Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

弥勒信仰とイカルガの遠い音(IRC-Spring1-4)

2007年01月28日 10時51分00秒 | Ikaruga Road Company
 弥勒菩薩というと、ニッポンでは京都広隆寺の弥勒菩薩像の瞑想風が有名だが、写真のインドの弥勒はただの人間風。中国では七福神の布袋(ほてい)さまが弥勒の化身というのも、所変わればだ。

 (IRC-Spring1-4)そう言えば、君の兄さんにも、パピヨン村の近郊、海辺の温泉ホロノベへ彼女と行った話がありましたな?
ブンペイ ええ、あれは、多分に兄貴の空想もまざっていて、どこまで本当のことだったか分かりませんが、慥かに、そういう原稿がありました。
ブブ その湯治の折、宿の亭主との会話に、兄さんの未完作品『斑鳩の旅芸人一座』の話が出てきて、「ショウトク太子には聴こえたはずのイカルガの遠い音、その無垢な音に耳を澄ます」といった言葉をふと洩らしていました。あれもまったく偶然ではなかったかもしれませんよ。セトナイカイを行き来した太子ならば、ヤナギダ・クニオ(柳田国男)が、『海上の道』(1961年)で指摘したニライ・カナイ(『おもしろ草子』)、すなわち遠く水平線の外にある不思議な憧憬世界、海上の浄土から聴こえてくる音を耳にしたかもしれません。その海は、未来仏ミロク(弥勒)の船が渡ってきた海上の道(road)なのですから。
ブンペイ ニライ・カナイ…、ミロクの船ですか…。
ブブ ええ、白い帆をふくらましたミロクの船が水平線の彼方からやってくる。ヤナギダの本に解説をつけた作家オオエ・ケンザブロウ(大江健三郎)が触れていたように、そのニライ・カナイの水平的な浄土観が、やがてオボツ・カグラ(天上)という垂直的な浄土観とも交錯することがあったのでしょうよ。まあ、海でも山でも、浄土の音楽は聴こうと思えば、どこでも聴こえてくるものなのです。
ブンペイ 浄土の音楽なんて、本当に聴こえるものなのでしょうか…。
ブブ 兄さんが話していた極楽浄土(Paradise)に流れていたよく澄みわたった音というのは、『大無量寿経』(無量寿経とも。『法華経』などと並ぶ初期大乗経典)の上巻に出てくる「自然発生性の音楽」(ナカザワ・シンイチ=中沢新一氏の表現)に比すこともできます。それは、西欧音楽のような人工的なハーモニーとは違う、「打つ音」だったのです。
ブンペイ 打つ音? ……遠く響いてくる太鼓の音のような…。
ブブ ええ、そうです。遠く響いてくる太鼓の音のような、です。兄さんが話していたイカルガの遠い音も、そうした打つ音だったのです。ナカザワ・シンイチという人の説明では、誰も打つ者がいないのに、大空はるかかなたにある打楽器が自然発生的に奏でる打音の響き、極楽浄土の全空間は、静寂をかすかに「打ち」、かすかに擦っていく微妙な音の変化に充たされていた、ということになりますな。
ブンペイ そうでした…。慥かに、あれは、そんな音だったような。
ブブ えっえ? あなたは、その音を、極楽の打楽音を、聞いたことがあるのですか?
ブンペイ まあ…、それは小さい頃のことですけれどもね。
                  *
 ちなみに、ブブ氏は、アスカ(飛鳥)の政治家ショウトク太子も、ゲンロク(元禄)の俳人バショウも、メイジ(明治)の文学者ソウセキも、サムライだったとの持論を持っていて、太子の遺言「世間虚仮、唯仏是真(セケンコケ・ユイブツゼシン)」、バショウのモットー「不易流行(フエキリュウコウ)」、ソウセキの遺言「則天去私(ソクテンキョシ)」を並べて、その証拠のように関連づけて論じる人です。
 もし、子供のころ、カヤノ兄弟が耳にし、兄イチロウが芝居の脚本に書いたように、その昔、湖畔のサムライたちが耳にした太鼓の音が、そして、「斑鳩の旅芸人一座」のIRCからブンペイの耳に届いた音が、極楽浄土の打つ音だったとしたら、その符号(coincidence)は、どういうことを意味するのでしょうか。
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聖徳太子の道後温泉(IRC-Spring1-3)

2007年01月28日 10時31分46秒 | Ikaruga Road Company
 聖徳太子については、その実在を疑う説からはじまって、業績に対するいろいろ議論もあれば毀誉褒貶(きよほうへん)もある。政治家というよりは、宗教家、イエス・キリストに似た雰囲気もあって、ニッポン人としては特異な存在だ。

 (IRC-Spring1-3)さらに、太鼓の音のことでは、ブンペイの兄イチロウに関連するこんな余談(digression)もあります。
 兄の知り合いで、生前の兄との往復書簡(correspondence)を一冊の本(『科学と風雅』)にまとめた人に、イザヤ・ブブ氏という時代骨董の鑑定人(connoisseur)がいます。このブブ氏とは、これまでのところ、直接面識(acquaintance)を持ったことはないのですが、本の発刊(publication)のことで連絡があり、後には上記の娘たちの失踪(disappearance)事件で頻繁にメールのやり取りをする機会があって、太鼓の音についても思いがけない方角から薀蓄(うんちく、profound remark)を授けてもらったことがありました。
 ショウトク太子という古い時代のニッポンの政治家に関連して、ブブ氏からあれこれ講釈(lecture)を授かった当時のパソコン上の会話記録には、こんな内容が残っています――。

  To. Mr. Kayano Bunnpei
  From. Izaya Bubu
  Subject. Shoutokutaishi

ブブ 596年というから、ショウトク(聖徳)太子が、まだ、二十二才の年齢だった頃、なぜか、カヅラキノオミ(葛城臣)の案内であったらしいが、太子と師のエジ(慧慈)がイヨ(伊予)のドウゴ(道後)へ温泉旅行に出かけたという記事が、『伊予国風土記』逸文に記されています。

〔Comment:原碑はとっくに失われていたが、ドウゴ温泉のイサニワ(伊社邇波)の丘に、「伊予湯岡碑」と呼ばれるショウトク太子建立の碑があったことが、『釈日本紀』(しゃくにほんぎ、日本書紀の注釈書)に引用された逸文の、『伊予国風土記』湯の郡(こおり)の条に見られる。
 カヅラキノオミとは、カヅラキノオミ・オナラ(葛城臣鳥那羅)のことか。この屁(へ)のような名を持った人は、スシュン(崇峻)天皇のとき、シラギ(新羅)征討のためにツクシに向かった四将軍の一人で、太子の寵臣だったと伝えられる。
 ウエハラ・カズ(上原和)という研究者の推測によれば、このとき、太子は「伊予国における彼の領地を巡行していたのである」。太子が創建したホウリュウ寺の『資材帳』によれば、寺が管理している庄(しょう)は、「伊予国」に14カ所もあった。寺領の庄の総数46カ所のうち、わずか2カ所(右京九条二坊壱処、近江国壱処・在栗太郡物部郷)以外は、すべてホウリュウ(法隆)寺のある「大和国平郡郡」を起点としてイヨ国に至る間のヤマト(大和)川・セトナイカイ(瀬戸内海)沿岸に点在していた。
 ウエハラ氏は、ホウリュウ寺の庄がセトナイカイの海上ルートの要所要所にあったことから、太子自身が「朝鮮と畿内とを結ぶ海上の回廊」を押さえていたと想像している。〕

  十年の汗を道後(どうご)の湯に洗へ  〔Shiki〕

ブブ マサオカ・シキ(正岡子規)の故郷マツヤマ、江戸っ子のナツメ・ソウセキ(夏目漱石)の小説主人公「坊っちゃん」が、赤手拭(てぬぐい)をぶら下げて通った、あのドウゴ温泉であります。なんでも、古代の大王家は温泉好きで、キイ(紀伊)のムロ(牟婁)の湯やアリマ(有間)の湯へもよく行ったようですが、セトナイカイ(瀬戸内海)を船で行けるドウゴ温泉も、湯治場として人気があったと申します。
ブンペイ ショウトク太子が、「坊っちゃんの温泉旅行」ですか?
ブブ ああ、やはり君も、意外な感じがしますか。エジはコウクリから来ましたが、コウクリのピョンヤン(平壌)辺りには古くから温泉群があったといいますから、太子は、はるばる異郷へやって来た師を慰めるつもりで、誘ったのかもしれませんね。
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良寛の「希音は是れ真音」と太鼓の打つ音(IRC-Spring1-2)

2007年01月28日 10時12分35秒 | Ikaruga Road Company
 良寛は、子供や女性に人気がある。どういう風貌の坊さんだったか、知る由(よし)もないが、あるHPには有名な画家の空想の良寛が集めてある。なかでも、この杉本春良の良寛が飄々(ひょうひょう)でいい。

 (IRC-Spring1-2)不思議なことに、カヤノ・ブンペイには、彼らIRC座員の声が、しかも、複数の声が、常にどこからか聴こえてくるのであります。それらの声は、時には、直前に目撃したことを仲間内に伝え合うささやき声(whisper)であったり、時には、古老(elder)が曾孫(great-grandchild)たちに昔話をしているようでもあり、時には、何か事件に巻き込まれての切羽詰った叫喚(cry)であったり、また時には、深い落胆のため息(sigh)であったりしました。いずれにしても、どこか無垢(むく、innocent)で、悪意のない(harmless)声だと、ブンペイには思われました。
 そして、ブンペイが、少しはリラックスした平穏な気分のときに、もっと注意を集中して耳を澄ましていると、それらの声の背後に、何かの雑音(noise)がまざっていることにも気がつきました。宗教音痴なブンペイにとって、もちろん知識外のことだったでしょうが、初め、それは、自ら「大愚」と号したリョウカン(良寛)という昔のお坊さんが言っていたような、妙音、潮騒(しおさい、the sound of the sea)のようなものとして、彼の耳に届いていたはずです。

妙音(みょうおん)観世音(かんぜおん)、梵音(ぼんのん)海(かい)潮音(ちょうおん)。彼の世間の音(おん)に勝(まさ)って、希音(きおん)は是(こ)れ真音(しんおん)なり。是の故に、我は今頂首(ちょうしゅ)す。
――Ryoukann 『良寛道人遺稿』

 ただ、よくよくブンペイの聴覚(audition)に尋ねてみますと、そのような潮騒に擬す連続音(the sequence of sounds)からなる真音だけとも、ちょっと違う音がするようなのです。潮騒の音が静かに遠のくときなど、そこに、もっと間隔(interval)を開けた何かを打つような音が、あった。その打つ音は、待っているとなかなかしない。でも、忘れたころに、またする。

  永(なが)き日を太鼓(たいこ)打つ手のゆるむ也  〔Souseki〕

 最初は、誰かが、いたずらに、自分か他人、もしくはペットの犬か猫の心臓の鼓動(stroke)に聴診器(stethoscope)のようなものを当てて、その胸の中で打ち叩く音を、いたずらに、何かの仕掛けで流しているのかと疑いましたが、心臓もあれだけ間遠に、それもえもいわれぬリズムをつけて打っていたら、大抵の生き物は胸苦しくなって死んでしまうでしょうから、はてなと思っていましたら、あるとき、それが、幼い頃の朝方、窓ガラスを微かに震わせて、ブンペイの枕元(bedside)まで届いた太鼓(drum)の音、村へやってきた旅芸人一座(road company)のテント小屋から届いた公演告知の太鼓の音と同じだ、と腑に落ちました。

  時空打つ太鼓の音や空の中  〔Tonkyu〕

 しかも、その音は、古(いにしえ)のサムライの耳にも届いた、実在した時を打つ太鼓の音だったとは、最近になって、悟ったことでした。ブンペイが、そうと気づいたのは、亡くなった兄で、劇作家だったカヤノ・イチロウ(茅野一郎)がつくった時代芝居の一場面を観たときでした。その舞台となる太古からあるニッポンの湖、ビワコ(琵琶湖)という大きな湖畔に面した美しい城下町ゼゼ(膳所)にも、藩士たちに登城の時刻を知らせる同じ太鼓の音が響いていました。もしかして、長く疎遠だった兄も、あの同じ太鼓の音に耳を澄ましていたのかと思うと、暗い客席にうずくまったブンペイは、不思議な感じにとらわれたものです。
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ブンペイ、火星で人探し(IRC-Spring1-1)

2007年01月28日 10時01分25秒 | Ikaruga Road Company
 火星にはまだ行ったことがない。別に行きたくもない。なんでも赤錆(あかさび)だらけの星らしい。そんなところで人探しとは、ブンペイもごくろうさまだ。

  [Spring]  物語の発端
  The beginning of the tale

 “Ikaruga Road Company”(略称=IRC)というのは、「イカルガ道路会社」のことではありません。「斑鳩の旅芸人一座」が、正解(right answer)です。されど、いつも正解から興味深い物語が始まるとは、限らないでしょう。むしろ、今昔の物語、しばしば逆のケースが多いのでは。今回も、絵空事(pipe dream)、ちょっとした誤解(mistaken belief)が、物語発進の端緒(beginning)となったのでした。

  人の上春を写すや絵そら言  〔Souseki〕

 1.

 かなり前から、一人の男が、知り合いの失踪(missing)した二人の娘がIRC座員(members of a troupe)と一緒にいるかもしれないとして、その所在(whereabouts)を探して、地球上、いや、月や火星(Mars)の基地まで、くまなく歩きまわっておりました。
 男の名はブンペイ(文平)、姓はカヤノ(茅野)。童顔(baby face)で若くは見えますが、それでも年のころは30歳過ぎだとか。名前からしてニッポン系の連邦人のようですが、平均的な日系連邦人に比べると、優に190センチと背丈がずば抜けて高いし、肩幅なんかも肩パッド(shoulder pad)を入れたアメリカンフットボールの選手のようにがっしりと広い。見受けたところ、その体格(build)にしては、意外と内気な性質(a shy disposition)なのでしょう。普段から、顔の上半分が隠れるような、つばの大きい、けったいな尖がり帽(a peculiar pixie hat)を目深にかぶっています。それに、季節や場所柄もわきまえずに冬外套を着込んでいる。春が来たとか来ないとか、寒いとか暑いとか、ここは格式が高いとか場末だとか、今のこの男にとっては、どうでもいいことのようです。

  季節なく冬外套に尖(とん)がり帽  〔Tonkyu〕

 こうした一風変わった風体(eccentric appearances)は、見る人に滑稽(funny)を通り越して、なんだか不審な印象(a suspicious feeling)を与えてきたようです。火星のショッピングモールを奇妙な外見の大男が、しかも、若い娘や幼い女の子の写真を示して、「この人たちを見かけたことはないか」と、尋ね歩いているというので、通報を受けた警察官に、職務質問(police checkup)され、警察署へ連行されたこともありました。
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「一」の思想とライプニッツ貨幣(IRC-Prologue6)

2007年01月21日 14時23分26秒 | Ikaruga Road Company
 ライプニッツは、とかくにニュートンと比較されるが、科学者だったのか、発明家だったのか、哲学者だったのか、分類ができない万能な活躍ぶりだった分、哲学のない近代科学者ニュートンよりも古典的な種族であり、いまだに評価が一定しないところがある。

【「一」の思想とライプニッツ貨幣】 火の玉がビッグバン膨張して、約10万年後、「輻射優勢の時代」はやっと終わって、今われわれが生きる「物質優勢の時代」が始まりました。原子ができるのは、ビッグバンから約38万年後、宇宙の晴れ上がりからです。

 そう考えれば、光が、もともと物質に対して始原的な、母なるベーシックな位置に立っていたことは容易に想像できます。物質の総価値(E)を表わすに、物質の質量mと光速cの2乗をかけ合わすのも、物質から成り立っている商品世界の総価値(PT)を表わすのに貨幣量Mとその速度Vをかけ合わすのも、この宇宙創成の光から物質への関係性からきていると言えないでしょうか。貨幣の速度Vが2乗(V2)といかないのは、実は、貨幣が形而上学(metaphysics)的な存在になっていないということの証しと言えるでしょう。

〔mvとmv2、貨幣の非形而上学性――1646年、マツオ・バショウより2年遅れて、ニュートンよりも4年遅れてドイツに生まれた哲学者ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)は、「エネルギー」の概念形成に関して先駆的な業績を残した。彼は、「運動する物体の持つ力は固有のものでなければならぬ」との考えから、物体の質量(m)と物体の速度(v)が衝突の際などにつくりだす力、つまり、今日でいう運動エネルギーは、質量と速度の2乗に比例し、

  mv2

で表わされるとし、これを「活きた力(vis viva)」と呼んだ。

 ルネ・デカルト(Rene Descartes)は、自然の中に同一に保存される運動量は運動する物体の質量と速度の積「mv」と捉えたが、ライプニッツは、これでは本源的な力の定義として致命的な不足があると考えた。ライプニッツは、運動量が運動を起こさせる力と完全に一致することはないと考え、「二つの物体の力が、速度ではなく、その速度の原因あるいは結果〔作用〕に比例することに不思議はない。したがってそうした力が、この速度を生み出したり、あるいはこの速度によって生み出されたりすることのできる高さに、つまり速度の2乗に比例することに不思議はない」と思い至った。さらに、ライプニッツは「力と運動量の違いは、とりわけ、物体の世界の諸現象を説明するためには形而上学的な考察にまで遡らねばならないことを示すためにも重要である」という見識を持っていた。

 なお、実際の運動エネルギーは、ライプニッツが考えたものの2分の1、つまり、「1/2mv2」(微分すればmvになる)である。これを示したのは、ダランベール(Jean Le Rond d’Alembert)の『力学論』(1743年)であった。〕

 物理学を模倣した経済学が、同じ光を内容とする交換方程式をバックボーンに持っていたとして不思議はない。では、人文系は、どうなのでしょうか。穏やかな風土に住んだニッポン人ならば、風雅という言葉に馴染んだのでしょうが、砂漠もあれば酷寒もある世界的視野で見れば、どうも光雅あるいは光の形而上学という言葉に行きつきます。

 光の形而上学(metaphysics of light)が、その姿を現わしたのは、紀元3世紀のエジプト人、新プラトン主義者のプロティノス(Plotinos)が、「(存在・思考を超越する)一者(to hen、ト・ヘン)から発生する非物質的な光は、徐々に滅していき、ついには闇として物質に至る」と唱えたことに始まります。プロティノスの直感は、実に、先のビッグバン理論の宇宙創成観を言い当てていました。

 我々の見るものは非存在(存在の仮象)であるとするイデア論を唱えたプラトンは、感性界の上に英知界を想定しましたが、プロティノスは英知に伴う思惟すら思惟するものと思惟されるものとを区別するから究極の原理たり得ないと考えました。新プラトン主義は、――世界に真に実在するのは一者・魂(psyche)・叡智(nous)の三つの不可視な原理的力である。一者は、それ自体は単純なものでありながら、ありとあらゆる多様性を潜在させる。一者は、宇宙のあらゆるものに偏在し、一つの事物には他のあらゆるものが関係し、どんな些細なものの中にも宇宙全体を映す鏡がある。一者から叡智が、叡智から魂が流出して多様な世界を構成し、比べて、可視的な外的世界は魂が質料をまとっているだけの仮象に過ぎない――と断定しています。

 ところで、「一」の思想に結びついたのは、光の形而上学だけではなかったことを付言しておきましょう。道教や仏教、そしてイスラム教、さらにキリスト教圏にあってライプニッツのモナドロジーも、実は、同じ「一」の思想を共有していました。

〔「一」の思想とイスラム教の利子禁止――単一な実体「一」が「多」をはらむとする発想は、新プラトン主義の「一者」にも、「一」である唯一の神を持つイスラム教にも、バショウが影響を受けたチャイナの古い思想にも見られる。例えば、『老子』(第四十二章)には「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱き、冲気以って和することを為す」とある。

 個は全体を包含し、個は他のあらゆる物の中に含まれる。自己の中に宇宙があり、同時に、自己は宇宙の他のあらゆるものに含まれる。したがって、自我に執着する根拠はない。――これは、ニッポンでも、東大寺の大仏「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」で知られる大乗仏教の「華厳(けごん)宗」の教えにある。

中央アジアで成立した『華厳経』は、毘盧遮那仏は法=宇宙の真理そのものであり、「一片の花びらが全宇宙であり、全宇宙は一片の花びらなのだ」と、「全即一」「一即全」を教えた。チャイナで、華厳宗は、「天地は一指、万物は一馬なり」(『荘子』斉物篇)といった老荘思想と結びつき、ニッポンに伝わった。審祥というシラギ(新羅)の僧が、8世紀の30年代に、東大寺の金鐘寺(こんしょうじ、後の法華堂)で、初めて、華厳経を講義した。審祥は、チャイナで華厳宗を大成した法蔵の弟子であった。なお、華厳経では、光(光明)が一切世界を照らし、大いなる妙音を発するのも光明だとする。仏教は、光の形而上学も共有していたのだ。

 イスラムの経済観には、この世は神が作った世界であるから、世界のすべて(人もモノも金銭も)の所有権は神にある、というムスリムの思想がある。「緑の資本論」という文章の中で、ナカザワ・シンイチ(中沢新一)氏は、「三位一体論」を展開するキリスト教と違って、イスラム教のようなタイプの一神教では、「一」と「多」が直接的に結び合っており、あらゆる存在者は、そのすべてが「一」を直接表出するものとして、平等であり、しかも、それぞれの存在者が表出の度合いを異にするために同じものはなく、この世界は多様性に満ちている、と解釈している。ゆえに、イスラム教では、「一」との直接性の表出関係(「正直さ」)を失って自己増殖を可とするような貨幣の利子(リバー)を禁じる。リバー(rib?)とは、アラビア語で「増殖する」という意味のラバー(rab?)から派生した語。

 そして、ナカザワ氏は、「こういう増殖がおこっているとき、一見すると世界は多様性を豊かにしているように見えるが、実際には豊かな多様性をはらんだものが均質化する表象のうちにとらえられ、その表象作用が増えているだけなので、多様性そのものは貧しくなっているのである。お金が増えても心は貧しくなる。これは、表象が量を増やしても、多様性は貧しくなり、それは『一』である唯一の神との直接的なつながりが貧しくなっているという事実を言い表している」と、巧みに説明している。

 なお、イスラム法(シャリア)による利子の禁止は、近代以前は、ヒヤル(奸計)と呼ばれる抜け穴によって、巧みに回避され、実質的には有利子金融が行われていたという。そのため、「イスラム社会には無利子金融しか存在しない」と簡単に言ってしまうことはできないとの指摘がある。シャリアの規定に則って、無利子の金融を行う「無利子銀行」が初めて試みられたのは、1950年代のパキスタンにおいてであった。2007年ごろになると、イスラム金融への注目が強まった。オイルマネーによる中東の大規模プロジェクトに、イスラム金融から調達する動きが急速に広がっていたからだ。当時、バーレーンの首都マナマの海岸で、超高層ビル群の建設が進んでいた。湾岸6カ国による3年後の通貨統合も睨んでの国際金融センターの建設だ。総工費13億ドル(約1500億円)は全額、イスラム金融から調達された。アメリカの格付け機関ムーディーズによれば、イスラム金融の資産残高は年率15%前後で増え、4500億ドルに達していた。〕

 この「一」の思想は、ヨーロッパでは、「モナド」という概念に統合され、ライプニッツの思想に受け継がれました。本稿では、「一」を体現した貨幣として、「ライプニッツ貨幣(Leibniz-money)」という聞きなれない言葉が登場します。ライプニッツは、彼の「モナドロジー(Monadologie)」論の中で、エンテレケイアという単一実体(「宇宙を映し出している永遠の生きた鏡」)を紹介しています。

 エンテレケイアとは、「物質のどの部分も、草木の生い茂った庭園か、魚のいっぱい泳いでいる池のようなものではあるまいか。しかも、その植物の一本の枝、その動物の一個の肢体、そこに流れている液体の一滴のしたたりが、これまた同じような庭であり、池なのである」と表現される。このイメージこそが、「ライプニッツ貨幣」の本質(essence)だと思われます。「一」を欠いた、経済学でいう便宜的な貨幣が、こうした詩的実体のイメージをまったく欠いて、荒唐無稽で、多様性をはらめない無味乾燥なものであることは言うまでもありません。

 もちろん、貨幣というものへのこの貧困な前提(poor premise)、いわば、形而下(physical)のアプローチがつづく限り、われわれは貨幣の量を人生のテーマとし得ても、貨幣の実在的な質を問うてみる形而上(metaphysics)のテーマへ踏み出せないことになります。金持ちは幸福で、貧乏人は不幸だという拭いがたい現世的事実を、本音では大して否定できないことになります。

 以下に展開される物語は、こうした貨幣の理想と実態の間に、挿入したい新しい希求のファンタジー(fantasy)であります。
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フィッシャーの貨幣数量説とアインシュタインのE=mc2(IRC-Prologue5)

2007年01月21日 14時04分18秒 | Ikaruga Road Company
 アーヴィング・フィッシャーの経済論は、つい最近もケインズと対比して取り上げられていた。好景気が確実になってくると、いつの間にか、そうした議論も霧散してしまったが…。無差別曲線への貢献も彼の業績の一つらしいが、だとすれば、小生が一番苦手とするツールの開発者だ。ちょうど、以下の「風景に乏しい風景」の心象のように、無差別曲線の世界では無痛感と立ち尽くすしか能がない自分を発見する。

【フィッシャーの貨幣数量説とアインシュタインのE=mc2】 20世紀初頭になって、経済学(economics)は物理学(physics)にようやく近づいてきました。ペティの貨幣の内在的価値と貨幣量の公式(必要貨幣量=全支出額/交換度数)は、物理エネルギーの世界として統合されたのです。しかし、このことを理解している、意識している経済学者や経済系の骨董鑑識家は意外と少ないようです。

 E=mc2の関係を見出したアインシュタイン(Albert Einstein)が特殊相対性理論から一般相対性理論へと進んでいたまさに同じ時期に、数学と物理学が主要な関心事であったイエール大学教授アーヴィング・フィッシャー(Irving Fisher)によって考案されたのが(これは、まさにペティの公式で隠れていた物価水準を取り上げただけに他ならないが…)、以下の貨幣数量説の決定版です。

  MV=PT

  ;Mは流通貨幣量、Vはその流通速度、Pは一般物価水準、Tは取引量

〔フィッシャーの貨幣数量説――フィッシャーは「貨幣の購買力(Purchasing Power of Money)」(1911年)の中で、「貨幣数量説は究極的には、あらゆる人間の財の中でお金だけが持っている根本的な特異性に依存している。――つまり、それがそれ自体では人間の欲望を満たすことはなく、欲望を満たすようなモノを買う力しかない、ということだ」。

 アメリカ人のフィッシャーは、ローロデックスというカード索引の発明で莫大な富を得たが、1929年の株価大暴落で、すっからかんになった。暴落のほんの数日前、フィッシャーは「株価は、恒久的に高い高原のようなものに到達した」と語っていたのだ。不況に苦しむ人々は、フィッシャーを見限り、イギリスのジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard keynes)に注目した。ケインズの有効需要理論によれば、貨幣量の増減は、実質金利の低下と上昇につながる。その結果、設備投資意欲に影響が出、有効需要が増加(減少)する。〕

 フィッシャーの交換等式(equation of exchange)MV=PTで、MVをmc2の側に、貨幣価値PTをEの側に置いて考えると、そして、光ファイバーの中を伝送される光子貨幣といったc2=V2の同時感を加算すれば、PT=E=MV2となり、物理と経済の交換方程式は瓜二つ(twin)、そっくりそのままになります。

〔フリードマンの『貨幣の悪戯』――ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)の『貨幣の悪戯』によれば、MV=PTの基本的なアイデアは、すでに19世紀後半に生きたアメリカの天文学者サイモン・ニューカム(Simon Newcomb)が「慎重かつ正確に述べている」という。フリードマンは、「要するに、フィッシャー方程式は金融理論の基礎であり、物理学におけるアインシュタイン方程式、E=mc2と同じ役割を果している」と説明している。

 なお、サイモン・ニューカムは、ライト兄弟が空を飛ぶ1年半前(1902年)に、「空気より重い機械が飛ぶことは不可能だ("Flight by machines heavier than air is unpractical and insignificant, if not utterly impossible. ")」と述べたことでも知られる。〕

 E=mc2のc(=秒速30万㌔)の光は、商品はともかく、もともと物質の基本尺度たる生い立ちをもっていました。ビッグバン宇宙論によると、われわれの宇宙が誕生した137億年前、その誕生からわずか10万分の1秒後、宇宙は、約5兆度という超高温の火の玉(ファイア・ボール)でした。

 火の玉に点火した直後、ほんの1秒のマイナス20乗以下といった初期宇宙は、「どろどろの重い光のスープ」状態だったと形容されます。光は、電磁場が毎秒100兆回振動する、波長は100万分の1㍍前後の電磁波(electromagnetic wave)であすが、悠久の過去にさかのぼるとその波長がどんどん短くなり、反比例的にエネルギー量が途轍(とてつ)もなく大きかったのです。というのも、アインシュタインの相対性理論(the theory of relativity)によって、エネルギーと質量は同等(E=mc2)ですから、光は途轍もなく重かったことになります。今でこそ、光は澄み切って軽やかですが、宇宙の初期、光は物質を圧倒してはるかに重かった。この時期を「輻射(ふくしゃ)優勢の時代」といいます。ある無名の詩人が遺した詩に、ふと、次のようなものがあったのを思い起こします。

   風景に乏しい風景


 光のふるさとから風がわたってくると

 私はゆるやかに目を上げ

 光のカンバスの片隅にちっぽけな顔を

 しきりと私を見ているちっぽけな顔を探してみる。

 小さき人よ、

 光の子よ、

 私はちっとも馴染めない風景の中にいる。

 針の先で構図を失った危うさに

 空と地上の不整合に無痛感と

 両足を踏ん張って路上に立ちつくした

 あの幼き日からずっと

 光のカンバスに

 私という淡い黒を塗っているだけ。
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スミスの天文学的経済学とブソン「歳末ノ弁」(IRC-Prologue4)

2007年01月21日 12時08分27秒 | Ikaruga Road Company
 「経済学の父」と呼ばれてきたアダム・スミスは、かなり内向的でどもりだったという。オックスフォード大学は中退だ。晩年は、税関職員の制服に身を包み、街を徘徊するようになったともいう。

【スミスの天文学的経済学とブソン「歳末ノ弁」】 このペティに遅れること一世紀、18世紀後期、燃料源が木炭から石炭、その石炭の燃焼エネルギーを動力に換える蒸気機関、ジェームス・ワット(James Watt)によるピストン運動を円運動に換える蒸気機関の改良(1785年)、こうした技術開発によって大量に物品が出まわることを可能にしたイギリスの産業革命期に生きたアダム・スミス(Adam Smith)は、もはや、ペティのように「使わない貨幣は皿や什器(じゅき)に戻せ」などと有限な資源への配慮、倹約なことは言いませんでした。

 スミスは、ある意味、生涯を賭けて、感動のために、有限な地球(globe)の限界的な経済学というよりは、無限の宇宙(universe)の天文学的(astronomical)な経済学を標榜した人だったとも言えます。そうでなければ、欲望と金の原理の経済学に、彼が言う驚き(Surprise)も驚異(Wonder)も感嘆(Admiration)もなかったからです。

〔アダム・スミスの天文学――スミスは生前に、『道徳感情論』と『国富論』のみを刊行し、その他の多くの草稿を死ぬ前に焼却した(1790年)。焼却を免れたのは、「天文学史」「古代物理学史」「古代論理学と形而上学の歴史」「模倣芸術においておこなわれる模倣の本性について」「音楽・舞踏および詩のあいだの親近性について」「ある種のイギリスの詩形とイタリアの詩形との親近性について」「外部感覚について」の7編の論文であった。これらは友人の手によって『哲学論文集』(1795年)にまとめられ、公にされた。

 特に、「天文学史」については、1776年に刊行された『国富論(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)』の3年前、1773年に、遺言執行人を頼んだ友人デイヴィッド・ヒュームに宛てて「私がいま自分でもって行くもの(『国富論』)以外は公刊にあたいするものはありません。ただデカルトの時代までにつぎつぎと支配的になった天文学の諸体系の歴史についての大著の断片は別です。これが青年時代に企てられた著作の断片として公刊されるかどうかについては、いっさいあなたの判断にお任せします。」とあるように、スミスにとって未練がある、重要な論文と意識されるものであったことが分かる。その論文で、スミスは、①Surprise、②Wonder、③Admirationといった3つの自然的感情によって学問研究が動機づけられることを、概略、次のように語っている。

 ①人間は十分に予期した対象に出合ったときには、心は平静さを保つことができる。しかし、予期せざる対象に出合えば心の平静は乱されるであろう。これがSurprise(驚愕)である。

 ②また、人間は観察によって異なる対象間に類似性、共通性を見出したがる。しかし、想像力が従来馴れてきた秩序とまったく違った対象に直面し、共通性が見出せないと不思議に思うであろう。これがWonder(驚異)である。想像力は異なる対象間に間隙や空白を感じ、両者を容易に連結できない。そうして、両者をつなぐ中間的諸事情の鎖(chain of intermediate events)を発見しようと模索する。この努力が成功すれば、心は平静を取り戻す。学問は進展する。

 ③そして、(ニュートン体系のような)単純で首尾一貫して美しいものを見ることによって引き起こされる感情がAdmiration(感嘆)である。〕

 スミスにとって、無限に引き伸ばされた絶対空間と絶対時間のなかでの物理法則を扱うニュートン力学があくまでの範でしたから、彼が興した経済学も暗黙裡に「無限性」を前提とするようになります。つまり、経済学は、誰かがそう形容していたことがありますが、いくら消耗蕩尽しても「劣化しない無限の自然」を前提とし、「無限に豊穣な商品世界」を与件とする傾向をあらわにするのであります。そこでは、商品の価値(価格)を体現する貨幣も、商品世界に対応して無限性を帯びなければならない。逆に言うと、貨幣の世界は、無限的に引き伸ばされて、商品世界の背後に隠れ、皿や什器の具象に戻ることもなく、透明に見えなくなってしまったのでありました。しかし、空間と時間には、絶対的ではなくて相対的な立場をとるライプニッツのような見方もあり、そうした見地からの経済観、貨幣観は必ず別種のものでありましょう。

〔ライプニッツの「空間」と「時間」――空間と時間というものを二つに分離絶対化したニュートン学派の考え方を批判したのが、ライプニッツである。

 ライプニッツは、空間とは別々に存在する物体の配置であり、時間とは現象とか物体の生起の順序であるとした。例えば、宇宙の物体の大きさをすべて一応に2等倍にした場合、ニュートンは物体もそれら物体が占める宇宙も2倍になったと考え、ライプニッツは、物体間の比例関係が変わらないから、現実には何も変わっていないと考える。

 この時間の方をナツメ・ソウセキ(夏目漱石)流に言い直すと、「ライプニッツの定義によると空間は出来得べき同在現象の秩序である。いろはにほへとはいつでも同じ順にあらわれてくる。柳の下には必ず鰌(どじょう)が居る。蝙蝠(こうもり)に夕月はつきものである。垣根にボールは不似合いかもしれぬ」(『吾輩は猫である』)となる。

 貨幣の問題を考える場合、それが使われるのは、どういった設定の空間と時間であるのか、もう一度考えてみる必要がある。〕

 市場に出まわるお金が増えても、物価にその分が反映するだけで、経済の実質に大きな故障が起こらない。これを貨幣数量説に裏打ちされた貨幣中立説と称します。スミスの友人デイビッド・ヒューム(David Hume)は「お金は、厳密に言えば、商業の対象ではなく、ある財と別の財の交換を促進するために、人々が合意した道具でしかない。それは交易の車輪ではない。車輪の動きをもっと滑らかで楽にするオイルだ。ある王国だけを取り出して考えれば、その中でお金が多かろうと少なかろうと、何の影響もないのは明らかだ」("Of Money", 1752, Essays: Moral, political and literary, 1754, p.281 に再録)と述べています。

  月天心貧しき町を通りけり  〔Buson〕

 スミスやヒュームと同時代に生きたニッポン国の詩人ブソンの、バショウ翁を慕って亡くなる直前に発した肉声(「歳末ノ弁」、1783年師走)は、その金まみれの世間に対する嫌悪感(disgust)をつくづくと伝えています。

 ――名利の街にはしり貪欲の海におぼれて、かぎりある身をくるしむ。わきて(とりわけ)くれゆくとしの夜のありさまなどは、いふべきもあらずいとうたてきに(嫌なもので)、人の門たゝきありきて、ことごとしくのゝしり、あしをそらにしてのゝしりもてゆくなど、あさましきわざなれ。さとて(と言って)おろかなる身は、いかにして塵区をのがれん。「としくれぬ笠着てわらぢはきながら」。片隅によりて此の句を沈吟し侍れば、心もすみわたりて、かゝる身にしあらばといと尊く、我がための摩訶止観ともいふべし。蕉翁去りて蕉翁なし。とし又去るや又来たるや。

  芭蕉去てそのゝちいまだ年くれず

 こうして詩人をぼやかせたお金の圧倒的な地上的支配力は、徐々に物々交換の分かりやすさを超えて、経済学者の頭脳をも侵していったようです。貨幣という平等主義の身分制度からは、紙切も金塊も対等だという考え方が生れました。デイヴィッド・リカード(David Ricardo)は、主著『政治経済学および課税の原理(Principles of Political Economy and Taxation)』(1817年)において、「確かに(紙幣は)内在的な価値は持っていないけれど、その量を制限することで、交換における紙幣の価値は、同じ額面の硬貨、つまりは、その硬貨の中にある金塊の量と同じとなる」。ちなみに、労働価値説が持論のリカードは、金塊も他の商品と同じくそれを生産して市場に運ぶ労働量に比例した価値になると考えていました。
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ペティの貨幣数量説とポラニーの原始貨幣(IRC-Prologue3)

2007年01月21日 11時50分30秒 | Ikaruga Road Company
 「政治算術」という怪しげな言葉と結び付けられてきたウィリアム・ペティは、芭蕉とほぼ同時代のイギリス人。だから、ニュートンやライプニッツとも同時代人ということになる。近代科学勃興期に生きた先駆者たちだ。作品の第1巻で芭蕉をその一人に加えて論じているのが、大胆なところ。⇒「天才トリオの青春と粒子哲学」

【ペティの貨幣数量説とポラニーの原始貨幣】 ちょうど同じ頃、ピューリタン革命が起きて久しいイギリス国では、ウイリアム・ペティ(William Petty)という医師が、「熊手をもって自然を駆逐せよ、されどそれは常にかえりきたるべし」という勇ましくも潔(いさぎよ)いモットーから、オックスフォード大学(Oxford University)を辞め、クロムウェル(Richard Cromwell)の要請によって、アイルランドの荒野に「測量総監」として赴いたのでした。おそらく、バショウ翁と同じくペティ卿も、散々に馬の背に揺られたことでありましょうな。あるとき、ペティは、決闘を申し込まれ、彼は半盲同然のひどい近眼だったにもかかわらず、これを受けて、選んだ手斧かまさかりを手に勇猛果敢に戦ったということです。

 そのペティが、あの稀代の皮肉(sarcastic)な革命的修辞家カール・マルクスをして「申し分なく彫琢された渾然たる労作」と言わしめた「貨幣についての全教義を収めた三枚の紙」(「貨幣小論」、1682年)を書いたのでした。

 その三枚の紙に、ペティは、アリストテレス貨幣論を公式化すべく、あらためて貨幣は「諸商品の等価物」であると書きました。これによって、お祭りのためにうまそうな豚(hog)一頭を手に入れたいお百姓と、豚の丸焼きにそえるジャガイモ(potato)10個を手に入れたい養豚家は、何も二人が偶然出会うまで方々を歩きまわる必要はなくなりました。また、偶然出会っても、豚一頭=ジャガイモ10個の等価交換条件がまとまらないで物々交換(barter)の取引が徒労に終わるムダも省けました。お百姓は豚一頭相当のお金を持って肉屋へ行き、養豚家はジャガイモ10個相当のお金を持って八百屋(greengrocery)へ行けば、それぞれにことは足ります。

 しかも、貨幣たるものは、物々交換では期待できない、斉一性(一様であること)・分割可能性・耐久性・運搬可能性などの特性(property)を備えていることが条件ですから、人間にとって便利至極です。豚は、ブギャーブギャーとあばれて運ぶのは大変ですし、第一、分割したら死んでしまう。ジャガイモは、腐ったり不揃いだったりすることを大目に見れば、大体、貨幣たる条件はクリアしていますが、ポケットに入れて持ち歩くのはやはり不便です。そんなことで、すべての条件を満たす物、金属や紙が貨幣の素材として使われるようになっていきました。

 その代わり、経済の世界は、黒豚やジャガイモといった命あるものの有機的な温もりを失って、一見、冷たい物の世界の流儀に統一されたのも仕方ないことでしょう。ペティの見た貨幣の本質は、いわば、人類経済界の「始原物質」、原子(アトム)でした。

〔ペティの原子論とポラニーによる市場貨幣論への批判――ウイリアム・ペティは、1674年に、『二重比についての考察』なる本を執筆し、今から見てもユニークな原子論を展開している。これは多分、その前、アイルランドの名門出身で、ペティ自身がダブリンで動物解剖の指導もしたことがある新進気鋭の学徒ロバート・ボイルの著作『粒子哲学にのっとった形相と質の起源』(1666年)で展開された内容に多分に刺激されたのであろう。ペティは、宇宙における「始源物質(prima materia)」として、形状や大きさの変化しない「原子(atom)」を考え、その原子の運動を通して、結合が起こり、「粒子(corpuscle)」ないし、その「凝衆状態(concretion)」の形成があって、その形状や運動によって物質の性質が説明できるとした。

 ペティの原子論が特徴的なのは、その原子が無性質ではなく、それ自体が磁石の性質を持っていたことだ。「すべての原子は地球(the earths globe)」ないし磁石(magnet)のようなものであり、その内部には三つの点、すなわち極(pole)と呼ばれる表面の二点と内部にある中心と呼ばれる点が認められる」と書いている。

 「貨幣についての全教義」をまとめた男が、このような原子論的宇宙観の持ち主であったということは、大いに示唆的ではないか。貨幣は、その論理化の当初において物的な磁性原子を連想させていたのである。「政治算術論」でも知られるペティは、「あらゆる物事の価値は、土地と労働を『等価(par)』となして、『等価交換』を可能ならしめ、二つの中どちらか一方だけをもちいて表そうとすることである」(『アイルランドの政治的解剖』)と書き、「数値や重さ、寸法」として測量(測定)できるようなもののみを価値の対象に据えた。例えば、ペティは、一人の人間の価値は、その人の年収の20年分に相当すると換算している。

 ところで、(本文中)上述の、市場の等価的な交換ニーズから貨幣が生じたとするアリストテレスの時代からペティの時代を超えて今日まで継承される「常識」に関して、かつて、カール・ポラニー(Karl Polanyi)は極めて批判的であった。「市場メカニズムと交易との結合は、非常に特殊な発達形態であって、それは思惟によって推論されるべきものではなく、むしろ反対に、事実の探究によってのみ確定される歴史的・制度的諸条件から引出されねばならない」(『The Livelihood of Man(翻訳・人間の経済)』)。

 おそらく、アリストテレスを生んだ都市国家アテネ(当時のギリシャ)の貨幣的状況は、「非常に特殊な発達状態」を歴史の極めて早い時期に達成していた事例として、受け取るべきなのであろう。

 ポラニーは、「いかなる対象もそれ自体で貨幣ということはなく、適当な分野の何らかの対象が貨幣として機能することができるのである。実際、貨幣は言葉、文字、度量衡と同様な一つのシンボル体系である。これらがそれぞれ異なるのは、主にそれが利用される目的、実際に使用される記号、それが単一の統一された目的を表示している程度、によるのである」(『Primitive, Archaic and Modern Economies(翻訳・経済の文明史)』〕という。ポラニーは、この目的的な貨幣を「特定目的貨幣」あるいは「原始貨幣」と呼び、交換目的を筆頭とする「常識」的な市場貨幣を「多目的貨幣」と呼んで区別した。

 原始貨幣は、月並みでは牛や豚の家畜、フィジーのクジラ、ソロモン諸島マライタ島のネズミイルカの歯、ボルネオ島の人間の頭蓋骨、蝸牛(かたつむり)やアワビの殻、チャイナの子安貝(money-shell)や白鹿の毛皮といった財物、砂金や金塊、銀塊の貴金属、鉛や青銅、鉄などの卑金属、ガラス玉や指輪の装身具、絹布やキャラコの布、タバコや茶、ラム酒といった飲食料品、太鼓といった楽器、そして人間の奴隷や売春目的の若い女性も、かつては貨幣であった。

 ヘロドトスの著作『歴史』によれば、紀元前7~6世紀の頃、トルコ西部で栄えた古代王国リディアでは、「下層の娘たちは結婚持参金を集めるために例外なく身を売る。この習わしは、結婚するまでつづく」とある。このリディアやチャイナは、コイン(金属製貨幣)が誕生した土地とされる。リディアのは紀元前670年頃につくられたのが「エレクトロン貨」(エレクトロンは琥珀で、琥珀は摩擦すると静電気を生じることから電気の語源ともなっている)、チャイナのは紀元前770年頃につくられたのが鋤(すき)の形をした「布幣(ふへい)」。エレクトロン貨は金と銀の琥珀色の合金に動物や人物を打刻した鍛造(たんぞう)貨幣。布幣は鋳造貨幣で、秦の始皇帝は紀元前221年にこれを形が丸く真ん中に穴をあけた円形方孔(えんけいほうこう)貨に統一し、「半両銭(はんりょうせん)」とした。

 19世紀になっても生き残った原始貨幣がある。太平洋上のカロリン諸島にあるヤップ島では、ヤップ島から640㌔も南方に離れた島で切り出された、大きいのでは直径3.5㍍もある丸い石が海路運ばれ、「フェイ」というお金として使われていた。陸路は、石の真ん中に穴を穿(うが)って、棒を通して何人がかりかで運んだのだ。取引が成立して、フェイの持ち主が変わっても、運ぶのは手数もかかり面倒だから元の場所に置いたまま、口頭で、この石はお前のものになったと約束をかわす習わしであった。

 こうした原始貨幣は、違った用途に使い分けられていたこともあるようである。ポラニーによれば、「古代貨幣は極端な場合には、支払い手段としては一つの種類の貨幣を、価値尺度としてはもう一つの貨幣を、価値の蓄蔵のためには第三の貨幣を、交換手段としては第四の貨幣を使用する」(上掲書)ということだ。例えば、東アフリカでは、家畜の牛は、価値蓄蔵の貨幣であり、ときに婚礼の支払い手段にも使われたが、それ以外の用途には使われなかったという。〕

 ペティは、貨幣は、黒豚でもジャガイモでなくても、たとえ金属や紙切、つまり紙幣(paper money)であっても、それ自体に「内在的価値」があり、諸商品との均衡(equilibrium)関係によっては暴落も高騰も起こると金融現象を指摘した。

〔世界最初の紙幣は、チャイナの「宋代」に銅銭不足やかさばる鉄銭の不便から四川(しせん)商人たちによって発行された鉄銭の引換券「交子(こうし)」であった。つづく「元代」に紙幣はもっと流布していて、13世紀、イタリアのベネチアからやって来た商人マルコ・ポーロ(Marco Polo)は、獄中で口述筆記した『東方見聞録(とうほうけんぶんろく)』に、「これら紙切にはカーンの印璽(いんじ)がいちいち押されている。とにかくこうして作製された通貨はどれも純金や純銀の貨幣と全く同等の権威を賦与されて発行されるのですぞ」と驚きを記している。ちなみに、ニッポンでは、1600年頃、イセヤマダ(伊勢山田、三重県伊勢市)地方の神職も兼ねた商人たちが、小額銀貨の預り証として出した「山田羽書(やまだはがき)」が最初とされる。ヨーロッパでは、1640年頃の金匠(きんしょう、金細工師)が発行した金貨預り証「金匠手形(Goldsmith Note)」が始めだったとか。〕

 ペティは、経済において必要な全体の貨幣量の算定を貨幣の変換度数(流通速度)によって公式化しました。貨幣数量説(quantity theory of money)の先駆でありました。

  必要貨幣量=全支出額/交換度数
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花見の価格(IRC-Prologue2)

2007年01月21日 11時24分20秒 | Ikaruga Road Company
 詩人画家であった与謝蕪村の肖像を探すと、すぐには写真のような貧弱なものしか入手できなかった。

【花見の価格】 ギリシャ、スペインから遠く離れた黄金の国ニッポンでも、おエド(江戸、Edo era)の時代も後期になると、菜畠の雀とはいかず、お金がないと桜の風流も存分に楽しめないという不自由な経済的因果がすっかり定着していました。そして、遍歴の騎士ならぬ風雅の俳人たちは、その肝心の風雅参拝のお金もなく、ニッポン各地の名所を巡礼者のごとく遊歴してまわったものです。

  銭(ぜに)買(かう)て入(い)るやよしのゝ山ざくら  〔Buson〕

 先日も、小生、バショウの後裔(こうえい)として名高いヨサ・ブソン(与謝蕪村)が、賽銭(さいせん)や茶代のために一文銭に両替(change)して入山したとかいう本場ヨシノ(吉野)の山桜を偲(しの)びたさに、東アジア州政府と民間企業の共催(held unter the auspices of)した「エド・トウキョウ大ニッポン回顧展(retrospective exhibition)」へ出かけたのであります。かつてはスミダ(隅田)川と呼ばれたこともある大川端(おおかわばた)の会場入口で、仕方なくも販売機で「銭買て」、つまり入場券(admission ticket)を購入し、見物いたしました。そこには野外(open air)に設営された「ウエノ・カンエイ(上野寛永)寺の五重塔」という特設展示コーナーがございました。その火事で焼失したものを1639年(寛永16年)に再建したという美しい五重塔(five-storied pagoda)のわき、武門の威厳を感じさせて立ち並ぶ銅灯籠(bronze garden lantern)のかたわらに、なるほど、世にも美しい山桜が咲いておりました。最近、よくこの手の展示会であるヴァーチャル・イミテーション(virtual imitation)ではございません。それは、正真正銘、本物(authentic)の桜花(cherry blossom)でした。ああ、なんと美しかったことか。

 小生、頬っぺたがくっ付かんばかりに近々と桜の樹に寄り添い、青空(blue sky)にのぼる階梯(かいてい、stair)のような梢(treetop)を仰ぎ見、鼻孔(nostril)に届くその馥郁(fragrant)たる匂いを嗅いだことで、桜にも香り(smell)があるのだと初めて知りました。コマゴメ(駒込)の植木職人(gardener)が商品開発した葉より花が先に開くソメイヨシノ(染井吉野)の眼に綺麗な華やかさから比べれば、葉の後にひっそり咲く質朴(simple and honest)な味わいで山里に隠された桜花ですが、さすがに風雅の名に値するは「吉野の山桜かな」と思った次第です。

 またそのとき、タイミングをはかったように、鐘の音が、ボ~ンと、かなり近くでしたので、一層吃驚(びっくり)したことです。まさに、――。

  花の雲鐘(かね)は上野か浅草か  〔Basho〕

 おそらく、この桜の樹の下で、遠く古里(ふるさと)を想った詩人バショウ(芭蕉)も、そして、そのバショウに私淑(ししゅく)したブソンも、エドの町に、太鼓の代わりに撞(つ)かれることになったこの時の鐘を幾たびも耳にしたことでありましょう。

〔ともに時の鐘とそばに住んだ芭蕉と蕪村――マツオ・バショウは、上の句を貞享四年(1687年)、44歳の春に詠んでいる。この上野の地には、バショウの故郷「伊賀上野」の藤堂藩のタカトラ(高虎)の屋敷もあったというから、江戸へやってきたバショウにとって、「上野」は故郷の匂いがする格別な場所だった可能性がある。
 なんでも、時の鐘は、初め、太鼓に代わって江戸城内で撞かれるようになったが、寛永三年(1626年)になって、日本橋石町三丁目に移され、エド庶民に時を告げるようになったという。バショウがエドで暮らした元禄の頃には(バショウもフカガワに移る前はニホンバシの住人だった)、時の鐘は、上野山内、浅草寺のほか、本所横川、芝切通し、市ヶ谷八幡、目白不動、目黒円通寺、四谷天竜寺などにも置かれていた。上野の時の鐘は、平成八年(1996年)に、ニッポン政府環境庁の残したい「日本の音風景100選」に選ばれたとも伝わる。

 ヨサ・ブソンは、20歳の頃(享保二十年・1735年)、故郷のケマ村(摂津国東成郡毛馬村=大阪市都島区毛馬町)を去り、エドに出て、「宰町・宰鳥(さいちょう)」と号した。市中に何年も孤独を囲っていたブソンを拾い上げ助けてくれたのが、「枯乳(こにゅう)の慈恵深かりける」早野巴人(はやの・はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい・そうあ)〕)老人。ブソンは、ハジン老人に師事し、俳諧を学んだ。ハジンは、日本橋石町の聳(そび)え立つ鐘楼下の寓居「夜半亭」に住まいしており、ブソンも住み込んだ。夜半亭とは、チャイナの詩人「張継」の詩「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」の一節「姑蘇城外ノ寒山寺、夜半の鐘声客船ニ到ル」の鐘声を、時の鐘になぞらえたものとか。

 寛保二年(1742年)6月、ブソン、27歳の時、その師ハジンが没した。

  我涙古くはあれど泉かな  〔Buson〕

 傷心のブソンは、放浪の旅に出る。同門のよしみで、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか・がんとう)のもとに寄寓。その後、芭蕉に憧れて、その足跡を辿り、東北地方を周遊した。その際の手記を寛保四年(1744年)に、ガントウの娘婿である下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう・ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて蕪村を号した。〕

 ところで、バショウによって上掲の時の鐘の句が詠まれる5年前、1682年(天和二年)の師走とつづく1年余りは、バショウにとって苦難の歳月でありました。コマゴメ(駒込)の「大円寺」を火元とする大火事(通称「八百屋お七の火事」)のため、バショウはフカガワ(深川)の草庵を焼き出され、カイ(甲斐)国ツル(都留)郡に住む門下生のコウシュウ・ヤムラ(甲州谷村)藩国家老タカヤマ・デンウエモンシゲフミ(高山伝右衛門繁文)、俳号・麋塒(びじ)というサムライを頼って、ヤムラに長期滞在するというハプニングがありました。

〔深川の芭蕉庵――1680年(延宝八年)冬、バショウは、市中(日本橋界隈)での9年間の宗匠生活に見切りをつけ、「深川の芭蕉庵」へ隠居した。この草庵を斡旋したのが、幕府御用達(ごようたし)の魚問屋で弟子のスギヤマ・サンプウ(杉山杉風)ではなかったかとする説がある。サンプウの家業である鯉問屋は、日本橋の魚河岸では特別の存在で、大変に羽振りが良かった。鯉屋では、鯉を囲っておくための生簀(いけす)を深川に二ヶ所持っており、そこにあった番小屋を改造したのが、「芭蕉庵」(当初は,杜甫の詩にちなんで「泊船堂」と号した)であり、その名も生簀に植わっていた芭蕉からつけられたとも言われるが、バショウの句に「李下、芭蕉を送る」との詞書(ことばがき)に「ばせを植てまづにくむ萩の二ば哉」があるから、上説の真偽は、どうだか分からない。〕

 翌1683年の夏、ようやくカイの国からエドへ戻る途中、野中に馬を進めるバショウ翁は、画中の旅人然と、大自然にすっぽりつつまれて、こんな暢気(のんき、happy-go-lucky)も詠んでおります。

  馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉  〔Basho〕
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アリストテレス貨幣論(IRC-Prologue1)

2007年01月20日 11時12分07秒 | Ikaruga Road Company
 写真のアリストテレス(Francesco Hayez画)は、教科書で馴(な)れ親しんできた彫刻のいかにも哲人らしい精悍(せいかん)で立派な顔とは大分違う。多分、疲れたオジサン然とした、こちらの方が本物だろう。ある方のHPに、こんなアリストテレスの実像に迫る紹介記事があった。――紀元後3世紀半ばにディオゲネス・ラエルティオスという人が書いた『哲学者列伝』という古代の哲学者に関する資料や逸話を集めた本によると、アリストテレスは、「発音するときに舌がもつれることがあり」、「彼の足はか細く、眼は小さくて、派手な衣服をまとい、指輪をはめ、髪を短く刈り込んでいたそうである」。アリストテレスは、流行にはやる派手好みの青年だったのだろうか。紀元後2世紀にローマ人のアリアノスという人によって書かれた『ギリシア奇談集』という怪しげな噂話を集めた本によると、プラトンは、そうしたアリストテレスの服装や髪型が気に入らず、彼を疎んじた。アリストテレスの方も、学園を離れてしばらくした後、80歳にもなった高齢のプラトンの許に、仲間を連れて押しかけ、詰問し、プラトンに「答えろ!」と言って脅し苦しめたとされる。これらの話の真偽の程は定かではないが、アリストテレスがプラトンの弟子の中でもかなり目立った存在であったことがうかがわれる。

 小生の作品第4巻『Ikaruga Road Company(斑鳩の旅芸人一座)』の序章は、こんな記述で始まっている。
 ――【アリストテレス貨幣論】 お金に関する現代人の「常識(common sense)」は、思ったほど新しくはなく、実は、大昔からあるものです。アレクサンドロス大王の家庭教師だったギリシャの哲人アリストテレス(Aristoteles)が書いた『ニコマコス倫理学』の中には、「アリストテレス貨幣論」とも呼ぶべきところの、今からみてもそれは素晴らしく説得的な要約(great persuasive abstract)が記されています。

 ――マネーは、いわば、仲介者の役割をはたす。それはあらゆるものの尺度であり、過不足の目安となる。たとえば、靴なら何足が、食料ならいかほどの量が家一軒に相等するか、というふうに。家大工と靴造り職人との間の関係は、何足の靴が、あるいはなにがしの重量の食料が一軒の家に相等するかに等しい関係で結ばれている。(これなかりせば、交換も交流も起こりえない)。そして、等価交換されないかぎり、交換も交流も成り立ちえないのである。
 上述したように、あらゆる物・ことが一つの共通基準で計測可能でなければならない。実に、この基準は、万物と結びつけるがゆえに、必要かくべからずものである。(なぜなら、もし人びとがなにも必要とせず、あるいはその必要が変われば、交換はおこなわれず、あるいは基準も変わるだろうからである)。お金(貨幣)はいまや必要(物)の代替物として大手を振って世のなかで通用している。だからこそ、お金がギリシャ語で「ノミスマ(nomisma)」と呼ばれているのである。お金は自然に存在する(phusis、ピュシス)のではなく、人びとが人為的(nomos、ノモス)に作り上げてきた存在であり、それゆえに変更したり、破棄することが可能である。

〔マネー(money)の語源――moneyの語源は、ローマ神話の豊穣の女神「モネタ」にあり、モネタの神殿で鋳造された硬貨は、古代ローマで広く流通した。ラテン語で鋳造や硬貨は「moneta」、それが古英語「mynet」になり、現代英語では鋳造の意として「mint」にもなった。〕

 しかし、このアリストテレスの十全な申し状にもかかわらず、貨幣は、手を振って世のなかで通用するにしたがって、万物との結びつきを失い、後段の戒め(lesson)を破って、人々が「変更したり、破棄することが可能」といった籠の中の隷属(subordination)から自由な身となって、人の手になった畠(はたけ)にやってくる雀(すずめ)のごとく大胆に振る舞うようになりました。

  菜(な)畠(ばたけ)に花見顔なる雀(すずめ)哉  〔Basho〕

 まさに、俳人マツオ・バショウ(松尾芭蕉)のライバルだったイハラ・サイカク(井原西鶴)のセリフ「金はたくわえるべし。父母にもましてきっと暮らしのうえでもう一人の親になろうよ」(『日本永代蔵』、1688年)ではありませんが、お金は、父母の慈しみ以上に世に頼まれて、人々の生活を支配するようになって、久しいのであります。
 そして古今、この有り難い「お金の常識」を拒絶する人は、以下のセルバンテスが描いた孤高(aloof)の騎士(knight)と同じく、とかく変人(unusual)扱いされてきました。

 ――旅籠(はたご)の亭主がお金の持ち合わせはあるのかときくと、ドン・キホーテがこたえて曰(いわ)く、いや一文たりとももっていない、遍歴の騎士の伝記ではだれも金子を持ち歩かなかったからだ、と。
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