2週間ぐらい前、雨模様の日だったが、取材で日比谷線の小伝馬町を降りた。取材先に行く途中に「十思公園」があり、そこに「日本橋石町時の鐘」があるというから見物から外せなくなった。これは江戸時代最初の鐘で、二代将軍の秀忠の時には江戸城の西の丸で撞いていたが、ボ~ンとの鐘の音が将軍様には耳障りだったのか、日本橋石町に鐘楼堂を造って納めた。その後、三度の大火で破損、410カ町から一軒につき1カ月永楽銭一文ずつを徴収して維持にあてた。鐘役は代々、辻源七なので「辻の鐘」とも呼ばれた。
ところで、この鐘楼下で与謝蕪村が修行したのは有名。その先輩、やはり日本橋に住んだ芭蕉も石町時の鐘に耳を澄ましたのは間違いない。この石町鐘楼堂から二丁ほどの所に伝馬町牢屋敷(獄)があった。慶長年間に常盤橋際から移って約270年間、江戸の刑務所はここだった。処刑もこの鐘の音を合図に執行され、処刑者の延命を祈るかのように鐘撞きが遅れることもあったので一名「情けの鐘」とも呼ばれた。現在の鐘は、宝永8年に改鋳され、昭和5年9月に十思公園に移したもの。
牢舎は、身分で分かたれていて、揚座敷は旗本、揚屋は士分と僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は女といった具合だ。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思公園を含む一帯がその屋敷跡。処刑場は大安楽寺の境内にある。今は地蔵尊があり、山岡鉄舟の筆になる鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されているとか。
与謝蕪村と
吉田松陰、この二人、石町の鐘の音を同じく聞いた以外には特には関係がない。
安倍晋三首相が国政を放り出すように突然辞任して1週間ほどたったが、松陰は1859年の秋、この地で処刑される折に、「今吾れ国のために死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」と詩を吟じ、「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとどめ置かまし大和魂」と朗誦して刑についたとか。安倍氏にとって、松陰は先祖の地(長州・山口)の英雄であったし、松陰なくして、一族のその後の政治的な栄華もなく、畢竟(ひっきょう)、安倍氏が政治家になり、首相になることもなかったであろう。安倍氏は総裁選前の挨拶で尊敬する松陰の言葉を引用し、「侍は志を持たないといけない」と述べたそうである。現代人は死に対して生半可だからなかなかサムライにはなれないよ。安倍氏の「美しい国」は、今も「鑑照明神に在」るから、サムライの志はいったん神棚にでも棚上げし、そう国のことなど憂えずに慶應病院で心を養生したらいい。しかも考えてみると、慶應大学の創始者である福沢諭吉は、ニッポンで一番速くサムライ精神を遺棄した張本人である。安倍氏がサムライの志を放念するには恰好の場所かもしれない。慶應出身の小泉氏の亡霊から逃れ、やはり慶應の諭吉も鼻持ちならないなら、写真で、鐘の下に新聞を広げるホームレス氏の悠々自適な境涯に学ぶしかあるまい。まさか彼は慶應出ではあるまい。これも世の中、分からないことだが…。
30歳で死ぬことになった松陰が父や叔父、兄に贈った書の永訣の一首は「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」であったという。