Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

横浜駅西口の屋台のおでん

2005年10月29日 07時13分51秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 昨夜は、横浜で業界組合の会合があり、その後、有志の飲み会。こうした業界組合も高齢化が進み、飲み会に付き合う人は若手のみで減った。横浜駅西口の川沿いの屋台は、天気の良い金曜日の晩とあって、どこもなかなか込み合っていた。屋台の料金は、安いと思いきや、店舗の一杯飲み屋の1.5倍はみた方がいい。多少の金が懐にないと、安心して飲みにくい場所なのだ。焼酎2、3杯におでん2皿程度で一人3000円。奇妙に元気がいいサラリーマン(多分、国家公務員)と一緒になり、理由もなく盛り上がる。入った屋台は「たつえ」。ばあさんのお上が、なかなかいい。

 秋の夜に屋台のおでん月はなく  頓休
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新日鉄君津製鉄所の第4高炉

2005年10月29日 07時05分37秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 新日鉄君津製鉄所は、工場内は撮影禁止なので、バスから第4高炉の写真概観を撮る。こうした工場は、ノスタルジーの対象たり得る何かを感じる。夢に出てくる建物のような。ニッポンの高度経済成長期に育った人間の夢に出てくる風景とは、田舎の里山ではなく、煙突が空に突き出したような殺風景にある。

 秋の空鋼をつくる高炉かな  頓休
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海ほたる

2005年10月29日 06時53分50秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 今週の火曜日、業界組合の青年部の見学で、新日鉄君津製鉄所へ行った。横浜から東京湾アクアラインに入り、海ほたる(1997年12月開通した海上パーキングエリア)で休憩。海ほたるに止まるのは初めて。トイレ休憩だったので、急いで3つもあるエスカレーターを駆けのぼり、上で写真だけ撮って、引き返す。

 海ほたる360度探す秋の船  頓休
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

質屋と靖国通り、歌舞伎町

2005年10月25日 07時43分33秒 | Journal
 越後屋から歩を進めること数十メートル、歌舞伎町へ渡る交差点だ。ここに「銀蔵」なる蔵造りを真似た質屋を見つけた。前からあったかな。質屋というのは、人目をはばかるので目立たぬ路地にこっそりあったのは、昔の話。ブランド品をあさる女性客や外国人旅行客を狙ったファッション質屋が、人目をひくように表通りへ出てきている。
 それにしても、この交差点を渡る人々の意図は、いつも図りかねる。新宿区役所も渡った側にあるから、そうした用事の人もいるだろう。また、歌舞伎町の飲食店や風俗にお出かけになる諸氏も混じっていよう。しかし、なんとなく渡る人それぞれを憎めずに眺めたい交差点ではある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新宿越後屋の「いかピー」は、うまい

2005年10月25日 07時39分02秒 | Journal
 四谷三丁目から丸の内線で新宿三丁目へ。新宿駅東口から歌舞伎町方面に抜ける通り、アルタの脇に、明治40年ころに創業した「越後屋豆店」がある。ここの「いかピー」(1袋300円)は、うまい。落花生ことピーを、もち米で包んでサクッと仕上げたもの。ビールを飲みながらの口の中の歯ごたえは最高。原材料を見ると、切いかが入っているようだが、その風味よりも単純な塩味が勝つ。いつも店頭の最前列に出して、「当店人気一番の品!」と書いてあるから、自信作ということであろう。ここを通りがかると忘れないように購入する。忘れると、ああ、しまった!と思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四谷消防署、大地震と29メートルの津波が来たら

2005年10月25日 06時47分30秒 | Journal
 昨日、四谷三丁目の交差点近くへ、記者会見の取材で出かけた。取材では大地震でも建物が無損傷な「震度7弾性構造」がテーマ。東京に直下型地震があると、1万2000人が死に、加えて112兆円ばかりの経済的損失が予想されるとか。だから、今の法律で守られている人の命ばかりでなく財産である建物自体も地震から守ろうというのだ。性能の良い鋼とダンパーを組み合わせた柔剛混合構造などで「震度7弾性は実現可能」だとスーパーゼネコンの常務さんは断言していた。そして、プロジェクトを実現させるためには、損保業界やリース業界、外資系ファンドにもPRが必要だと語った。
 取材が終わって、交差点の前まで戻ってくると、消防署の建物に横断幕。「北海道南西沖地震」(1993年7月12日午後10時17分、マグニチュード7.8)の津波は、奥尻島で高さ29メートルにも達した。それを通行人に実感させようと、その高さに表示したものと思われる。ある設計者が、「大自然災害は想定外のかたちで起こることを最近つくづく認識した」と話していたが、大地震で建物は無傷でも、29メートルの津波が東京を襲ったら、どうなるのであろうか。
 最近の事例が示すように、地震の被害は、多分に、複合的かつ壮大なものだ。高値のビルを建て、地震への担保でもうけようというゼネコンの単純な思惑では、本当の備えにはならないのでは。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江ノ島の釣り人と赤富士

2005年10月15日 11時41分16秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 江ノ島の海は平らく凪(な)いでいる。釣り人が、暗くなる中、釣りをしていた。さっぱり釣れていない。夕暮れにたたずむ赤みがかった富士山をただ眺めている方が風流だ。

 魚なく海平らかに赤い富士  頓休

 秋も暮れ釣竿の先赤の富士  頓休
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江ノ島夜景と歴史

2005年10月15日 11時24分07秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 江ノ電でさらに行き、江ノ島へ来る。もう夕暮れも迫り、江ノ島へ渡って、向こう側の弁財天や岩屋まで急峻な階段を登り降りするのはあきらめる。弁天橋を途中で右にそれて、防波堤で写真を撮る。

 黄昏のインドへ渡るか弁天橋  頓休
 
COMMENT: 江ノ島は、周囲約5㌔㍍、面積0・38平方㌔㍍の島。かつてあった島の頂上は海抜60・4㍍。地質的に第三紀凝灰質砂岩から成り、このため海浸洞窟や岩嘴が多い。「江島縁起」によれば、継体天皇の息子であった欽明(キンメイ)天皇十三年(552年)、「海底より塊砂を噴き出し、天地が鳴動すること二十一日忽ちに海上に一つの島が成せり」とあるから、島の生い立ちは比較的新しい。ちなみに、『日本書紀』によれば、同じ十三年に百済王が使を遣わして仏典・仏像を献じ、初めて仏教が渡来したとあるから、その仏縁でできたとのフィクションであったろう。
 昔、江ノ島は「江ノ島詣」として信仰の対象であった。源頼朝が、近江は琵琶湖の「竹生島」の弁財天を江ノ島の巌窟に勧請供養させ、自らも参拝、鳥居を奉納したことがあった。以来、江ノ島の弁財天は、竹生島と瀬戸内海の厳島(いつくしま)と並んでニッポンの三大弁財天の一つに数えられるようになった。
 弁財天というのは、古代インド仏教のサラスヴァティー(河の女神、水の恵みにより豊穣至福を願い、弁舌・音楽・学問・知恵を司る神)が平安時代にニッポンの神と習合したものである。江ノ島には、「本宮・上之宮・下之宮」の3祠(ほこら)があり、「岩本院・上之坊・下之坊」の3寺がその別当(寺務を統轄する僧侶)として、それぞれの弁財天を持っていた。上之坊は山の上に住み、肉食妻帯しなかったが、海岸の下之坊と岩屋の本宮に住む岩本院は肉食妻帯した。
 江ノ島詣がブームになったのは、江戸時代中期、御開帳が人気を呼んだからである。開帳とは、「秘仏として平生は参拝を許さない仏像を一定期間、その帳(とばり)を開いて信者に結縁(けちえん)の機会を与えること」だそうだ。最初の御開帳は元禄二年(1689年)のことだった。ちょうど、芭蕉が「そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取(とる)もの手につかず」と、『奥の細道』の旅に出た年である。
 その御開帳が定期的になったのは、十八世紀半ば。純粋な宗教行事というよりは、信者からの奉納品や賽銭を目当てとした寺社の収入源であった。「出開帳」というのもあって、江戸時代には、何度か浅草や深川の寺社で出張御開帳が催されている。
 「絵の島」とも言われる江ノ島への参詣者は、「開帳にすりあふ袖は江戸染のゆかたすかたのにしき江ノ島」などと表現されたように、江戸方面からやってきた華やかな若い女性や子供づれの婦人が多かった。東海道を藤沢宿まで来て、そこから分岐して平坦な約5㌔の「江ノ島道」をやってくればよかった。中には、やはり当時人気が高かった富士山や大山参詣後に江ノ島に立ち寄るケースもあった。
 片瀬江ノ島から江ノ島へは、昔は舟で渡っていたが、1216年正月の干潮の時に初めて陸続きの干潟(ひがた)となり、以来、引潮のときは徒歩で渡れることになって、それも人気に拍車をかけた。なお、潮を満ちているときは、舟か、「負越」といって人足におんぶで渡った。
 明治二十四年(1891年)、この江ノ島へ橋が架かった。あの正岡子規が江ノ島へ遊びに来て、血を吐いたのは明治二十一年だった。まだそのときは橋がなかったことになる。しかし、簡単な木橋であったために何度も暴風雨に流出し、昭和二十四年(1949年)に橋脚を鉄筋コンクリートに改築、名を「江ノ島弁天橋」とし、さらに、三十三年(1958年)に完全な鉄筋コンクリート橋になった。
 なお、2002年頃、江ノ島の頂上近い一角に2本のタワーが並んで立っていたことがあった。戦前の落下傘訓練搭を1951年に移築した高さ54㍍の「江ノ島展望灯台」と、隣りで建設中だった高さ60㍍の新しい搭である。逆円錐形で下から上へいくに従って大きくなる新搭は、江ノ電開業100年を記念して着工された。船の安全と携帯電話のアンテナ搭としての役割を果たすために、旧搭を壊してから新塔を建て直すわけにはいかなかったのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉大仏と蓮華の花

2005年10月15日 11時20分02秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 鶴岡八幡宮を覗き、小町通り筋で遅い昼食(まずい味噌ラーメン)をとってから、JRの鎌倉駅の右脇のトンネルをくぐって、江ノ電に乗車。長谷駅で途中下車。とぼとぼと高徳院の大仏様へ。

 来て見れば長谷は秋風ばかりなり  漱石

 鎌倉の大仏様、1238年に創建されたときは木造だったらしい。1247年、台風で殿舎も大仏も吹っ飛んだ。5年後、今度は青銅製の大仏として着工。仏身の高さは11メートル強。重さ121トン。
 久しぶりに再会した第一印象は、「大仏」の割りにそんなに大きくないなであった。近くでつくずく見上げると、やはり大きく立派で、ハンサムな阿弥陀仏なり。バックが緑というのも、山に腰掛けているようで、いい。それにしても、大仏って、口ひげをはやしていたかな?
 蓮華の花が前に飾ってある。生け花を習っているという台湾人の連れによれば、この蓮華の花が咲くタイミングは百年とか三百年とかいろいろで、それだけ仏の慈悲は長いことつづくのだとか。

 千年山にすわりて大仏の秋  頓休
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建長寺と犬

2005年10月15日 11時03分11秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 建長寺の伽藍で、日向(ひなた)ぼっこする立派な禿げ頭の持ち主と噛み付き防止装置をする犬。なぜ、この写真を撮ったか、特に釈明の必要はあるまい。

 禿げ頭日向に犬や建長寺  頓休
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする