Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

プラハのカフカ-153 小さな国立オペラ劇場をあとにして

2008年12月23日 17時27分58秒 | プラハのカフカ
 オペラが終って、国立オペラ劇場をあとにした。小さな劇場である。これはドイツ魂の小劇場である。チェコ映画「英国王給仕人に乾杯!」では、小さなチェコの給仕人が、路上でドイツ娘の白い靴下を脱がせるという迫害から、小さなドイツ娘を救って、愛し合う。ナチス統治下、男はこの娘と結婚するため、ポルノ写真の鑑賞やら大柄な看護婦の胸に顔を埋めて搾り出した精液をとられ、ドイツの血にふさわしいかの分析を受ける。男は、かつては高級娼館だった施設のプールのある庭で、ドイツ的優生人種を増やすために集められた裸の大きなドイツ女性たちに給仕してまわる。ここで小さなことが、何の象徴的な意味があるのか。大掛かりなパロディーというより、小さな視線から目撃する現実社会への小さなウイット(wit、頓智)と感じた。
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プラハのカフカ-152 国立オペラ劇場前のカフカも見た夕闇空の街風景

2008年12月23日 17時07分49秒 | プラハのカフカ
 休憩時間に国立オペラ劇場の外に出てきた。カフカも多分、同じような夕闇迫る街の風景を眺めたであろう。車や横断歩道のマーク以外は、当時と大きく異なる材料がない。プラハという街のなんでもない日常のありさま、それが風景描写に乏しいカフカ的な小説空間に転換されていった。
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プラハのカフカ-151 「COSI FAN TUTTE」の舞台と音楽

2008年12月23日 16時48分41秒 | プラハのカフカ
 前の演目で、「COSI FAN TUTTE」を劇として辛口に評価したが、音楽は悪くなかった。モーツァルトはどうでもいいような話に自分の熟達した音楽を乗せていったのであろう。ただ、舞台としては、簡易で、現代的なぶら下がり物の背景がいまひとつピンとこなかった。
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プラハのカフカ-150 演目は「COSI FAN TUTTE」

2008年12月23日 12時03分56秒 | プラハのカフカ
 国立オペラ劇場の当日の演目はモーツァルトの「COSI FAN TUTTE」。こんな名のオペラは知らなかった。『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』はさすがに知っているが、それより後期の作品らしい。ossia La scuola degli amanti(女はみなこうしたもの、または恋人たちの学校)という副題が示すように、恋人の貞操をためす劇。音楽的にはともかく、余りにストーリーが軽佻浮薄で、芝居として面白くなかった。それでも、ゲーテの「親和力」がチラッと頭をかすめた。モーツァルトは敢えて軽喜劇的な筋立てに自分の曲想を乗せて実験的に真価を確かめたのかもしれない。日本に戻ってきて、このオペラの公演ポスターを慥か大手町の経団連会館の前で見かけた。こんなものでもニッポン人はありがたがって大枚の金を払って観るのであろう。あほらし、と当のモーツァルトがあの世でささやいているかもしれぬ。
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プラハのカフカ-149 国立オペラ劇場のボックス席

2008年12月23日 11時52分13秒 | プラハのカフカ
 慥か、チケットを買うときボックス席も勧められた記憶があるが、とっさに断ったのであろう。脇からでは観にくいのではないかと思ったし、第一、ボックス席という柄ではない。しかし、こうしてボックス席を眺めると、そうまで柄を心配する必要はなかったかもしれない。今は、貴族が座る席ではなく、リッチな観光客が座る席である。
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プラハのカフカ-148 国立オペラ劇場のオーケストラボックス

2008年12月23日 11時38分47秒 | プラハのカフカ
 国立オペラ劇場(Statni Opera)の公演前のオーケストラボックスである。犬と少年、幕の絵がカフカ的なのが興味深い。考えてみると、オペラ劇場に来るのも初めてならばオペラを観るのも初めてだった。日本は高すぎるよね。5000円ぐらいで観劇できるようにしておかないと、身銭を切って一生に一度のように覚悟して観るようでは、そんな文化は廃れるよ。
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プラハのカフカ-147 カフカも通った国立オペラ劇場

2008年12月23日 10時06分49秒 | プラハのカフカ
 先日、「英国王給仕人に乾杯!」を観たとき、上映を待つ短い時間に、チェコ語があるのにカフカはなぜドイツ語で小説を書いたのかが話題になった。「当時は、ドイツ語が公用語だったから」と簡単に説明したが、カフカがドイツ語で執筆したのには、それ以上の何かがあったのかもしれない。
 フランツ・カフカのWikipediaには「1883年、プラハで高級小間物商を営むユダヤ人の家庭に生まれる。当時オーストリア・ハンガリー帝国の都市であったプラハで公用語だったのはドイツ語であり、カフカもドイツ語を母語としている。チェコ語も話すことができ、またヘブライ語を学んだこともあったが、執筆活動は一貫してドイツ語で行った。教育を受けたのもドイツ語であり、家庭は西欧的な同化ユダヤ人だったので青年期までほとんど、自らをユダヤ人と意識することはなかった。次第にユダヤ人としての意識を強めつつあったカフカがはっきりとそれを自覚したのは、1910年に旅回りのイディッシュ語劇団に出会ってからであった。カフカは自らを西方ユダヤ人、つまりイディッシュ語や伝統や村落共同体によって結びついた東方ユダヤ人ではなく、一切の伝統から切り離された西方ユダヤ人の最もたるものとみなしていた。常にユダヤ人としての自覚は持ちつつも、手紙の中でユダヤ人に対する苛立ちや嫌悪を語り、その一方でヘブライ語の勉強をしたりパレスチナへの移住を考えたり、あるいは年下の青年にユダヤとは何かについて幾度も語るなど、カフカのユダヤ性に対する態度は生涯を通じて複雑な様相を呈していた」。

 ニッポンへ帰る前の晩、ホテルでオペラのチケットを購入して、国立オペラ劇場へ出かけた。この劇場は、位置的には国立博物館と並んである。もともとは、ドイツ人が「ドイツ人たちの劇場を」標榜して、「ドイツ劇場」と呼んでいた。チェコ語によるチェコ人のための舞台を」をスローガンとした国民劇場とは真っ向から対立する創設意図だ。Kafka's Pragueによれば、1888年1月5日、このオペラハウスのこけら落としはワーグナーニュルンベルグのマイスタージンガーだったそうだ。ワーグナーは、Wikipediaによれば「匿名で『音楽におけるユダヤ性』を書いてメンデルスゾーンやマイアベーアらを金銭づくのユダヤ人だから真の芸術創造はできないとして非難し、この反ユダヤ的思想は、ヒトラーがワグネリアンであったことと相まって、はるか後にナチスに利用されることとなる。しかし、彼のユダヤ人嫌いは一貫したものではなく、晩年にユダヤ人の指揮者を起用したり、親交もあった」という人物。こうした劇場に通ったユダヤ人カフカの複雑なユダヤ人感情を想起させる。ニッポン人がニッポン語で文学をやる場合、なんだか当たり前になりすぎているところがある。ニッポン語にもチャイナやコーリアから流入した複雑な事情が隠されているのに、書き手もそうした要素に無感覚になっている。漱石は、英文学の知見に加え、江戸以来の文語体の伝統に口語体でぶつかっていって彼独自の小説世界を作り上げた。そうした異世界への挑戦が、実は作品の自由闊達さを生み、瞬発力で新鮮な文学を生み出すのであろう。
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プラハのカフカ-146 つましい朝食

2008年12月23日 09時51分21秒 | プラハのカフカ
 朝もまだレストランが開くには早い時間帯だったのか、何軒か探して、結局、写真のようなつましい朝食になった。放り出した足の靴先が写っているが、これはニッポンで買った古靴だ。いまだにプラハで買った靴と交代で使っている。
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プラハのカフカ-145 ショッピングセンターで靴とサンダルを3足買う

2008年12月23日 09時36分51秒 | プラハのカフカ
 ニッポンへ帰る日の朝、残りのお金を計算しながら、ホテルの近所へ買い物へ出かけた。地図で見ると、EndelのそばのNovy Smichovというショッピングセンターだ。写真の左の方に写る靴屋の2階で、革靴2足(会社用と半登山靴)とサンダルを安価な値段で買った。今でも「チェコは大したマニュファクチャーの国だ。靴の何たるかを知っている。職人魂が生きている」とぶつぶつ呟きながらはいている。チェコへ行ったら、靴を買え!
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プラハのカフカ-144 聖ヴァーツラフ教会

2008年12月23日 09時19分00秒 | プラハのカフカ
 これは泊まったホテルのそばにあった教会。なかなか床しいので写真に撮った。今、観光ガイドブックの地図で確認すると、聖ヴァーツラフ教会とある。聖ヴァーツラフ大聖堂というのも別にあるらしいが、それほど大規模な教会ではなく、普通の近所の教会だ。
 聖ヴァーツラフ(ヴァーツラフ1世)のWikipediaには「ヴァーツラフ1世(Václav I, 907年 - 935年9月28日)は、ボヘミア公(在位:921年 - 935年)。ヴラチスラフ1世とその妃ドラミホーラの息子。プシェミスル朝の実質的な始祖ボジヴォイ1世の孫で4代目にあたる。チェコの守護聖人聖ヴァーツラフとはこの人物のこと」とある。チェコの守護聖人だから、その名を被せた教会も多いのかもしれない。弟と喧嘩して若くして殺されたのは、ニッポンの源頼朝と義経とアベコベだな。
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