の画は、拙くてかつ真面目である。才を呵(か)して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、忽ち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んで仕舞ったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかと言ったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あの位時間と労力を費やさなければならなかったと思うと、何だか正岡の頭と手が、入らざる働きを余儀なくされた観がある所に、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律儀なものに厭味も利いた風もあり様はない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画は正に働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられるべき特長を、咄嗟(とっさ)に弁ずる手際がないために、やむを得ず省略の捷径(しょうけい)を棄てて、几帳面な塗抹主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免れ難い。
子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余は未だかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得た試しがない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえも有たなかった。彼の没後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊の中に、確かにこの一拙字を認めることの出来たのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画が如何にも淋しい。出来得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。
ソウセキが田舎教師から小説作家となっていく過程で、「拙」の欠乏したシキが反面教師として意識の片隅に常にあったことは確実である。シキの東菊の画(三十二年秋作)には次の和歌が添えてあった。
あづま菊いけて置きけり火の国に住みける
君の帰りくるかね
漱石のクマモト時代に東京で病臥するシキから一枚の画が送られてきた。ソウセキは後にこの東菊(あずまぎく)の画について「子規の画」(明治四十四年)という随筆にしみじみとした文章を書いている。
――(前略)子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかった様に見える。僅か三茎の花に、少なくとも五六時間の手間を掛けて、何処から何処まで丹念に塗り上げている。これ程の骨折りは、ただに病中の根気仕事として余程の決心を要するのみならず、如何にも無造作に俳句や歌を作り上げる彼の性情から云っても、明らかな矛盾である。(中略)
東菊によって代表された子規の画は、拙くてかつ真面目である。才を呵(か)して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、忽ち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んで仕舞ったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかと言ったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あの位時間と労力を費やさなければならなかったと思うと、何だか正岡の頭と手が、入らざる働きを余儀なくされた観がある所に、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。馬鹿律儀なものに厭味も利いた風もあり様はない。そこに重厚な好所があるとすれば、子規の画は正に働きのない愚直ものの旨さである。けれども一線一画の瞬間作用で、優に始末をつけられるべき特長を、咄嗟(とっさ)に弁ずる手際がないために、やむを得ず省略の捷径(しょうけい)を棄てて、几帳面な塗抹主義を根気に実行したとすれば、拙の一字はどうしても免れ難い。
子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余は未だかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得た試しがない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえも有たなかった。彼の没後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊の中に、確かにこの一拙字を認めることの出来たのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画が如何にも淋しい。出来得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。
ソウセキが田舎教師から小説作家となっていく過程で、「拙」の欠乏したシキが反面教師として意識の片隅に常にあったことは確実である。シキの東菊の画(三十二年秋作)には次の和歌が添えてあった。
あづま菊いけて置きけり火の国に住みける
君の帰りくるかね
この花は名の宛(あ)てがない。しかし、いかにもニッポンの田圃の風景に似合う花だ。西行は「願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」と詠んだが、小生はなんとなく壮麗な桜の花の下よりは、こうした田の花でも脇に見上げながら死んでみたい。その方が気が楽だ。
願わくは名のない花の下にて 頓休
願わくは名のない花の下にて 頓休
何度も断っているが、花の名を余りに知らない。
写真の花も最初は山吹と認定しかけたが、どうも受ける感じが違う。山吹にしてはやや垢抜けてハイカラだ。結局、キンポウゲ(金鳳花)ではないかと調べて突き止めたが、本当は分からない。キンポウゲの中でも、ミヤマキンポウゲ(深山金鳳花)に似ているが、それは高山や北の大地に夏咲く花らしい。座間の春に咲くかしら。
キンポウゲ主(ぬし)を山吹に間違えた 頓休
写真の花も最初は山吹と認定しかけたが、どうも受ける感じが違う。山吹にしてはやや垢抜けてハイカラだ。結局、キンポウゲ(金鳳花)ではないかと調べて突き止めたが、本当は分からない。キンポウゲの中でも、ミヤマキンポウゲ(深山金鳳花)に似ているが、それは高山や北の大地に夏咲く花らしい。座間の春に咲くかしら。
キンポウゲ主(ぬし)を山吹に間違えた 頓休
昨日、夕刻近く、座間の谷戸山公園へ出かけた。ここは里山風のありのまま公園で、植物を花壇に植えたりはしていない。昔の座間の森と人の共存的な営みをそのまま保存しようといった狙いがあるのだろう。
里山の営み守る春の暮 頓休
里山の営み守る春の暮 頓休