旗津風景区の旗津輪渡站から対岸の鼓山輪渡站へ、このちっぽけなフェリーで渡る。15分ぐらいの乗船時間だ。船の1階にはバイクの乗船者がたくさん乗っている。しかし、この写真、なかなか良いであろう。向こうに霞んで見える高層ビルは85階建ての「国際大楼」。
台湾海峡寄りの海辺から店が両側に並ぶ一本道を200メートルたらず歩いて、写真のフェリー乗り場「旗津輪渡站」からフェリーで高雄港を横切り、対岸の高雄市街地側に渡ることに。こうしたレンガの洒落た建物もニッポンの流行と共通している。2階にはレストランもあり、夜は夜景を見ながらのデートスポットになるのであろう。
余り気が進まないが、恒例のようにしているので一枚だけレポート者本人の写真を載せる。犬がつきあってくれた。この日も高雄にしては寒い日で、セーターとマフラー、帽子はないが、ニッポンを出るときと同じ恰好をしている。セーターやマフラーもこの日に限っては必需であったことは後で思い知った。
高雄のこの旗津風景区という一角で、ニッポンの柴犬を見ようとは思わなかった。台湾も、タイと同じで猫を見かけることは稀で犬党の国柄らしい。しかし、柴犬とは。前に銀座かどこかで高級マダムたちが話しているのを耳にした限りでは、「ニューヨークで一番人気があるのが柴犬ってことよ」なのだそうである。主人にロイヤリティー(忠義)があり、利口そうなところがうけているのだとか。
旗津風景区の屋台では、こんな青いトマトを売っている。熟成の赤いトマトに馴れた眼には、ちょっと固くて甘味に欠けそうだが、案内人は「旨いのだから」と請合った。しかし、まあ、次回の楽しみということで写真を撮るだけにした。
ホテルで待ち合わせた人に、昼食を食べに、旗津風景区という所に連れて行ってもらった。タクシーで30分くらいか。安く海鮮料理を食べさせる人気スポットとのこと。日本でも、例えば、江ノ島へ行けば独特の雰囲気があるが、ああした海辺の観光地らしい一種開放的な雰囲気がここにもある。ここは、台湾海峡に面した旗津半島という、高雄港に蓋(ふた)のようにかぶさった幅200メートル、長さ11.3キロの砂洲である。1975年に、船を通すために南側の陸続きだった箇所が切り開かれ、島となった。だから旗津島だな。今は北側をフェリー、南側は海底トンネルで高雄市街とつながっている。ということは、来るときは海底トンネルをくぐってきたはずだが、今となっては、「そうだったような」と、うろ覚えだ。
晩翠草堂からすぐのところ、日本銀行仙台支店の近所に「芭蕉の辻」の辻標・碑石を見つける。もちろん、たまたま見つけたのではない。博物館で見た江戸時代の辻の様子と比較するために探したのだ。とは言え、この近所で食事もとり、たまたま取材も1件こなした。今は見てのとおり、絵の面影をたどる術(すべ)がない。写真ではよく見えないが、「芭蕉の辻パーキング」という駐車場の看板が唯一、往時の生きた目印となっている。仙台空襲で、江戸・明治時代からの町並は焼失し、戦後、安っぽいビルが次々に建ち、駅方向に真っ直ぐな青葉通りが通った。
博物館に芭蕉辻の絵があった。呉服屋の「伊勢屋」が描かれている。今はインターネットで「伊勢屋、仙台」と検索してもステーキハウスが出てくるばかりだ。この前、芭蕉辻に触れたとき、この界隈には伊達藩の隠密や忍者が住んでいたと書いたと記憶する。この辻の賑やかさだ、情報活動には恰好であったのだろう。
この晩翠草堂にはボランティアの(シルバー人材センターから派遣されている)老人がガイド役でおり、ガラス窓の外の樹木をさして「あれは何の木か分かるか」と小生に問う。「分からない」と答えると、「あれは木瓜(ぼけ)だ」と言う。そして意外なことに、漱石の句「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」を吟じた。
さらに、作業服のような上着姿の老人は、「好きだから」と、漱石の小説『草枕』に言及し、さまざまな木瓜の講釈を加えた。つまり、「評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守ると云う人がある。この人が来世に生れ変ると屹度(きっと)木瓜になる。余も木瓜になりたい」。
春に「紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く」木瓜は、秋に黄色く熟して実となる。なんだか枝からいきなり実になって澄ましている。ひとり芳醇な香りを放っている。――さすがに、漱石の表現は写真を見ても特徴をとらえて正確だ。
ではなぜ、晩翠の庭にその木瓜があるのかは、「分からない」と老人は首をかしげた。
さらに、作業服のような上着姿の老人は、「好きだから」と、漱石の小説『草枕』に言及し、さまざまな木瓜の講釈を加えた。つまり、「評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守ると云う人がある。この人が来世に生れ変ると屹度(きっと)木瓜になる。余も木瓜になりたい」。
春に「紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く」木瓜は、秋に黄色く熟して実となる。なんだか枝からいきなり実になって澄ましている。ひとり芳醇な香りを放っている。――さすがに、漱石の表現は写真を見ても特徴をとらえて正確だ。
ではなぜ、晩翠の庭にその木瓜があるのかは、「分からない」と老人は首をかしげた。