Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

交流電化発祥の作並から面白山高原、そして山寺へ

2011年05月30日 21時48分05秒 | Journal


 宮城県の業界組合は、一年に一度の総会はやはり泊まりがけの宴会つきでないともの足りないということであろう、今年は作並という山形県に近い山深い温泉地で開催した。被災した沿岸地域から一番離れた場所だ。芦屋雁之助が「作並絶唱」なるご当地ソングを歌っているとは知らなかった。泊ったのは岩松旅館という古い旅館だったが、写真のオラウータンの番頭さん以外は、別にこれといった特徴もなかった。宴会では、被災した方から津波の恐ろしい実話をいろいろうかがった。そして、同室者の嵐のような鼾に悩まされてほとんど一睡もできずに輾転反側と朝を迎え、6時すぎにはっきりしない気分で湯に入って、朝食をとり、ホテルのバスで作並駅まで送ってもらった。しかし、この仙山線の作並駅のやけに明るいプラットフォームに立ったとたん、なんだか爽やかに生き返った心持ちがした。このプラットフォームこそ日本の交流電化の発祥地だそうだ。小生が生まれた頃の古い話である。もしかして、その交流電化の霊が小生をぴりりと覚醒させたのかもしれない。あるいは、下記の宮沢賢治の詩の霊が小生の眠れる魂に呼びかけたのかもしれない。仙山線で山形へ抜ける途中、「面白山高原」という名の駅がある。以前、通ったとき、線路の下に滝があったので記憶に残っていたが、やはり「面白山高原」というのは面白すぎる。そして、長いトンネルを抜けると、景色が一気にひらけ、そこに山寺の小天地がある。

 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
  (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといっしょに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
  (ひかりはたもち その電燈は失はれ)
  ――『春と修羅』序(1924年)
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被災地の東塩釜、多賀城を歩くが、・・・

2011年05月29日 10時17分49秒 | Journal


 業界組合の総会取材で、仙台と山形へ出かけた。朝の11時に新幹線で仙台に着き、午後3時まで時間をつくってあったので、仙石線に乗り換え、そこまで復旧している東塩釜で降りた。東塩釜から松島、石巻方面へ行く人は駅前でバスに乗り換える。実際、同じ電車で東塩釜まできた乗客の多くはバス停に列をつくった。塩釜は、『奥の細道』に記述がある。芭蕉は塩竈明神(塩竈神社)に詣でて、義経を守って二十三歳で死んだ「和泉三郎」という五百年前の若侍について触れ、誠に「人たる者はよく道をつとめ、義を守るべきである。そうすれば、名誉もまた自然これに伴うものだ」と古人の言葉を引用している。管直人首相はサミットで各国首脳を前に太陽光など自然エネルギーを20%にすると根拠もなく口約束したが、一国の宰相でありながら自分の名誉が和泉三郎ほどにも自然に残るとは信じられないのであろう。3番目の写真の小島内に「奥の細道」の看板を見かけたが、あるいは芭蕉も立ち寄ったのかもしれない。「曲木(まがき)島」といい、古今集にも詠まれた由緒ある島とか。芭蕉は、塩釜をあとに、船をかりて松島に渡ったという。松島への観光船はまだ乗る人も少ないだろうが、運航が再開されている。望遠で撮った写真の船がそれであろうか。
 小生は、東北が担当ながら被災地に行き損ねていたので、今回は被災状況を見ようともくろんでいたが、塩釜は松島と同じく島々が津波の勢いを弱めて、何メートルと冠水したが、建物被害はそれほど大きくはないように思われた。ただ、今も小船が道に転がっているのと、道路の陥没や加工所のような建物の側壁の損壊を見かけた。魚市場に入って、ぐるりと歩いた。おそらく天井まで水はきて、一部補修に入っているが、躯体としての鉄骨も無事のようで、市場は一部再開していると聞いた。駅への帰りがけ、日産のディーラーに「中古車玉不足のため高価下取り実施中」とある。なんでも自動車が津波で流され、現地では軽自動車など燃費の安い中古車の需要が大いに高まっているそうだ。
 仙台に戻るまでに時間があったので、途中、多賀城にも降りた。甚大な津波被害があったエリアは別らしく、JRの駅周辺に津波被害の痕跡をまったく見つけることができなかった。ただ、駅の近くで沖縄からきた自衛隊が銭湯のサービスをしていたのを物珍しく眺めた。してみると、まだ風呂に入れない住民がいるのだろう。川べりの土手を歩き、津波よりもむしろ地震で民家の屋根瓦に被害があり、屋根に青いシートを張った家を眺めた。最後の写真は、その青いシートも風に飛ばされてめくれている。テレビのアンテナも屋根に転がっていることを考えれば、この比較的新しい家は放棄されているのかもしれない。駅前広場の木陰で、コンビニで買ったおにぎり2個食べて遅い昼飯とした。強い日差しの日だった。
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「戦火のナージャ」を観る

2011年05月22日 12時12分22秒 | Journal


 妻に誘われて昨日、銀座のシネスイッチで、ニキータ・セルゲイビッチ・ミハルコフ(Никита Сeргеевич Михалков)主演監督映画の「戦火のナージャ」を観る。同監督の作品では「太陽に灼かれて」が有名だそうだが、まったく知らなかった。戦争映画はなんとなく気がすすまなかったが、戦火のナージャというタイトルは、良い映画に違いないと予感させた。ミハルコフ監督の娘さんが、映画でも主人公コトフ(ミハルコフ)の娘ナージャ役だったが、余り女優ぽくないところが、もの足りなくもあれば良くもあった。かつて師団長でチョコレートに描かれるほどの国民的英雄だったコトフが、スターリンの粛清にあい、服役するが刑務所に空襲があった際に脱走、その後、戦場で一兵卒としてスコップを武器にするようなみじめな小隊に属し、ドイツ戦車部隊を迎え撃つ。壮絶、絶望的な劣勢下に初老の元師団長がきびきびと戦う姿や、脳に障害をもつ仲間をいたわって懸命に助ける姿は意外な感じがした。ちょうど、東電の社長が退職してから福島原発事故の復旧作業員にまざってきびきびと命懸けで働くようなものである。そんなことは実際の世の中では起こらない。特に、日本ではありえない。第一、職業軍人が特権階級としてえばってきた日本は、コトフのような庶民的な軍人像を持たない。しかし、ロシアには昔からあるようだ。トルストイは「戦争と平和」で、英雄ナポレオンと対比してそうした職業軍人の将軍像を描いた。それから、映画のラストシーンで、従軍看護婦ナージャが死にかけた19歳の負傷兵の「一度も女性の胸を見たことがない。いいだろう」という懇請にこたえて上半身裸になったところで、兵士と裸婦を古典的な静画の中に取り残すようにカメラが徐々に高所からの俯瞰にかわり、小雪まう戦場のすさまじい惨状の全貌を映し出したのも良かった。あれは相当、お金をかけたセットである。凄惨な戦争を等身大の映像的な叙事詩にかえたところが、文豪トルストイに比べたくなる映画の巨匠である。
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もみじの新緑

2011年05月09日 21時12分52秒 | Journal


 もみじ(楓、かえで)は紅葉と書くから新緑というのは形容矛盾かもしれない。しかし、それがまた新鮮だ。普通、写真をぱちぱち撮ってチョイスしてここにもアップする。ただ、上掲のもみじの写真は4枚撮ったのをそのまま4枚載せる。4枚とも出来がいいと考えたからではない。緑一色の新緑は墨絵のようなもので出来の巧拙を大して気にする必要がないように思われたからだ。会社のそばの公園で、ベンチに腰かけて、上を向いて、カメラをかざして、4枚の写真を撮った。ただそれだけの尊い写真だ。
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住金鹿島の被災取材と記者の心得

2011年05月08日 20時50分42秒 | Journal


 先般、住友金属工業の鹿島製鉄所で被災現場を記者の公開する催しがあった。見学場所として、岸壁のクレーン倒壊現場と厚板工場だけが許されるかなり制約のついた見学会であったが、ともかくクレーンが大々的にひっくり返っているのを眺め、写真を撮りながら、へ~えと思ったものである。次に、厚板工場であるが、事前に工場内の写真は撮らないでくださいとアナウンスがあったにもかかわらず、執拗にフラッシュをたいて復旧した製造現場の写真を盗み撮る記者がいた。こんなケースで主催者から撮るなと言われた写真を撮ったところで紙面をかざるスクープにも何にもなりやしないのに隠し撮りにもならない撮影を続けて、あとから広報の人間に注意されて居直った感じの記者を見ていて、アホかいなと思った。慥かに、住金に限らず鉄鋼メーカーは、そこにノウハウ、宝の山が隠されていると言わんばかりに工場内の写真撮影を決まって嫌がる。しかも、真っ赤な厚板が成形されていく製造プロセスはなかなか迫力があってつい撮りたくなるのも事実。ただ、招いてくれた相手が嫌がっているのだから、そこは招かれた方は紳士的にふるまうべきだろう。それで伝えなければならない真実が少しでも折れ曲がるわけではない。記者が、相手のことなど構わず、そこまでやるならば命懸けの写真を撮りに戦場でも原発事故現場でも行けばいいのに、やはり奴は脳足りんのアホ記者だと、こちらも頭の中で力んでアホを連発しているうちに自分でもバカらしくなってきた。ああいう記者がどれほどの記事を書くのか、知らずに読まされる方も気の毒だ。
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南伊豆の旅 波勝崎の「猿の無縁社会」と坊っちゃん、「ニッポンはひとつ」の責任回避と清水の次郎長親分

2011年05月01日 15時58分44秒 | Journal
   

 喫茶店BLUE IN GREENをでて、妻がお猿さんを見たいというので波勝崎の「野猿の楽園」へ寄った。観光客は大人一人500円の入苑券を購入すると、マイクロバスに乗せられて、猿300匹を飼っている下の浜でおろされて、お猿さん観光をさせるシステム。餌は売店の鉄格子越しにしがみついた猿に与える。猿は売店の入口から中へはけっして入ろうとはしない。それが小生には不自然な感じがした。多分、餌目当てに入った猿は管理する人間から躾(しつけ)と称してひどい目にあったのであろう。店内には、歴代のボス猿の写真が清水の次郎長一家や慎太郎のあだ名で掲げてある。顔は引っ掻かれ、あるものは鼻や耳を喰いちぎられ、眼がつぶれ、どの顔もすさまじい権力闘争の傷跡だらけで、さすがにヤクザの親分。いったん売店を外にでると、猿にしてはおとなしい群れがたたずんでいる。毛づくろいをしている親子らしい仲睦ましい猿もいるが、中に、孤立無援と元気なく、しいたげられたようにぽつんといる猿を何匹も見かけた。

 猿の世界も、人間界と同様に勝ち組・負け組、集団管理と無縁社会の両極がひろがっているのだ。とてもお猿さんの楽園とは思えず、暗澹たる気分で、岬の先端の岩礁にある明るい一本松を眺めた。そして、なぜか漱石の『坊っちゃん』で、教頭の赤シャツが若い新任の坊っちゃんを懐柔しようと釣り船に誘ったとき、「あの松を見たまえ、幹が真っ直ぐで、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と、「青嶋」と呼ばれる無人島の松のことを野だに言ったのを思い出した。すかさず、野だは赤シャツに「どうです、教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんか」と余計な発議をし、赤シャツも「そいつは面白い、われわれはこれからそういおう」と賛成した。坊ちゃんは「このわれわれのうちにおれも這入ってるなら迷惑だ。おれには青島で沢山だ」と素直に思う。坊ちゃんもまた、余計なお世話の連合艦隊よりはたとえ一人ぼっちでも自分が本当に納得できるロジックを望んだのである。最後から2番目の写真は、実際の松山の「青嶋」、正式名は「四十島」。

 どうも最近、震災のことで「ニッポンはひとつ」の官製スローガンが大流行だが(文案は広告会社かコピーライターの仕業かもしれないが)、戦時の「挙国一致(内閣)」を思い出させる。大震災は戦争に匹敵する危機感を国民にもたらす国難だから、政治主導でこういう考えの足りない合言葉がひとり歩きするのだろうが、これはずる賢い赤シャツのような人間が自分の責任を回避したさに責任を丸ごと国民に転嫁するためのコマーシャルである。小生は、非国民と呼ばれようと、変にひとつにはなりたくない。「坊っちゃん」の無鉄砲な心意気で沢山だ。ちなみに、小説『坊っちゃん』は日本海海戦の翌年、ナショナリズムが高揚していた1906年に書かれた。

 猿の次郎長親分ではないが、明治維新の折、本物の清水の次郎長親分(最後の写真)は、Wikipediaによれば――1868年8月、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦により死亡した。その後、逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を、次郎長は小船を出して収容し、向島の砂浜に埋葬した。新政府軍より収容作業を咎められたが、死者に官軍も賊軍もないとして突っぱねたという。当時、静岡藩大参事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟は これを深く感謝し、これが機縁となり次郎長は明治において山岡・榎本と交際を持ったとされる。博打を止めた次郎長は、清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を立ち上げている。この他にも県令・大迫貞清の奨めにより静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾による英語教育の熱心な後援をしたという口碑がある。――とある。どうもこういう国難には、あの世から次郎長親分に加勢に来てもらうしかないようだ。東電の清水社長もさぞかし心強く喜ぶであろうよ。
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南伊豆の旅 BLUE IN GREENという喫茶店

2011年05月01日 12時34分00秒 | Journal


 石廊をあとにぐるぐるオートバイの多い海岸線をドライブして、南伊豆町子浦という海から大分標高も上がった小高い丘の中腹に、BLUE IN GREENという瀟洒な喫茶店を見つけて、立ち寄ることにした。慥かに、「緑の中のブルー」である。森の緑の中から遠く眼下に入江の海の紺碧が望める。花瓶に活けられた花々や店のインテリアも主人のもてなしも、とにかく素晴らしい喫茶店である。小生が体験したなかでこれ以上に客を癒す喫茶店はない。しかもコーヒー一杯が500円。勘定を払って店をでると、ふさふさとした黒毛に眼玉が隠れた犬が吠えることもなくじっと見送ってくれた。
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南伊豆の旅 石廊崎で遊覧船に乗る

2011年05月01日 12時17分17秒 | Journal
        

 弓ケ浜をあとに、西まわりに石廊崎へ行き、遊覧船に乗った。清水屋の御亭主に海が奇麗だと教えられていた。ちっぽけな漁船を遊覧船に化けさしたような船で、波に揺れて転覆するのではと大いに怖かったが、なるほど海は奇麗で、岸壁の上に石廊埼灯台と石廊権現さまを見上げ、磯釣りをする人を「どうやって帰るのか」と心配しながら眺め、エンジンを止めた船の甲板から島のお猿さんにサツマイモを投げるパフォーマンスまでできた。あとでドライブの途上に展望台から遥かに見下ろせば、船で巡ったあたりは最後の写真となる。
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南伊豆の旅 弓ケ浜の波打ち際に遊ぶ子供の姿

2011年05月01日 11時58分15秒 | Journal
 

 「昭和の日」とかいう4月29日の金曜と翌土曜日、一泊で南伊豆へドライブした。その前夜、妻から観光客が少なくて困っている日光行きの提案があったが、やはり放射線量の問題も気がかりだし、次に小生が行ったことがない軽井沢案(宿泊代が高いので却下)をへて、自宅から比較的行きやすい南伊豆に落着した。すぐに妻がインターネットで旅館を探して、弓ケ浜の温泉・民宿、清水屋さんに宿泊することに。格安のお値段(夕食・朝食付き、二人で1万4700円)にしては大変な御馳走で、浜辺までも5分ぐらい。夕方、夕食前の限られた時間に南国らしく椰子の樹がある浜を眺め、翌朝、民宿をチェックアウトしてから車でもう一度でかけた。弓ケ浜は人も少なく、奇麗な砂浜で波打ち際に遊ぶ子供の姿を写真に撮ることができた。
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