〈イチロウからブブへ宛てた手紙――9月4日付け・つづき〉
Ⅲプリンキピアと天地俳諧
■翌1680年(延宝八年)の冬、バショウは、ニホンバシ(日本橋)からスミダ(隅田)川の向こう岸、フカガワ(深川)のほとりにある草庵へ移り、三十七才にして隠居してしまったのですね。僕も、そのときのバショウと同じ年齢になって、病を得ての療養とはいえ、こうして首都の喧騒から離れてパピヨン村に暮らしていますから、少しはバショウと境涯的に同じになった感じがします。
エド在住のバショウには、スギヤマ・サンプウ(杉山杉風=写真)という三才年下の弟子がおり、彼が何くれとなくバショウのエドの生活を支え、フカガワの「芭蕉庵」も、実は、「鯉屋(こいや)」の屋号で幕府御用の魚問屋を営むサンプウが、フカガワで鯉を囲っておく生簀(いけす)の番小屋を改築して提供したということを最近になって知りました。「頑(かたく)なに月見るやなほ耳遠し」とあるように、サンプウは聾者で、耳がひどく遠かったとか。
僕にも、ここパピヨン村の生活で、イッポリートというまことに好ましい農夫とその家族が支えとなってくれています。ただ最近は、パピヨン村にも、都会の企業が目をつけて、大農業団地を建設する土地整備工事のため化けトマト農家に立ち退き要求が近々あるとか、うるさい話が聞こえてきて、イッポリート一家の静かな生活が知らず知らず脅かされているのが、気がかりです。
そういえば、バショウには、エドへ来てから4年間、コイシカワ・セキグチ(小石川関口)のカンダ(神田)上水道工事の事務手伝いをしていた事実があることを、ブブさんは強調されていますね。この当時は、人気のある宗匠ともなると「点取り俳諧」(賭け俳諧)の点者になって大いに稼ぐことが可能だったので、バショウほどの才能ならば安楽に食える方策を見つける道もあったのに、なぜか、アルバイト稼ぎをしていると。しかも、土木工事というのは、つまり改修という大義名分の自然のあからさまな破壊で、バショウはそこの小屋で単調な帳面書きをしていたにしても(一説には、設計を担当したとも)、それが自然派詩人「芭蕉」だけに、どうにも不可解というか違和感がある――とのご指摘でした。
ただ、人間は、食べていくためには、少々趣味に反して嫌なことでもやらなければならない時期があるものでしょう。夢にこだわって田舎から出てきた青年が、大都会で暮らすには、今も昔も土木工事は有力なアルバイト口だと思います。そういえば、バショウの句に、こんなアルバイト時代の作らしいのを見つけました。
一時雨(ひとしぐれ)礫(つぶて)や降て小石川 芭蕉
礫とは、「小石川」の小石でもある。
僕も、芝居で、バショウとキョクスイのエド暮らしの場面を書く上で、このアルバイト問題を調べたり、あれこれ考えました。アルバイトの時期については、バショウがエドへ出て間もない30才前後の時期だったとする説もありますが、もっと後年の、上記の一時雨の句が詠まれた延宝五年(1677年)、34才のとき以降だとするブブさんが鑑定書で指摘された説を、僕としては、芝居でも採用させてもらいました。その根拠といっては、おこがましいでしょうが、延宝4年頃のバショウの句には、まだどことなく珍しい江戸生活での物見遊山なのん気がある。
天秤(てんびん)や京江戸かけて千代の春
冨士(ふじ)の風や扇(おふぎ)にのせて江戸土産
ともかく、自分なりに、なぜ、バショウが土木工事のアルバイトについたか、芝居にも登場する人間関係を中心に考えてみたのです。一つは、工事現場のコイシカワと近いオダワラ(小田原)町に本拠を持っていたサンプウが、彼の宅への長居候(ながいそうろう)を気兼ねして一人住まいを始めたいと言い出したバショウに、それならばと、ニホンバシ一帯の名主で、バショウとはキョウトで知り合っていたオザワ・ボクセキ(小沢卜尺)と相談の上、現金収入のアルバイト口として上水修復工事の仕事を斡旋した、または、バショウが故郷のイガウエノで仕官していたトウドウ(藤堂)藩が、幕府から命じられて、過去に、この上水の開設工事にかかわった縁があり、バショウが手伝いに借り出された、あるいは、バショウがカワムラ・ズイケン(河村瑞賢)という土木工事方面の活躍でも知られる豪商と知り合って、彼の推薦で手伝うことになった、といろいろな可能性を穿鑿(せんさく)しましたが、結局、これら諸案を合流させて、サンプウとボクセキが協議して、バショウをズイケンに紹介し、ズイケンがトウドウ藩に所縁(ゆかり)があるバショウを、民間の請負業者として神田上水工事を代々仕切った水元役(みずもとやく)のウチダ(内田)家に推薦したような筋書きに書いておきました。
しかし、バショウは、そうした多くの人のかかわりで得た大切な収入の道を自ら絶って、ボクセキが店主と当たるニホンバシ・オダワラ(小田原)町の長屋住まいを引き払い、サンプウが庵を提供したフカガワの地へ引っ越して、次の句を詠むに至る。
雪の朝独り干(から)鮭(ざけ)を噛(かみ)得たり
石枯て水しぼめるや冬もなし
ブブさんが、「庚申の年、延宝八年の冬は、そんな風に貧乏と自得を窮めて、凍えて感覚もなくなった口元に石も水もこんがらかって、いたって不如意に暮れていったようである」と書いたのも、僕は、非常に面白い表現だと感じ入りました。
そして、以下に始まるハイクと科学の比較論考は、ブブさんの研究の中でも圧巻ですね。
――都会の経済社会から逃れ、わび住まいに馴れるにしたがって、バショウの時間観の方は、四十代に訪れる急速な身心的、作家的老成によって、ニュートン的な絶対的なものからライプニッツ的な相対的なものへと大きな変貌が認められる。
人が認識できる時間というものは、物事の移り変わりによって、初めて、それと認知されるものである。自身の心身を含めたいっさい事が変わらない状況で時間を感じるなんて出来ない相談なのである。時を時として純粋に感じるとは、ロマンチックな表現であっても、同語反復(トートロジー)でしかない。
従って、バショウが、『笈の小文』に「しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす」と、まわりの時空である自然の順行や四季の移り変わりにハイカイ精神の基本を据えたのは、とても重要な示唆であった。それは、時間を内在化させ、身辺の宇宙を再認識しようとした、ということなのである。
馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉
四十に達し、そろそろ老いを自覚し始めたバショウは、前年師走の大火「八百屋お七の火事」に草庵が類焼。その後、バショウは、カイ(甲斐)国の知人宅に身を寄せ、上記の馬ぼくぼくの句を詠み、エドへ戻って、ようやく立ち直ろうとしたとき、郷里で実母が亡くなったと知る。弟子たちの喜捨によって再建されたスミダ川の草庵「江上の破屋」に入ったものの、バショウは、痛々しいまでに自然の変化、「時」を感じ入る行脚の旅人となることで、本来のスケールの大きな時空の感覚を懸命に取り戻そうと考え出した。
貞享元年(1984年)夏、四十一才のバショウは、冒頭に荘子の「路粮(ろりょう、食料)ヲ齎(つつ)マズ笑ヒテ復(ま)タ歌フ」を掲げ、「芭蕉庵」を後にして、「むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子八月、江上の破屋をいづる程、風の声、そゞろ寒げ也」と、
野ざらしを心に風のしむ身哉
の旅に出た。そこは、蕉翁、まず、何喰わぬ馬上吟に、
道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり
と力みを出さずに詠んでいる。
口にムジャムジャと木槿の花を喰(は)む馬を余所事(よそごと)に、翁は、どんな夢を見つづけていたのであろうか。ちなみに、底紅(そこくれない)の白木槿のやや大輪の花を「宗旦木槿」と呼ぶ人がいる。リキュウ(利休)の侘び茶を継承した孫、「千宗旦」の好みがその木槿だったとか。バショウを乗せた馬は、パクリと風雅の象徴を頬張ってしまったのである。それはまた、花に代表される宇宙が「馬にくはれけり」なのである。
ニュートンやライプニッツがミクロ動作の微積分的手法とマクロ宇宙学の原理を繋げていったように、この詩的宇宙の一瞬の飄逸(ひょういつ)句には、馬が一輪の花をガバと口に収納してからゴクンと噛み下すまでの時々刻々を、ストップ・ザ・モーションで感じさせる「dt」の微積分的な趣向が認められる。
■1685年、三十九才のライプニッツは、『形而上学叙説』を翌年にかかる冬の間に書き上げた。そして、その哲学的な根本思想の揺るぎないことを確かめるために、9年間、これを「筐底(きょうてい)」に秘めた(誰にも見せず箱の底にしまっておいた)とされる。
彼の形而上学的な思想とは、例えば、こんな一節に表わされる。
――各人の個体概念、いずれその人に起こってくることを一度に全部含んでいるので、その概念をみれば、各々の出来事の真理に関するア・プリオリな証明、或いは、なぜ或る出来事が起こらなかったかという理由が分かる。しかし、これらの真理は、神と被造物との自由意志にもとづいているから、確実ではあるが、やはり偶然性をまぬかれない。ところで、神の選択にも被造物の選択にも常に理由があるが、その理由というのは、傾向を与えるものであって、強制するものではない。
この頃、ライプニッツは、「エネルギー」の概念形成に関して先駆的な業績を残した。彼は、「運動する物体の持つ力は固有のものでなければならぬ」との考えから、物体の質量(m)と物体の速度(v)が衝突の際などにつくりだす力、つまり、今日でいう運動エネルギーは、質量と速度の2乗に比例し、
mv2
で表わされるとし、これを「活きた力(vis viva)」と呼んだ。
翌1686年、『蛙合(かわずあわせ)』において、四十三才のバショウは、やはりmv2的な宇宙の活力に関し、あるイメージを得ていた。それは、ある高さからの湖面への跳躍によって、「形而上学的な考察にまで遡らねばならない」(ライプニッツ)、捨て身なエネルギー表明となった。
古池や蛙(かはづ)飛びこむ水のをと
である。
古今、俳句というと、大体、この一句になる。弟子のタカライ・キカク(宝井其角)は、上五を「山吹や」でいかがと言ったが、バショウは否(ノン)と答え、「古池や」と聞かなかった。『古今集』にある「かはづなく井手の山吹ちりにけり。花の盛りにあはましものを」は、散る山吹の向こうを張って、清流の幾箇所で華やかに鳴く蛙の群れの情景である。淀んだ古池の蛙は、あくまで静寂を破る単独犯でなければならない。蛙は、いわば、単騎のサムライである。その行為は、一つの音に帰結し、また何かが始まっている。
この蛙の一見、能動的な動きがもたらした余りに当たり前な帰結に、自然がかえって驚愕(サプライズ)したような趣がある。ライプニッツの名言に「自然は飛躍せず」があるが、この蛙の跳躍は、同じ自然現象の象徴性を具有し得る。
なんでも、蛙というのは、動いているものは感知できても、静止しているものは感知できないそうで、蛙にとって、古池という固着した風景は、存在しないも同然なのである。世界は、完全に消えている。虚無界である。そうした知識で見ると、この蛙の盲目的な活力はあらためて新鮮だ。
また、これは小生が処女論文「辺鄙を求めて」で主張したことであるが、暗示として、この句には、ニュートン学派によって唱道されたメカニックな<時の可逆性(対称性)>が見事なまでにパロディーとして仕込まれている。
まず、「古池」という永遠が潜む時の深淵に閉じた系(クローズド・システム)を設定することによって、以下の蛙の運動と水の反応が、時の不可逆性=固定した方角を指す〈時の矢〉の理(ことわり)をはずせる仕掛けになっている。
ちょうど、映像のコマを逆に遡上させても閉じた系の状況に大した故障がないように、水面に広がる波紋(これは回転対称性という空間的な可逆性を維持する)をたどって、静寂からポチョンの音へ、さらに、水飛沫・蛙の着水から苔石でのエイッとの飛躍へと、ずんずん時間をさかのぼっても、その程度の悪戯(いたずら)では、古池の自然性に深い疼痛(とうつう)はないだろうと安んじていられる。(「山吹」ではこうはいかなかったであろう。)
万有引力の法則に忠実であるならば、世界の片隅でいつでも反復的に起きる古池に住む蛙ごときの飛躍現象、しかし、風雅の蛙の発動がなければ永遠に起こることがなかった一回限りの異変と片付けてよかったであろう。
それをどこの誰が「俳諧を聞きつけたり」(服部土芳『三冊子』)したところで、わざわざ文句をつける暇人(ひまじん)は居るまい。そんなところにも、この蛙の句の世にも不思議な可笑し味(俳諧味)が存する。
■さて、ニュートン自身が認めるように、彼の運動力は慣性という受動的原理に拠っており、それでは、衝突や摩擦によって運動は絶えず衰退していくのである。
従って、もし外部から神の力のような運動エネルギーの注入がなければ、「地球、惑星、彗星、太陽、およびこれらの中にあるすべての事物は冷たくなり凍結し、無活動の塊となるであろう。そして、あらゆる腐敗、発生、生長、および生命は停止し、惑星および彗星はそれらの軌道上に留まっていないであろう」(ニュートン、『Opticks(光学)』、1704年)といった終末が待っている。
ニュートンのこのもし神が注力業務をサボったら世界は無活動になるといった蓋然性の考察に対して、ライプニッツは、「能動的力は世界内に保存される」と、後のエネルギー保存法則につらなる立場から、神の作品である地球やその自然の内在的な力を擁護してみせた。
――ニュートン氏とその学徒は神の作品に就いても非常に奇妙な見解を持っています。彼等によると、神は時々その時計を巻き直す必要があり、それをしないと時計の動きが止まってしまうというのです。……私の見解によれば、この機械(時計)には何時でも同一の力と作用が存続しています。その力と作用は自然の法則と予定された美しい秩序に従ってただ物質から物質へと移って行くに過ぎません。(ライプニッツ、クラーク宛第一書簡より)
この物質から物質へ移って行く自然の根源的な力を、ライプニッツは、ギリシャ語を使って、「エンテレケイア」と呼んだ。不滅な力であり、物質のどんなに小さな部分にも内在している。
ライプニッツの「モナドロジー」論にあるエンテレケイアとは、「物質のどの部分も、草木の生い茂った庭園か、魚のいっぱい泳いでいる池のようなものではあるまいか。しかも、その植物の一本の枝、その動物の一個の肢体、そこに流れている液体の一滴のしたたりが、これまた同じような庭であり、池なのである」というものだ。ブブさんがおっしゃる通り、いかにも、詩的ですね。
モナド(単子)は、物質であるアトム(原子)と違って、いわば「形而上学的点」である。モナドは「宇宙の生ける鏡」として、内に無限を含んだ小宇宙を抱える。――それは、後世、量子宇宙論が究明せんとした宇宙観に酷似している。この形而上学的点という表現は、ブブさんもそうでしょうが、僕も、非常に気に入りました。われわれは、何もかも物質現象であるという固定観に余りにも囚(とら)われているのではないでしょうか。
ここに、ライプニッツもまた「俳諧を聞きつけたり」と、小生はつくづく思うのである。そして、弟子に「師の風雅に万代不易あり。一時の変化あり。この二つに究まり。その基一(いつ)なり」(『三冊子』)と伝えたのは、バショウのモナドロジー宣言であったろう。
バショウは、『笈の小文』の冒頭に、俳諧に取り憑(つ)かれたある物を「百骸九竅(肉体)の中に物あり、かりに名付けて風羅坊といふ」と述べた。一見、風にさえ破れてしまいそうな薄い衣のような脆弱な風雅の仮身が風羅坊である。強弱は別にしても、エンテレケイアと風羅坊、慥かに、似ている。
■1687年の夏、ニュートンは、いわゆる、プリンキピア、『Philosophiae Naturalis Principia Mathematica(自然哲学の数学的原理)』全三巻を刊行した。前年の4月には、その原稿は王立協会に提出されていたが、協会の資金不足や、「万有引力の法則」でプライオリティーをニュートンと争っていたロバート・フックの反対にあって(フックは協会の前書記でもあった)、出版が遅れていたが、後に、「ハレー彗星」の発見者として知られることになるエドモンド・ハレーの資金援助もあって、なんとか出版にこぎつけたのだ。
1666年の「奇跡」の直感を通して、ニュートンは、なぜリンゴが地上に落ちるように月が地球に落ちてこないか、それは地球の引力が作用していても宇宙空間を移動する月の速度が地球の引力を打ち消しているからに違いないと、また、距離が遠くなるほど引力も小さくなるに違いないと、「仮説」を立ててはいた。しかし、この時期には、彼は、その「仮説」を立証するに必要な道具となる微積分法を編み出していなかったし、観測データも不充分で、二十年近くにわたって、この方面の研究は凍結されていた。
同1687年(貞享四年)の秋、四十四才のバショウは、「僧にもあらず、俗にもあらず」と、卑下なのか何なのか分からないことを言いながら、『鹿島詣』の旅に出、戻ってくるとまたすぐに、母がもういない故郷イガウエノへと、『笈の小文』の旅に出立した。
旧里(ふるさと)や臍(へそ)の緒(お)に泣(なく)としの暮
■元禄二年(1689年)の春、バショウ翁、齢(よわい)四十六にして、ソラ(曾良)を友に、草鞋履き路程600里(2400㎞)の徒歩の旅、『奥の細道』行を断行した。その意志は生半可なことではない。この苦楽によって、バショウの時空研究は、一層深まっていくことになる。また、バショウは、この時空移動実践の旅によって、「ニッポンの風景」を発見したと言えるかもしれない。
旅のバショウは、「瘠骨の肩にかゝれる物先(まず)くるしむ」と、相変わらず老人臭くよぼよぼな風情ではあるが、実は、作品としての『奥の細道』は、冒頭から天地俳諧の面目をかけた大仕掛けで、読み手を手玉に取る。
有名な冒頭文「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」は、八世紀チャイナの大詩人リハク(李白)の「ソレ天地ハ万物ノ逆旅ニシテ、光陰ハ百代ノ過客ナリ」を典拠にしているが、どちらも、物理的な意味で、時間の可逆性と不可逆性の関係性を隠し持ったセンテンスなのである。
自然界のこの物理的大仕掛けに、それと知らずに参画していた十七世紀のバショウは、しかも、その時間的な理(ことわり)に自身を挿入させるためにすっかり口当たりも好く、リハクの詩を和風にやわらかく、しかも俳人らしく短めに端折って、「月日は百代の過客」と言い詰めたのである。
そして、次の句で、
五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川(もがみがわ)
と、時間の可逆性を到底容認してはならない影響甚大な空間的なマクロ世界を現出させている。余りにも大胆に自然を抜き取ったものだから、箱庭の小川をジョウロの流水であふれさせたようなイメージもなくはないが、本来それはあってはならないはず。この幻想の禁を犯して、舟が危うく呑み込まれそうな濁流の川面から水滴が天に向かって吸い上がってしまうというのは、人間の日常感覚のレベルでは、自然の摂理に逆らう奇跡であり、俳諧師よりは予言者の領分であろう。
バショウが、奥の細道の旅を終え、ゼゼ(膳所)で越年した元禄二年の師走、ムカイ・キョライ(向井去来)宛て書簡に、「彼の義は只今天地俳諧にして万代不易に候。大言おとなしくても、おとなしき様なくては、風雅精神とは申されまじく候。却って言い分小さき様に存じ候」と、彼の俳諧プリンキピア・不易流行論に触れている。
バショウの詞(ことば)を伝えたハットリ・トホウ(服部土芳)著『三冊子』(1776年)の「赤冊子」には、「師の風雅に万代不易有り」という表現もあれば、「乾坤(けんこん)の変は風雅のたね也」というのもある。「乾坤」とは、天地といった意よりは、宇宙に近い意味であろう。
古文など得意とする古い鑑定家の中には、この「天地俳諧」という言い方をそれほど重視しない向きもあるが、小生は紛れもなくミクロにもマクロにも通じる「宇宙俳諧」の意だったと感じ入ってきた。それでなくては、とてもとても次の二句は生まれなかったであろう。
閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉(せみ)の声
荒海や佐渡に横たふ天の河
さらに、数年後、バショウは、死の床にあって、次の物凄まじき句を遺した。
旅に病んで夢は枯野(かれの)をかけ廻(めぐ)る
この「枯野」とは、宇宙、真空魔界のことであろう。
――次回につづく――
Ⅲプリンキピアと天地俳諧
■翌1680年(延宝八年)の冬、バショウは、ニホンバシ(日本橋)からスミダ(隅田)川の向こう岸、フカガワ(深川)のほとりにある草庵へ移り、三十七才にして隠居してしまったのですね。僕も、そのときのバショウと同じ年齢になって、病を得ての療養とはいえ、こうして首都の喧騒から離れてパピヨン村に暮らしていますから、少しはバショウと境涯的に同じになった感じがします。
エド在住のバショウには、スギヤマ・サンプウ(杉山杉風=写真)という三才年下の弟子がおり、彼が何くれとなくバショウのエドの生活を支え、フカガワの「芭蕉庵」も、実は、「鯉屋(こいや)」の屋号で幕府御用の魚問屋を営むサンプウが、フカガワで鯉を囲っておく生簀(いけす)の番小屋を改築して提供したということを最近になって知りました。「頑(かたく)なに月見るやなほ耳遠し」とあるように、サンプウは聾者で、耳がひどく遠かったとか。
僕にも、ここパピヨン村の生活で、イッポリートというまことに好ましい農夫とその家族が支えとなってくれています。ただ最近は、パピヨン村にも、都会の企業が目をつけて、大農業団地を建設する土地整備工事のため化けトマト農家に立ち退き要求が近々あるとか、うるさい話が聞こえてきて、イッポリート一家の静かな生活が知らず知らず脅かされているのが、気がかりです。
そういえば、バショウには、エドへ来てから4年間、コイシカワ・セキグチ(小石川関口)のカンダ(神田)上水道工事の事務手伝いをしていた事実があることを、ブブさんは強調されていますね。この当時は、人気のある宗匠ともなると「点取り俳諧」(賭け俳諧)の点者になって大いに稼ぐことが可能だったので、バショウほどの才能ならば安楽に食える方策を見つける道もあったのに、なぜか、アルバイト稼ぎをしていると。しかも、土木工事というのは、つまり改修という大義名分の自然のあからさまな破壊で、バショウはそこの小屋で単調な帳面書きをしていたにしても(一説には、設計を担当したとも)、それが自然派詩人「芭蕉」だけに、どうにも不可解というか違和感がある――とのご指摘でした。
ただ、人間は、食べていくためには、少々趣味に反して嫌なことでもやらなければならない時期があるものでしょう。夢にこだわって田舎から出てきた青年が、大都会で暮らすには、今も昔も土木工事は有力なアルバイト口だと思います。そういえば、バショウの句に、こんなアルバイト時代の作らしいのを見つけました。
一時雨(ひとしぐれ)礫(つぶて)や降て小石川 芭蕉
礫とは、「小石川」の小石でもある。
僕も、芝居で、バショウとキョクスイのエド暮らしの場面を書く上で、このアルバイト問題を調べたり、あれこれ考えました。アルバイトの時期については、バショウがエドへ出て間もない30才前後の時期だったとする説もありますが、もっと後年の、上記の一時雨の句が詠まれた延宝五年(1677年)、34才のとき以降だとするブブさんが鑑定書で指摘された説を、僕としては、芝居でも採用させてもらいました。その根拠といっては、おこがましいでしょうが、延宝4年頃のバショウの句には、まだどことなく珍しい江戸生活での物見遊山なのん気がある。
天秤(てんびん)や京江戸かけて千代の春
冨士(ふじ)の風や扇(おふぎ)にのせて江戸土産
ともかく、自分なりに、なぜ、バショウが土木工事のアルバイトについたか、芝居にも登場する人間関係を中心に考えてみたのです。一つは、工事現場のコイシカワと近いオダワラ(小田原)町に本拠を持っていたサンプウが、彼の宅への長居候(ながいそうろう)を気兼ねして一人住まいを始めたいと言い出したバショウに、それならばと、ニホンバシ一帯の名主で、バショウとはキョウトで知り合っていたオザワ・ボクセキ(小沢卜尺)と相談の上、現金収入のアルバイト口として上水修復工事の仕事を斡旋した、または、バショウが故郷のイガウエノで仕官していたトウドウ(藤堂)藩が、幕府から命じられて、過去に、この上水の開設工事にかかわった縁があり、バショウが手伝いに借り出された、あるいは、バショウがカワムラ・ズイケン(河村瑞賢)という土木工事方面の活躍でも知られる豪商と知り合って、彼の推薦で手伝うことになった、といろいろな可能性を穿鑿(せんさく)しましたが、結局、これら諸案を合流させて、サンプウとボクセキが協議して、バショウをズイケンに紹介し、ズイケンがトウドウ藩に所縁(ゆかり)があるバショウを、民間の請負業者として神田上水工事を代々仕切った水元役(みずもとやく)のウチダ(内田)家に推薦したような筋書きに書いておきました。
しかし、バショウは、そうした多くの人のかかわりで得た大切な収入の道を自ら絶って、ボクセキが店主と当たるニホンバシ・オダワラ(小田原)町の長屋住まいを引き払い、サンプウが庵を提供したフカガワの地へ引っ越して、次の句を詠むに至る。
雪の朝独り干(から)鮭(ざけ)を噛(かみ)得たり
石枯て水しぼめるや冬もなし
ブブさんが、「庚申の年、延宝八年の冬は、そんな風に貧乏と自得を窮めて、凍えて感覚もなくなった口元に石も水もこんがらかって、いたって不如意に暮れていったようである」と書いたのも、僕は、非常に面白い表現だと感じ入りました。
そして、以下に始まるハイクと科学の比較論考は、ブブさんの研究の中でも圧巻ですね。
――都会の経済社会から逃れ、わび住まいに馴れるにしたがって、バショウの時間観の方は、四十代に訪れる急速な身心的、作家的老成によって、ニュートン的な絶対的なものからライプニッツ的な相対的なものへと大きな変貌が認められる。
人が認識できる時間というものは、物事の移り変わりによって、初めて、それと認知されるものである。自身の心身を含めたいっさい事が変わらない状況で時間を感じるなんて出来ない相談なのである。時を時として純粋に感じるとは、ロマンチックな表現であっても、同語反復(トートロジー)でしかない。
従って、バショウが、『笈の小文』に「しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす」と、まわりの時空である自然の順行や四季の移り変わりにハイカイ精神の基本を据えたのは、とても重要な示唆であった。それは、時間を内在化させ、身辺の宇宙を再認識しようとした、ということなのである。
馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉
四十に達し、そろそろ老いを自覚し始めたバショウは、前年師走の大火「八百屋お七の火事」に草庵が類焼。その後、バショウは、カイ(甲斐)国の知人宅に身を寄せ、上記の馬ぼくぼくの句を詠み、エドへ戻って、ようやく立ち直ろうとしたとき、郷里で実母が亡くなったと知る。弟子たちの喜捨によって再建されたスミダ川の草庵「江上の破屋」に入ったものの、バショウは、痛々しいまでに自然の変化、「時」を感じ入る行脚の旅人となることで、本来のスケールの大きな時空の感覚を懸命に取り戻そうと考え出した。
貞享元年(1984年)夏、四十一才のバショウは、冒頭に荘子の「路粮(ろりょう、食料)ヲ齎(つつ)マズ笑ヒテ復(ま)タ歌フ」を掲げ、「芭蕉庵」を後にして、「むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子八月、江上の破屋をいづる程、風の声、そゞろ寒げ也」と、
野ざらしを心に風のしむ身哉
の旅に出た。そこは、蕉翁、まず、何喰わぬ馬上吟に、
道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり
と力みを出さずに詠んでいる。
口にムジャムジャと木槿の花を喰(は)む馬を余所事(よそごと)に、翁は、どんな夢を見つづけていたのであろうか。ちなみに、底紅(そこくれない)の白木槿のやや大輪の花を「宗旦木槿」と呼ぶ人がいる。リキュウ(利休)の侘び茶を継承した孫、「千宗旦」の好みがその木槿だったとか。バショウを乗せた馬は、パクリと風雅の象徴を頬張ってしまったのである。それはまた、花に代表される宇宙が「馬にくはれけり」なのである。
ニュートンやライプニッツがミクロ動作の微積分的手法とマクロ宇宙学の原理を繋げていったように、この詩的宇宙の一瞬の飄逸(ひょういつ)句には、馬が一輪の花をガバと口に収納してからゴクンと噛み下すまでの時々刻々を、ストップ・ザ・モーションで感じさせる「dt」の微積分的な趣向が認められる。
■1685年、三十九才のライプニッツは、『形而上学叙説』を翌年にかかる冬の間に書き上げた。そして、その哲学的な根本思想の揺るぎないことを確かめるために、9年間、これを「筐底(きょうてい)」に秘めた(誰にも見せず箱の底にしまっておいた)とされる。
彼の形而上学的な思想とは、例えば、こんな一節に表わされる。
――各人の個体概念、いずれその人に起こってくることを一度に全部含んでいるので、その概念をみれば、各々の出来事の真理に関するア・プリオリな証明、或いは、なぜ或る出来事が起こらなかったかという理由が分かる。しかし、これらの真理は、神と被造物との自由意志にもとづいているから、確実ではあるが、やはり偶然性をまぬかれない。ところで、神の選択にも被造物の選択にも常に理由があるが、その理由というのは、傾向を与えるものであって、強制するものではない。
この頃、ライプニッツは、「エネルギー」の概念形成に関して先駆的な業績を残した。彼は、「運動する物体の持つ力は固有のものでなければならぬ」との考えから、物体の質量(m)と物体の速度(v)が衝突の際などにつくりだす力、つまり、今日でいう運動エネルギーは、質量と速度の2乗に比例し、
mv2
で表わされるとし、これを「活きた力(vis viva)」と呼んだ。
翌1686年、『蛙合(かわずあわせ)』において、四十三才のバショウは、やはりmv2的な宇宙の活力に関し、あるイメージを得ていた。それは、ある高さからの湖面への跳躍によって、「形而上学的な考察にまで遡らねばならない」(ライプニッツ)、捨て身なエネルギー表明となった。
古池や蛙(かはづ)飛びこむ水のをと
である。
古今、俳句というと、大体、この一句になる。弟子のタカライ・キカク(宝井其角)は、上五を「山吹や」でいかがと言ったが、バショウは否(ノン)と答え、「古池や」と聞かなかった。『古今集』にある「かはづなく井手の山吹ちりにけり。花の盛りにあはましものを」は、散る山吹の向こうを張って、清流の幾箇所で華やかに鳴く蛙の群れの情景である。淀んだ古池の蛙は、あくまで静寂を破る単独犯でなければならない。蛙は、いわば、単騎のサムライである。その行為は、一つの音に帰結し、また何かが始まっている。
この蛙の一見、能動的な動きがもたらした余りに当たり前な帰結に、自然がかえって驚愕(サプライズ)したような趣がある。ライプニッツの名言に「自然は飛躍せず」があるが、この蛙の跳躍は、同じ自然現象の象徴性を具有し得る。
なんでも、蛙というのは、動いているものは感知できても、静止しているものは感知できないそうで、蛙にとって、古池という固着した風景は、存在しないも同然なのである。世界は、完全に消えている。虚無界である。そうした知識で見ると、この蛙の盲目的な活力はあらためて新鮮だ。
また、これは小生が処女論文「辺鄙を求めて」で主張したことであるが、暗示として、この句には、ニュートン学派によって唱道されたメカニックな<時の可逆性(対称性)>が見事なまでにパロディーとして仕込まれている。
まず、「古池」という永遠が潜む時の深淵に閉じた系(クローズド・システム)を設定することによって、以下の蛙の運動と水の反応が、時の不可逆性=固定した方角を指す〈時の矢〉の理(ことわり)をはずせる仕掛けになっている。
ちょうど、映像のコマを逆に遡上させても閉じた系の状況に大した故障がないように、水面に広がる波紋(これは回転対称性という空間的な可逆性を維持する)をたどって、静寂からポチョンの音へ、さらに、水飛沫・蛙の着水から苔石でのエイッとの飛躍へと、ずんずん時間をさかのぼっても、その程度の悪戯(いたずら)では、古池の自然性に深い疼痛(とうつう)はないだろうと安んじていられる。(「山吹」ではこうはいかなかったであろう。)
万有引力の法則に忠実であるならば、世界の片隅でいつでも反復的に起きる古池に住む蛙ごときの飛躍現象、しかし、風雅の蛙の発動がなければ永遠に起こることがなかった一回限りの異変と片付けてよかったであろう。
それをどこの誰が「俳諧を聞きつけたり」(服部土芳『三冊子』)したところで、わざわざ文句をつける暇人(ひまじん)は居るまい。そんなところにも、この蛙の句の世にも不思議な可笑し味(俳諧味)が存する。
■さて、ニュートン自身が認めるように、彼の運動力は慣性という受動的原理に拠っており、それでは、衝突や摩擦によって運動は絶えず衰退していくのである。
従って、もし外部から神の力のような運動エネルギーの注入がなければ、「地球、惑星、彗星、太陽、およびこれらの中にあるすべての事物は冷たくなり凍結し、無活動の塊となるであろう。そして、あらゆる腐敗、発生、生長、および生命は停止し、惑星および彗星はそれらの軌道上に留まっていないであろう」(ニュートン、『Opticks(光学)』、1704年)といった終末が待っている。
ニュートンのこのもし神が注力業務をサボったら世界は無活動になるといった蓋然性の考察に対して、ライプニッツは、「能動的力は世界内に保存される」と、後のエネルギー保存法則につらなる立場から、神の作品である地球やその自然の内在的な力を擁護してみせた。
――ニュートン氏とその学徒は神の作品に就いても非常に奇妙な見解を持っています。彼等によると、神は時々その時計を巻き直す必要があり、それをしないと時計の動きが止まってしまうというのです。……私の見解によれば、この機械(時計)には何時でも同一の力と作用が存続しています。その力と作用は自然の法則と予定された美しい秩序に従ってただ物質から物質へと移って行くに過ぎません。(ライプニッツ、クラーク宛第一書簡より)
この物質から物質へ移って行く自然の根源的な力を、ライプニッツは、ギリシャ語を使って、「エンテレケイア」と呼んだ。不滅な力であり、物質のどんなに小さな部分にも内在している。
ライプニッツの「モナドロジー」論にあるエンテレケイアとは、「物質のどの部分も、草木の生い茂った庭園か、魚のいっぱい泳いでいる池のようなものではあるまいか。しかも、その植物の一本の枝、その動物の一個の肢体、そこに流れている液体の一滴のしたたりが、これまた同じような庭であり、池なのである」というものだ。ブブさんがおっしゃる通り、いかにも、詩的ですね。
モナド(単子)は、物質であるアトム(原子)と違って、いわば「形而上学的点」である。モナドは「宇宙の生ける鏡」として、内に無限を含んだ小宇宙を抱える。――それは、後世、量子宇宙論が究明せんとした宇宙観に酷似している。この形而上学的点という表現は、ブブさんもそうでしょうが、僕も、非常に気に入りました。われわれは、何もかも物質現象であるという固定観に余りにも囚(とら)われているのではないでしょうか。
ここに、ライプニッツもまた「俳諧を聞きつけたり」と、小生はつくづく思うのである。そして、弟子に「師の風雅に万代不易あり。一時の変化あり。この二つに究まり。その基一(いつ)なり」(『三冊子』)と伝えたのは、バショウのモナドロジー宣言であったろう。
バショウは、『笈の小文』の冒頭に、俳諧に取り憑(つ)かれたある物を「百骸九竅(肉体)の中に物あり、かりに名付けて風羅坊といふ」と述べた。一見、風にさえ破れてしまいそうな薄い衣のような脆弱な風雅の仮身が風羅坊である。強弱は別にしても、エンテレケイアと風羅坊、慥かに、似ている。
■1687年の夏、ニュートンは、いわゆる、プリンキピア、『Philosophiae Naturalis Principia Mathematica(自然哲学の数学的原理)』全三巻を刊行した。前年の4月には、その原稿は王立協会に提出されていたが、協会の資金不足や、「万有引力の法則」でプライオリティーをニュートンと争っていたロバート・フックの反対にあって(フックは協会の前書記でもあった)、出版が遅れていたが、後に、「ハレー彗星」の発見者として知られることになるエドモンド・ハレーの資金援助もあって、なんとか出版にこぎつけたのだ。
1666年の「奇跡」の直感を通して、ニュートンは、なぜリンゴが地上に落ちるように月が地球に落ちてこないか、それは地球の引力が作用していても宇宙空間を移動する月の速度が地球の引力を打ち消しているからに違いないと、また、距離が遠くなるほど引力も小さくなるに違いないと、「仮説」を立ててはいた。しかし、この時期には、彼は、その「仮説」を立証するに必要な道具となる微積分法を編み出していなかったし、観測データも不充分で、二十年近くにわたって、この方面の研究は凍結されていた。
同1687年(貞享四年)の秋、四十四才のバショウは、「僧にもあらず、俗にもあらず」と、卑下なのか何なのか分からないことを言いながら、『鹿島詣』の旅に出、戻ってくるとまたすぐに、母がもういない故郷イガウエノへと、『笈の小文』の旅に出立した。
旧里(ふるさと)や臍(へそ)の緒(お)に泣(なく)としの暮
■元禄二年(1689年)の春、バショウ翁、齢(よわい)四十六にして、ソラ(曾良)を友に、草鞋履き路程600里(2400㎞)の徒歩の旅、『奥の細道』行を断行した。その意志は生半可なことではない。この苦楽によって、バショウの時空研究は、一層深まっていくことになる。また、バショウは、この時空移動実践の旅によって、「ニッポンの風景」を発見したと言えるかもしれない。
旅のバショウは、「瘠骨の肩にかゝれる物先(まず)くるしむ」と、相変わらず老人臭くよぼよぼな風情ではあるが、実は、作品としての『奥の細道』は、冒頭から天地俳諧の面目をかけた大仕掛けで、読み手を手玉に取る。
有名な冒頭文「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」は、八世紀チャイナの大詩人リハク(李白)の「ソレ天地ハ万物ノ逆旅ニシテ、光陰ハ百代ノ過客ナリ」を典拠にしているが、どちらも、物理的な意味で、時間の可逆性と不可逆性の関係性を隠し持ったセンテンスなのである。
自然界のこの物理的大仕掛けに、それと知らずに参画していた十七世紀のバショウは、しかも、その時間的な理(ことわり)に自身を挿入させるためにすっかり口当たりも好く、リハクの詩を和風にやわらかく、しかも俳人らしく短めに端折って、「月日は百代の過客」と言い詰めたのである。
そして、次の句で、
五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川(もがみがわ)
と、時間の可逆性を到底容認してはならない影響甚大な空間的なマクロ世界を現出させている。余りにも大胆に自然を抜き取ったものだから、箱庭の小川をジョウロの流水であふれさせたようなイメージもなくはないが、本来それはあってはならないはず。この幻想の禁を犯して、舟が危うく呑み込まれそうな濁流の川面から水滴が天に向かって吸い上がってしまうというのは、人間の日常感覚のレベルでは、自然の摂理に逆らう奇跡であり、俳諧師よりは予言者の領分であろう。
バショウが、奥の細道の旅を終え、ゼゼ(膳所)で越年した元禄二年の師走、ムカイ・キョライ(向井去来)宛て書簡に、「彼の義は只今天地俳諧にして万代不易に候。大言おとなしくても、おとなしき様なくては、風雅精神とは申されまじく候。却って言い分小さき様に存じ候」と、彼の俳諧プリンキピア・不易流行論に触れている。
バショウの詞(ことば)を伝えたハットリ・トホウ(服部土芳)著『三冊子』(1776年)の「赤冊子」には、「師の風雅に万代不易有り」という表現もあれば、「乾坤(けんこん)の変は風雅のたね也」というのもある。「乾坤」とは、天地といった意よりは、宇宙に近い意味であろう。
古文など得意とする古い鑑定家の中には、この「天地俳諧」という言い方をそれほど重視しない向きもあるが、小生は紛れもなくミクロにもマクロにも通じる「宇宙俳諧」の意だったと感じ入ってきた。それでなくては、とてもとても次の二句は生まれなかったであろう。
閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉(せみ)の声
荒海や佐渡に横たふ天の河
さらに、数年後、バショウは、死の床にあって、次の物凄まじき句を遺した。
旅に病んで夢は枯野(かれの)をかけ廻(めぐ)る
この「枯野」とは、宇宙、真空魔界のことであろう。
――次回につづく――