Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

5 ナナの女とお稲荷さん(バンコク)

2007年09月30日 18時36分16秒 | バンコク・パタヤ・アユタヤ見聞録
 タイは大変な仏教国である。売春婦でさえ、皆、仏陀の教えを信じ、明確に仏教徒であることを表明する。隣のミャンマーでは、仏教僧侶が政府に反旗をひるがえして騒乱になっているが、ここタイも仏教にそれだけの力があると感じた。ただ、タイは軍事政権とは言え、国王の存在も大きく、本当のところは仏陀と国王(現世における仏教と軍の最高執行者のようなものか)のどっちが偉いのか知らないが、両要素によって国民性が支えられているようだ。
 まさかお稲荷さんとは言わないのだろうが、ちょっとしたビルの前やホテルには必ず空き地を設けてこうした僧院を模した小さな社(やしろ)がある。歓楽の果ての朝、ナナ・ホテル脇のバーで見かけた、国王へのロイヤリティーを示す黄色のTシャツを着、もの憂く祠(ほこら)に目をやる女は、どんな素性の女であろうか。仏陀は職業に貴賎はなく娼婦でも悟りに正しく導けると教えた。今もそうした基本のところで仏教的なタイである。
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4 ナナ・プラザの朝(バンコク)

2007年09月30日 17時56分17秒 | バンコク・パタヤ・アユタヤ見聞録
 クレージーな歓楽街ナナ・プラザも、朝になればこんな風である。この写真を見るまで気がつかなかったが、夜中の2時まで開店している両替屋が入口にあるというのも、まことに分かりやすい。快楽を悪徳とする国から来た者からすれば、この国のあけっぴろげな快楽主義と「現金さ」がまた旅の興趣である。
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3 ナナ・プラザ(バンコク)

2007年09月30日 17時46分42秒 | バンコク・パタヤ・アユタヤ見聞録
 正式には、「ナナ(NANA)・エンターテイメント・プラザ」という。詳しく知りたければ、ここの様子、遊び方を店の地図入りで懇切丁寧にレポートしているサイトもあるから参照されたい。
 そう広くもない中庭を囲むように3階建ての構造になっていて、その回廊に何十軒ものGOGOバーの店がひしめいている。上階に行くほど濃厚だが悪質な店が多くなるそうだ。他日、バンコク内のナナ(NANA)からBTSという鉄道の駅で1つのアソーク(Asok)の同じくGOGOバー街区「ソイ・カウボーイ」(ここは通りの両脇に店が軒を並べている)にも行ったが、印象としては、建物の回廊的な構造的特徴から来る面もあるのだろうが、売春窟としての人間模様の面白さ、多様性とコンパクトさ、踊り子たちのレベルから評価して、ナナの方が上だと感じた。ビールばかり飲んでなかかな女の子を連れ出さない白人よりも真っ正直にセックス目的で金払いがいいニッポン人の方が、店の仲介オバサンの受けもいいのかもしれない。
 ちなみに、GOGOバー(A-GOGO)の正確な定義は知らないが、女の子が下着姿でGOGOを踊るのを眺めながら、気に入った子がいれば、店と交渉して連れ出す飲み屋といったところだろう。連れ出し料金は店に600バーツ、女の子に2000バーツ(6000円)といったところが相場らしい。そのGOGO踊り自体は芸もなく極めて単調なもので、しばらく眺めていると飽きてくる。むしろ、その踊りに見入る男たちの顔の方が表情に富んで興味深い。こういうところの白人は概して海賊の子孫のようなバカ面が多い。ニッポン人も含め東洋人もいやらしいH魂胆に満ち充ちてはいるが、そうかといってただのいやらしい顔ばかり全て並んでいるのでもない。後日、ソイ・カウボーイのバカラという名の店だったが、一人放心したように見つめる職業で言えば医者のようなニッポンのインテリ(どこか引退を決めたヤクルトの古田捕手・監督に似ていた)も見かけた。彼は、1瓶のビールを飲み終わると、女を買うこともなくどこかへ立ち去った。
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2 ナナ・ホテル(バンコク)

2007年09月30日 17時23分08秒 | バンコク・パタヤ・アユタヤ見聞録
 バンコクで最初の2日間泊ったのはナナ・ホテル。ある方面で超がつくほど有名なホテルである。このホテルの名を告げると、タクシーのドライバーがなぜか必ずアハ~ンと明るく頷いてくれる。要は、ニッポン人や白人のスケベどもが御用達の連れ込み宿にするので知られている。写真の狭い通りを挟んで真ん前がナナ・プラザという売春窟で、店からホテルの玄関まで実質、徒歩30秒、エレベーターを使って部屋まで1分30秒という距離。
 この春、深夜に空港からホテルまでさ迷った北京での記憶があるので、タクシーのドライバーが迷わず直行できるホテルであることが大事だった。さらに、バンコクらしい卑猥な雑踏にいささか憧れもあった小生、ここを最初の宿泊先とした。日本でインターネットで予約した際も、極めて分かりやすい英語のメールが「ご来客を歓迎します」と来た。宿泊の意図も立地も、いろいろな意味で分かりやすいホテルではあったが、部屋は余り奇麗とは言えず、また水道の水がいくら流しても茶色のままなのが気にかかった。その代わり、冷蔵庫にはペットボトルが3本入っていた。ただ3本飲み切った翌日は、なぜか補充されていなかった。空港で両替したとき小銭が少なくトランクを部屋に運び入れてくれたボーイへのチップが少なくなってしまったのが災いしたのかもしれない。ドアを閉めるときボーイは手のひらのコイン(慥か5バーツ硬貨=15円だったか)に目をやってから小生を見返して一瞬顔をしかめたのが印象に残っている。その後泊まった2つのホテルでは、最初だけだったが20バーツ札を渡すように心した。
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1 スワンナプーム国際空港(バンコク)

2007年09月30日 15時11分11秒 | バンコク・パタヤ・アユタヤ見聞録
 昨日まで遅い夏休みを1週間とってタイに行っていた。タイは初めてだった。
 今の小さな会社で実質4日ながら土日をかまして連続で1週間休むのはなかなか至難で、3週間分ぐらい余分に仕事をこなしておいてから強行。
 ともかくも、23日の日曜の夕方4時15分発のJL703で、成田から6時間余かけて一路バンコクへ飛んだ。いろいろ不良工事の噂は聞くスワンナプーム国際空港だが、飛行機は滑走路のひび割れにつまずくこともなく無事に停止した。昔、シカゴ空港の広さに驚いたが、似たような感じでこの空港も広いというか、通関まで長く歩かされる。でも、まあ、感じが良い空港だ。トランクの受け取りも思ったほどは待たされなかった。成田よりずっとましなり。
 インターネットで、タクシーを拾うには混雑する到着階よりも空港までの乗客を降ろしたところのタクシーがいる1階上の出発階で拾った方がスペィーディーだとあっとので実践。なるほど待たずに乗れて、ホテルまで高速をとばして小1時間で到着。400バーツとドライバーは至極正直に請求したので、500バーツ渡してやった。ちなみに、1週間後の帰り、ホテルから空港まで1000バーツ(約3000円)支払った。これでもまだ安い方かもしれないが、「高速を使うか」などと言い訳をしながら値段を吊り上げる理由にする。飲み屋で女に聞けば、ビール一杯でもニッポン人料金というのがあるようだ。最初に空港から乗ったタクシーの運ちゃんは、値段交渉をした後で、香港から来たのかと小生に訊ねたから、ニッポン人料金を言い損ねたのかもしれない。
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大館曲げわっぱ太鼓

2007年09月18日 20時18分51秒 | Journal
 出張ででかけた大館で見た曲げわっぱ太鼓を掲載するのを忘れていたので遅れたが載せる。
 なんでも大沢しのぶという公務員の女性がリーダーらしい。女性太鼓ながら威勢が良かった。写真で、一人向こうに向かって打ち込んでいるのが大沢さんであろうか。
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石町時の鐘(小伝馬町「十思公園」)、与謝蕪村と吉田松陰、そして安倍晋三氏

2007年09月17日 10時30分25秒 | Journal
 2週間ぐらい前、雨模様の日だったが、取材で日比谷線の小伝馬町を降りた。取材先に行く途中に「十思公園」があり、そこに「日本橋石町時の鐘」があるというから見物から外せなくなった。これは江戸時代最初の鐘で、二代将軍の秀忠の時には江戸城の西の丸で撞いていたが、ボ~ンとの鐘の音が将軍様には耳障りだったのか、日本橋石町に鐘楼堂を造って納めた。その後、三度の大火で破損、410カ町から一軒につき1カ月永楽銭一文ずつを徴収して維持にあてた。鐘役は代々、辻源七なので「辻の鐘」とも呼ばれた。
 ところで、この鐘楼下で与謝蕪村が修行したのは有名。その先輩、やはり日本橋に住んだ芭蕉も石町時の鐘に耳を澄ましたのは間違いない。この石町鐘楼堂から二丁ほどの所に伝馬町牢屋敷(獄)があった。慶長年間に常盤橋際から移って約270年間、江戸の刑務所はここだった。処刑もこの鐘の音を合図に執行され、処刑者の延命を祈るかのように鐘撞きが遅れることもあったので一名「情けの鐘」とも呼ばれた。現在の鐘は、宝永8年に改鋳され、昭和5年9月に十思公園に移したもの。
 牢舎は、身分で分かたれていて、揚座敷は旗本、揚屋は士分と僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は女といった具合だ。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思公園を含む一帯がその屋敷跡。処刑場は大安楽寺の境内にある。今は地蔵尊があり、山岡鉄舟の筆になる鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されているとか。
 与謝蕪村吉田松陰、この二人、石町の鐘の音を同じく聞いた以外には特には関係がない。
 安倍晋三首相が国政を放り出すように突然辞任して1週間ほどたったが、松陰は1859年の秋、この地で処刑される折に、「今吾れ国のために死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」と詩を吟じ、「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとどめ置かまし大和魂」と朗誦して刑についたとか。安倍氏にとって、松陰は先祖の地(長州・山口)の英雄であったし、松陰なくして、一族のその後の政治的な栄華もなく、畢竟(ひっきょう)、安倍氏が政治家になり、首相になることもなかったであろう。安倍氏は総裁選前の挨拶で尊敬する松陰の言葉を引用し、「侍は志を持たないといけない」と述べたそうである。現代人は死に対して生半可だからなかなかサムライにはなれないよ。安倍氏の「美しい国」は、今も「鑑照明神に在」るから、サムライの志はいったん神棚にでも棚上げし、そう国のことなど憂えずに慶應病院で心を養生したらいい。しかも考えてみると、慶應大学の創始者である福沢諭吉は、ニッポンで一番速くサムライ精神を遺棄した張本人である。安倍氏がサムライの志を放念するには恰好の場所かもしれない。慶應出身の小泉氏の亡霊から逃れ、やはり慶應の諭吉も鼻持ちならないなら、写真で、鐘の下に新聞を広げるホームレス氏の悠々自適な境涯に学ぶしかあるまい。まさか彼は慶應出ではあるまい。これも世の中、分からないことだが…。
 30歳で死ぬことになった松陰が父や叔父、兄に贈った書の永訣の一首は「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」であったという。
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工事現場(モード学園コクーンタワー)

2007年09月17日 09時39分34秒 | Journal
 見た感じ、蜘蛛の巣のように、かなり単純にトラスの鉄骨を編み上げることでこの超高層ビルはできあがっていくようだ。この蜘蛛の巣に新宿駅から排出された1万人のファッション学生がうじゃうじゃ通うようになるのも、そう遠くはない。
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モード学園コクーンタワーの建て方工事図

2007年09月17日 09時32分27秒 | Journal
 最近はゼネコンも親切なもので、注目のビルの建設がどこまで進んでいるか一目瞭然に分かるように画にして示している。来年の10月末が完了らしいから、残り1年間の工事期間だ。これほどの超高層では、かなり急ピッチな工事だという気がする。ゼネコンも効率的な施工技術を磨き、短納期を実現しているのであろう。「建築計画のお知らせ」の標識設置によれば、建築主はモード学園理事長の粕谷俊彦氏、設計者は丹下都市建築設計の丹下憲孝氏、施工者は清水建設の執行役員・荒幡徹氏。まずは無事に竣工にこぎつけられるように。
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モード学園コクーンタワーと工学院大学(西新宿)

2007年09月17日 09時19分14秒 | Journal
 アイヌの舞踊を見た日、忘れ物の傘がやはりなかったかと工学院大学を出てきて、見上げるとモード学園コクーンタワーの建て方中のビルが眼前に立っている。これは学校では日本一の高さ203㍍になるというから、もっともっと高くなる。このモード学園は比較的新しく1966年の発祥だとか。1887年帝国大学(現・東京大学)初代総長であった渡辺洪基らを中心に設立され、日本の私立学校としては最も古い工業学校である工学院大学の高さ143㍍も完全に圧倒されてしまう。学問(実学)の超高層化ではファッションの方に一応軍配があがるということなのか。
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