聖ニコラス教会のモーツァルト『レクイエム』(Requiem, KV626)を指揮したのは、写真で左から三番目の女性指揮者ミリアム・メンコバさんだった。演奏はプラハ・シンフォニア・オーケストラ。歌手4名の名はチェコ語なのでよく分からない。皆、うまかった。歌手の掛け合いに陶然とした。良い演奏であったな。それに、教会建築の音響効果がここまで素晴らしいとは思わなかった。
ところで、以下のWikipedia情報によれば、このレクイエム作曲の経緯とプラハには深い因縁がある。
――1791年、モーツァルトはウィーンの聴衆の人気を失い苦しい生活を送っていた。旧知のシカネーダー一座から注文を受けたジングシュピール『魔笛』K.620の作曲をほぼ終えたモーツァルトは、プラハでのボヘミア王としての皇帝レオポルト2世の戴冠式で上演するオペラ・セリア『皇帝ティートの慈悲』K.621の注文を7月末に受け、これを優先して作曲する。ジュスマイアにレチタティーヴォの部分を手伝わせてようやく完成の目処がたち、8月末にプラハへ出発する直前、見知らぬ男が彼を訪ねた。男は匿名の依頼主からのレクイエムの作曲を依頼し、高額な報酬の一部を前払いして帰っていった。作曲の依頼時期は伝記などでは7月説もある。本稿ではより合理的なH.C.ロビンズ・ランドンの説を採用した。9月中旬、プラハから戻ったモーツァルトは『魔笛』の残りを急いで書き上げ、9月30日の初演に間に合わせる。その後レクイエムの作曲に取りかかるが、体調を崩しがちとなり11月20日ころには床を離れられなくなってしまう。12月になり病状はさらに悪化して、モーツァルトは再び立ち直ることなく12月5日の未明に他界する。
ところで、以下のWikipedia情報によれば、このレクイエム作曲の経緯とプラハには深い因縁がある。
――1791年、モーツァルトはウィーンの聴衆の人気を失い苦しい生活を送っていた。旧知のシカネーダー一座から注文を受けたジングシュピール『魔笛』K.620の作曲をほぼ終えたモーツァルトは、プラハでのボヘミア王としての皇帝レオポルト2世の戴冠式で上演するオペラ・セリア『皇帝ティートの慈悲』K.621の注文を7月末に受け、これを優先して作曲する。ジュスマイアにレチタティーヴォの部分を手伝わせてようやく完成の目処がたち、8月末にプラハへ出発する直前、見知らぬ男が彼を訪ねた。男は匿名の依頼主からのレクイエムの作曲を依頼し、高額な報酬の一部を前払いして帰っていった。作曲の依頼時期は伝記などでは7月説もある。本稿ではより合理的なH.C.ロビンズ・ランドンの説を採用した。9月中旬、プラハから戻ったモーツァルトは『魔笛』の残りを急いで書き上げ、9月30日の初演に間に合わせる。その後レクイエムの作曲に取りかかるが、体調を崩しがちとなり11月20日ころには床を離れられなくなってしまう。12月になり病状はさらに悪化して、モーツァルトは再び立ち直ることなく12月5日の未明に他界する。