祭りの終わりは寂しいものである。特に、夏祭りはそうだ。名残惜しげに1枚撮る。山車はもう人垣の先にわずかにしか見えなくなってしまった。6時までパレードはあるようだが、2時間の帰路を考えて5時頃には地下の世界に入った。
雷門通りのアーケードを歩いてきて、銀座線の昇降口までたどりついた。そろそろ小生の浅草サンバカーニバルはお仕舞いにしようと思いながら、それでも次のパレードが来るのを10分近くも未練に待った。少し隅田川の川風が渡って涼をとれた。その風にアレゴリア(山車)のお姉さんたちの頭飾りも流されていた。
サンバをやる人を「サンビスタ」と言うらしい。難しく定義すると「サンバをやっている人を総称してブラジルではSambista(サンビスタ)というが、日本ではサンバチームで活動している人を中心に、何らかの形で少しでもサンバに関わっている人すべてをそう呼ぶ場合がある。つまりサンバはやっているがサンバの曲や演奏方法の違い、またバテリアの構成や人数編成などを知らない人をサンビスタと一概に呼ぶことが多い。しかしこれは適切ではない。あくまでもサンバが好きで好きでたまらず、サンバについてよく理解し、損得勘定関係なく身体の髄からサンバが沁みこんでいるような人のみを指して、Sambistaと呼ぶのが正しい。これに対し金の為にサンバをやっている人や、サンバをよく知らないのにサンバをやっている人をSambeiro(サンベイロ)と呼び卑下する場合もある」のだとか。ともかく、日常を離れて、サンバの音楽が流れる今日は夢の中のサンビスタでいいではないか。
今回、サンバパレードを眺めていて、やはりサンバは音楽だと実感した。慥かに、ダンサーの裸は圧倒的、悩殺的。しかし、それだけではサンバの魅力は大したものではない。あの音楽の叙情性、激しいリズムなのにどこか寂しくなる音楽性がなければ、大したものにはなり得なかったであろう。――もともとは黒人を中心とする「労働者階級の音楽」ゆえに、歌われる内容といえば、生活そのものを題材としたもの、人種差別や政治体制への批判などが中心であったが、後に白人を中心に比較的穏やかなリズムで叙情的な内容も歌われる、サンバ・カンサゥン(Samba Canção)なども生まれた。サンバ・カンサゥンはさらに発展し、1950年代後半から1960年代前半には、アメリカの音楽などの影響を受けた中産階級の若者たちを中心に、リズムをさらにシンプルにし、叙情的な歌詞をのせて歌うサンバ・ボサノバ (Samba Bossa Nova)が流行した。1980年代には、数人編成で演奏するスタイルパゴーヂ(Pagode)が成立――という。
サンバは打楽器だけの音楽だ。「リオ・デ・ジャネイロをはじめとするブラジルの各都市で行われるカーニバルでは、毎年、エスコーラ・ジ・サンバ (略してエスコーラ、Escola de Samba)というチーム単位が、まずテーマ(エンヘード=物語)を決め、それに添ってシノープス(台本)が作られ、曲や歌詞の作成を行い、どの曲が相応しいかエスコーラ内でコンテストして、それが決定するとカルナヴァレスコ(パレードの総合監督、舞台監督のような人やチーム)によってアーラ(グループダンス)やアレゴリア(山車)の 数を決め、それらのファンタジア(衣装)などをデザインする。これはカーニバルが終るとすぐに翌年の分にとりかかる。曲が決定すると、クアドラという練習会場で、Bateria(バテリーア、日本ではバテリアとも)という打楽器隊によって練習が繰り返され、そこでダンスも練習する」という。
8月、猛暑の今夏。その最後の土曜日に開催された浅草サンバカーニバルの日も、かなりの猛暑。それにこの大層な衣裳は大変だ。もともと黒人のものだったサンバに、王子様お姫様の白人世界の夢が盛られてこの衣裳となったのであろう。
このカメラを向けるのも忘れてダンサーの肉体に見入る中腰の男、なかなかいい。小生、このブログのことがあるので背伸びしてカメラを観衆の頭越しにかかげて写真ばかりパチパチ撮っていたが、実は、この男のようにダンサーに下から接近して、その肉体的ド迫力に没頭してみたかった。
リオのダンサーのお尻はさすがに形がいい。このお尻が陽射しに汗を輝かせていた。ニッポンの下町っ子の威勢のよいお姉さんの白肌とリオの黒肌の対照も、おもしろい。ニッポン女性のお尻にも大変な進化を認めるものを時折見かけて、サンバパレードはお尻の鑑賞に最高であった。
一人はスリム系、一人はぽっちゃり系。お顔はともかく、この二人のダンサーはニッポン女性の平均的肉体を代表している。食い入るようにビデオカメラのファインダーを覗き込む男性は、スリム系が好みなのかもしれない。