Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

その2 ルマヤのレポート:柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(子規)

2005年12月31日 15時27分30秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
 これは、その1にあった農家に下宿する男、カヤノ・イチロウ(茅野一郎)について、その農家の娘、ルマヤが、彼女の日記をもとにイチロウの死後に書いたレポートである。レポートを提出した先は、イチロウの知人で、イチロウとの往復書簡(おうふくしょかん;correspondence)からなる共著『科学と風雅(Science and Elegance)』をまとめた人物骨董屋(じんぶつこっとうや)イザヤ・ブブ氏だった。

 カヤノ先生がうちに訪問(ほうもん)された折(おり)のことを少し書きます。以前から何度か、先生がうちの前の道を通るのをお見かけしました。俯(うつむ;downcast)いた顔をあげてちらっとこちらを見ているようにも思われましたが、あとは無関心(むかんしん;indifferently)に足早(あしばや)に通りすぎていかれるだけでした。その方、白人系(caucasian)が占めるこの辺(あた)りではめったに見かけない東洋系(とうようけい;oriental)の紳士(しんし;gentleman)が、村はずれにある州立ホスピス(state hospice)の患者(かんじゃ;patient)さんだということは、身なりのよさなどからなんとなく分かっておりました。

 そのうち、妹のアモが通う保育園で、ホスピスへ園児を訪問させ、患者さんたちの前で余興(よきょう;entertainment)にダンスをお見せする催(もよお)しがありまして、父イッポリートがアコーディオン(accordion)で音楽を奏(かな)でる役、わたしが園児たちの舞台衣装(ぶたいいしょう;theatrical costume)をこしらえた関係で、父と一緒にホスピスへ参る機会がありました。そこで初めて、わたしたちは、カヤノ先生と顔馴染(かおなじみ)になったのでした。ホスピスの院長先生が、カヤノ先生のことを首都(capital)から来られた著名(ちょめい)なお芝居(しばい)の脚本(きゃくほん;script)を書く作家(writer)だと紹介されました。

 先生は、「あなた方のことはブンペイからうかがっています。パピヨン村に着いたらぜひ訪(たず)ねるようにと」と、意外(いがい;unexpected)なことを言われました。先生は、父の友人であるブンペイさんのお兄上なのだそうです。父も、ずいぶんと驚いたような顔をしていました。

 懇親会(こんしんかい)の場で、先生は、しきりに父の演奏(えんそう)を褒(ほ)め、ぜひもっと聴(き)かせてほしいとおっしゃいました。

 一週間ほどして、先生は、実際(じっさい)にわたしどもの家へ来て、納屋(なや;barn)で、父のパイプオルガン(pipe organ)演奏を聴き、おもやで夕ご飯を一緒に食べていかれました。

 先生は、初め、口数少なく、弟たちや妹が食べる様子をにこにこ眺(なが)めておられましたが、少し沈黙(ちんもく)がつづいたとき、何か土産(みやげ)代(か)わりに皆を楽します話でもしなければならないと思われたのか、「今日はうっかり手ぶらでお邪魔(じゃま)してしまいましたが」と言われてから、

「そうですね、面白(おもしろ;amusing)い話と言ってもすぐには思いつかないですが、そうですね…、話の御馳走(ごちそう;feast)と言えば、そう、昔々、ニッポンの国に、天邪鬼(あまのじゃく;perverse)で食いしん坊(greedy)な詩人がいましてね、マサオカ・シキ(正岡子規)という名の人でしたが。彼は、失恋がもとで都を去ってマツヤマ(松山)という僻地(the odd parts of Japan)で田舎教師をやっているおとなしいナツメ・ソウセキ(夏目漱石)という友人のうちに上がり込んで、友人を二階に追いやって、自分は一階を占拠(せんきょ)してしまいました。仲間を集めて好きなハイクという、575、全部でたった17音でできる短い詩の競作をガヤガヤやるは、友人のつけで勝手(かって;arbitrarily)に値段(ねだん)の高いうなぎの蒲焼(かばやき)という御馳走を店から取り寄せて、ぴちやぴちやと遠慮(えんりょ)のない音をさせて喰(く)うは、2カ月近くも泊(と)まっあげくに、引き上げる際に、金を貸せと澄(す)まして言う始末(しまつ)でした。そして、シキさんは、借りた金で、ナラ(奈良)とかいうところに遊び、夜半(やはん)、宿で隣のトウダイ寺というお寺のボーンという大釣鐘(おおつりね)が鳴るのを聴きながら、大丼鉢(どんぶりばち)いっぱいの柿を喰い、翌日、少し離れたイカルガという場所にあるホウリュウ寺というお寺を訪ねて、柿の木を眺め、これはいいわと、もとはソウセキという友人がつくったハイクを語呂よくひとつひねって、蒲焼の御馳走になったお礼にと、その友人にもできたものを臆面(おくめん)もなく書き送ったといいます」と話されました。

 なんでも、そのハイクは、ニッポンではたいそう有名(ゆうめい)な詩だったそうで、

 カキクヘバ・カネガナルナリ・ホウリュウジ
 (柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺; 
 As I eat a persimmon. I hear the temple bell toll : Horyuji.)

 とか。ちなみに、その友人ソウセキの作は、

 カネツケバ・イチョウチルナリ・ケンチョウジ(鐘つけば銀杏ちるなり建長寺)

だったそうです。

 わたしどもは、ハイクという詩にも、それどころか、ニッポンという国についても何も知らなかったものですから、ただ、カヤノ先生が嬉しそうにお話になるのを黙って見守っておりました。

「ところで、柿くへばの柿ですが、みなさんは、柿を食べたことがないでしょうね。連邦の世になってから、日系人(にっけいじん)にしても、不思議(ふしぎ)と柿を誰も食べなくなった。昔のニッポン人は、秋になると、柿を食べれば風邪をひかないという諺(ことわざ;proverb)を信じて柿を良く食べたし、それに、ある人に聞いた話ですが、昔、ニッポンでは、女性が嫁入(よめい)りにあたって実家(じっか)から柿の苗(なえ)や接ぎ穂にする枝を持っていく風習(custom)があったそうです。そして、その嫁がおばあさんになって一生を終える頃には、柿の木は立派に大きく育っていて、その枝は、嫁が死んだとき、遺体(いたい;remains)の火葬(かそう;cremation)で燃やす薪(まき)や骨を拾(ひろ)う箸(はし)にも使われたということです。そうした背景があるから、マツオ・バショウ(松尾芭蕉)というとても偉いハイク作家にも、自身の故郷をしみじみと詠(よ)んで、サトフリテ・カキノキモタヌ・イエモナシ(里ふりて柿の木もたぬ家もなし)という立派な句があります。そんな柿を、実は死病(fatal disease)に取りつかれていたシキが丼鉢一杯とたらふく食べて、柿クヘバ・カネガナルナリ・ホウリュウジ、と一見無頓着(むとんちゃく;carelessly)に因果(cause and effect)を外して詠みました。これってのは、欲なしでは生きられないガサツなこの世のさが(the nature)と、欲を取っ払って成仏(じょうぶつ)の果てに逝(ゆ;pass away)くあの世、その不思議な因縁(いんねん;fatality)を感じさせますね」。

 先生は、最後のところを言及されてから、「ああ、そうそう、今、思い出しました、バショウにもね、先日発見した句で、これは春の句ですが、柿の句の大先輩格がありましたな。

 カネキエテ・ハナノカワ・ツクユウベカナ(鐘消て花の香は撞夕哉)  芭蕉

「鐘撞きて花の香消ゆる」が普通でしょうから、音と香りの入れ替え(replacement)、これも思い切った物理的倒錯(aberration)ですよ」と、わたしどもにはまるでチンプンカンプンな難しいことを仰(おっしゃ)いました。

 父からは、お返しに、今はすたれてしまった〈化(ば)けトマト祭り〉の由来(origin)や祭りが盛んだった頃のエピソード(episode)の話があり、わたしはそんな話をと、やきもきしたのですが、先生は、とき折り質問など入れながら随分(ずいぶん)と熱心(ねっしん;eagerly)に聞いておられました。


 先生は、このようにして、わたしどもの家へときどき訪ねてこられるようになりました。そして数週間もすると、「ホスピスでは仕事にならない。ここの方がずっといい」とおっしゃって、朝からいらして、夕食までの時間を使われていない屋根裏部屋(garret)でご勉強やご執筆(しっぴつ)にあてられることも多くなりました。その頃から首都より届く郵便物なども、この家宛(あ)てに「イッポリート方カヤノ・イチロウ殿」というものが増えたと記憶(きおく)しています。

追記(ついき;postscript)――なお、父イッポリートが先生にお話した〈化けトマト祭り〉の由来(ゆらい)は、実は、父の十八番(おはこ;specialty)でして、わたくしも子供の頃から何度となく聞かされているので、以下のような内容と覚えてしまいました。ご共著のため、生前のカヤノ先生の一身に起こったことを書けというこのレポートの要請(ようせい)として相応(ふさわ)しいか判断できませんが、イチロウ先生もご自身の故郷のことを思い出されて何度となく質問をするなど、とても興味を持たれた話でしたので、ブブ様にご報告(ほうこく)しておきます。

 ――パピヨン村には古くから伝わるお祭りがございます。それは「化けトマト祭り」と言われて、土地のものは収穫祭(しゅうかくさい)をかねて盛大(せいだい)に祝(いわ)っていたそうです。
 化けトマトと言いましても、今の十数年前から州の農林研究所によって試験栽培されてきたトマトは、改良品種(かいりょうひんしゅ)されたもので、古来(こらい)からほそぼそと成育されてきた原種(げんしゅ;seed stock)ものは、もう少し小ぶりのせいぜい2トンに満たない程度(ていど)のものだったそうです。
 化けトマトの収穫(しゅうかく)がピークを迎える盛夏(せいか)に準備(じゅんび)が始まって、初冬まで村のあれこれの行事(ぎょうじ)を通して、大人も子供も興(きょう)じる祭りの内訳(うちわけ)とは、こんなものでした。
 この原種の化けトマトは、皮(skin)も分厚く丈夫にできていたので、収穫された化けトマトのうち形も好ましい上物数十個を順番(じゅんばん)にプールのような大鍋(おおなべ)に入れて、丸一日よく茹(ゆ)でます。それから固いへたの上の部分をオノで刳(く)り抜いて、そこから大型のバキュームカー(cesspit cleaner truck)につなげたポンプを突っ込んで、象(ぞう)の鼻先のようなポンプの先からドラム缶何個分と中味を吸引します。これだけの作業に、村中(むらじゅう)の男衆(おとこしゅう)総出(そうで)で、約1週間はかかったそうでございます。
 なお、このような大掛(おおが)かりな装置(そうち)を使わない時代は、村の若い男たちがバケツを持って梯子(はしご;ladder)を伝わり、化けトマトの中に入り込んでは、リレーで汲(く)み上げていったそうです。化けトマトごとに幾(いく)つかの地区グループに分かれて競争で、この作業を遂行(すいこう)した話も伝わっております。
 バキュームカーに入れられた化けトマトの中味(なかみ;inside)は、工場(plant)に運ばれて、大きな樽(たる;barrel)に入れ換(か)えて、時間をかけて、お酒(liquor)にされました。
 一方、中味を取られて空洞(くうどう;hollow)になった化けトマトの厚皮(あつかわ)は、収穫の終わった畑に並べられて、からからになるまで天日(てんぴ;sunlight)で干(ほ)されます。
 ある夏などは、そこへ空を真っ黒くするほどの蝿(はえ)が大量発生し、人の顔にも家畜(かちく)の顔にも一面(いちめん)たかって困ったことがあったそうで、まさか人の顔に駆除剤(くじょざい)を撒布(さんぷ)するわけにもいかないものですから、連邦政府の救援措置(きゅうえんそち;aid)で、村を丸ごと送風(そうふう)する観覧車(かんらんしゃ;ferris wheel)のような超大型の扇風機(せんぷうき;fan)が据(す)えつけられたといいます。
 こうして水分を抜かれた化けトマトの皮は、秋の運動会前には、村の小学校の校庭に運ばれます。そして運動会のときに、子供たちが「化けトマトのごろごろ転がし競争」に興じたそうです。
 その運動会が終わると、さっそく、PTA(parent-teacher association)の皆さんが召集(しょうしゅう)され、村の老人の口やかましい指導(しどう)にしたがって、校庭の何箇所かで、四隅に柱を立て、化けトマトの皮を中に置いて櫓(やぐら;tower)を組みます。さらに、櫓にのぼったPTAの皆さんが、特殊な液をつけたモップ(mop)でもって、運動会で散々(さんざん)転がって汚(よご)れた化けトマトの皮表をギュッギュッと磨(みが)き上げます。すると表皮は不思議と光沢(こうたく;luster)が出ると同時に光が透(す)ける程度に薄く(thin)透明になるそうであります。
 次に、秋の文化祭の準備に入った子供たちは、この化けトマトの皮の表面に、思い思いの彩色(さいしょく)と意匠(いしょう)で、お化けの絵を描きます。
 そうこうするうちに工場の大樽の中では、化けトマトの果液がすっかり好い具合に発酵(はっこう;ferment)しまして、芳醇(ほうじゅん;mellow)なトマト酒になっております。このトマト酒が大樽ごと小学校にトラックで運び込まれ、やがて、子供たちの絵でお化粧がほどこされた化けトマトに並々と注がれたと申します。
 もう初雪も待たれる初冬(early winter)と言える季節の朝に、村の若い衆がねじり鉢巻(はちまき)にふんどし姿で、化けトマトのトマト酒のなかに、勢い好くどぶんと浸かります。肩まで浸かったまま一昼夜を我慢(がまん)します。強い酒の匂いに失神(しっしん;faint)する人も出ます。溺(おぼ;drown)れる人が出ます。櫓の上に見張りがいて、死なないうちに頃合をみて気絶(きぜつ)した人を腰に括(くく)りつけた安全ロープで引っ張り出します。そうやって最後まで頑張(がんば)れた若い衆は、飛び込んだ十人強中で二、三人だったと申します。
 朝日がのぼる時刻(じこく)、化けトマトの中に残った若い衆が引き出されます。大抵(たいてい)、極度(きょくど)の酩酊(めいてい;intoxication)状態で足元(あしもと)がふらついています。そこへ「がんばりっしゃい」と掛(か)け声をかけて頭から桶(おけ;tub)の冷たい井戸水を浴びせます。すると、赤く染まった鉢巻やふんどしが、それはそれは朝日に美しく映えた申します。観衆(かんしゅう)は、「今年もうまい化けトマト酒ができましたがや。おめでとうございまして」と口々に唱(とな)えます。
 それを合図(あいず)に、やや正気(しょうき)に返った若い衆は、丘向こうのパピヨン神社まで約一・五キロの道のりをいっせいに駈(か)け出します。先陣(せんじん)をきって神殿(しんでん)にたどり着いた一人の若者が、村で一番美しい生娘(きむすめ;virgin)との婚約(こんやく;engagement)交渉権(こうしょうけん)を獲得できますので、永遠に長いと思われるその一・五キロを桃色吐息(ももいろといき)必死に走る若者が多かったようです。
 神社(shrine)に、モンシロチョウ(cabbage butterfly)のような衣裳(いしょう)で現われた娘さんが、気絶寸前(きぜつすんぜん)の若者に、「いいわ」と言えば、縁談(えんだん;match)は神前で成立します。もし「だめなの」と首を横にふったら、翌年の祭りで、新しい新郎(しんろう;bridegroom)候補(こうほ)が求婚(きゅうこん;propose)するまで縁談は持ち越しとなります。古い村の冠婚葬祭記録簿の記載(きさい)によりますと、この「だめなの」の拒絶反応が十五度もかさなって、村一番の別嬪(べっぴん;beauty)さんが、とうとう行かず後家(ごけ)の境遇(きょうぐう)に甘んじたということがあったそうでございます。
 婚約(こんやく)の成否(せいひ)はともあれ、その夜に、祭りのクライマックスがあります。子供らの絵によって様々に化粧(けしょう;makeup)をほどこした化けトマトの皮の中に灯りがともり、豚(ぶた;pig)や羊(ひつじ;sheep)の胴回りに結わえつけられたロープ(rope)の先端が、化けトマトの下につなげられます。熱気球(hot-air balloon)の原理と申すのでしょうか、幾つもの化けトマトがあちらこちらでふんわりと持ち上がって、そのまま、ロープで下に結いつけられた豚(ぶた)や羊のヒィーヒィーという悲鳴(ひめい)とともに、夜空に舞い上がってまいります。語り伝えによれば、そのこの世のものとも思われない美しさといったらなかったそうでございます。

 父によれば、こうした因習(いんしゅう;convention)にみちた村の行事も、動物愛護協会の抗議(こうぎ;protest)、そして、品種の改良で原種の厚皮化けトマトが姿を消し、食用の薄皮化けトマトの経済栽培が普及し、商品として大量に売られるようになってからは、すっかり廃れてしまったという話でございます。

 *参照click ⇒「風雅のブリキ缶」で対応する箇所
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その1 パピヨン村:蝶の飛ばかり野中の日かげ哉(芭蕉)

2005年12月30日 10時42分32秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
 そよ風に流されるままに方向も定まらない蝶(ちょう;butterfly)のあとを追って、村の子供らが歓声(かんせい、cheer)をあげながら走ってきた。蝶は、かかしの藁(わら;straw)くず頭からとび出した針金(はりがね;wire)の先っぽに止まったかと思うと、野良犬(のらいぬ;homeless dog)の尻尾(しっぽ;tail)にはたかれて、ひらひらと夏空の蒼(あお、blue)へと舞い出す。

 ここは、パピヨンの雄大(ゆうだい;magnificent)な渓谷(けいこく;valley)の中、人の背丈(せたけ;height)の数倍はある巨大に成長したトマトが大地に横たわる、見渡す限りの野菜畑。子供らの一団が、その化けトマトの間を次から次に見え隠れしながら、まるでお伽の国(おとぎのくに;fairyland)の小人(こびと;midget)たちのように、両手をぐるぐる振りまわし、歓声をあげて、駆(か)けだしてきた。その後を、間抜(まぬ)け面(つら)の瘠(や)せ犬がわけも分からずオーオー吼(ほ)えながら続いてくる。

 子供らが、突然(とつぜん;all at once)、口をつぐみ、いっせいに立ち止まった。

 一人の女が、埃(ほこり;dust)ぽい道を歩いてくるのを見つけたからである。女は、黄色い、見るからに派手(はで;showy)はでしい服を着、顔を隠すようなつば広の麦藁帽子(むぎわらぼうし;straw hat)を被(かぶ)っていた。その帽子には水色のリボンが巻きつけてある。

 子供らは、女の後ろから、そのいかにも商売女(prostitute)らしいお尻をぴくぴく揺する歩き方を真似(まね;imitate)てついてきた。そして、何かの拍子(ひょうし)に、帽子がふわっと風に吹き飛ばされて、後方の道に転々ところがった。素早(すばや)く帽子を拾(ひろ)い上げて逃げ出す子と、それをキャーッと追いかける子供たちと、ワンワンと喜んで尻尾を千切(ちぎ)れそうに振る野良犬(homeless dog)。

 女が、何かを叫ぼうとして、ひどく咳(せ;cough)き込んでいる。子供らが振り返って、「やーい、売女(ばいた)のプーケやい」とはやし立てた。女は、地面に顔がつかんばかりに屈(かが)み込んだまま、喘(あえ;gasp)ぐように肩で息をしていた。

 窓からこの光景をじっと眺めている男がいた。

 村はずれの農家に一カ月前から下宿(げしゅく;board)しているその男は、先刻(せんこく)から机に頬杖(ほおづえ;rest his chin on his hand)をついて、小さな画帖(がちょう;sketchbook)を開き、ペン先に外の風景を写(うつ)しとっていた。遠く低くつらなる山々と、その谷あいに消える二本の線路が形になり、幾つかの化けトマトの輪郭(りんかく;outline)ができたところで、男はようやくペンを置いた。男は、売女と呼ばれ、プーケと呼ばれた女の姿をペン先に画帖に写し取ることがどうしてもできなかったのだ。

 男は、女がもといた場所にうずくまっているのを確認すると、静かに立ち上がって、椅子の背にかけてあった皺(しわ;wrinkle)くちゃで粗末(そまつ;poor)な上着(うわぎ;coat)をつかみ、屋根裏のその部屋から出ていった。

 空っぽになった部屋には、やさしい午後の陽射(ひざし)が男の生活を照らし出している。男は、いたって質素(しっそ;simple)に生きているらしい。

 机の上には、画帖のほかに、数世紀も前に流行ったようなゲーテやヘッセ、ソウセキといった古典作家の小説類、バショウやブソンの俳句集(はいくしゅう)、モンテーニュの随想録(ずいそうろく)、ライプニッツやラッセルの哲学書、スミスやヴェブレンの経済書が雑然(ざつぜん;in disorder)と重ねてある。

 後方の簡易(かんい)ベッドの上に板をはりわたして生活用品が並べられている。飲みかけのワインやラム酒の瓶(びん)が何本か、石鹸(せっけん;soap)と髭剃(ひげそり;shaving)が入った真鍮(しんちゅう;brass)の洗面器(せんめんき;basin)、歯ブラシ(toothbrush)の立てかけてあるコップ、幾つかの錠剤(じょうざい;tablet)入り薬瓶(くすりびん)、注射器(ちゅうしゃき;squirt)の入った小箱。それに、ベッドの下にはヴァイオリンのケースが横に寝かしてあった。

 あと、ほかにあるものといえば、画架(がか;easel)にのっかったカンバス(canvas)の描きかけの水彩画(すいさいが;watercolor)である。想像(imagination)で描かれたらしい絵の中で、馬車(cart)の御者台(ぎょしゃだい;perch)に、すらっと姿の好い喪服(もふく;mourning)を着た女がすくっと立ち上がっている。しかし、その女の顔は、いったん描いた水彩鉛筆の輪郭を水に溶かして拭い去った(wiped off)のか、ぽっかり空洞のようになっていた。

 ああ、それから、床の上に一枚の紙切れが落ちている。多分、先程(さきほど;a little while ago)、男が部屋から出ていくときにでも上着のポケットから落ちたのであろうか。

 古い業界新聞の切抜き記事であろう。よく天気予報欄(れんきよほうらん;weather forecast)の脇(わき)などにある連邦各地のちょっとした出来事の囲み記事である。停車場(ていしゃば;station)に化けトマトを三つ四つと満載(まんさい)した貨物列車(かもつれっしゃ;freight train)が止まっている情景(じょうけい)を描いた簡単な挿絵(さしえ;illustration)と一緒(いっしょ)に、「新停車場のご案内」として、新米記者(しんまいきしゃ;beginning reporter)の筆になるらしい拙(つたな;unskillfull)い文面が次のようにつづられていた。

 ――カイラス山周遊鉄道(しゅうゆうてつどう)の最北端(さいほくたん)に位置するユーミン州カンタン郡パピヨン村は、人口(population)二百人余りの小さな村であります。そのパピヨン村に新しい停車場が完成しました。
 ご存じの通り(As you know)、パピヨン村は、化(ば)けトマトの産地として有名であります。新停車場の落成(らくせい;inauguration)にともない、今後は大きすぎて輸送に難があった化けトマトを首都圏など遠隔地(えんかくち)の皆さまにも新鮮な状態で安定供給(あんていきょうきゅう)していけるものと、村民一同は張り切っております。
 往時、カイラス山巡礼(じゅんれい;pilgrimage)の宿場町(しゅくばまち)として栄えた古いパピヨン村をご記憶の方はもう少ないでありましょう。あれだけ猫も杓子(しゃくし)もだった巡礼ブームが嘘(うそ)のようにひけてしまうと、村の過疎(かそ)は一段と進み、野良犬さえ小便(しょうべん;pee)を引っ掛(か)けに立ち寄らない寒村(かんそん;poor village)になってしまいました。そこで十数年前、村おこしの強力な秘密兵器として試験栽培(しけんさいばい)が開始された化けトマトが、村復興(ふっこう;reconstruction)の期待の星になったのでした。
 ところが、パピヨン村の風土(ふうど:climate)に馬鹿(ばか)に適していたと申すのでありましょうか、化けトマトは年々みるみる大きくなってしまい、その輸送問題が最大の懸念材料(けねんざいりょう;concern)になったのであります。ある豊作(ほうさく;rich harvest)の年には、出荷(しゅっか;ship)されることもなく高々と野積みされた化けトマトが、炎天下(えんてんか;under the flaming sun)にドロドロとケチャップ(ketchup)状に流出し、駅前広場が一面、赤々と洪水(こうずい;flood)になって、死傷者(ししょうしゃ;casualty)が出る騒(さわ)ぎもありました。 
 本日ここに、村民、とりわけ村長ヘラ女史(じょし)の粘り強い陳情(ちんじょう;petition)活動、それと連邦政府鉄道省輸送施設課職員皆さまの温かい理解によって、大型クレーン付きの素晴らしい停車場施設が出来上がったのであります。
 からっきし味がしないという味覚(みかく;taste)面に少々の難があるものの、著名(ちょめい;eminent)な料理成分研究家が口をそろえて健康野菜の王者と折り紙をつけ、一昨年には栄誉ある連邦食品衛生局の優良改良野菜品種Aランク指定を受けましたパピヨン村の化けトマトが、いよいよ皆さまの食卓(しょくたく)に潤沢(じゅんたく)にお目見えする日が近づいております。請(こ)うご期待を!  Bunpei

 部屋の扉(とびら;door)をノックして、しばらく待ってから開ける者がいた。男が下宿する農家の娘である。

 洗濯物(せんたくもの;laundry)かごを抱(かか)えて入ってきた娘は、画架の絵にちらっと視線を送ってから、かごをベッド脇の床に置くとき、落ちていた新聞の切抜きをなにげなく拾(ひろ)い上げた。

 そして、時間をかけてどんな内容か読んでいたが、最後のところにきて、「これはブンペイさんが書いたのね」とぽつり呟(つぶや;murmur)いた。母がまだ生きていた頃、何度か訪ねてきた建設関連の業界紙〈連邦建築トレビューン〉の若い記者ブンペイが、下宿する男の弟(younger brother)であることを娘はまだ知らなかった。

*参照click ⇒『風雅のブリキ缶』で対応する箇所
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「15歳から読めるイカルガの旅芸人たち」の執筆に当たって

2005年12月29日 10時15分45秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
 『抱朴子』の巻四十辞義に、こんな記述があった。

 〈一体、文章の風格というのは最も見分けにくいものである。ただ耳に逆らわぬのが佳作だ、自分の気持にぴったりするのが快作だ、というのならば、孔子が聞いて三月間肉の味を忘れたという韶(しょう、舜の音楽)や、『詩経』の大雅・頌のようなおおらかな風流を理解する者はいよいよ少なくなろう。「塩加減をこせこせ言うが、最上の吸物は淡白なものだということを知らない。きゃしゃな小細工には詳しいが、どっしりした建物の奥深い良さを知らない」とはこのことである。(中略)文章は内容が豊かで広いのがよい。なにも、万人が声をそろえて「うまい」と褒(ほ)めるものでなければならぬ、というわけではない。〉

 作品『風雅のブリキ缶』も、概ね、以上の趣旨を踏襲してしてきたつもりである。*参照click⇒「風雅」 ただ、以下のような、抱朴子の指摘になる弊害も明らかになってきた。

 〈文筆家にもそれぞれ弊害がある。弊害のひどいのは、譬喩(ひゆ)が煩雑で、むだなことばが多いことである。これは広い譬(たと)えでくりかえし戒(いまし)めを垂(た)れようと思うばかりに、捨てるには惜しくて、知らず知らず煩雑になるのである。〉

 イザヤ・ブブの注釈というかたちで、余りに多くの解釈事を本文に挿入したのは、物事の見方の多岐性や文章の証拠を示そうといった狙いがあったにしても、やりすぎたかもしれない。結局、肝心な本文が痩(や)せ細った。
 もともと、小生が当初考えた作風は、寓話(ぐうわ)的なものであった。その寓話に論拠を与えることに、この10年間の余暇(よか)の大半を費やしてきた。寓話の本体は、「斑鳩(イカルガ)の旅芸人たち」という、まだ学生時代に発案した物語だった。それがすんなり発達すれば、問題はなかったのだが、具体的なストーリー展開は厚い壁のようなものに閉ざされて一向に先に進まない。そこで、「この世の事実」や「科学的な解釈」という脇道(わきみち)に逸(そ)れてきた。それはそれとして一定レベルで温存するにしても、ここらで本道の物語に戻りたい。
 そこで、10歳の少年少女でも理解できそうな書き方に努め、こってりした「弊害」にフィルターをかけて、もう少し、さらさらとした血が流れる作品を書いてみようということである。うまくいくかは、分からない。
 なお、単語レベルだが、読みをふった漢字などに英語訳を添えた。なんでも文部科学省は、小学生の英語教育に力を入れるらしいから、そうした意味でも、「10歳から読める」にふさわしいはず、と多少の無理を承知で一人合点。これでは二十歳でも分からないと言われそうだ。
 ⇒追記:その後、しばらく掲載してきて、やはり「10歳から」は誇大広告になるので、「15歳から」と訂正した。(2006年4月22日筆)

 最後に、『荘子(そうじ)』の「昔ハ荘周、夢ニ胡蝶(こちょう)ト為レリ」に俳諧論の根本を問うた芭蕉の一句を掲げる。

 蝶よちょう唐土(もろこし)のはいかい問(とわ)む
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

耐震強度偽装事件で日本建築学会が緊急集会

2005年12月28日 06時33分02秒 | Journal
 一昨日(26日)、三田の建築会館で日本建築学会主催の「耐震強度偽装事件の背景と問題点に関する緊急集会」というのがあった。満員で、ドアを開け放って場外にも臨時席を設けていた。400名ぐらいの来場者があったのではないか。九大から教授クラスが来ているのには驚いた。
 ずらっと並ぶ8人の大学の諸先生が次々に課題を述べたので、それはもう、各論が広がって、結局、何を最初にすべきなのかは分からなかった。東大の神田順先生は、つぎはぎだらけの建築基準法などは白紙に戻して最良の法律をつくらなかればいけないとの持論の持ち主だが、行政には安全性そのものに対する責任がない(アメリカではこのことを明記している)、日本の現状は、確認審査≠安全性、構造の玄人≠一級建築士だと説明。東工大の和田章先生は、「構造設計者は世に出て打たれる杭になれ」と檄を飛ばした。日大の友澤史紀先生は、事業者が事業計画をブリーフィング(文書化)して、経済性最優先で違法建築を建てるならばそうしなさいと建築意図を明確にしないから、今回のような言い逃れの話になるのだと明快におっしゃった。
 小生は、神田先生に近くて、建築基準法は強度不足だから解体して、全部さら地にし、事業者の国はブリーフを書いて、委託された設計者(官僚?)は全責任を負って、法律をゼロから作り直さなければ、どうにもならないと感じた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結城の蕪村「北寿老仙をいたむ」、鉄骨ヤードから見た筑波山

2005年12月23日 14時01分49秒 | Journal
 昨日は、午後から取材で茨城県の鉄骨工場を訪ねた。
 東京駅1時20分発の東北新幹線「なすの257号」で小山駅まで40分、水戸線に乗り換えて15分ほどで玉戸駅。工場は出迎えの車に乗って10分のところだった。飛行場の跡地で整地の必要がなかったとか。風が冷たく、震え上がりながら、工場内と材料や鉄骨の置き場(ストックヤード)を見学。早くも夕暮れが迫る中、鉄骨の向こうに、筑波山が遠く見えた。
 スカートの下にトレパンを穿(は)く女学生を見かけたひどく田舎風情の電車で、小山から玉戸へ来る途中、結城(ゆうき)という地名の駅があった。ここは、かつて江戸中期の俳人画家、与謝蕪村(COMMENT参照)が遊んだところ。作品(風雅のブリキ缶・第1巻)には、以下のような記述がある。

 ――延享二年(1745年)、放浪詩人ヨサ・ブソン(與謝蕪村)は、オオサカの「毛馬村」からエドへ出てきて早十年目がたっていた。ブソンは、シモウサ(下総)のユウキ(結城)というところで三十才の春を迎え、そこで世話になった一人の老人の死を悼んで、詩「北寿老仙(ほくじゅろうせん)をいたむ」を書いている。相手の老人は、酒造業を営む「早見晋我」、享年七十五だったという。

 君あしたに去(い)ぬゆふべのこゝろ千々に
 何ぞはるかなる

 君をおもふて岡のべに行(ゆき)つ遊ぶ
 をかのべ何ぞかくかなしき

 蒲(たん)公(ぽぽ)の黄に薺(なずな)のしろう咲たる
 見る人ぞなき

 雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき

 へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
 はげしくて小竹原(おざさはら)真すげはら
 のがるべきかたぞなき

 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
 ほろゝともなかぬ

 君あしたに去(い)ぬゆふべのこゝろ千々に
 何ぞはるかなる

 我(わが)庵(いお)のあみだ仏ともし火もものせず
 花もまゐらせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよい)は
 ことにたふとき                     釈蕪村百拝書■

 ニッポンのハギワラ・サクタロウ(萩原朔太郎)という詩人が、この作を「何らか或る新鮮な、浪漫的な、多少西欧の詩とも共通するところの、特殊な水々しい精神を感じさせる」(『郷愁の詩人與謝蕪村』)と述べているが、まことに不思議に何やら西風が吹いてくるような斬新な感じのする作である。

 多分、30歳の若い蕪村も、遠く筑波山を眺めたことであろう。結城の付近には河=鬼怒川が流れる。結城はまた、結城紬(ゆうきつむぎ)の産地で知られる。

COMMENT:蕪村の生涯は、Wikipediaによれば以下のようになる。――摂津国東成郡毛馬村(ひがしなりごおり けまむら)(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。本姓は谷口。
 20歳の頃江戸に出て早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事し俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。
 寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。
 その後丹後、讃岐などを歴遊し42歳の頃京都に居を構えた。この頃与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。
 45歳頃に結婚し一人娘くのをもうけた。島原角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。
 京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(旧暦)未明68歳の生涯を閉じた。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1300年前の新興国ニッポン、藤原仲麻呂の税制、外人政策、禁酒令、東大寺大仏造営

2005年12月23日 11時04分06秒 | Journal
 1300年前、ニッポンはアジアの新興国だった。初めて平和憲法をつくった聖徳太子の後も、生臭い権力闘争はあったが、国は確実に成長していた。
 道鏡との政争に破れ、琵琶湖湖畔で妻子など34名と斬首された正一位太政大臣・藤原仲麻呂(706~764年)は、ちょうど1300年前に生れた政治家。正一位とは、今で言えば、内閣総理大臣にプレミアムが付いたようなもの。小泉首相と違って、学者肌ながら権力の座にこだわった仲麻呂だが、その政策には見るべきものがあった。
 仲麻呂は、唐の玄宗の施策に習って、庶民の課役〔兵役、雑徭(ぞうよう)=無償労働、出挙(すいこ)=利付き稲貸し〕負担の軽減を図るため、課役の対象となる正丁・中男の年齢を1歳繰上げ、正丁は22歳以上、中男は18歳以上としたほか、雑徭期間を60日以内から30日以内、出挙の利息免除を打ち出した。また高句麗、百済、新羅からの帰化人に、希望にしたがって日本的な氏姓を50余氏の約2000人に与えた。例えば、「山田」とか「桑原」とか「広田」だ。一方、集会で酔っ払うと政府批判になりがちなので飲酒集会を禁じたりもした。
 それから、東大寺大仏の造営という一大国家プロジェクトも、光明皇后を助けながら彼が熱心に指導した。宇佐八幡の神職団を取り込んで、支援させたのも仲麻呂らしい。辣腕(らつわん)な官僚政治家だったのだ。 
 1300年後の今のニッポン。500兆円のGDP(国内総生産)を超える国債残高を抱え、身動きがとれない。税金を上げるしかない。昔のニッポンも、けっこう狡(こ)すからい税制を持っていたことを思い起こして、ただ我慢するか、酔っ払って政府批判をする、せいぜいそんなところだろう。昨日の夕刊、今日の朝刊(朝日新聞)を読めば、1面に「人口 初の自然減」「人口減 産めぬ現実」とデカデカとある。今のニッポンでは、外人を受け入れて、大々的に帰化させる政策も難しい。ただ景気は良くなっている。何をやったところで首を斬りおとされる心配のない政治家は、大仏様でも拝んで、もっと悠久の知恵を絞る必要がある。彼らがダメならば、小生が考えるとしよう。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国1700年前の「ニート」論、抱朴子

2005年12月23日 10時27分16秒 | Journal
 中国、晋の時代に、カツコウ(葛洪、284~363年)という撰者が『抱朴子(ほうぼくし)』なる本を編んだ。読んでみると、どうも大したニート擁護論である。抱朴とは、荒削りの素質(朴)を大切に守るといった意味だとか。この本の登場人物である抱朴子が、世を捨てて隠棲することは、世間に出て仕えることよりも余程ましなことだと、様々な事例や議論を紹介する。例えば、仕人が、逸民(ニート)に、隠者は山沢に住んで満足し、世間的名声を背負わない。だらしなく気ままに暮らして時世の役に立とうとしない。まことに天下の無益者だと非難する。すると、逸民が、そもそも麒麟は番犬の代わりはしない。鳳凰は夜明けの時を告げる鶏の役はしない。あなた方は何のために仕えるのか。山に隠れていても自分の主義をまっとうできたら、それでいいではないか、と反論する。
 働く意義を見出せなければ、働かなくてもいいのではないか。1700年前、一人の中国人は、自分という素朴を守るために、そう考えたのである。このきっぱりしたニート肯定観が、今、あまり聞こえてこない。

COMMENT:Wikipediaによれば、NEET(ニート、無業者、Not in Employment, Education or Training)とは、英国で社会問題になり労働政策の中で用いられた「職に就いておらず、学校等の教育機関に所属せず、就労に向けた活動をしていない15~34歳の未婚の者」を言う。34歳までである理由は、就職して、年金受給資格を得られる25年分の保険料払い込みが開始出来る、最後の年齢である為。なお、英国では“NEET”という語は日本のように普及しなかったようだ。英国の新聞記者が日本に来て初めて知った、という話もある。
 日本では、厚生労働省の『平成16年版労働経済の分析』によると、就労対象人口の15-34歳の男女のうち2003年で52万人がニートである。付2-(3)-13 表 若年層の無業者数(付属統計表索引 その2)民間等が行った各種調査によると、日本に於けるNEETの数はなおも増加傾向にある。なお、日本での厳密なニートの定義は、役所ごとで違っている。また、そもそもニートは自分から、外につながろうとしない人々である。つまり、アンケートなどにほとんど参加しない人々である。よって、現時点でのニートの人数の捕捉はまず不可能であろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

耐震強度偽装の安普請建築と大違いの霞ヶ関三丁目「中央合同庁舎第7号館」

2005年12月18日 09時24分31秒 | Journal
 今、虎ノ門交差点の文部科学省の跡地に中央合同庁舎第7号館(霞が関三丁目南地区第一種市街地再開発事業)が建設中だ。なんでも、「霞ヶ関R7Project」というのがあって、2007年に、官庁の行政機能と民間の業務、商業や文化、情報などが融合した、今までにない高度な複合機能を備えた2つの超高層ビルが生まれ、霞ヶ関に刻まれた都市の記憶を未来へと伝えていくプロムナードになるそうだ。ちなみに、7Rとは、Renaissance, Relationship, Responsibility, Restoration, Relaxation, Redesign, Realizationの略とか。わけが分からない英語の羅列だ。
 建築計画によれば、地上38階、高さ175m、延べ面積25万3424㎡、鉄骨造・鉄筋コンクリート造・鉄骨鉄筋コンクリート造、工期は2008年9月。建築主は霞が関7号館PFI株式会社、設計者は久米設計・大成建設・新日鉄設計共同企業体、施工者は大成・新日鉄・日本電設・三菱重工業建設共同企業体。
 写真にあるように、見たところ、基礎工事から工期もたっぷりかけて、躯体はかなり堅牢なつくりだ。民間のマンションやホテルは違法的安普請でも建築確認をスースー通過するが、中央官庁のお役所の建物となると、業者はプライドをかけて真剣そのものの体勢でかかる。新日鉄が入って材料からして純国産の高価な鉄をふんだんに使う。木村建設が使った短工期用のシステム型枠なんかもちろんご法度だ。コンクリートの養生には十分時間をかける。PFIとは言え、予算はとっくに確保してあるから心配無用。そして、多分、震度7でもビクともしない立派な安心・安全の建物が未来に向かって建つことだろう。
 しかし、この7Rの精神は、霞ヶ関の官民権力理想構造圏をはずれると、途端に揮発し、超経済設計とBusinessだけがBBBBBBBと7Bで羅列される、風雅の誠から逸脱した無法社会が広がる。

COMMENT: PFI(Private Finance Initiative:プライベート・ファイナンス・イニシアティブ)」とは、公共施設等の建設、維持管理、運営等を民間の資金、経営能力及び技術的能力を活用して行う新しい手法。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋葉原駅プラットフォームで姉歯秀次元1級建築士を見かける

2005年12月14日 19時44分39秒 | Journal
 朝の9時半過ぎから1時間ほど、会社の会議室テレビで姉歯秀次元1級建築士の国会(衆院国土交通委員会)証人喚問を眺めていた。画面いっぱいに大写しの姉歯氏の顔、その質問にぐっと詰まったような表情の機微を見た後、急ぎの原稿を書いて、12時頃、会社を出た。秋葉原で1時から取材の約束があった。茅場町駅から日比谷線で秋葉原駅へついたのは正午の25分過ぎぐらいだったろうか。滑り込む電車からなんとなく反対ホームを眺めていたら、一群の尋常ならぬ男たちの姿が視線をよぎった。カメラのフラッシュも見えて、誰かを記者が取り囲んでいる光景に思えた。有名タレントか何かかなと、ホームに降り立ってから、電車が走り去る中を10数メートル戻って、男たちが集まる向こう側のホームを正面に見つめた。紛れもない、姉歯氏が真ん中に立っていた。
 ついさっきまで霞ヶ関の国会にいた姉歯氏が、なぜ秋葉原の地下鉄ホームにいるのか、狐につままれた思いだ。取材先で、慥か、姉歯氏はこのそばの神田佐久間町の設計事務所に勤めていたのだと話が出た。多分、姉歯氏は喚問が終わると国会を出て、タクシーを拾い、無意識にかつて通った馴染みの界隈まで逃げてきたのだ。それをアパラッチのオートバイが追跡してきた。だから、写真にヘルメットを手にした男が撮れているのだ。
 その日の取材で、ゼネコンの低コスト策にあえぐ建築系の検査業界でもまったく同じような事件が起こりうるといった話になった。今回の事件、構造設計者から検査会社に主語を置き換えれば、下請けに甘んじてきた検査業界のことかと錯覚する。業界団体では、この11月初旬から不正検査撲滅運動を展開している。そうしたら、姉歯氏の構造計算書偽造事件が発覚した。「この好機に業界の刷新を図りたい」とは、取材相手の団体幹部から出た言葉であった。
 なお、今夜もNHKの記者が、ニュース番組で間違って解説をしていたが、行政でも民間でも確認検査機関(上の検査会社と違う)は、個々の物件で構造設計書を構造計算書にまでさかのぼってチェックすることは彼らの職務になっていない。見逃すも、初めから、確認業務ではそれを見る義務を負っていない。窓口業務として書類の不備などをチェックしているだけだ。国会でイーホームズの藤田東吾社長が「適切に業務を遂行していた」と言ったのは、そうした前提では真実だったのだ。ただ、その「適切」というのは、ホームページにあった同社の立派な企業理念からすると、まことに不適切(inappropriate)だった気もする。→COMMENT「イーホームズの企業理念」
 取材を終えて、会社に帰ってから、隣に座る同僚記者に、「あれだけのことをやって〝姉歯憎し〟にならないのは、彼に人徳があるからかもしれない」と話して、哄笑された。しかし、線路を隔てて、記者に囲まれ、あのテレビの通りにぼんやりとホームに立ち尽くしていた姉歯氏、電車に乗り込んで、こちら側のドアに立って、一瞬、小生を無表情に眺めていた姉歯氏、どうも憎めないところがあった。証人として「弱い自分がいた」と語った人への倒錯した判官贔屓(ほうがんびいき)なり。

COMMENT: イーホームズの企業理念。「イーホームズは、住む人の為、住まいを作る人の為、住宅環境を向上させることを、住宅を監査する事業によって貢献します。私達の行動の起源は、誰もが住宅環境を向上させたいと願っていると信じることに始まります。住宅環境とは、安心できる場所であって欲しい、住む人にとって楽しい場所であって欲しい、育つものにとって帰るべき思い出の場所となって欲しい、そう願う場です。人はその場を求め、住宅供給者はこの環境創造という意義ある仕事を行っているのです。私達は住宅の取得者にとっても供給者にとっても、迅速で質の高い提案型の確認や検査、性能評価や情報提供などのサービスを行い、安心に暮らせる21世紀の未来型住宅環境を実現する為に貢献します。そこを目指す我らの精神が、住む人にも住宅供給者にも受け容れられると信じて事業に邁進します。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銀杏とお月さん(日比谷公園)

2005年12月14日 19時41分40秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 一昨日、取材があった虎ノ門から日比谷公園にまわり、図書館で、中国の古典『抱朴子』三冊を借りてから、晩秋の公園内を日比谷方面へ横切る。噴水を通り過ぎたところで、見事な銀杏とお月さんにめぐり合う。さすがに、日比谷公園だ。万歳!ついでに、お粗末な一句。

 銀杏にお月さん嗚呼(ああ)秋も暮れ  頓休

 嗚呼銀杏にお月さん秋しまい

 ああ銀杏にお月さん冬枯れる

COMMENT: 銀杏の樹の周りにご婦人が二人、透明なビニール袋を手に裏返して直接触らぬように落ちた銀杏を拾い集めていた。チャイナの中国歴史博物館には、40~50万年前の北京原人が銀杏(ギンナン)を手にして食べている復元像が陳列されているそうだ。ニッポンの銀杏もチャイナ渡来。
 それにしても、銀杏は、イチョウとは普通読めない。「一葉」からとも、銀杏の中国語「鴨脚」の近世中国音「ヤーチャオ」が訛(なま)ったとも、銀杏の唐音からとも、寝蝶(イ・チョウ)が転じたとも、諸説あり。銀杏は寿命は長いが実がなるのは孫の時代になることから、「公孫樹」とも言う。
 おでんの串に刺さったギンナン、特に、茶碗蒸しを掻き分けて発掘したギンナン1個は、貴重な分、堪えられない味だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする