Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

家の彼岸花を撮る

2006年09月30日 18時48分12秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 家の納屋の前の日陰に、彼岸花が一輪咲いていた。

 Wikipediaによれば、ヒガンバナ(彼岸花)は単子葉植物綱ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草である。学名 Lycoris radiata(Herb)、種小名 radiata は「放射状」の意、散系花序で6枚の花弁が放射状につく。中国から伝来した帰化植物と考えられる。日本に存在するヒガンバナは、全て遺伝的に同一であり、三倍体である。故に、雄株、雌株の区別が無く種子で増えることができない。(遺伝子的には雌株である)中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられる、という。
 彼岸花の名は、秋の彼岸ごろから開花することに由来する。別の説に、これを食べた後は「彼岸(死)」しかない、というものもある。別名の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)は、法華経中の梵語に由来。(梵語での発音は「まんじゅしゃか」に近い。)「天上の花」と言う意味も持つとか。いずれにしても、不気味なところがある花である。余り、好きではない。

 ニッポンに死を伝えたか彼岸花  頓休
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビゼーのカルメンを歌う大音典子さん

2006年09月30日 14時10分37秒 | Journal
 やはり女性の声はいいなと感じ入った。
 特に、大音さんは、日本語の歌がなかなかにうまい。多分、彼女も日本に帰国するに際して、日本語の歌をもっと歌いたいとの希望があったのではないか。そんな気がした。

追記:今朝(10月2日)、風邪気味なので会社を休んだ。枕元のFMラジオから流れるビゼーの「アルルの女」の組曲。情景が彷彿(ほうふつ)としてきて、いいなと思った。「カルメン」もビゼーのオペラ曲だ。初演のカルメンは不評で、失意のビゼーは3カ月後に37歳で亡くなっている。ビゼーはリストを唖然とさせるピアノの天才児だったが、オペラを天職と考え、茨の道を歩んだ。

■Wikipediaによれば、ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet, 1838年10月25日、パリ近郊 - 1875年6月3日、ブージバル)は、フランスの作曲家。最初につけられた名前は、アレクサンドル=セザール=レオポール・ビゼー(Alexandre-César-Léopold Bizet)だったが、洗礼時に改名された。父は声楽教師、母はピアニストで、幼い頃から音楽に親しみ、記憶力が抜群であった。
 9歳でパリ音楽院に入学し、フランソワ・マルモンテル、シャルル・グノー、ジャック・アレヴィらに師事してピアノ、ソルフェージュ、オルガン、フーガで一等賞を獲得した。19歳でカンタータ『クローヴィスとクロティルデ』でローマ大賞を獲得。1861年にはリストの新作(リストは、『この曲を正確に弾けるのは私とハンス・フォン・ビューローだけ』と豪語していた)のパッセージを一度聴いただけで演奏し、さらに楽譜を渡されると完璧に弾いてのけてリストを驚かせた。この時、リストは『私は間違っていた。3人というべきでした。正確に言えば、最も若いあなたが最も奔放で輝かしいというべきでしょう』といってビゼーを賞賛した。しかし、オペラ作家としての成功を夢見ていたビゼーは、ピアニストになることを潔しとはしなかった。
 25歳のときの『真珠採り』で地位を確立する。その後、フランス人作家アルフォンス・ドーデの劇『アルルの女』の付随音楽や、オペラ『カルメン』などを作曲したが、『カルメン』の初演は、ヒロインが女性労働者だったこともあり、失敗に終わった。彼は『カルメン』の初演3ヵ月後に亡くなったが、のちに彼の音楽は世界的に認められるようになった。
 美しきパースの娘の中のセレナードをベースにした『小さな木の実』は、NHKのみんなのうたでも放送されるなど、昨今もよく親しまれる曲である。
 オペラ作曲の合間に残したピアノ曲はごく少数だが、グレン・グールドが演奏したことで知られる『半音階的変奏曲』、無言歌『ラインの歌』(1865年)などの作品は現在も演奏される。また、サン=サーンスの『ピアノ協奏曲第2番』などのピアノソロ用編曲も残しており、特にサン=サーンスの編曲は凄腕ピアニストが取り上げる難曲として知られている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大田区役所のカントイタリアーノと黄色いピアノ

2006年09月30日 14時06分52秒 | Journal
 昨日、大田区役所へ行くと、昼休み中のロビーで「イタリアの声」というコンサートがあった。「黄色いピアノ」が置かれているが、これは阪神・淡路大震災のあと芦屋の芸術家が病院や福祉施設に贈呈したのが始まりだとか。写真のものは、平均年齢77歳の童謡・歌唱コーラスグループ「しゃくなげ会」から大田区に贈られた。
 その黄色いピアノの前にかしこまっている髭男は、シルヴァーノ・ムラトーレ氏。ローマ出身の歌手兼伴奏者。右の女性は、大音典子(おおと・のりこ)さん。音楽のために生れてきたようなお名前。東京芸大声楽科・大学院オペラ科卒、イタリア政府給費留学生としてローマに留学、そこでこの髭男につかまったらしいが、もったいない。昨年、帰国した。声は上質。歌もうまい。女っぷりがいい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新宿・花園神社、赤い拝殿および内藤トウガラシとカボチャ

2006年09月30日 11時52分27秒 | Journal
 花園神社のHPによれば――花園神社は、寛永年代(1624~1644)までは現在の場所より約250メートル南、今の伊勢丹デパートの付近にあったという。しかし、寛政年代に、朝倉筑後守という旗本が、この周辺に、下屋敷を拝領したため、社地は朝倉氏の下屋敷の中に囲い込まれてしまった。そこで幕府に訴えたところ、現在の場所を拝領することになりった。その場所は、徳川御三家(将軍家に次いで格の高い尾張藩・紀州藩・水戸藩)筆頭の尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れていた。この美しい花園の跡に移転したので、「花園稲荷神社」と呼ばれたのが社名の由来とされています。
 写真の拝殿、第二次大戦の戦災後、社殿が老朽化したため、昭和40年6月に鉄筋コンクリート造りの社殿、社務所が完成し、現在に至っているとか。
 ところで、また靖国通りに出ようと檻の唐獅子のところまで戻ってくると、「内藤トウガラシとカボチャ」という案内板を見かけた。『新編武蔵風土記稿』(1828年)には、「四ツ谷内藤宿及び其辺の村々にて作る、世に内藤蕃椒(とうがらし)と呼べり」とあり、当時は、新宿周辺から大久保にかけての畑は、トウガラシで真っ赤になるほどであった、と記してある。なんでも、この唐辛子は「八房」といって、実が房のように集まって付き、しかも上を向いて葉の上へ出るような形になるため、熟すと畑一面が真っ赤になったとか。また、南瓜の栽培も盛んで、「内藤カボチャ」とか「淀橋カボチャ」と呼ばれたという。
 どうりで、拝殿も唐辛子に負けじと赤い。だが、この程度の赤さでは負けているだろうな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新宿・花園神社、ビルの谷間の参道

2006年09月30日 11時45分01秒 | Journal
 大鳥居のある参道は別にあるようだが、ビルの谷間の参道はいかにも新宿の神社らしい。この小路をこっそり抜けた恋人や娼婦も多かったであろう。

 そもそも、新宿は、「内藤新宿」とか「追分新宿」とか呼ばれていた宿場町で、その名は「内藤家屋敷地前にできた新しい宿」を意味した。内藤氏は、藤原秀卿の末孫で、忠政の時に家康に仕えて駿府(今の静岡)に住んでいた。二代目清成は家康の関東移封に先立ち、江戸に居城を構えるために、伊賀組百人鉄砲隊を率いて、国府道(後の甲州街道)と鎌倉街道の交差点となっていた現在の新宿二丁目を中心として陣屋を敷き、警備にあたった。家康が江戸入城の後、内藤氏は布陣していた新宿の地をそのまま拝領し、これが現在の新宿御苑となったとか。
 内藤家が拝領した頃の新宿は、街道筋とはいえ宿場もなく、静かな一帯だった。その当時、日本橋を起点とした甲州街道で一番初めの宿場町は高井戸にあり、その距離は約4里2町(約16km)であった。最初の宿場町まで、あまりに遠く不便なため、元禄11年(1698)に浅草安倍川町の名主であった喜兵衛(後の高松喜六)が同志4人(市左衛門、忠右衛門、嘉吉、五兵衛)とともに、5600両の巨額の金を上納することを条件に、その中間に新しい宿場町の開設を願い出た。その場所が内藤家の屋敷前であったことから、新しい宿場町の意を込めて「内藤新宿」と呼ばれるようになったのである。内藤新宿は宿場町として賑わうとともに、岡場所(官許の遊里以外で私娼のいた場所)としても知られるようになる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新宿・花園神社、檻に入った唐獅子

2006年09月30日 11時37分06秒 | Journal
 新宿はよく出かける街だが、歌舞伎町やゴールデン街に隣接する有名な花園神社へは行ったことがなかった。唐十郎が、新テーゼ「特権的肉体論」を提唱、1963年に状況劇場を旗揚し、1967年、花園神社に紅テントを建てて、『腰巻お仙』などを公演して話題となったことは古い知識として知ってはいた。
 しかし、靖国通りからの入口にある狛犬(こまいぬ)ならぬ唐獅子が檻(おり)に入れられている「状況」には驚かされた。檻から獅子が躍り出るのではない。大人しく鎮座する獅子に暴力を振るう乱暴な人間がいるのである。
 唐獅子は、文政4年(182年)の製作で、雌雄一対の銅製。内藤新宿の氏子たちから寄進された。江戸末期の鋳工として名高い初代・村田整の作。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マリンタワーとシーバス

2006年09月30日 10時50分39秒 | Journal
 横浜にも、いろいろ変わった建物や名物ができて、マリンタワーの影はすっかり薄くなった。昔は、横浜と言えば、山下公園とマリンタワーだった。今は、大体、みなとみいらいの風景になるだろう。そうした意味では、景観的名物のスイッチがうまくいった横浜の都市計画はなかなか評価できるのかもしれない。

■Wikipediaによれば、マリンタワーは思っていたほど古くはないらしい。
 ――横浜港開港100周年記念行事の流れの中から、横浜港を象徴するモニュメントを建設しようという計画が起こり1961年に建設された。高さ106m。灯台を意識したデザインとなっており、実際に頭頂部には灯台としての機能も併せ持つ。ギネスブックには最も高い灯台として記録されているが、実際に近隣を航行する船舶に対し灯台としての重要度はあまり高くない。
 地上100mの位置には展望台が設けられ、半分は横浜市街地を、半分は海の見える景色を楽しむ事が出来る。タワー内部には、横浜の特産品などのみやげ物店の他、北原照久プロデュースの「機械仕掛けのおもちゃ博物館」、展望台カフェなどがあり、夜間はライトアップされる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大桟橋とシーバス

2006年09月30日 10時40分33秒 | Journal
 大桟橋(2002年竣工)には行ったことがない。行って、どうといったことがあるのかも分からない。こうして眺めていると、慥かに「大桟橋」である。
 しかし、なぜ、こんな形なのか。設計者はアレハンドロ・ザエラ・ポロ氏 と ファッシド・ムサヴィ氏のイギリス在住建築家だった。なんでも、この大桟橋国際客船ターミナルの国際デザインコンペ(国際建築設計競技)には、世界41カ国、660作品の応募があり、国内で行われた国際コンペとしては過去最大のものとなったとかで、その結果が、この形になったのであろう。
 緑の屋根の上で、人々は何をやっているのだろう。映画かテレビの撮影クルーのようにも見えた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤レンガ倉庫の桟橋

2006年09月30日 10時31分09秒 | Journal
 引き続き、赤レンガ倉庫行きを会社支給デジカメで撮った写真。
 1時間に2本ぐらいシーバスが立ち寄る。慥か、500円払って、横浜駅東口に向かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤レンガ倉庫とみなとみらい

2006年09月27日 08時53分48秒 | Journal
 先週、横浜の赤レンガへ行った折、2台のデジカメを持っていた。会社から支給されたパナソニックのカメラで初めて撮ったのが、この一枚。新品の初撮りだ。先に紹介してきた写真は、富士フィルムのマイカメラで撮ったもの。少し撮れ具合が違う気もする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする