これは、その1にあった農家に下宿する男、カヤノ・イチロウ(茅野一郎)について、その農家の娘、ルマヤが、彼女の日記をもとにイチロウの死後に書いたレポートである。レポートを提出した先は、イチロウの知人で、イチロウとの往復書簡(おうふくしょかん;correspondence)からなる共著『科学と風雅(Science and Elegance)』をまとめた人物骨董屋(じんぶつこっとうや)イザヤ・ブブ氏だった。
カヤノ先生がうちに訪問(ほうもん)された折(おり)のことを少し書きます。以前から何度か、先生がうちの前の道を通るのをお見かけしました。俯(うつむ;downcast)いた顔をあげてちらっとこちらを見ているようにも思われましたが、あとは無関心(むかんしん;indifferently)に足早(あしばや)に通りすぎていかれるだけでした。その方、白人系(caucasian)が占めるこの辺(あた)りではめったに見かけない東洋系(とうようけい;oriental)の紳士(しんし;gentleman)が、村はずれにある州立ホスピス(state hospice)の患者(かんじゃ;patient)さんだということは、身なりのよさなどからなんとなく分かっておりました。
そのうち、妹のアモが通う保育園で、ホスピスへ園児を訪問させ、患者さんたちの前で余興(よきょう;entertainment)にダンスをお見せする催(もよお)しがありまして、父イッポリートがアコーディオン(accordion)で音楽を奏(かな)でる役、わたしが園児たちの舞台衣装(ぶたいいしょう;theatrical costume)をこしらえた関係で、父と一緒にホスピスへ参る機会がありました。そこで初めて、わたしたちは、カヤノ先生と顔馴染(かおなじみ)になったのでした。ホスピスの院長先生が、カヤノ先生のことを首都(capital)から来られた著名(ちょめい)なお芝居(しばい)の脚本(きゃくほん;script)を書く作家(writer)だと紹介されました。
先生は、「あなた方のことはブンペイからうかがっています。パピヨン村に着いたらぜひ訪(たず)ねるようにと」と、意外(いがい;unexpected)なことを言われました。先生は、父の友人であるブンペイさんのお兄上なのだそうです。父も、ずいぶんと驚いたような顔をしていました。
懇親会(こんしんかい)の場で、先生は、しきりに父の演奏(えんそう)を褒(ほ)め、ぜひもっと聴(き)かせてほしいとおっしゃいました。
一週間ほどして、先生は、実際(じっさい)にわたしどもの家へ来て、納屋(なや;barn)で、父のパイプオルガン(pipe organ)演奏を聴き、おもやで夕ご飯を一緒に食べていかれました。
先生は、初め、口数少なく、弟たちや妹が食べる様子をにこにこ眺(なが)めておられましたが、少し沈黙(ちんもく)がつづいたとき、何か土産(みやげ)代(か)わりに皆を楽します話でもしなければならないと思われたのか、「今日はうっかり手ぶらでお邪魔(じゃま)してしまいましたが」と言われてから、
「そうですね、面白(おもしろ;amusing)い話と言ってもすぐには思いつかないですが、そうですね…、話の御馳走(ごちそう;feast)と言えば、そう、昔々、ニッポンの国に、天邪鬼(あまのじゃく;perverse)で食いしん坊(greedy)な詩人がいましてね、マサオカ・シキ(正岡子規)という名の人でしたが。彼は、失恋がもとで都を去ってマツヤマ(松山)という僻地(the odd parts of Japan)で田舎教師をやっているおとなしいナツメ・ソウセキ(夏目漱石)という友人のうちに上がり込んで、友人を二階に追いやって、自分は一階を占拠(せんきょ)してしまいました。仲間を集めて好きなハイクという、575、全部でたった17音でできる短い詩の競作をガヤガヤやるは、友人のつけで勝手(かって;arbitrarily)に値段(ねだん)の高いうなぎの蒲焼(かばやき)という御馳走を店から取り寄せて、ぴちやぴちやと遠慮(えんりょ)のない音をさせて喰(く)うは、2カ月近くも泊(と)まっあげくに、引き上げる際に、金を貸せと澄(す)まして言う始末(しまつ)でした。そして、シキさんは、借りた金で、ナラ(奈良)とかいうところに遊び、夜半(やはん)、宿で隣のトウダイ寺というお寺のボーンという大釣鐘(おおつりね)が鳴るのを聴きながら、大丼鉢(どんぶりばち)いっぱいの柿を喰い、翌日、少し離れたイカルガという場所にあるホウリュウ寺というお寺を訪ねて、柿の木を眺め、これはいいわと、もとはソウセキという友人がつくったハイクを語呂よくひとつひねって、蒲焼の御馳走になったお礼にと、その友人にもできたものを臆面(おくめん)もなく書き送ったといいます」と話されました。
なんでも、そのハイクは、ニッポンではたいそう有名(ゆうめい)な詩だったそうで、
カキクヘバ・カネガナルナリ・ホウリュウジ
(柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺;
As I eat a persimmon. I hear the temple bell toll : Horyuji.)
とか。ちなみに、その友人ソウセキの作は、
カネツケバ・イチョウチルナリ・ケンチョウジ(鐘つけば銀杏ちるなり建長寺)
だったそうです。
わたしどもは、ハイクという詩にも、それどころか、ニッポンという国についても何も知らなかったものですから、ただ、カヤノ先生が嬉しそうにお話になるのを黙って見守っておりました。
「ところで、柿くへばの柿ですが、みなさんは、柿を食べたことがないでしょうね。連邦の世になってから、日系人(にっけいじん)にしても、不思議(ふしぎ)と柿を誰も食べなくなった。昔のニッポン人は、秋になると、柿を食べれば風邪をひかないという諺(ことわざ;proverb)を信じて柿を良く食べたし、それに、ある人に聞いた話ですが、昔、ニッポンでは、女性が嫁入(よめい)りにあたって実家(じっか)から柿の苗(なえ)や接ぎ穂にする枝を持っていく風習(custom)があったそうです。そして、その嫁がおばあさんになって一生を終える頃には、柿の木は立派に大きく育っていて、その枝は、嫁が死んだとき、遺体(いたい;remains)の火葬(かそう;cremation)で燃やす薪(まき)や骨を拾(ひろ)う箸(はし)にも使われたということです。そうした背景があるから、マツオ・バショウ(松尾芭蕉)というとても偉いハイク作家にも、自身の故郷をしみじみと詠(よ)んで、サトフリテ・カキノキモタヌ・イエモナシ(里ふりて柿の木もたぬ家もなし)という立派な句があります。そんな柿を、実は死病(fatal disease)に取りつかれていたシキが丼鉢一杯とたらふく食べて、柿クヘバ・カネガナルナリ・ホウリュウジ、と一見無頓着(むとんちゃく;carelessly)に因果(cause and effect)を外して詠みました。これってのは、欲なしでは生きられないガサツなこの世のさが(the nature)と、欲を取っ払って成仏(じょうぶつ)の果てに逝(ゆ;pass away)くあの世、その不思議な因縁(いんねん;fatality)を感じさせますね」。
先生は、最後のところを言及されてから、「ああ、そうそう、今、思い出しました、バショウにもね、先日発見した句で、これは春の句ですが、柿の句の大先輩格がありましたな。
カネキエテ・ハナノカワ・ツクユウベカナ(鐘消て花の香は撞夕哉) 芭蕉
「鐘撞きて花の香消ゆる」が普通でしょうから、音と香りの入れ替え(replacement)、これも思い切った物理的倒錯(aberration)ですよ」と、わたしどもにはまるでチンプンカンプンな難しいことを仰(おっしゃ)いました。
父からは、お返しに、今はすたれてしまった〈化(ば)けトマト祭り〉の由来(origin)や祭りが盛んだった頃のエピソード(episode)の話があり、わたしはそんな話をと、やきもきしたのですが、先生は、とき折り質問など入れながら随分(ずいぶん)と熱心(ねっしん;eagerly)に聞いておられました。
先生は、このようにして、わたしどもの家へときどき訪ねてこられるようになりました。そして数週間もすると、「ホスピスでは仕事にならない。ここの方がずっといい」とおっしゃって、朝からいらして、夕食までの時間を使われていない屋根裏部屋(garret)でご勉強やご執筆(しっぴつ)にあてられることも多くなりました。その頃から首都より届く郵便物なども、この家宛(あ)てに「イッポリート方カヤノ・イチロウ殿」というものが増えたと記憶(きおく)しています。
追記(ついき;postscript)――なお、父イッポリートが先生にお話した〈化けトマト祭り〉の由来(ゆらい)は、実は、父の十八番(おはこ;specialty)でして、わたくしも子供の頃から何度となく聞かされているので、以下のような内容と覚えてしまいました。ご共著のため、生前のカヤノ先生の一身に起こったことを書けというこのレポートの要請(ようせい)として相応(ふさわ)しいか判断できませんが、イチロウ先生もご自身の故郷のことを思い出されて何度となく質問をするなど、とても興味を持たれた話でしたので、ブブ様にご報告(ほうこく)しておきます。
――パピヨン村には古くから伝わるお祭りがございます。それは「化けトマト祭り」と言われて、土地のものは収穫祭(しゅうかくさい)をかねて盛大(せいだい)に祝(いわ)っていたそうです。
化けトマトと言いましても、今の十数年前から州の農林研究所によって試験栽培されてきたトマトは、改良品種(かいりょうひんしゅ)されたもので、古来(こらい)からほそぼそと成育されてきた原種(げんしゅ;seed stock)ものは、もう少し小ぶりのせいぜい2トンに満たない程度(ていど)のものだったそうです。
化けトマトの収穫(しゅうかく)がピークを迎える盛夏(せいか)に準備(じゅんび)が始まって、初冬まで村のあれこれの行事(ぎょうじ)を通して、大人も子供も興(きょう)じる祭りの内訳(うちわけ)とは、こんなものでした。
この原種の化けトマトは、皮(skin)も分厚く丈夫にできていたので、収穫された化けトマトのうち形も好ましい上物数十個を順番(じゅんばん)にプールのような大鍋(おおなべ)に入れて、丸一日よく茹(ゆ)でます。それから固いへたの上の部分をオノで刳(く)り抜いて、そこから大型のバキュームカー(cesspit cleaner truck)につなげたポンプを突っ込んで、象(ぞう)の鼻先のようなポンプの先からドラム缶何個分と中味を吸引します。これだけの作業に、村中(むらじゅう)の男衆(おとこしゅう)総出(そうで)で、約1週間はかかったそうでございます。
なお、このような大掛(おおが)かりな装置(そうち)を使わない時代は、村の若い男たちがバケツを持って梯子(はしご;ladder)を伝わり、化けトマトの中に入り込んでは、リレーで汲(く)み上げていったそうです。化けトマトごとに幾(いく)つかの地区グループに分かれて競争で、この作業を遂行(すいこう)した話も伝わっております。
バキュームカーに入れられた化けトマトの中味(なかみ;inside)は、工場(plant)に運ばれて、大きな樽(たる;barrel)に入れ換(か)えて、時間をかけて、お酒(liquor)にされました。
一方、中味を取られて空洞(くうどう;hollow)になった化けトマトの厚皮(あつかわ)は、収穫の終わった畑に並べられて、からからになるまで天日(てんぴ;sunlight)で干(ほ)されます。
ある夏などは、そこへ空を真っ黒くするほどの蝿(はえ)が大量発生し、人の顔にも家畜(かちく)の顔にも一面(いちめん)たかって困ったことがあったそうで、まさか人の顔に駆除剤(くじょざい)を撒布(さんぷ)するわけにもいかないものですから、連邦政府の救援措置(きゅうえんそち;aid)で、村を丸ごと送風(そうふう)する観覧車(かんらんしゃ;ferris wheel)のような超大型の扇風機(せんぷうき;fan)が据(す)えつけられたといいます。
こうして水分を抜かれた化けトマトの皮は、秋の運動会前には、村の小学校の校庭に運ばれます。そして運動会のときに、子供たちが「化けトマトのごろごろ転がし競争」に興じたそうです。
その運動会が終わると、さっそく、PTA(parent-teacher association)の皆さんが召集(しょうしゅう)され、村の老人の口やかましい指導(しどう)にしたがって、校庭の何箇所かで、四隅に柱を立て、化けトマトの皮を中に置いて櫓(やぐら;tower)を組みます。さらに、櫓にのぼったPTAの皆さんが、特殊な液をつけたモップ(mop)でもって、運動会で散々(さんざん)転がって汚(よご)れた化けトマトの皮表をギュッギュッと磨(みが)き上げます。すると表皮は不思議と光沢(こうたく;luster)が出ると同時に光が透(す)ける程度に薄く(thin)透明になるそうであります。
次に、秋の文化祭の準備に入った子供たちは、この化けトマトの皮の表面に、思い思いの彩色(さいしょく)と意匠(いしょう)で、お化けの絵を描きます。
そうこうするうちに工場の大樽の中では、化けトマトの果液がすっかり好い具合に発酵(はっこう;ferment)しまして、芳醇(ほうじゅん;mellow)なトマト酒になっております。このトマト酒が大樽ごと小学校にトラックで運び込まれ、やがて、子供たちの絵でお化粧がほどこされた化けトマトに並々と注がれたと申します。
もう初雪も待たれる初冬(early winter)と言える季節の朝に、村の若い衆がねじり鉢巻(はちまき)にふんどし姿で、化けトマトのトマト酒のなかに、勢い好くどぶんと浸かります。肩まで浸かったまま一昼夜を我慢(がまん)します。強い酒の匂いに失神(しっしん;faint)する人も出ます。溺(おぼ;drown)れる人が出ます。櫓の上に見張りがいて、死なないうちに頃合をみて気絶(きぜつ)した人を腰に括(くく)りつけた安全ロープで引っ張り出します。そうやって最後まで頑張(がんば)れた若い衆は、飛び込んだ十人強中で二、三人だったと申します。
朝日がのぼる時刻(じこく)、化けトマトの中に残った若い衆が引き出されます。大抵(たいてい)、極度(きょくど)の酩酊(めいてい;intoxication)状態で足元(あしもと)がふらついています。そこへ「がんばりっしゃい」と掛(か)け声をかけて頭から桶(おけ;tub)の冷たい井戸水を浴びせます。すると、赤く染まった鉢巻やふんどしが、それはそれは朝日に美しく映えた申します。観衆(かんしゅう)は、「今年もうまい化けトマト酒ができましたがや。おめでとうございまして」と口々に唱(とな)えます。
それを合図(あいず)に、やや正気(しょうき)に返った若い衆は、丘向こうのパピヨン神社まで約一・五キロの道のりをいっせいに駈(か)け出します。先陣(せんじん)をきって神殿(しんでん)にたどり着いた一人の若者が、村で一番美しい生娘(きむすめ;virgin)との婚約(こんやく;engagement)交渉権(こうしょうけん)を獲得できますので、永遠に長いと思われるその一・五キロを桃色吐息(ももいろといき)必死に走る若者が多かったようです。
神社(shrine)に、モンシロチョウ(cabbage butterfly)のような衣裳(いしょう)で現われた娘さんが、気絶寸前(きぜつすんぜん)の若者に、「いいわ」と言えば、縁談(えんだん;match)は神前で成立します。もし「だめなの」と首を横にふったら、翌年の祭りで、新しい新郎(しんろう;bridegroom)候補(こうほ)が求婚(きゅうこん;propose)するまで縁談は持ち越しとなります。古い村の冠婚葬祭記録簿の記載(きさい)によりますと、この「だめなの」の拒絶反応が十五度もかさなって、村一番の別嬪(べっぴん;beauty)さんが、とうとう行かず後家(ごけ)の境遇(きょうぐう)に甘んじたということがあったそうでございます。
婚約(こんやく)の成否(せいひ)はともあれ、その夜に、祭りのクライマックスがあります。子供らの絵によって様々に化粧(けしょう;makeup)をほどこした化けトマトの皮の中に灯りがともり、豚(ぶた;pig)や羊(ひつじ;sheep)の胴回りに結わえつけられたロープ(rope)の先端が、化けトマトの下につなげられます。熱気球(hot-air balloon)の原理と申すのでしょうか、幾つもの化けトマトがあちらこちらでふんわりと持ち上がって、そのまま、ロープで下に結いつけられた豚(ぶた)や羊のヒィーヒィーという悲鳴(ひめい)とともに、夜空に舞い上がってまいります。語り伝えによれば、そのこの世のものとも思われない美しさといったらなかったそうでございます。
父によれば、こうした因習(いんしゅう;convention)にみちた村の行事も、動物愛護協会の抗議(こうぎ;protest)、そして、品種の改良で原種の厚皮化けトマトが姿を消し、食用の薄皮化けトマトの経済栽培が普及し、商品として大量に売られるようになってからは、すっかり廃れてしまったという話でございます。
*参照click ⇒「風雅のブリキ缶」で対応する箇所
カヤノ先生がうちに訪問(ほうもん)された折(おり)のことを少し書きます。以前から何度か、先生がうちの前の道を通るのをお見かけしました。俯(うつむ;downcast)いた顔をあげてちらっとこちらを見ているようにも思われましたが、あとは無関心(むかんしん;indifferently)に足早(あしばや)に通りすぎていかれるだけでした。その方、白人系(caucasian)が占めるこの辺(あた)りではめったに見かけない東洋系(とうようけい;oriental)の紳士(しんし;gentleman)が、村はずれにある州立ホスピス(state hospice)の患者(かんじゃ;patient)さんだということは、身なりのよさなどからなんとなく分かっておりました。
そのうち、妹のアモが通う保育園で、ホスピスへ園児を訪問させ、患者さんたちの前で余興(よきょう;entertainment)にダンスをお見せする催(もよお)しがありまして、父イッポリートがアコーディオン(accordion)で音楽を奏(かな)でる役、わたしが園児たちの舞台衣装(ぶたいいしょう;theatrical costume)をこしらえた関係で、父と一緒にホスピスへ参る機会がありました。そこで初めて、わたしたちは、カヤノ先生と顔馴染(かおなじみ)になったのでした。ホスピスの院長先生が、カヤノ先生のことを首都(capital)から来られた著名(ちょめい)なお芝居(しばい)の脚本(きゃくほん;script)を書く作家(writer)だと紹介されました。
先生は、「あなた方のことはブンペイからうかがっています。パピヨン村に着いたらぜひ訪(たず)ねるようにと」と、意外(いがい;unexpected)なことを言われました。先生は、父の友人であるブンペイさんのお兄上なのだそうです。父も、ずいぶんと驚いたような顔をしていました。
懇親会(こんしんかい)の場で、先生は、しきりに父の演奏(えんそう)を褒(ほ)め、ぜひもっと聴(き)かせてほしいとおっしゃいました。
一週間ほどして、先生は、実際(じっさい)にわたしどもの家へ来て、納屋(なや;barn)で、父のパイプオルガン(pipe organ)演奏を聴き、おもやで夕ご飯を一緒に食べていかれました。
先生は、初め、口数少なく、弟たちや妹が食べる様子をにこにこ眺(なが)めておられましたが、少し沈黙(ちんもく)がつづいたとき、何か土産(みやげ)代(か)わりに皆を楽します話でもしなければならないと思われたのか、「今日はうっかり手ぶらでお邪魔(じゃま)してしまいましたが」と言われてから、
「そうですね、面白(おもしろ;amusing)い話と言ってもすぐには思いつかないですが、そうですね…、話の御馳走(ごちそう;feast)と言えば、そう、昔々、ニッポンの国に、天邪鬼(あまのじゃく;perverse)で食いしん坊(greedy)な詩人がいましてね、マサオカ・シキ(正岡子規)という名の人でしたが。彼は、失恋がもとで都を去ってマツヤマ(松山)という僻地(the odd parts of Japan)で田舎教師をやっているおとなしいナツメ・ソウセキ(夏目漱石)という友人のうちに上がり込んで、友人を二階に追いやって、自分は一階を占拠(せんきょ)してしまいました。仲間を集めて好きなハイクという、575、全部でたった17音でできる短い詩の競作をガヤガヤやるは、友人のつけで勝手(かって;arbitrarily)に値段(ねだん)の高いうなぎの蒲焼(かばやき)という御馳走を店から取り寄せて、ぴちやぴちやと遠慮(えんりょ)のない音をさせて喰(く)うは、2カ月近くも泊(と)まっあげくに、引き上げる際に、金を貸せと澄(す)まして言う始末(しまつ)でした。そして、シキさんは、借りた金で、ナラ(奈良)とかいうところに遊び、夜半(やはん)、宿で隣のトウダイ寺というお寺のボーンという大釣鐘(おおつりね)が鳴るのを聴きながら、大丼鉢(どんぶりばち)いっぱいの柿を喰い、翌日、少し離れたイカルガという場所にあるホウリュウ寺というお寺を訪ねて、柿の木を眺め、これはいいわと、もとはソウセキという友人がつくったハイクを語呂よくひとつひねって、蒲焼の御馳走になったお礼にと、その友人にもできたものを臆面(おくめん)もなく書き送ったといいます」と話されました。
なんでも、そのハイクは、ニッポンではたいそう有名(ゆうめい)な詩だったそうで、
カキクヘバ・カネガナルナリ・ホウリュウジ
(柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺;
As I eat a persimmon. I hear the temple bell toll : Horyuji.)
とか。ちなみに、その友人ソウセキの作は、
カネツケバ・イチョウチルナリ・ケンチョウジ(鐘つけば銀杏ちるなり建長寺)
だったそうです。
わたしどもは、ハイクという詩にも、それどころか、ニッポンという国についても何も知らなかったものですから、ただ、カヤノ先生が嬉しそうにお話になるのを黙って見守っておりました。
「ところで、柿くへばの柿ですが、みなさんは、柿を食べたことがないでしょうね。連邦の世になってから、日系人(にっけいじん)にしても、不思議(ふしぎ)と柿を誰も食べなくなった。昔のニッポン人は、秋になると、柿を食べれば風邪をひかないという諺(ことわざ;proverb)を信じて柿を良く食べたし、それに、ある人に聞いた話ですが、昔、ニッポンでは、女性が嫁入(よめい)りにあたって実家(じっか)から柿の苗(なえ)や接ぎ穂にする枝を持っていく風習(custom)があったそうです。そして、その嫁がおばあさんになって一生を終える頃には、柿の木は立派に大きく育っていて、その枝は、嫁が死んだとき、遺体(いたい;remains)の火葬(かそう;cremation)で燃やす薪(まき)や骨を拾(ひろ)う箸(はし)にも使われたということです。そうした背景があるから、マツオ・バショウ(松尾芭蕉)というとても偉いハイク作家にも、自身の故郷をしみじみと詠(よ)んで、サトフリテ・カキノキモタヌ・イエモナシ(里ふりて柿の木もたぬ家もなし)という立派な句があります。そんな柿を、実は死病(fatal disease)に取りつかれていたシキが丼鉢一杯とたらふく食べて、柿クヘバ・カネガナルナリ・ホウリュウジ、と一見無頓着(むとんちゃく;carelessly)に因果(cause and effect)を外して詠みました。これってのは、欲なしでは生きられないガサツなこの世のさが(the nature)と、欲を取っ払って成仏(じょうぶつ)の果てに逝(ゆ;pass away)くあの世、その不思議な因縁(いんねん;fatality)を感じさせますね」。
先生は、最後のところを言及されてから、「ああ、そうそう、今、思い出しました、バショウにもね、先日発見した句で、これは春の句ですが、柿の句の大先輩格がありましたな。
カネキエテ・ハナノカワ・ツクユウベカナ(鐘消て花の香は撞夕哉) 芭蕉
「鐘撞きて花の香消ゆる」が普通でしょうから、音と香りの入れ替え(replacement)、これも思い切った物理的倒錯(aberration)ですよ」と、わたしどもにはまるでチンプンカンプンな難しいことを仰(おっしゃ)いました。
父からは、お返しに、今はすたれてしまった〈化(ば)けトマト祭り〉の由来(origin)や祭りが盛んだった頃のエピソード(episode)の話があり、わたしはそんな話をと、やきもきしたのですが、先生は、とき折り質問など入れながら随分(ずいぶん)と熱心(ねっしん;eagerly)に聞いておられました。
先生は、このようにして、わたしどもの家へときどき訪ねてこられるようになりました。そして数週間もすると、「ホスピスでは仕事にならない。ここの方がずっといい」とおっしゃって、朝からいらして、夕食までの時間を使われていない屋根裏部屋(garret)でご勉強やご執筆(しっぴつ)にあてられることも多くなりました。その頃から首都より届く郵便物なども、この家宛(あ)てに「イッポリート方カヤノ・イチロウ殿」というものが増えたと記憶(きおく)しています。
追記(ついき;postscript)――なお、父イッポリートが先生にお話した〈化けトマト祭り〉の由来(ゆらい)は、実は、父の十八番(おはこ;specialty)でして、わたくしも子供の頃から何度となく聞かされているので、以下のような内容と覚えてしまいました。ご共著のため、生前のカヤノ先生の一身に起こったことを書けというこのレポートの要請(ようせい)として相応(ふさわ)しいか判断できませんが、イチロウ先生もご自身の故郷のことを思い出されて何度となく質問をするなど、とても興味を持たれた話でしたので、ブブ様にご報告(ほうこく)しておきます。
――パピヨン村には古くから伝わるお祭りがございます。それは「化けトマト祭り」と言われて、土地のものは収穫祭(しゅうかくさい)をかねて盛大(せいだい)に祝(いわ)っていたそうです。
化けトマトと言いましても、今の十数年前から州の農林研究所によって試験栽培されてきたトマトは、改良品種(かいりょうひんしゅ)されたもので、古来(こらい)からほそぼそと成育されてきた原種(げんしゅ;seed stock)ものは、もう少し小ぶりのせいぜい2トンに満たない程度(ていど)のものだったそうです。
化けトマトの収穫(しゅうかく)がピークを迎える盛夏(せいか)に準備(じゅんび)が始まって、初冬まで村のあれこれの行事(ぎょうじ)を通して、大人も子供も興(きょう)じる祭りの内訳(うちわけ)とは、こんなものでした。
この原種の化けトマトは、皮(skin)も分厚く丈夫にできていたので、収穫された化けトマトのうち形も好ましい上物数十個を順番(じゅんばん)にプールのような大鍋(おおなべ)に入れて、丸一日よく茹(ゆ)でます。それから固いへたの上の部分をオノで刳(く)り抜いて、そこから大型のバキュームカー(cesspit cleaner truck)につなげたポンプを突っ込んで、象(ぞう)の鼻先のようなポンプの先からドラム缶何個分と中味を吸引します。これだけの作業に、村中(むらじゅう)の男衆(おとこしゅう)総出(そうで)で、約1週間はかかったそうでございます。
なお、このような大掛(おおが)かりな装置(そうち)を使わない時代は、村の若い男たちがバケツを持って梯子(はしご;ladder)を伝わり、化けトマトの中に入り込んでは、リレーで汲(く)み上げていったそうです。化けトマトごとに幾(いく)つかの地区グループに分かれて競争で、この作業を遂行(すいこう)した話も伝わっております。
バキュームカーに入れられた化けトマトの中味(なかみ;inside)は、工場(plant)に運ばれて、大きな樽(たる;barrel)に入れ換(か)えて、時間をかけて、お酒(liquor)にされました。
一方、中味を取られて空洞(くうどう;hollow)になった化けトマトの厚皮(あつかわ)は、収穫の終わった畑に並べられて、からからになるまで天日(てんぴ;sunlight)で干(ほ)されます。
ある夏などは、そこへ空を真っ黒くするほどの蝿(はえ)が大量発生し、人の顔にも家畜(かちく)の顔にも一面(いちめん)たかって困ったことがあったそうで、まさか人の顔に駆除剤(くじょざい)を撒布(さんぷ)するわけにもいかないものですから、連邦政府の救援措置(きゅうえんそち;aid)で、村を丸ごと送風(そうふう)する観覧車(かんらんしゃ;ferris wheel)のような超大型の扇風機(せんぷうき;fan)が据(す)えつけられたといいます。
こうして水分を抜かれた化けトマトの皮は、秋の運動会前には、村の小学校の校庭に運ばれます。そして運動会のときに、子供たちが「化けトマトのごろごろ転がし競争」に興じたそうです。
その運動会が終わると、さっそく、PTA(parent-teacher association)の皆さんが召集(しょうしゅう)され、村の老人の口やかましい指導(しどう)にしたがって、校庭の何箇所かで、四隅に柱を立て、化けトマトの皮を中に置いて櫓(やぐら;tower)を組みます。さらに、櫓にのぼったPTAの皆さんが、特殊な液をつけたモップ(mop)でもって、運動会で散々(さんざん)転がって汚(よご)れた化けトマトの皮表をギュッギュッと磨(みが)き上げます。すると表皮は不思議と光沢(こうたく;luster)が出ると同時に光が透(す)ける程度に薄く(thin)透明になるそうであります。
次に、秋の文化祭の準備に入った子供たちは、この化けトマトの皮の表面に、思い思いの彩色(さいしょく)と意匠(いしょう)で、お化けの絵を描きます。
そうこうするうちに工場の大樽の中では、化けトマトの果液がすっかり好い具合に発酵(はっこう;ferment)しまして、芳醇(ほうじゅん;mellow)なトマト酒になっております。このトマト酒が大樽ごと小学校にトラックで運び込まれ、やがて、子供たちの絵でお化粧がほどこされた化けトマトに並々と注がれたと申します。
もう初雪も待たれる初冬(early winter)と言える季節の朝に、村の若い衆がねじり鉢巻(はちまき)にふんどし姿で、化けトマトのトマト酒のなかに、勢い好くどぶんと浸かります。肩まで浸かったまま一昼夜を我慢(がまん)します。強い酒の匂いに失神(しっしん;faint)する人も出ます。溺(おぼ;drown)れる人が出ます。櫓の上に見張りがいて、死なないうちに頃合をみて気絶(きぜつ)した人を腰に括(くく)りつけた安全ロープで引っ張り出します。そうやって最後まで頑張(がんば)れた若い衆は、飛び込んだ十人強中で二、三人だったと申します。
朝日がのぼる時刻(じこく)、化けトマトの中に残った若い衆が引き出されます。大抵(たいてい)、極度(きょくど)の酩酊(めいてい;intoxication)状態で足元(あしもと)がふらついています。そこへ「がんばりっしゃい」と掛(か)け声をかけて頭から桶(おけ;tub)の冷たい井戸水を浴びせます。すると、赤く染まった鉢巻やふんどしが、それはそれは朝日に美しく映えた申します。観衆(かんしゅう)は、「今年もうまい化けトマト酒ができましたがや。おめでとうございまして」と口々に唱(とな)えます。
それを合図(あいず)に、やや正気(しょうき)に返った若い衆は、丘向こうのパピヨン神社まで約一・五キロの道のりをいっせいに駈(か)け出します。先陣(せんじん)をきって神殿(しんでん)にたどり着いた一人の若者が、村で一番美しい生娘(きむすめ;virgin)との婚約(こんやく;engagement)交渉権(こうしょうけん)を獲得できますので、永遠に長いと思われるその一・五キロを桃色吐息(ももいろといき)必死に走る若者が多かったようです。
神社(shrine)に、モンシロチョウ(cabbage butterfly)のような衣裳(いしょう)で現われた娘さんが、気絶寸前(きぜつすんぜん)の若者に、「いいわ」と言えば、縁談(えんだん;match)は神前で成立します。もし「だめなの」と首を横にふったら、翌年の祭りで、新しい新郎(しんろう;bridegroom)候補(こうほ)が求婚(きゅうこん;propose)するまで縁談は持ち越しとなります。古い村の冠婚葬祭記録簿の記載(きさい)によりますと、この「だめなの」の拒絶反応が十五度もかさなって、村一番の別嬪(べっぴん;beauty)さんが、とうとう行かず後家(ごけ)の境遇(きょうぐう)に甘んじたということがあったそうでございます。
婚約(こんやく)の成否(せいひ)はともあれ、その夜に、祭りのクライマックスがあります。子供らの絵によって様々に化粧(けしょう;makeup)をほどこした化けトマトの皮の中に灯りがともり、豚(ぶた;pig)や羊(ひつじ;sheep)の胴回りに結わえつけられたロープ(rope)の先端が、化けトマトの下につなげられます。熱気球(hot-air balloon)の原理と申すのでしょうか、幾つもの化けトマトがあちらこちらでふんわりと持ち上がって、そのまま、ロープで下に結いつけられた豚(ぶた)や羊のヒィーヒィーという悲鳴(ひめい)とともに、夜空に舞い上がってまいります。語り伝えによれば、そのこの世のものとも思われない美しさといったらなかったそうでございます。
父によれば、こうした因習(いんしゅう;convention)にみちた村の行事も、動物愛護協会の抗議(こうぎ;protest)、そして、品種の改良で原種の厚皮化けトマトが姿を消し、食用の薄皮化けトマトの経済栽培が普及し、商品として大量に売られるようになってからは、すっかり廃れてしまったという話でございます。
*参照click ⇒「風雅のブリキ缶」で対応する箇所