8月3日から13日まで北京に居た。その間、日本も猛暑だったらしいが、北京もなかなかの酷暑。昼間、日光にさらされて外を歩くのは実に大儀であった。特に、今回感じたのは北京でタクシーを拾うことの大変さ。タクシーを拾うために右往左往したり、小1時間も暑い中に立っていることもあった。いつものように小生の北京行きは、北京に老母を残す妻の里帰りが主な用件であったが、前回の唐山につづき小生の会社の仕事もかなりやった。全部を細部までいっぺんに書き込めないし、写真もいちいちデータ量を調整しなければアップできない面倒があり、以下の文章は北京滞在中にその都度書きためたものがベースになっているが、さらに時間をかけて手を加えていくことになる。
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3日(水曜日)の夜、北京へ入った。成田からの飛行機で小生の座席のテーブルが壊れて、おろしたままの状態になっているのを中国国際航空の乗務員が離発着時にセロテープで前の座席に固定すると云うハプニングがあった。古い飛行機で、安全上、問題ありだな。成田では応急修理ができなかったとのこと。空港はそんなに混んではいなかった。空港からタクシーで北京市中心街のホテルの向う。
13日まで泊まるホテルは、地下鉄2号線の東四十条駅の真上にある朝陽門の「北京港澳中心瑞士酒店(Swissôtel Hotel)」。港は香港、澳はマカオ、中心はセンター、瑞士はスイス、酒店はホテルだ。ホテルのマネージャーはMeinhard Huck氏とあるから外資だろう。1980年にスイスで創設された新興のホテルで、世界中でホテル買収をしながら展開しているとか。このホテルもスイスの傘下になった口らしい。便利な2号線沿線のホテルだから(最後の写真はホテルの部屋から撮ったもので、地下鉄駅「東四十条」の出入口が眼下にある)、今回の北京滞在は地下鉄をよく使うことになりそうだ。なお、このホテルで日本人の姿はほとんど見かけない。ヨーロッパ人やアラブ系が多い。なんでも、スイスの航空会社がこのホテルとタイアップしているとか。それで習慣的にチップを置く宿泊客が多いためか、部屋の掃除などチップを置いておかないと粗末になる。バスタオルも取り替えない(一度は、バスタオルがないこともあった)。ペットボトルの水もサービスしない。数日して、そのことに気がつき、10元ばかりのチップをサイドテーブルに置くようにすると、格段にサービスが改善した。
なお、いまさら特筆するほどのことでもないが、北京の地下鉄では、「安全検査」と称して、空港のように機械装置による荷物検査がある。いちいち鞄やリュックをあずけてコンベアに流すのは、気分的にも面妖なことだ。
4日(木曜日)は、日系企業の北京事務所を取材した(写真は、その取材先の会社から撮ったもの)。日本でアポをとるとき、中国のビジネスはどうしても上海中心だから、なぜ北京の現地事務所を取材しようとするのか、日本側の本社広報に大分説明を要した。もともと妻の里帰りに同行して、会社の夏休み3日に足して数日分を出張扱いにしてもらうための方便に北京での取材先を探したのだから、アポとりの口実には苦しいところがあった。取材が実現したところではたして意味のあるものになるのか、多少心もとない面もあった。
来てみると、それは杞憂で、中国全体を動かす中国政府筋の情報入手はやはり北京が一番と分かった。午前中に建国門にあるニューオータニ系の長富宮飯店公楼に日系企業を訪れた。ここはこの会社以外にもほとんどのテナントが日系企業で占められており、エレベーターホールの改修工事のお知らせも中国語と日本語が併記されている。まずもって北京の古い日本人村だな。実際、後に取材した中国の協会では、そこを「日本本部」と呼んでいた。外地の日本人はまだまだ安心感のためにまとまりたがる。そこで唐山の曹妃甸(ソウヒデン)で操業をはじめた製鉄所の話がでた。その設備は過剰なまでに合理的でムダを省いているが、そのためにいったんトラブルが生じるとメチャクチャになる。設備設計にも多少のムダ、遊びが必要なのだ。落雷による信号トラブルが大惨事につながった中国新幹線の脱線事故も似たところがあろう。地下鉄2号線でホテルに戻り、昼食後、ホテルのロビーで会社の紙袋を持った若い総経理さんに迎えられて、車で東三環のオフィスに向い、取材が終わってから、同じビルの専門商社の事務所へこれも先の総経理さんの先導でつれていってもらった。ちなみに、このビルは野村証券がオーナーとかで、1階の案内を見れば、やはりずらりと日系企業が入っている。新しい日本人村である。東三環というのは、北京は東京と同じように環状線道路が幾つかあって、泊まっているホテルは東二環、その外側に東三環がある。北京は渋滞がひどいから、日系企業もだんだんとより外周部にオフィスを構えるようになっており、今は東三環あたりが渋滞を回避できる好立地らしい先の総経理さんが「中国のトップクラスの製鉄所は設備面で日本を追い抜いてしまった」という話は印象的。日本は古い設備を大事に長年稼働させてきたが、中国はここ数年で最新鋭設備を導入して稼働させているから、当たり前と言えば当たり前。その日は、小生の下痢が止まらないこともあり、晩飯に松茸やら羊肉を入れる薬膳の鍋料理を専門商社の方にご馳走となった。その後、ホテルからタクシーで妻の友人の殷さん新宅を訪問したので、まことに忙しい一日となった。
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5日(金曜日)は、地下鉄2号線で西直門をおり、妻のお母さんが入居する西城区の老人ホームを訪ねた。その名を区営の「銀齢老年公寓」と称す。施設はまことに立派なり。老人が入る部屋は古びてけっして奇麗とは言えないが、清潔である。わがお婆さんはぽつんと一人で好物の餃子を食べていた。中国人は一人で居ることをそれほど恐れないそうだ。さらに新聞を読む老人を写真に撮る。日本の老人ホームで新聞を読む老人はそういないであろう。駅への帰り道、文明主義に破壊された胡同(フートン)の廃墟を横目に見ながらやってきて、西城区の新しい役所「西城区総合行政服務中心」を中まで入って見物する。日本の区役所や市役所の庁舎と比べても段違いな施設である。サービスの内容がともなっているかは分からない。
ところで、朝、ホテルのロビーで黄色い袈裟を着た三人連れのお坊さんを見かけた。会議で北京に集合したラマ教の僧侶だろうか。このお坊さんたち、いずれもふっくらとしており、小生と目が合うと何度でもにっこり笑う。それが励ますような笑みである。日本の坊さんはまず知らない人間に笑いかけたりしないから新鮮だったし、少し信仰心がうずいたのも事実だ。ああいうふうに笑えるのは、心に余裕があるからに違いない。
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6日(土曜日)は、午前中に、地下鉄2号線で西直門の一つ前の積水潭駅をおり、后海沿いにある孫文の妻だった宋慶齢の故居を訪ねた。宋慶齢がどの程度中国で人気があるかは知らないが、場所が最高の観光スポットなので狭い路地にもぞろぞろと通行人が多い。湖畔を歩いていて、しゃがみ込んで、しきりに手を合わせて何事かを祈っている女性を見かけた。この場所でよほどのことがあったのだろう。
宋慶齢は、ラストエンペラー愛新覚羅 溥儀(あいしんかつら ふぎ)の別邸の一角に住んだわけだが、こんな美しい湖畔の豪壮な屋敷に住んでいたら文革のときはいつ紅衛兵に踏み込まれるか知れず、さぞかし心細かっただろう。庭師らしい人にくっついて小高い丘の階段を上り、小さな花園があるのを撮る。最後の蓮の花もこの庭師の丹精になるものか。
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宋慶齢の写真や遺品を展示した建物で、彼女の人生の足跡をたどる。宋慶麗は上海の富裕な客家の家に生まれ、美人三姉妹「宋氏三姉妹」の長女(戸籍上は次女らしい。本当の長女がどうなったかは分からない)で、三女は後に敵対することになる蒋介石の妻、宋美齢であった。写真を見ていて、史上そんなに言われるほど美人姉妹なのかなと正直思ってしまうが、むしろ、若いころより壮年の年齢に達して、品位がそなわってなんとも気品ある女性になっていったのは、さすがである。これはいくら金と労力をつぎ込んで化粧しても間に合わない人生経験的才色の問題である。
そして、写真を経年的にたどっていくうちに、三姉妹のなかでももっとも美しいとされた宋慶齢女史が、晩年はこんなに太っていたのかと驚かされた。毛沢東と相対した写真では、貫録的に巨漢の毛主席にけっしてひけをとらない。32歳で偉大な夫、革命の父である孫文と死に別れ、寡婦となった宋慶齢は、その後、夫の遺志を受け継いで中国共産革命をサポートした。その女盛りに秘書と関係を持ったとの噂もあるが、ともかく政治の怪物、毛主席も一目置く存在で、そして魯迅や周恩来らとの親交も知られる近代中国を代表する女性であった。だから、文革に幽閉を余儀なくされた晩年、過食で大デブになったからといって偉さに変わりはないのだ。彼女が帽子愛好であった点も小生と同好である。
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やはり客家の農家の出身だった孫文は、宋慶齢よりも26歳年長であった。しかも当時、孫文は妻子持ちの既婚者。日本ならずとも問題的とされそうだが、どうも時代に命をはった革命家はもてるのであろう。22歳の宋慶齢は日本の孫文のもとへ単身で来て、孫文の離婚成立を待って1915年10月25日に東京で結婚した。ピストルが妻への孫文のプレゼントであった。10年間の著名革命家との多忙な生活をへて、1925年3月12日、孫文は革命半ば北京で亡くなり、宋慶齢は一人とり残される。
宋慶齢が実際に住んだ屋敷も公開されていた。手前に鳩小屋があり、宋慶齢が飼っていた鳩の子孫たちが暮らしている。
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なかに、宋慶齢と関係があったと噂になった秘書の写真も掲げてあったが、背は低くてもハンサムだった孫文と比較すると見劣りがする。でも、男は容貌だけではないからな。こういうことは分からないし、分かったところで大した問題ではない。ざっと廊下から部屋を見て、立派だが、とても住みやすい邸宅だとは思えなかった。中庭に海棠の樹があった。最後から4番目の写真は、宋慶齢が死の床で、名誉主席の称号を受け取ったときのものだ。本人がどこまで喜んだか定かでない。
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3日(水曜日)の夜、北京へ入った。成田からの飛行機で小生の座席のテーブルが壊れて、おろしたままの状態になっているのを中国国際航空の乗務員が離発着時にセロテープで前の座席に固定すると云うハプニングがあった。古い飛行機で、安全上、問題ありだな。成田では応急修理ができなかったとのこと。空港はそんなに混んではいなかった。空港からタクシーで北京市中心街のホテルの向う。
13日まで泊まるホテルは、地下鉄2号線の東四十条駅の真上にある朝陽門の「北京港澳中心瑞士酒店(Swissôtel Hotel)」。港は香港、澳はマカオ、中心はセンター、瑞士はスイス、酒店はホテルだ。ホテルのマネージャーはMeinhard Huck氏とあるから外資だろう。1980年にスイスで創設された新興のホテルで、世界中でホテル買収をしながら展開しているとか。このホテルもスイスの傘下になった口らしい。便利な2号線沿線のホテルだから(最後の写真はホテルの部屋から撮ったもので、地下鉄駅「東四十条」の出入口が眼下にある)、今回の北京滞在は地下鉄をよく使うことになりそうだ。なお、このホテルで日本人の姿はほとんど見かけない。ヨーロッパ人やアラブ系が多い。なんでも、スイスの航空会社がこのホテルとタイアップしているとか。それで習慣的にチップを置く宿泊客が多いためか、部屋の掃除などチップを置いておかないと粗末になる。バスタオルも取り替えない(一度は、バスタオルがないこともあった)。ペットボトルの水もサービスしない。数日して、そのことに気がつき、10元ばかりのチップをサイドテーブルに置くようにすると、格段にサービスが改善した。
なお、いまさら特筆するほどのことでもないが、北京の地下鉄では、「安全検査」と称して、空港のように機械装置による荷物検査がある。いちいち鞄やリュックをあずけてコンベアに流すのは、気分的にも面妖なことだ。
4日(木曜日)は、日系企業の北京事務所を取材した(写真は、その取材先の会社から撮ったもの)。日本でアポをとるとき、中国のビジネスはどうしても上海中心だから、なぜ北京の現地事務所を取材しようとするのか、日本側の本社広報に大分説明を要した。もともと妻の里帰りに同行して、会社の夏休み3日に足して数日分を出張扱いにしてもらうための方便に北京での取材先を探したのだから、アポとりの口実には苦しいところがあった。取材が実現したところではたして意味のあるものになるのか、多少心もとない面もあった。
来てみると、それは杞憂で、中国全体を動かす中国政府筋の情報入手はやはり北京が一番と分かった。午前中に建国門にあるニューオータニ系の長富宮飯店公楼に日系企業を訪れた。ここはこの会社以外にもほとんどのテナントが日系企業で占められており、エレベーターホールの改修工事のお知らせも中国語と日本語が併記されている。まずもって北京の古い日本人村だな。実際、後に取材した中国の協会では、そこを「日本本部」と呼んでいた。外地の日本人はまだまだ安心感のためにまとまりたがる。そこで唐山の曹妃甸(ソウヒデン)で操業をはじめた製鉄所の話がでた。その設備は過剰なまでに合理的でムダを省いているが、そのためにいったんトラブルが生じるとメチャクチャになる。設備設計にも多少のムダ、遊びが必要なのだ。落雷による信号トラブルが大惨事につながった中国新幹線の脱線事故も似たところがあろう。地下鉄2号線でホテルに戻り、昼食後、ホテルのロビーで会社の紙袋を持った若い総経理さんに迎えられて、車で東三環のオフィスに向い、取材が終わってから、同じビルの専門商社の事務所へこれも先の総経理さんの先導でつれていってもらった。ちなみに、このビルは野村証券がオーナーとかで、1階の案内を見れば、やはりずらりと日系企業が入っている。新しい日本人村である。東三環というのは、北京は東京と同じように環状線道路が幾つかあって、泊まっているホテルは東二環、その外側に東三環がある。北京は渋滞がひどいから、日系企業もだんだんとより外周部にオフィスを構えるようになっており、今は東三環あたりが渋滞を回避できる好立地らしい先の総経理さんが「中国のトップクラスの製鉄所は設備面で日本を追い抜いてしまった」という話は印象的。日本は古い設備を大事に長年稼働させてきたが、中国はここ数年で最新鋭設備を導入して稼働させているから、当たり前と言えば当たり前。その日は、小生の下痢が止まらないこともあり、晩飯に松茸やら羊肉を入れる薬膳の鍋料理を専門商社の方にご馳走となった。その後、ホテルからタクシーで妻の友人の殷さん新宅を訪問したので、まことに忙しい一日となった。
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5日(金曜日)は、地下鉄2号線で西直門をおり、妻のお母さんが入居する西城区の老人ホームを訪ねた。その名を区営の「銀齢老年公寓」と称す。施設はまことに立派なり。老人が入る部屋は古びてけっして奇麗とは言えないが、清潔である。わがお婆さんはぽつんと一人で好物の餃子を食べていた。中国人は一人で居ることをそれほど恐れないそうだ。さらに新聞を読む老人を写真に撮る。日本の老人ホームで新聞を読む老人はそういないであろう。駅への帰り道、文明主義に破壊された胡同(フートン)の廃墟を横目に見ながらやってきて、西城区の新しい役所「西城区総合行政服務中心」を中まで入って見物する。日本の区役所や市役所の庁舎と比べても段違いな施設である。サービスの内容がともなっているかは分からない。
ところで、朝、ホテルのロビーで黄色い袈裟を着た三人連れのお坊さんを見かけた。会議で北京に集合したラマ教の僧侶だろうか。このお坊さんたち、いずれもふっくらとしており、小生と目が合うと何度でもにっこり笑う。それが励ますような笑みである。日本の坊さんはまず知らない人間に笑いかけたりしないから新鮮だったし、少し信仰心がうずいたのも事実だ。ああいうふうに笑えるのは、心に余裕があるからに違いない。
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6日(土曜日)は、午前中に、地下鉄2号線で西直門の一つ前の積水潭駅をおり、后海沿いにある孫文の妻だった宋慶齢の故居を訪ねた。宋慶齢がどの程度中国で人気があるかは知らないが、場所が最高の観光スポットなので狭い路地にもぞろぞろと通行人が多い。湖畔を歩いていて、しゃがみ込んで、しきりに手を合わせて何事かを祈っている女性を見かけた。この場所でよほどのことがあったのだろう。
宋慶齢は、ラストエンペラー愛新覚羅 溥儀(あいしんかつら ふぎ)の別邸の一角に住んだわけだが、こんな美しい湖畔の豪壮な屋敷に住んでいたら文革のときはいつ紅衛兵に踏み込まれるか知れず、さぞかし心細かっただろう。庭師らしい人にくっついて小高い丘の階段を上り、小さな花園があるのを撮る。最後の蓮の花もこの庭師の丹精になるものか。
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宋慶齢の写真や遺品を展示した建物で、彼女の人生の足跡をたどる。宋慶麗は上海の富裕な客家の家に生まれ、美人三姉妹「宋氏三姉妹」の長女(戸籍上は次女らしい。本当の長女がどうなったかは分からない)で、三女は後に敵対することになる蒋介石の妻、宋美齢であった。写真を見ていて、史上そんなに言われるほど美人姉妹なのかなと正直思ってしまうが、むしろ、若いころより壮年の年齢に達して、品位がそなわってなんとも気品ある女性になっていったのは、さすがである。これはいくら金と労力をつぎ込んで化粧しても間に合わない人生経験的才色の問題である。
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そして、写真を経年的にたどっていくうちに、三姉妹のなかでももっとも美しいとされた宋慶齢女史が、晩年はこんなに太っていたのかと驚かされた。毛沢東と相対した写真では、貫録的に巨漢の毛主席にけっしてひけをとらない。32歳で偉大な夫、革命の父である孫文と死に別れ、寡婦となった宋慶齢は、その後、夫の遺志を受け継いで中国共産革命をサポートした。その女盛りに秘書と関係を持ったとの噂もあるが、ともかく政治の怪物、毛主席も一目置く存在で、そして魯迅や周恩来らとの親交も知られる近代中国を代表する女性であった。だから、文革に幽閉を余儀なくされた晩年、過食で大デブになったからといって偉さに変わりはないのだ。彼女が帽子愛好であった点も小生と同好である。
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やはり客家の農家の出身だった孫文は、宋慶齢よりも26歳年長であった。しかも当時、孫文は妻子持ちの既婚者。日本ならずとも問題的とされそうだが、どうも時代に命をはった革命家はもてるのであろう。22歳の宋慶齢は日本の孫文のもとへ単身で来て、孫文の離婚成立を待って1915年10月25日に東京で結婚した。ピストルが妻への孫文のプレゼントであった。10年間の著名革命家との多忙な生活をへて、1925年3月12日、孫文は革命半ば北京で亡くなり、宋慶齢は一人とり残される。
宋慶齢が実際に住んだ屋敷も公開されていた。手前に鳩小屋があり、宋慶齢が飼っていた鳩の子孫たちが暮らしている。
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なかに、宋慶齢と関係があったと噂になった秘書の写真も掲げてあったが、背は低くてもハンサムだった孫文と比較すると見劣りがする。でも、男は容貌だけではないからな。こういうことは分からないし、分かったところで大した問題ではない。ざっと廊下から部屋を見て、立派だが、とても住みやすい邸宅だとは思えなかった。中庭に海棠の樹があった。最後から4番目の写真は、宋慶齢が死の床で、名誉主席の称号を受け取ったときのものだ。本人がどこまで喜んだか定かでない。