Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

その10 往復書簡⑧旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(芭蕉)

2006年04月22日 10時35分02秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
〈イチロウからブブへ宛てた手紙――9月4日付け・つづき〉

Ⅲプリンキピアと天地俳諧

■翌1680年(延宝八年)の冬、バショウは、ニホンバシ(日本橋)からスミダ(隅田)川の向こう岸、フカガワ(深川)のほとりにある草庵へ移り、三十七才にして隠居してしまったのですね。僕も、そのときのバショウと同じ年齢になって、病を得ての療養とはいえ、こうして首都の喧騒から離れてパピヨン村に暮らしていますから、少しはバショウと境涯的に同じになった感じがします。
 エド在住のバショウには、スギヤマ・サンプウ(杉山杉風=写真)という三才年下の弟子がおり、彼が何くれとなくバショウのエドの生活を支え、フカガワの「芭蕉庵」も、実は、「鯉屋(こいや)」の屋号で幕府御用の魚問屋を営むサンプウが、フカガワで鯉を囲っておく生簀(いけす)の番小屋を改築して提供したということを最近になって知りました。「頑(かたく)なに月見るやなほ耳遠し」とあるように、サンプウは聾者で、耳がひどく遠かったとか。
 僕にも、ここパピヨン村の生活で、イッポリートというまことに好ましい農夫とその家族が支えとなってくれています。ただ最近は、パピヨン村にも、都会の企業が目をつけて、大農業団地を建設する土地整備工事のため化けトマト農家に立ち退き要求が近々あるとか、うるさい話が聞こえてきて、イッポリート一家の静かな生活が知らず知らず脅かされているのが、気がかりです。
 そういえば、バショウには、エドへ来てから4年間、コイシカワ・セキグチ(小石川関口)のカンダ(神田)上水道工事の事務手伝いをしていた事実があることを、ブブさんは強調されていますね。この当時は、人気のある宗匠ともなると「点取り俳諧」(賭け俳諧)の点者になって大いに稼ぐことが可能だったので、バショウほどの才能ならば安楽に食える方策を見つける道もあったのに、なぜか、アルバイト稼ぎをしていると。しかも、土木工事というのは、つまり改修という大義名分の自然のあからさまな破壊で、バショウはそこの小屋で単調な帳面書きをしていたにしても(一説には、設計を担当したとも)、それが自然派詩人「芭蕉」だけに、どうにも不可解というか違和感がある――とのご指摘でした。
 ただ、人間は、食べていくためには、少々趣味に反して嫌なことでもやらなければならない時期があるものでしょう。夢にこだわって田舎から出てきた青年が、大都会で暮らすには、今も昔も土木工事は有力なアルバイト口だと思います。そういえば、バショウの句に、こんなアルバイト時代の作らしいのを見つけました。

 一時雨(ひとしぐれ)礫(つぶて)や降て小石川  芭蕉

 礫とは、「小石川」の小石でもある。
 僕も、芝居で、バショウとキョクスイのエド暮らしの場面を書く上で、このアルバイト問題を調べたり、あれこれ考えました。アルバイトの時期については、バショウがエドへ出て間もない30才前後の時期だったとする説もありますが、もっと後年の、上記の一時雨の句が詠まれた延宝五年(1677年)、34才のとき以降だとするブブさんが鑑定書で指摘された説を、僕としては、芝居でも採用させてもらいました。その根拠といっては、おこがましいでしょうが、延宝4年頃のバショウの句には、まだどことなく珍しい江戸生活での物見遊山なのん気がある。

 天秤(てんびん)や京江戸かけて千代の春

 冨士(ふじ)の風や扇(おふぎ)にのせて江戸土産

 ともかく、自分なりに、なぜ、バショウが土木工事のアルバイトについたか、芝居にも登場する人間関係を中心に考えてみたのです。一つは、工事現場のコイシカワと近いオダワラ(小田原)町に本拠を持っていたサンプウが、彼の宅への長居候(ながいそうろう)を気兼ねして一人住まいを始めたいと言い出したバショウに、それならばと、ニホンバシ一帯の名主で、バショウとはキョウトで知り合っていたオザワ・ボクセキ(小沢卜尺)と相談の上、現金収入のアルバイト口として上水修復工事の仕事を斡旋した、または、バショウが故郷のイガウエノで仕官していたトウドウ(藤堂)藩が、幕府から命じられて、過去に、この上水の開設工事にかかわった縁があり、バショウが手伝いに借り出された、あるいは、バショウがカワムラ・ズイケン(河村瑞賢)という土木工事方面の活躍でも知られる豪商と知り合って、彼の推薦で手伝うことになった、といろいろな可能性を穿鑿(せんさく)しましたが、結局、これら諸案を合流させて、サンプウとボクセキが協議して、バショウをズイケンに紹介し、ズイケンがトウドウ藩に所縁(ゆかり)があるバショウを、民間の請負業者として神田上水工事を代々仕切った水元役(みずもとやく)のウチダ(内田)家に推薦したような筋書きに書いておきました。
 しかし、バショウは、そうした多くの人のかかわりで得た大切な収入の道を自ら絶って、ボクセキが店主と当たるニホンバシ・オダワラ(小田原)町の長屋住まいを引き払い、サンプウが庵を提供したフカガワの地へ引っ越して、次の句を詠むに至る。

 雪の朝独り干(から)鮭(ざけ)を噛(かみ)得たり

 石枯て水しぼめるや冬もなし

 ブブさんが、「庚申の年、延宝八年の冬は、そんな風に貧乏と自得を窮めて、凍えて感覚もなくなった口元に石も水もこんがらかって、いたって不如意に暮れていったようである」と書いたのも、僕は、非常に面白い表現だと感じ入りました。

 そして、以下に始まるハイクと科学の比較論考は、ブブさんの研究の中でも圧巻ですね。

 ――都会の経済社会から逃れ、わび住まいに馴れるにしたがって、バショウの時間観の方は、四十代に訪れる急速な身心的、作家的老成によって、ニュートン的な絶対的なものからライプニッツ的な相対的なものへと大きな変貌が認められる。
 人が認識できる時間というものは、物事の移り変わりによって、初めて、それと認知されるものである。自身の心身を含めたいっさい事が変わらない状況で時間を感じるなんて出来ない相談なのである。時を時として純粋に感じるとは、ロマンチックな表現であっても、同語反復(トートロジー)でしかない。
 従って、バショウが、『笈の小文』に「しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす」と、まわりの時空である自然の順行や四季の移り変わりにハイカイ精神の基本を据えたのは、とても重要な示唆であった。それは、時間を内在化させ、身辺の宇宙を再認識しようとした、ということなのである。

 馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉

 四十に達し、そろそろ老いを自覚し始めたバショウは、前年師走の大火「八百屋お七の火事」に草庵が類焼。その後、バショウは、カイ(甲斐)国の知人宅に身を寄せ、上記の馬ぼくぼくの句を詠み、エドへ戻って、ようやく立ち直ろうとしたとき、郷里で実母が亡くなったと知る。弟子たちの喜捨によって再建されたスミダ川の草庵「江上の破屋」に入ったものの、バショウは、痛々しいまでに自然の変化、「時」を感じ入る行脚の旅人となることで、本来のスケールの大きな時空の感覚を懸命に取り戻そうと考え出した。
 貞享元年(1984年)夏、四十一才のバショウは、冒頭に荘子の「路粮(ろりょう、食料)ヲ齎(つつ)マズ笑ヒテ復(ま)タ歌フ」を掲げ、「芭蕉庵」を後にして、「むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子八月、江上の破屋をいづる程、風の声、そゞろ寒げ也」と、

 野ざらしを心に風のしむ身哉

の旅に出た。そこは、蕉翁、まず、何喰わぬ馬上吟に、

 道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり

と力みを出さずに詠んでいる。
 口にムジャムジャと木槿の花を喰(は)む馬を余所事(よそごと)に、翁は、どんな夢を見つづけていたのであろうか。ちなみに、底紅(そこくれない)の白木槿のやや大輪の花を「宗旦木槿」と呼ぶ人がいる。リキュウ(利休)の侘び茶を継承した孫、「千宗旦」の好みがその木槿だったとか。バショウを乗せた馬は、パクリと風雅の象徴を頬張ってしまったのである。それはまた、花に代表される宇宙が「馬にくはれけり」なのである。
 ニュートンやライプニッツがミクロ動作の微積分的手法とマクロ宇宙学の原理を繋げていったように、この詩的宇宙の一瞬の飄逸(ひょういつ)句には、馬が一輪の花をガバと口に収納してからゴクンと噛み下すまでの時々刻々を、ストップ・ザ・モーションで感じさせる「dt」の微積分的な趣向が認められる。

■1685年、三十九才のライプニッツは、『形而上学叙説』を翌年にかかる冬の間に書き上げた。そして、その哲学的な根本思想の揺るぎないことを確かめるために、9年間、これを「筐底(きょうてい)」に秘めた(誰にも見せず箱の底にしまっておいた)とされる。
 彼の形而上学的な思想とは、例えば、こんな一節に表わされる。

 ――各人の個体概念、いずれその人に起こってくることを一度に全部含んでいるので、その概念をみれば、各々の出来事の真理に関するア・プリオリな証明、或いは、なぜ或る出来事が起こらなかったかという理由が分かる。しかし、これらの真理は、神と被造物との自由意志にもとづいているから、確実ではあるが、やはり偶然性をまぬかれない。ところで、神の選択にも被造物の選択にも常に理由があるが、その理由というのは、傾向を与えるものであって、強制するものではない。

 この頃、ライプニッツは、「エネルギー」の概念形成に関して先駆的な業績を残した。彼は、「運動する物体の持つ力は固有のものでなければならぬ」との考えから、物体の質量(m)と物体の速度(v)が衝突の際などにつくりだす力、つまり、今日でいう運動エネルギーは、質量と速度の2乗に比例し、

 mv2

で表わされるとし、これを「活きた力(vis viva)」と呼んだ。

 翌1686年、『蛙合(かわずあわせ)』において、四十三才のバショウは、やはりmv2的な宇宙の活力に関し、あるイメージを得ていた。それは、ある高さからの湖面への跳躍によって、「形而上学的な考察にまで遡らねばならない」(ライプニッツ)、捨て身なエネルギー表明となった。

 古池や蛙(かはづ)飛びこむ水のをと

である。
 古今、俳句というと、大体、この一句になる。弟子のタカライ・キカク(宝井其角)は、上五を「山吹や」でいかがと言ったが、バショウは否(ノン)と答え、「古池や」と聞かなかった。『古今集』にある「かはづなく井手の山吹ちりにけり。花の盛りにあはましものを」は、散る山吹の向こうを張って、清流の幾箇所で華やかに鳴く蛙の群れの情景である。淀んだ古池の蛙は、あくまで静寂を破る単独犯でなければならない。蛙は、いわば、単騎のサムライである。その行為は、一つの音に帰結し、また何かが始まっている。
 この蛙の一見、能動的な動きがもたらした余りに当たり前な帰結に、自然がかえって驚愕(サプライズ)したような趣がある。ライプニッツの名言に「自然は飛躍せず」があるが、この蛙の跳躍は、同じ自然現象の象徴性を具有し得る。
 なんでも、蛙というのは、動いているものは感知できても、静止しているものは感知できないそうで、蛙にとって、古池という固着した風景は、存在しないも同然なのである。世界は、完全に消えている。虚無界である。そうした知識で見ると、この蛙の盲目的な活力はあらためて新鮮だ。
 また、これは小生が処女論文「辺鄙を求めて」で主張したことであるが、暗示として、この句には、ニュートン学派によって唱道されたメカニックな<時の可逆性(対称性)>が見事なまでにパロディーとして仕込まれている。 
 まず、「古池」という永遠が潜む時の深淵に閉じた系(クローズド・システム)を設定することによって、以下の蛙の運動と水の反応が、時の不可逆性=固定した方角を指す〈時の矢〉の理(ことわり)をはずせる仕掛けになっている。
 ちょうど、映像のコマを逆に遡上させても閉じた系の状況に大した故障がないように、水面に広がる波紋(これは回転対称性という空間的な可逆性を維持する)をたどって、静寂からポチョンの音へ、さらに、水飛沫・蛙の着水から苔石でのエイッとの飛躍へと、ずんずん時間をさかのぼっても、その程度の悪戯(いたずら)では、古池の自然性に深い疼痛(とうつう)はないだろうと安んじていられる。(「山吹」ではこうはいかなかったであろう。)
 万有引力の法則に忠実であるならば、世界の片隅でいつでも反復的に起きる古池に住む蛙ごときの飛躍現象、しかし、風雅の蛙の発動がなければ永遠に起こることがなかった一回限りの異変と片付けてよかったであろう。
 それをどこの誰が「俳諧を聞きつけたり」(服部土芳『三冊子』)したところで、わざわざ文句をつける暇人(ひまじん)は居るまい。そんなところにも、この蛙の句の世にも不思議な可笑し味(俳諧味)が存する。

■さて、ニュートン自身が認めるように、彼の運動力は慣性という受動的原理に拠っており、それでは、衝突や摩擦によって運動は絶えず衰退していくのである。
 従って、もし外部から神の力のような運動エネルギーの注入がなければ、「地球、惑星、彗星、太陽、およびこれらの中にあるすべての事物は冷たくなり凍結し、無活動の塊となるであろう。そして、あらゆる腐敗、発生、生長、および生命は停止し、惑星および彗星はそれらの軌道上に留まっていないであろう」(ニュートン、『Opticks(光学)』、1704年)といった終末が待っている。
 ニュートンのこのもし神が注力業務をサボったら世界は無活動になるといった蓋然性の考察に対して、ライプニッツは、「能動的力は世界内に保存される」と、後のエネルギー保存法則につらなる立場から、神の作品である地球やその自然の内在的な力を擁護してみせた。

 ――ニュートン氏とその学徒は神の作品に就いても非常に奇妙な見解を持っています。彼等によると、神は時々その時計を巻き直す必要があり、それをしないと時計の動きが止まってしまうというのです。……私の見解によれば、この機械(時計)には何時でも同一の力と作用が存続しています。その力と作用は自然の法則と予定された美しい秩序に従ってただ物質から物質へと移って行くに過ぎません。(ライプニッツ、クラーク宛第一書簡より)

 この物質から物質へ移って行く自然の根源的な力を、ライプニッツは、ギリシャ語を使って、「エンテレケイア」と呼んだ。不滅な力であり、物質のどんなに小さな部分にも内在している。
 ライプニッツの「モナドロジー」論にあるエンテレケイアとは、「物質のどの部分も、草木の生い茂った庭園か、魚のいっぱい泳いでいる池のようなものではあるまいか。しかも、その植物の一本の枝、その動物の一個の肢体、そこに流れている液体の一滴のしたたりが、これまた同じような庭であり、池なのである」というものだ。ブブさんがおっしゃる通り、いかにも、詩的ですね。
 モナド(単子)は、物質であるアトム(原子)と違って、いわば「形而上学的点」である。モナドは「宇宙の生ける鏡」として、内に無限を含んだ小宇宙を抱える。――それは、後世、量子宇宙論が究明せんとした宇宙観に酷似している。この形而上学的点という表現は、ブブさんもそうでしょうが、僕も、非常に気に入りました。われわれは、何もかも物質現象であるという固定観に余りにも囚(とら)われているのではないでしょうか。
 ここに、ライプニッツもまた「俳諧を聞きつけたり」と、小生はつくづく思うのである。そして、弟子に「師の風雅に万代不易あり。一時の変化あり。この二つに究まり。その基一(いつ)なり」(『三冊子』)と伝えたのは、バショウのモナドロジー宣言であったろう。
 バショウは、『笈の小文』の冒頭に、俳諧に取り憑(つ)かれたある物を「百骸九竅(肉体)の中に物あり、かりに名付けて風羅坊といふ」と述べた。一見、風にさえ破れてしまいそうな薄い衣のような脆弱な風雅の仮身が風羅坊である。強弱は別にしても、エンテレケイアと風羅坊、慥かに、似ている。

■1687年の夏、ニュートンは、いわゆる、プリンキピア、『Philosophiae Naturalis Principia Mathematica(自然哲学の数学的原理)』全三巻を刊行した。前年の4月には、その原稿は王立協会に提出されていたが、協会の資金不足や、「万有引力の法則」でプライオリティーをニュートンと争っていたロバート・フックの反対にあって(フックは協会の前書記でもあった)、出版が遅れていたが、後に、「ハレー彗星」の発見者として知られることになるエドモンド・ハレーの資金援助もあって、なんとか出版にこぎつけたのだ。
 1666年の「奇跡」の直感を通して、ニュートンは、なぜリンゴが地上に落ちるように月が地球に落ちてこないか、それは地球の引力が作用していても宇宙空間を移動する月の速度が地球の引力を打ち消しているからに違いないと、また、距離が遠くなるほど引力も小さくなるに違いないと、「仮説」を立ててはいた。しかし、この時期には、彼は、その「仮説」を立証するに必要な道具となる微積分法を編み出していなかったし、観測データも不充分で、二十年近くにわたって、この方面の研究は凍結されていた。

 同1687年(貞享四年)の秋、四十四才のバショウは、「僧にもあらず、俗にもあらず」と、卑下なのか何なのか分からないことを言いながら、『鹿島詣』の旅に出、戻ってくるとまたすぐに、母がもういない故郷イガウエノへと、『笈の小文』の旅に出立した。

 旧里(ふるさと)や臍(へそ)の緒(お)に泣(なく)としの暮

■元禄二年(1689年)の春、バショウ翁、齢(よわい)四十六にして、ソラ(曾良)を友に、草鞋履き路程600里(2400㎞)の徒歩の旅、『奥の細道』行を断行した。その意志は生半可なことではない。この苦楽によって、バショウの時空研究は、一層深まっていくことになる。また、バショウは、この時空移動実践の旅によって、「ニッポンの風景」を発見したと言えるかもしれない。
 旅のバショウは、「瘠骨の肩にかゝれる物先(まず)くるしむ」と、相変わらず老人臭くよぼよぼな風情ではあるが、実は、作品としての『奥の細道』は、冒頭から天地俳諧の面目をかけた大仕掛けで、読み手を手玉に取る。
 有名な冒頭文「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」は、八世紀チャイナの大詩人リハク(李白)の「ソレ天地ハ万物ノ逆旅ニシテ、光陰ハ百代ノ過客ナリ」を典拠にしているが、どちらも、物理的な意味で、時間の可逆性と不可逆性の関係性を隠し持ったセンテンスなのである。
 自然界のこの物理的大仕掛けに、それと知らずに参画していた十七世紀のバショウは、しかも、その時間的な理(ことわり)に自身を挿入させるためにすっかり口当たりも好く、リハクの詩を和風にやわらかく、しかも俳人らしく短めに端折って、「月日は百代の過客」と言い詰めたのである。
 そして、次の句で、

 五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川(もがみがわ)

と、時間の可逆性を到底容認してはならない影響甚大な空間的なマクロ世界を現出させている。余りにも大胆に自然を抜き取ったものだから、箱庭の小川をジョウロの流水であふれさせたようなイメージもなくはないが、本来それはあってはならないはず。この幻想の禁を犯して、舟が危うく呑み込まれそうな濁流の川面から水滴が天に向かって吸い上がってしまうというのは、人間の日常感覚のレベルでは、自然の摂理に逆らう奇跡であり、俳諧師よりは予言者の領分であろう。
 バショウが、奥の細道の旅を終え、ゼゼ(膳所)で越年した元禄二年の師走、ムカイ・キョライ(向井去来)宛て書簡に、「彼の義は只今天地俳諧にして万代不易に候。大言おとなしくても、おとなしき様なくては、風雅精神とは申されまじく候。却って言い分小さき様に存じ候」と、彼の俳諧プリンキピア・不易流行論に触れている。
 バショウの詞(ことば)を伝えたハットリ・トホウ(服部土芳)著『三冊子』(1776年)の「赤冊子」には、「師の風雅に万代不易有り」という表現もあれば、「乾坤(けんこん)の変は風雅のたね也」というのもある。「乾坤」とは、天地といった意よりは、宇宙に近い意味であろう。
 古文など得意とする古い鑑定家の中には、この「天地俳諧」という言い方をそれほど重視しない向きもあるが、小生は紛れもなくミクロにもマクロにも通じる「宇宙俳諧」の意だったと感じ入ってきた。それでなくては、とてもとても次の二句は生まれなかったであろう。

 閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉(せみ)の声

 荒海や佐渡に横たふ天の河

 さらに、数年後、バショウは、死の床にあって、次の物凄まじき句を遺した。

 旅に病んで夢は枯野(かれの)をかけ廻(めぐ)る

 この「枯野」とは、宇宙、真空魔界のことであろう。
                           ――次回につづく――
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その9 往復書簡⑦しほれふすや世はさかさまの雪の竹(芭蕉)

2006年02月12日 10時42分36秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
〈イチロウからブブへ宛てた手紙――9月4日付け〉

 ブブさん、お手紙とComparative Study「真空科学の年譜的考察」なる力作(tour de force)の論文(paper)を興味深く拝読しました。

 それにしても、「ハイク缶(Haiku-can)」ですか。面白い(interesting)と思いましたが、少し考えさしてください。
 真空(vacuum)については、ブブさんの論文は、一般的な見方とは大分違った角度から見ておられますね。正直、驚きました。おこがましいようですが、少し、僕にも、ブブさんの文章の流れにそって、感想(remark)のようなものを述べさせてください。そうやって、頭の中を整理したいと思います。

Ⅰ 真空・電磁力への目覚めと自然魔術

 ■論文冒頭(opening)の一文【1644年に生まれたマツオ・バショウより二年前に、アイザック・ニュートン(=上掲写真)が、そして、バショウより二年遅れて、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツが生まれている。/このユーラシア大陸の両端(both ends)で同時代(contemporary)を生きた二人のヨーロッパ人とニッポン人が、時空に関する根本思索(しさく;speculation)において連鎖(れんさ;chain)していた事実は、寡聞(かぶん)にして、小生のほか誰一人、指摘(point out)した者を知らない】は、ブブさん一流の自信(confidence)ある言い分(say)と、愉快に読ませていただきました。やはり、ものを書く人間は、これぐらいの断固(decisive)とした確信(conviction)と気概(きがい;fight)がないといけませんね。

 そうして、次のバショウ(芭蕉)の有名な句、

 荒海や佐渡によこたふ天の河

を【これは、同じ縮小率で大宇宙を俳句サイズに大縮図したというのではけっしてないのだ。むしろ、こう壮大な宇宙の関係的配置(disposition)を五七五の十七音に写し取ったバショウの空間観は、ライプニッツのそれを強く連想させるではないか】と解釈して見せたことも、ただただ感服の至りです。いろいろ俳論の類も読んだことはありますが、大体がちまちました問題を扱っていて、なかなかここまで大きく大詩人の構想(framework)を捉えられていません。

 ■本文の第1章「真空・電磁力への目覚めと自然魔術」に入って、古代ギリシャのデモクリトスのアトム(原子)論とケノン(空虚)観、それに対して、あのアリストテレスが、「自然は真空を嫌う」と真空嫌悪(horror vacui)説を唱えたことは、大学の教養の科学論か何かで習いでもしたのか、うっすらと記憶にあることです。ただ、あらためて、西欧はそもそも真空嫌悪だったのかと、深く再認識しました。慥かに、ブブさんがおっしゃる通り、東洋では、仏教的な「空」(サンスクリット語の「アーカーシャ」ですか)の観念が西洋的、アリストテレス的な真空嫌悪観が侵入する防波堤(bulwark)になっていたのかもしれませんね。
 これもブブさんの論文の後段からの借用ですが、ウパニシャッドには、「実にいっさいは、虚空(void)の万物は、虚空のみから生起する。また、虚空のうちに帰り入る。何となれば、虚空はこれらの万物よりも偉大であるからである。虚空は、究極の根底である」と徹底した観想を持ち、さらに、「虚空の中にあって人は楽しみ、また楽しまない」ということですから、真空に関する受容感覚と意志が、西欧とはまったく違うということでしょう。
 多分、文脈から察するに、ブブさんも同感して頂けると思いますが、僕の印象では、西欧人は、「自然は真空を嫌う」と第三者的に言いながら、実は、真空に興味津々だった。彼らは、真空への恐怖心は自然に預け、自分たちは真空を利用することで科学を発展させ、産業を興した。だから、西欧文明は真空文明でした。一方、東洋人は、感覚的に真空を取り込もうとしておきながら、その真空を解明し、ましてや積極的に利用しようとは考えなかったのです。だから、対照的に言えば、東洋文明は非真空文明でした。

 ■ローマ時代のルクレティウス(紀元前97頃~55年頃)の磁力観「目に見えない鎖(caecuae compagines)」が、18世紀のアダム・スミスの「見えざる手(invisible hand)」という経済学上のコンセプトにつながっていたというのも、まったく初耳(That's news to me)でした。そうだったんですか、僕は、昔、経済学史を専門に勉強したことがあったのですが…。これも、ヨーロッパ文明の根深い持続的な一面でしょう。
 また、ルネッサンス(Renaissance)期に入って、ピコ・デラ・ミランドラの「自然魔術(magia naturalis)」に関して、

 ――この術は、ギリシャ人がより的確に〝共感(シンパティア)〝と言っている"宇宙の共感(universi consensus)″をその内部に深く入って探究し、〝もろもろの自然の相互認識(mutua naturarum cognitio)〝を洞察して所有し、おのおのの事物に備わっている生来の呪力(illecebrae)すなわち〝魔術師たちのユンクス〝と呼ばれている呪力をもちいて、世界の奥深くに、自然のふところ深くに、つまり神の秘密の蔵に隠れている〝もろもろの奇蹟(miracula)〝をあたかもみずからが工匠(artifix)であるかのように公衆に示すものである。

と書いているのも、興味深い。19世紀、20世紀以降の人間は、自然界の呪力を、なんだ科学(science)ではない、魔術(magic)かと何も知りもしないで馬鹿にするようになってしまいましたが、こうした古い時代の文章(sentence)を拝見していると、当時の魔術師の方が、自然に対して謙虚(けんきょ;modest)、真摯(しんし;earnest)だった気がします。
 しかも、〝宇宙の共感(universi consensus)″とは、驚くべき表現ですね。宇宙時代になった今は、かえってなかなか、こうした表現は出てこないものでしょう。後世の人間は、人類共通の利害感情、人間の共感を強調するのがせいぜいになったのですからね。道徳感情として、人間の共感(sympathy)の働きを強調(emphasis)したのはスミスでしたが、僕には、自然魔術師と科学者との発想の対比が、非常に面白く感じられます。
 スミスは、「天文学史」の中で、Surprise、Wonder、Admirationといった3つの自然的感情によって、学問研究が動機づけられることを、概略、次のように語っていました。

 ――人間は十分に予期した対象に出合ったときには、心は平静さを保つことができる。しかし、予期せざる対象に出合えば心の平静は乱されるであろう。これがSurprise(驚愕)である。また、人間は観察によって異なる対象間に類似性、共通性を見出したがる。しかし、想像力が従来馴れてきた秩序とまったく違った対象に直面し、共通性が見出せないと不思議に思うであろう。これがWonder(驚異)である。想像力は異なる対象間に間隙や空白を感じ、両者を容易に連結できない。そうして、両者をつなぐ中間的諸事情の鎖(chain of intermediate events)を発見しようと模索する。この努力が成功すれば、心は平静を取り戻す。学問は進展する。そして、(ニュートン体系のような)単純で首尾一貫して美しいものを見ることによって引き起こされる感情がAdmiration(感嘆)である。

 つまり、ピコ・デラ・ミランドラは、自然の代理人として〝魔術師たちのユンクス〝という呪力を主宰したが、アダム・スミスには、そうした自然の代理人、主宰者意識はまったく見られないで、ただ驚愕者、ただ驚異者、ただ感嘆者として、個人的に受身に、自然に相対(あいたい)しているだけなのです。

 ■1600年、エリザベス女王の侍医ウィリアム・ギルバート(William Gilbert、1544-1603年)が、宇宙の真空状態を予見(foresee)するかのように、「地球そのものが巨大な球形磁石である」と宣言(decree)したのも、ある意味、ショッキングですね。科学者の洞察力(clear-eyed)というのは、時として怖ろしいものがあります。このレベルで地球の磁性を見て取ったのは、あのエジソンのライバルだったテスラぐらいでしょう。
 ニコラ・テスラ(1856-1943年)は、地球は、大気の絶縁層、上層のイオン化層とあいまって、巨大なコンデンサー(condenser、蓄電器)であると考え、この地球コンデンサーに高周波(high frequency)の電流を送れば、電極間の静電的なバランスが崩れて、上層に電磁波が誘導されると、「世界システム」を着想したのでしたね。彼の発想が実現していれば、電力供給でも、あの地表に張り巡らされて眼にうるさい送電線(power line)を敷設しないですんだわけです。
 大体、地球が、磁石(magnet)であることは分っても、なぜ、そうなのかは、1950年代まで不明(unknown)だったと、ブブさんも解説(interpret)しておられる。地球内部のコア(core)部で、電磁石(electromagnet)と似た働きが起こり、それが地球磁場の原因(cause)だったということですね。溶けた金属(主に鉄)からなる地球のコアは、地球が回転(rotate)するとともに、渦巻き(vortex)、熱で原子が分解(resolve)して電子(electron)が自由に動きだし、電流(current)が充満する。そうした巨大な電流のために、地球は磁石となり、コンパスの針があたかもそちらを知っているかのように反応する南極(south pole)と北極(north pole)の方位が形成され、磁力の腕を宇宙空間に伸ばしている。こうした認識というのは、地表で安穏(あんのん)に暮らしている人間には、おどろおどろしいばかりです。

Ⅱ 天才トリオの青春と粒子哲学

 ■1642年のクリスマス、イギリスでアイザック・ニュートン(Isaac Newton、1642-1727年)が誕生し、フランスのブーレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623-1662年)は、6つの桁(figure)を歯車(gear)で連絡した手動計算機、コンピュータの卵を発見している。その翌年には、イタリアのトリチェリが人工的(factitious)に真空を作り出しました。
 さかのぼって数年前には、同じフランスのルネ・デカルト(Rene Descartes、1596-1650年)が、『方法序説』(原題《Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la verité dans les sciences》で「理性を正しく導き、もろもろの科学における真理を探究するための方法序説」、1637年)で、「我思う故に我あり」(cogito ergo sum)の立場から世界を眺め、X軸とY軸の直交座標(デカルト座標)で世界を寸暇なく決めつけ、そこには真空は存在しないよと「世界の充満」を語り、身体に代わるロボットの可能性まで示唆(しさ)していました。いよいよ、われわれに馴染(なじ)みがある科学の時代が、真空の実在(existence)をめぐる論争とその可能性(potentiality)をめぐって、幕を開けたわけです。

 ■1644年、ニッポンに生れたマツオ・バショウ(松尾芭蕉、1644-1694年)も、その西欧科学の状況に無関係(irrelevant)ではなかったと、ブブさんは、物理句の発端として、バショウ23歳、1666年に詠んだ次の一句を、あたかも重力(gravity)の存在を示したもののように、例示(exemplify)しておられる。

 しほれふすや世はさかさまの雪の竹

 この重力句が伊賀上野(いがうえの)で詠まれたまさに同時期、ニュートンは、ペストの猛威(もうい;fury)を避けて帰郷したウールスソープ村で、ふと目にしたリンゴの落下から、リンゴと地球のような二つの物体の間には、常にその距離の2乗に反比例し、リンゴ・地球の両者の質量の積に比例する力が働くとの「万有引力(universal gravitation)の法則」を着想したのでした。

 ■また、リンゴが樹から落下し、竹が雪にしほれふしたと同じ1666年に、イギリスのロバート・ボイル(Robert Boyle、1627-1691年)は、『粒子哲学』(corpuscular philosophy)にのっとった形相と質の起源』で、「すべての物体に唯一の普遍物質(catholic or universal matter)」としての「分割可能で透入不可能な延長をもつ実体」の存在を想定しています。「私たちが住む世界は物質の不動のないしは雑然とした集まりではなく、オートマトンすなわち自動機械(self-moving engine)であり、そこではすべての物体に共通の質料の大部分がつねに運動している」と書いたのでしたね。

 ■1676年、分割不可能なモナド(単子)論でもって、デカルト・ボイル的なオートマトンな自動機械的な世界観を完璧に否定するもう一人の天才、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz、1646-1716年)が、当時も「黒い魔術」の結社ローゼンクロイツァーの活動をつづけながらだったのでしょうか、オランダのハーグにやってきて、哲学者のスピノザから『エチカ』の草稿(manuscript)を見せられています。神は、自然に超越(transcend)するのではなく、自然に内在(subsist)すると、自然汎紳論を説いた本ですね。この「神に酔える哲学者」に面会したライプニッツでしたが、その幾何学的(geometric)に形而上学(けいじじょうがく;metaphysics)を語った労作を余り評価したなかったようですね。実は、僕も、学生の頃、古本屋(secondhand bookstore)で見かけて、手に取ってはみたのですが、余りに難しい気がして、そのまま棚(shelf)に戻した思い出があります。

 ■1679年、36歳になったバショウは、エドへ将軍に拝謁(はいえつ;audience)にきたオランダのカピタン一行を日本橋界隈(かいわい;neighborhood)の路上に見学して、

 阿蘭陀(オランダ)も花に来にけり馬に鞍(くら)

との一句を詠んでいます。そのカピタンの献上品(けんじょうひん;tribute)の中に、スピノザが、生計(せいけい;living)を立てるために、屋根裏部屋で磨いた(grind)レンズは、はたして入っていたのでしょうか?
                            ――次回につづく
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その8 往復書簡⑥:石枯て水しぼめるや冬もなし(芭蕉)

2006年01月29日 11時57分27秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
〈ブブからイチロウへ宛てた手紙――8月22日付けのつづき〉

●〈空間縮景〉と〈時間移転〉の融合

 親愛なるイチロウ殿、製品説明的な話が長くなりましたが、もう少しお付き合いください。

 架空的(fictitious)な可能性(possibility)ではありますが、真空(void)で、時間だって製造されてしまうということを、あなたはご存じでしょうか。前に送ったアメリカ日系人科学者テリー・ナカムラを主人公にした小説『裏山を盗んだ男の物語』。あの小説をすでに読んでいらしたら説明するまでもないでしょうが、あの中では、風景を凝縮し、併(あわ)せて、時間がつくられる空想的(fantastic)な真空-フラクタル技術が紹介されています。

 アメリカ育ちだが、戦前のニッポンで高等教育も受けた「帰米」のナカムラ教授は、トウホク大学のオカベ・キンジロウ(岡部金次郎、後に阪大教授)博士が発明したマイクロ波発振管「マグネトロン」を研究したと物語ではなっていました。マグネトロンは、マイクロ波を発生させる真空管(vacuum tube)ですが、電界と磁界を組み合わせた構造となっており、電子を真空中で螺旋(らせん;spiral)運動させます。

 1927年、実験演習を担当していたオカベ博士のもとに来た一人の学生が、真空管を使った実験で、本来ならばゼロになるはずの電流が途中でまた増える、とデータを見せました。この実験データについて、オカベ博士は、極超短波アンテナ(1926年)の研究開発者として知られる恩師のヤギ・シュウジ(八木秀二)教授と議論し、真空管から非常に短い波長の電波(radio wave)が発生しているのだ、と推測するに至ったのです。

 日米の戦争が激しくなった1943年、出撃する飛行機が常に敵機の待ち伏せに遭(あ)うという事態に至り、ニッポンの連合艦隊は、南太平洋の制空権(command of the air)を完全にアメリカ側に奪われてしまいました。たまたまシンガポールで、イギリス製地上用対空電波警戒機(レーダー;radar)を捕獲したニッポン軍は、そこに「YAGI ARRAY」と書かれていることに気がつき、これは何だとなったのです。陸軍研究所、それに、民間電機メーカーの技師が動員され、いわゆる、「八木アンテナ」であることが判明しました。
 イギリスでは、ヤギ教授らの研究を受けて、マルコーニ社が1920年代後半には早くも商品化していたのですが、ニッポンでは、1935年頃に、海軍研究所の技師が、レーダーの研究開発を上層部に進言したことはあったのですが、「闇夜に提灯をともす」研究よりは、兵の訓練が大事と却下(reject)されました。また、商工省が「重要な発明と認め難い」と特許期限延長を1941年に却下したといいます。

 八木アンテナは、戦後ニッポンの高度経済成長期の街風景の典型ともなった、あの家々の屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナに適用されることになりました。そして、その家の中では、各家庭に1台あった電子レンジ・マグネトロンから周波数が2450メガヘルツの電磁波(electromagnetic wave)が発生していました。この電磁波によって、水分子(molecule)が共鳴(resound)し、激しく振動(oscillate)する。水は熱くなり、水を含んだ食品全体も温められました。冷蔵庫(refrigerator)から冷凍食品(frozen food)を出し、電子レンジで「チンする」は、ニッポンの家庭生活を象徴する利器(convenience)となったのであります。

 小説には、ナカムラ教授が、昼夜を忘れて(around the clock)アリゾナの砂漠地帯(desert area)で見つかった1億年前の恐竜(dinosaur)の卵を甦(よみがえ;revive)らせるべく、巨大な実験装置を働かせていた折、落雷(thunderbolt)があって、昏倒(こんとう;fall down unconscious)してまう。その間に、時空を結びつける奇妙な現象が起きるくだりがあったでしょう。あれは、電界と磁界の間に変位電流が流れ、突起的にナカムラ教授を連れ去る「時間」が形成されたのです。

 光やマイクロ波を含む「電磁波」は、電荷や電流が真空を隔てて力を及ぼし合うので、真空中を伝わる特性(property)があります。電気量である電荷はその周囲に電場をつくり、電荷が動いている状態の電流はその周囲に磁場をつくります。さらに、電場・磁場は別のメカニズムでも形成されることが分かっています。それは時間変化です。ある場所で磁場に時間的な変化が生じると、周りの空間にこの時間変化を打ち消そうと、ファラデーの「電磁誘導」が働き、新たに振動電場が発生しますが、この電場も時間変化を持っているので、そこに変位電流が起こり、これがまた周りの空間に振動磁場をつくり、この磁場がまた電場をつくり、……と繰り返されることによって、光など電磁波は、真空中を物凄い(tremendous)スピードで伝播していく仕組みです。

 小説は、このメカニズムを逆手にとって、実験装置に中で雷による変位電流が時間変化をつくり出したと解釈していたのです。フィクションの域を出ない話だからそう真面目に考えないでもらいたいのですが、要は、真空状態では、普段の地球的環境では起こらないような科学的な神秘性(scientific mystic)が鋭角に広がる、と理解してください。

 昏倒からさめたナカムラ教授は、実験データの解析(analysis)から、とうとう、この装置内で起きた突発的(sudden)な時間創出メカニズムをつきとめます。同時に、彼には、ある途轍(とてつ;abnormal)もない技術的計略がひらめいたのです。それは、<空間縮景>と<時間移転>の融合(fusion)技術でありました。

●真空調理法とフラクタル

 その融合技術の一端は、具体的には、真空調理法を連想してもらえれば、分りやすいかもしれません。

 あの小説の中でも、ナカムラ教授が、インスタントコーヒーを呑みながら、物思いに耽るシーンがありましたね。インスタントコーヒーは、やはり、メイジ時代に、アメリカのイリノイ州シカゴに在住した日系科学者のカトウ(加藤)サトリ(もしくは「サトル」とも)博士によって発明されました。カトウ博士は、緑茶の即席化を研究していた途上で、コーヒー抽出液を真空乾燥する技術を開発しました。1901年、ニューヨーク州のバファローで開催されたパンアメリカン博覧会で「ソリュブル・コーヒー(可溶性コーヒー)」と名づけて発表しました。
その後、真空凍結乾燥法によって香りの蒸発を防ぐ製法が確立された商品です。濃縮(concentrated)の液体コーヒーを摂氏マイナス40度に凍結し、凍って粒になったものを真空に排気(axhaust)して、香り成分の蒸発(evaporate)を防ぐのです。同じ手法でインスタント味噌汁、ラーメンのかやく、乾燥(dehydrated)梅干、血液の粉末までを製造しました。ちなみに、ニッポン俳諧において四季折々の水気(moisture)、匂い(smell)、香り(scent)ってものは、以下のマツオ・バショウ(松尾芭蕉=上掲写真)の句にあるように、最重要課題ですからね。

 石枯(かれ)て水しぼめるや冬もなし

 何の木の花とはしらず匂(におい)哉

 菊の香やならには古き仏達(ほとけたち)

 真空凍結乾燥法、ただ、これだけなら、水分を抜いた食材縮小の域を出ないのですが、小説らしい大胆な省略(omission)と飛躍(leap)というのか、ナカムラ教授は、先の昏倒以来開発にいそしんだ電磁波を留める四角い小さな穴あき箱を中心に据えた、電子レンジを改良したような奇妙な装置を考案して、大学裏の赤松がある渓谷(valley)の実際風景を、水気を保持したまま、盆栽サイズにまで縮める画期的(revolutionary)な技術の実用化に成功しました。

 上述の四角い穴あき箱というのは、実は、ニッポンでも開発が進んでいた次の研究と関連があったようです。2004年1月7日、ニッポンのアサヒ新聞朝刊1面に「電磁波蓄える〝宝箱〟 信州大・阪大など開発 穴あき立方体1千万分の1秒とどまる」という見出し(headline)が躍(おど)ったことがありました。

 信州大、大阪大、物質・材料研究機構の共同研究グループが、1箇所に留め置くことが困難だった光を含む電磁波を穴あきの立方体(cube)の中に閉じ込める技術を開発、アメリカの物理学誌「フィジカル・レビュー・レターズ」に論文(article)を掲載したのです。

 立方体は、細部と全体の構造が相似(similar)のフラクタル(fractal)構造であり、穴も正方形(square)とすれば、構造は「フォトニックフラクタル」(グループ命名)になる。なんでも、阪大接合科学研究所のミヤモト・ヨシナリ(宮本欽成)教授が、使い慣れていた酸化チタン系の微粒子を混ぜたエポキシ樹脂だけで27㍉角、約9㌘の穴あきの立方体を作り、周波数8ギガヘルツの電磁波を照射しても、反射も透過もしなかったとか。そして、照射を止めても、1千万分の1秒間、中心部の空洞に留まり続けていたといいます。同じ素材、同じ大きさでも、穴のないものは反射も透過もした。また、立方体の1辺を10分の1の2・7㍉角に縮小すると、周波数は10倍の80ギガヘルツの電磁波を閉じ込める効果がありました。しかし、当時、ニッポンのグループは、こうした単純な素材と構造だけで、なぜ、こうした効果(effect)が出るのか、その理由は解明できていなかったのです。

 「フラクタル」とは、その輪郭が古典的なユークリッド幾何学(geometry)で扱うように線や曲面のようになめらかではなく、不規則で鋭角的にジグザグとなっている幾何学的対象を呼びます。ソウセキの弟子テラダ・トラヒコ(寺田寅彦)も、フラクタルに興味を抱いて、ガラスを何百枚も壊して砕片の数分布を数えたとそうです。
 この図形は、「分数(フラクション;fraction)の次元を持っていると、当初、考えられました。古典幾何学では、直線は一次元(one dimension)、面は二次元、立体は三次元と、整数(whole number)の次元なりますが、フラクタルでは、砕けたガラスの破片の縁の形が持つ次元は、1.54とか2.37と、不思議な次元になるから、その半端(はんぱ;odd)なところに魅了される科学者もいるのです。

 ところで、1978年に、フランスの数学者マンデルブロが非整数次元の幾何学というものを発表するまで、不思議次元のフラクタルの解析方法はまったく見つからなかったのです。フラクタル次元の分析には、虚数の入った複素数関数(z2 + c)が重要な武器となります。マンデルブロは、IBMの研究員時代に、複素数関数を嫌というほど反復的に演算(arithmetric calculation)させる作業をコンピューターに任せ、人工の海岸線を描くことに成功しました。「はじめてその海岸線が現われたときは、みな唖然としたよ。何しろまるでニュージーランドそっくりだったんだからね!」(『アインシュタインの部屋』から)。

 後世、特に、フラクタルと言うとき、地形の起伏や雲、樹木や血管(blood vessel)の構造で、任意の一部分が常に全体の形と相似になるような自己相似的図形のことを指すようになります。拡大しても縮小しても同じように見え、対称性(symmetry)を持った複雑な構造を指しました。

 小説のナカムラ教授は、その真空-フラクタル技術を、一般的なアメリカ人教授がしたように特許にして、ベンチャービジネスの会社を興し、巨万の富(wealth)を築くでもなく、田舎の貧乏学者の境遇(circumstance)に甘んじて長らく秘匿、一人で技術の完成に努めたとあります。

 結果的に、コンピューターの処理能力が量子(quantum)技術を使って格段に増す数十年後まで、ナカムラ教授は、これを応用技術として確立できなかった。そうして、最初の実験から思わぬ歳月をへた二十一世紀の初頭、齢(よわい)八十才に達して、死期を悟ったナカムラ教授は、長年住み暮らしてきたユタ州ローガン(Logan)の風景とも似たところがある祖国ニッポンの山奥(deep in the mountains)に分け入って、あの前代未聞(unprecedented)な【風景剥奪(scene plunder)】という盗み(larceny)を働くに至った、と小説は描いています。

 こうした小説に出てくるような空想的な真空-フラクタル技術をうまく利用して、われわれも「風雅のブリキ缶」のプロジェクトを推進してみてはどうかというのが、提案(proposal)の趣旨であります。実際、ナカムラ教授が創出したような〈空間縮景〉と〈時間移転〉技術のうち、後者はともかく、前者は連邦時代に入ってかなり実用化が進んでいることは、あなたもご承知置きでしょう。いわば、死の床にあったマサオカ・シキ(正岡子規)が、『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』(1901年)の一節(9月26日)に記した、「小草(おぐさ)の盆栽に蟷螂(かまきり;mantis)の居るをそのまま枕元に持て来ておく」といった無造作な移転趣味であります。

 このような技術的な背景(background)を持つ真空ハイク缶によって、あなたが芝居で表現したかったようなバショウやキョクスイの俳諧への思いが、超鮮度(super-freshness)で保たれる風にならないかと、小生は考えたのであります。

 アッハッハ、奇想天外(fantastic)でしょう。でもまったく素晴らしいアイデアでありませんか。そうは思いませんか。最後に、われわれのプロジェクトが、そうはならないように、反面教師として、バショウの一句を献じて終わりとしましょう。          ブブ

 物好(ものずき)や匂はぬ草にとまる蝶(ちょう)  芭蕉           

追記――「真空科学」という用語自体、耳慣れないと思うので、少々長くなりますが、真空科学について年譜的(biographical)に触れた小生の論文「真空科学の年譜的考察」をここに同封しておきましょう。
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その7 往復書簡⑤:筍は缶詰ならん浅き春 (漱石)

2006年01月29日 11時11分02秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
〈ブブからイチロウへ宛てた手紙――8月22日付け〉

●「ハイク缶」の提案

 小生、あなたが持ち出した「ザ・ワールド・テクニック」という言葉の響きに、実に感動しました。文学青年風なあなたから、そうした気の利いた具体的な方法概念(methodological concept)が飛び出すとは思いませんでした。

 しかし、唐突にどう考えますかと問われて、食にうるさい小生としたことが、座る席、座る時刻まで決まっている行きつけのフレンチやジャパニーズ・レストランに出向くこともなく、来客もなくガランとした事務所のソファに深々と沈み込んで、イワシ缶やカップヌードルでしのぎながら、三日三晩も考えてしまったのも、事実であります。

 やがて、自分でも予期せぬ方面から、啓示(reveal)を得ました。

 小生は、ヘビースモーカーというほどではありませんが、知人から贈られて気に入った復刻版(reprinted edition)のニッポンタバコをときどき愛煙しています。最近は、女性に毛嫌いされるというので男のスモーカーは激減(sharp decrease)しましたが、小生はそんなことにまったく頓着(とんちゃく)しません。お蔭(かげ)で、あなたは臭いなどと邪険(じゃけん)にされて、この年まで独身ですが、アハハ。

 さて、このアンティーク・タバコは、なかなか凝(こ)っていて、二十世紀のニッポンの空気が真空(vacuum)密閉(sealed off)のブリキ缶に永久保存(permanent preservation)してあります。缶の蓋(lid)を開けた時点で、空気は拡散(diffuse)して、どこかに行ってしまうのでしょうが、タバコを燻(くゆ)らすと、何とはなしに二十世紀の香りが鼻先に漂い出すのであります。その鼻腔(nostril)への快い仕掛けが、ガンや心臓疾患に好い気持ちがしない小生にも、つい手を伸ばさせる誘惑(temptation)因になっているのだろうと想像されます。小生は、ニコチンでなく二十世紀という時代へのノスタルジア(郷愁;nostalgia)に中毒(addict)してしまったようであります。

 余談はさて措いて(So much for the digression)、その机に置かれた缶入りタバコのケース(50本入り)、鳩が三つ葉(honewort)の小枝(twig)をくわえる意匠画を施した「Peace(ピース)」なる濃紺(navy blue)の紙カバーを貼ったブリキ缶が、あなたからの依頼事を解く意外なヒントになりました。

 ブリキってのは、薄鉄板を錫(すず;tin)でめっき(plating)被覆したもので、十三世紀後半から十六世紀前半にかけてボヘミアで発明されたといいます。ニッポンには、エド(江戸)時代に、オランダ人からナガサキ(長崎)にもたらされ、オランダ語の「ブリク(blik)」がなまって「ブリキ(buriki)」になったものです。ニッポン人は器用(dexterous)ですから、幕末には、精巧(elaborate)なブリキ玩具までつくり始めました。

 ブリキ製の缶詰(can)は、1810年、イギリス人のピーター・デュランによって開発されました。黎明期(the incunabula)のブリキ缶は、とても厚く、熟練工でさえ、日に10缶作るのがやっとであったそうです。また、缶を開封する缶切りのような道具もなく、斧(ax)やハンマー(hammer)で壊して開けていました。斧やハンマーで開けていたぐらいですから、最初の頃の缶はサイズ的にバケツ大でした。そのためもあってか、中まで十分に火が通らず、バクテリア(bacteria)が繁殖(propagate)しやすく、食中毒(food poisoning)の恐れから、1846年には、イギリス海軍が購入した缶詰を大量に廃棄するなんて事件(incident)もあったといいます。

 なお、ニッポンで、小生が食べたような「イワシ油漬缶」が初めてつくられたのは、1871年(明治四年)のナガサキにおいて、フランス人のL・デユリーの手ほどきを受けたマツダ・ガテン(松田雅典)によってであります。その後、1877年には、ホッカイドウ(北海道)イシカリ(石狩)の開拓使工場で、サケ缶の商業生産も始まっています。

 ブリキ缶を製造する「すず鍍金(めっき)」法については、当初、熱漬法(どぶ漬け)が主流でしたが、後には、電気めっき法が普及しました。これだと熱漬法に比べて、3分の1程度に薄く被覆でき、しかも、めっき面が均一できれいになるメリットがありました。

 アハハ、ちょっとばかりブリキ缶の講釈が長くなりましたな。イチロウさん、驚かないでください。小生のザ・ワールド・テクニック案は、健康に悪いタバコの代わりに、旬(しゅん)の俳句を、このブリキ缶に封入してはどうかというものであります。まさに、下記のソウセキの句(大正3年)のごとく、筍(たけのこ)の浅き春を密封保存する趣向であります。

 筍は缶詰ならん浅き春  漱石

 そう、われわれの「風雅のブリキ缶(fuga-buriki-can)」は、「ハイク缶」であります!

●風雅の造形――箱庭と盆景

 あなたが話に持ち出した「箱庭療法」と言っても、なにも箱の中の砂地にプラスチック製のキャラクター人形(doll)やら怪獣(monster)、戦車(tank)が載(の)った月並みな心理学(psychological)箱庭を発想しなくてもよいでありましょう。あるセラピストの話では、玩具(toy)売り場で売っているような既製(ready-made)、出来合いのパーツ(材料)を使って、決められた枠の中でそれらパーツの組み合わせとして自己世界のイメージを噴出させるのが、箱庭の強みであり、絵のように上手い下手が気になったりしないところがいいのだということですが、やはり、われわれの「風雅」という古びた基準(criterion)は、譲りたくありません。あくまで、箱庭は、風雅の器なのです。

 1929年、イギリスのローエンフェルト女史が子供に対する治療手段として考案し、後に、スイスのカルフ女史によって国際規格化された箱庭は、慥か、縦57㎝×横72㎝×深さ7㎝の寸法の箱に砂を敷いたものだったと思います。箱の内側は砂を掘ると底に海や川の感じが出やすいように水色に塗ってあったとか。

 厳格(rigid)な寸法付きの西洋箱庭というのは、……患者に〈自由にして保護された空間〉を与えて自分の世界を表現させると同時に、一律に規格化された箱の枠がイメージ表現に「制限」を加えることで、自己治癒力を最大限に発揮させる仕掛けである、と説明されても、やはり、ああした無粋な道具立ては、どうもゾッとするばかりであります。

 もともと、ニッポンの箱庭というのは、「盆景」という縮景技術の一派でありました。盆景は、箱に砂を入れる箱庭と違って、深さ(depth)もない盆に赤土を盛ります。歴史はかなり古く、起源はスイコ(推古)天皇の時代にクダラ(百済)渡来人が伝えたとされます。ショウトク太子が住んだイカルガ(斑鳩)宮跡からも玉石をまばらに敷いた小さな流水路が見つかり、自然石でつくった小さな池庭があったことが分っています。太子もある種の「盆景」を楽しんだのかもしれないですな。

 やがて、ヘイアン(平安)貴族によって慈(いつく)しみはぐくまれるようになったのが、素朴な「鉢山」や「盆庭」でした。それがメイジの頃から、化土(けど)といって、アシやマコモが地中に長く埋もれてできた弾力性(elasticity)のある土を使う、造形的(figurative)な技巧作品に変遷(transit)していったのです。

 一方、盆景の一派(sect)として、もう少し気楽な愉しみ方もムロマチ(室町)時代からありました。盆に石を乗せ、その周辺に砂で風景を描き、座敷に置いて飾りとしたものです。石が海岸の巌(いわお)ならば、砂浜や波、月、雲まで風流の素材(subject matter)を砂で描き分けました。いずれにしても、メイジ(明治)時代には、箱庭に代わって、盆景が、この手の縮景的娯楽(amusement)の主流(mainstream)になっていました。

 アメリカの強制収容所で、日系人がこしらえた「盆栽」も、この盆景文化の一分野でした。一般に、鉢植えの植物ではそのままに育てて等身大(full-length)の自然美を愛(め)でるのですが、これに剪定(せんてい)など徹底して手を加え、樹形を整え、逆説的(paradoxically)に、大きな風景を連想させるような大自然の縮景を眼前に再現すると、盆栽の世界になります。盆栽は、チャイナの発祥らしいですが、詳しいことは分っていません。それだけ東洋人にとって、自然発生的な趣味(interest)だったのかもしれませんな。

 1965年に、カワイ・ハヤオ(河合隼雄)氏が「箱庭療法(Sand Play Technique)――技法と治療的意義について」(『京都市カウンセリングセンター紀要』第二巻)によって紹介したユング派の「箱庭療法」が、ニッポンで発展され、定着したのは、こうした盆景文化の素地が底辺にあったからでしょう。カルフ女史のサンド・セラピーが、ユングの「象徴理論」に則(のっと)って、クライエント(client)の箱庭作品を厳密に解釈(interpret)しようとしたのに対し、カワイ氏は、そういちいち目くじらを立てて解釈しなくてもよろしい、全体として見ていったら結構、セラピストも余り細かいことを言わなくてもよいとしました。
                          ―次回につづく―
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その6 往復書簡④:ある時は鉢叩かうと思ひけり(漱石)

2006年01月22日 16時56分45秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
〈イチロウからブブへ宛てた手紙――8月14日付けのつづき〉

 今、こうして、ブブさんに改めて手紙を書いていて、ふと、あることを思い出しました。図書館(library)の古い新聞ででも読んだのでしょうが、ニッポンとアメリカが戦争したいた頃、爆撃機(bomber)のB29に爆撃手として乗り込んでいた元兵士(soldier)が、「5万フィートの上空からでも人間が焼かれたにおいを感じた」と語っていたことです。

 少年が、マッチの炎に焦(こ)げて蟻が死ぬ情景を、ある高さからじっと「俯瞰(ふかん)」していた眼も、あの無差別爆撃で、兵士が上空から地上の「人間が焼かれたにおい」を感じた殺戮(さつりく)を思い起こさせるものがあります。

 実は、少年の母親は、3年前に、首をくくって亡くなりました。三十才でした。

 話はとびますが、ブブさんからの手紙に、ブブさんの祖先で、旧アメリカ国において強制収容所に収監された日系移民の方が、盆栽を育てて慰めにしたと書いてありました。それに連想(connection)が働いたのかもしれませんが、僕は、心理療法の分野に専門的な知識(knowledge)はないのですけれども、ロンドンの小児科(the pediatrics department)の女医マルグリット・ローエンフェルトが発明した世界技法(The World Technique)というのがあることを、ふと思い出しました。ローエンフェルトは、治療に来た子供たちが、H・G・ウェルズのSF小説にヒントを得て、床の上に玩具(がんぐ;toy)を並べ、「この世界(ザ・ワールド)」と名づけて遊んでいるのを見て、しかも、その架空世界に内面を表現することで、子供の病気が癒されていったことから、1929年に、「ザ・ワールド・テクニック」という名称で、その方法を発表したのです。

 心に病がある患者(かんじゃ;patient)に思い思いの箱庭(miniature garden)の世界をつくらせて、自分の潜在意識(the subconscious)を表現させるなかで、自己治癒力を高めようといった試みだったと思います。

 早い話、音楽や絵画だって、それに僕がかかわってきた文学や演劇の世界だって、世界技法のヴァリエーションを提供しているだけなのですが、……まあ、現実には、そんな高等な目的意識よりも、出世欲、お金と名誉が最初にあって、その治癒的自覚は、つくっている側には割と欠落しているかもしれません。

 ともかくも、そこで、僕なりに身近なところで考えてみたのですが、あのブブさんに鑑定していただいた時代芝居『麦ひき延ばす小昼』に取り上げたバショウの文学の場合は、どうだったかなと。そもそも、バショウが、晩年に編み出した『野ざらし紀行』に始まり、『鹿島詣(かしまもうで)』『笈(おい)の小文』『更科(さらしな)紀行』『奥の細道』『嵯峨(さが)日記』とつづいたハイクまじり紀行文の世界は、自己治癒力を高める「世界技法」の実験、つまり、箱庭装置だったと考えられないかと。

 うろ覚えなのですが、『奥の細道』の目立たぬ箇所に、バショウは、「山中や菊はたおらぬ湯の匂」と詠んでいます。バショウが泊まったそのヤマナカなる村の宿の主人、クメノスケ〔久米之助〕は、弱冠十四才の少年でした。クメノスケの話に、父親がハイカイを好んだこと、あるとき、キョウトの若いハイカイ師がやってきて、父親から「風雅に辱しめられ」、キョウトに帰ってから大いに発奮、世に知られるようになったという。そして後々、そのハイカイ師は、ヤマナカ村の者からはけっしてハイカイのことでお金〔点料〕を受け取らなかった。さらに、クメノスケもバショウから俳号「桃夭」をもらうことになった。――そんな実話(true story)があったと思います。これなども何か参考になるでしょう。

 また、バショウが、キョクスイに書き送った「志を勤め、情を慰め、むやみに他人の評価を気にかけず、俳諧によって実の道に入るべき器の者」とは、蕉門流の世界技法のすすめだったのではないかと思われます。

 キョクスイが晩年の句に、「おもしろや叩かぬ時もはちたゝき」というのがありました。鉢叩(はちたた)きというのは、聞きなれない言葉ですが、調べてみると、元来は、米や銭の施しを受ける鉄鉢(てっぱつ)を打ち鳴らしたことに由来するとか。後に、鉄鉢は瓢箪(ひょうたん;gourd)に代わり、「空也上人忌(くうやしょうにんき)」の法会(ほうえ)で、十一月十三日から歳晩(さいばん)にいたる48日間、夜な夜な鉦(かね)や瓢箪を鳴らし叩いて、「空也念仏」を唱えながら、京の洛中(らくちゅう)を勧進(かんじん)するとともに洛外の墓所(grave)や葬場を巡り歩く風習があったそうですね。「その声からびて、哀れなるふし多し」とキョライ(去来)の言葉が伝わります。バショウの句にも、「干鮭(からさけ)も空也の痩(やせ)も寒の中(うち)」とか「納豆きる音しばしまて鉢叩」というのがあります。納豆は、当時、刻んで、味噌を加え、だし汁でのばして豆腐や葱(ねぎ;scallion)などを実にした納豆汁にして、食すのが一般的であったようです。バショウは、京の鉢叩きを聞こうと、わざわざ、キョライを訪ね、徹夜までしたとか。ああ、これまた、ブブさんに余分な注釈をしてしまって、誠に恐れ入ります。

 仕様のない俗物に天誅(てんちゅう)を下し、刃を己の腹に突き刺した切腹サムライに、外見上は何ほどか凄惨(せいさん)さはあっても、内面にこの浮き浮きしたもう止まらない「はちたゝき」式の律調(rhythm)があったとしたら、あの事件についても、今までとは違った印象も芽生えてきます。必ずしも、キョクスイの行為(behavior)は、自己犠牲(self-devotion)の産物だけだったとは言い切れないのではないかと。

 あのとき、「風雅の武士」としてのキョクスイは、澄んだ心持に嬉々(きき)としていた、心の芯は凛(りん)としていた、颯爽としていた――そんな感じを持つのです。

 これは、人は人を殺してはいけないのだというヒューマニズム(humanism)の一見した思潮(しちょう;thought)には反しているわけですが、キョクスイは確固たる人格的意志をもって殺人を犯したと思います。それは狂気(insanity)に駆られた暴力でなく、不正によって虐(しいた;persecuted)げられた者たちの悲しみを代行する行為だったでしょう。そして、なにより、恥じるところないサムライの本懐(ほんかい;his long-cherished object)をとげる魂のリズムであったと思います。ああ、それから、文学に本懐を求めたソウセキにも、次のような鉢叩きの句(明治32年)があったことを思い出しました。

 ある時は鉢叩かうと思ひけり  漱石

 ブブさんが手紙に書いておられたように、サムライ主義みたいなものがあって、それは葛藤(かっとう;conflict)する人間に何か名状し難い勇気を注入するものなのかもしれません。ヒューマニズムなんかよりもまず世間体があって、躰(からだ)をはって戦うことを恥じさせるような教育を僕も受けてきたし、多分、今の子供の世代も同じだと思います。それではいたずらに葛藤要因だけが内面で複雑にふくらんでしまうのではないでしょうか。

 もし大人になればといった期間の猶予(ゆうよ)、親が望むような常識的なペンディング措置を拒否したとしたら、そんな風に、自らを追いつめる少年には、他者の存在破壊、もしくは、自分という存在の抹消(まっしょう;erase)しか、残されていない気がします。

 そこでブブさんにお願いがあるのですが、バショウのサムライ・ハイカイと箱庭療法をうまく統合する工夫はないものか、恐喝(きょうかつ;extort)されるロベルトくんや蟻殺しに耽(ふけ)るデルジェくんのような暗い心理の少年に、颯爽とした「風雅の少年」の面目(めんもく;honor)をつくってやれないものか。ソウセキの生涯最初の一句「帰ろふと泣かずに笑へ時鳥(ほととぎす)」(明治22年)も、喀血(かっけつ;spit blood)したマサオカ・シキ(正岡子規=上掲写真)を激励する俳句だったではありませんか。僕にも、少年たちに何かしてやれることがあると思います。

 ブブさんは、どう考えますか。お便りを待っています。    イチロウ
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その5 往復書簡③:どっしりと尻を据えたる南瓜かな(漱石)

2006年01月09日 12時07分35秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
〈イチロウからブブへ宛てた手紙――8月14日付け〉

 ブブさん、さっそくのお便りありがとうございました。

 僕は駄目(だめ)ですね。何度も手紙を書きかけたのですが、いざ投函(とうかん;dispatch)するとなると、こんなことを書いて笑われるのではないかと考えたりして、物書きで生きてきた人間なのに、おかしなものです。

 今日は、二日前にあったちょっとした出来事について書きます。

 イッポリートさん一家に四人のお子さんがいることは、前回の手紙で触れました。名前は上からルマヤ、ロベルト、デルジェ、アモです。一番上のルマヤさんは十七才ぐらいですがもう立派に家事(housework)をこなす娘さんです。十五才のロベルトくんは痩せ型で寡黙(reticent)秀才(brilliant)肌の少年です。対照的に小太りでお茶目なところがあるのがデルジェくん十一才。一人だけ年齢が離れて一番下のアモちゃんはまだ四才の女の子です。

 ところで先日、長男のロベルトくんが近所の悪がきにちょっかいを出されているシーンを目撃(witness)しました。どうも陰湿なイジメ(sinister bullying)の関係ができているようで、少し気がかりです。そのロベルトくんが落とした学校のノートを偶然拾う機会がありました。数学に使っているノートらしく、どのページにも微分方程式(differential equation)を使った解答プロセスが書き込まれていましたが、中に明らかに趣きの違ったページがあります。こんなことが書いてありました。

 ―― i (の2乗)=-1(i は虚数単位)……リアリティーの融合数値。その効用は情緒端数の切り上げか、切り下げか。

 ほんとの人間とは――いかなる組織にも、政治にも屈服しえない人間――慎ましくとも己と己の兄弟のようにしてある世界の一人一人に微笑を送ってやれる人間――美しい心に死への謙虚な諦念と生への素直な感動を養える人間――いつだって悲しい顔に子供のような表情をうかべている人間。

 私は幼児(infancy)のとき頑固(stubborn)だった。少年のときへそ曲りだった。老年の今は、誰よりも孤独だ。私はほんとの人間を知らずにきてしまった。ほんとの人間は必死になって探さなければ見つからなかったのだ。玩具を捨て、学校を捨て、社会を捨て、恋人を捨て、子供や妻を捨て、ほんとの人間を探すべきだったのだ。私はもっともっと孤独になって寂しくなって、一人きりになってほんとの人間を自分の中に探すべきだったのだ。 

 ブブさんは、この文章をどう思いますか。

 僕には、数学の定義式と並列するかたちでべき論や過去形を使って定義できない人生をむりやり定義しようとしているところが、苦しそうで可哀想な気がします。ロベルトくんはまさに思春期にいます。十五才の少年が「老年」と自称する心持ちは、僕には痛いほど分かる気がします。

 それに、虚数(imaginary number)を人生的問題の主題にしているのは、なぜなのでしょうか。虚数には、人生を語る上で何か特別な、象徴的な、あるいは実質的な意味が隠されているのでしょうか。ブブさんに余計な講釈(lecture)は恐縮ですが、かつてライプニッツは、「虚数」のことを、「神性なる魂は、解析学の驚異と理念の世界の前兆として、崇高な解決の糸口を見つけた。それは、存在と非存在の両生類であり、我々はそれを想像上の根と呼ぶことにする」と述べたといいます。ロベルトくんも、その「想像上の根」を探し求めているのでしょう。

 いずれにしても、平凡(へいぼん;ordinary)な大人が固まった料簡(りょうけん)で分かったようにああだこうだ指導するよりは、さりげなくヒントを与えて、彼が自身の鋭角なイメージを受け止めることができる時期まで、じっくり待つべきなのかもしれません。

 それから、次男のデルジェくんのことになりますが、二日前の午後、僕が屋根裏の小さな窓から外を眺めていると、にわかに辺りが暗くなり、ひとしきり驟雨(shower)がありました。やや顔を突き出して斜め下を見るかたちになりますが、裏庭(yard)の方でルマヤさんが急いで物干し竿(laundry pole)から洗濯物を取り込んで籠(basket)にしまうのが見えました。

 それから僕は、墨絵風に薄っすらと雨に霞む(mist)田園の濃淡(tone)の世界に、化けトマトが点々とにじんだように、しかし、てこでも動かない風に座り込んでいるのをぼんやり見ていました。

 僕の手元に、たまたま、ソウセキの俳句集があります。その中にある、

 どっしりと尻を据えたる南瓜(かぼちゃ)かな

の句(明治29年頃)というのは、トマト(tomato)とカボチャ(squash)の違いはありますが、まさに、そんな風情ですね。

 立派な著作があるほどソウセキ通のブブさんに、これも余計な講釈で無用なのでしょうが、このカボチャの俳句を吟(ぎん)じたマツヤマ(松山)・クマモト(熊本)時代のソウセキ(=上掲写真、明治29年のマツヤマ時代に撮影)は、教師を辞め作家になりたいが、その手立てもなく不安定な気分で生きていました。この句には、そうした折のしっかりしなければと自らを励ます気分が表現されています。僕も学生時代に戯曲に手を出しましたが、なかなか目が出ないで、忸怩(じくじ)たる気分になった時期がありますから、ソウセキの気持ちは幾らか分かります。

 話が横道にそれましたね。そして、窓の外はほどなく空も明るみ、雨も細くなって切れ切れにやんでしまいました。すると、雨に洗われた化けトマトがそれまでの墨色から鮮やかな色彩を取り戻して次第次第にぽっと赤く染まり出てきて、そうして静かに黄昏(twilight)てゆくパピヨン村の風景は、この世のものとは思われないほど神々しく(divine)美しいのです。僕のような、狭苦しい自意識(self-consciuousness)から開放されにくい人間も、少しは自分を忘却できる時を持てました。

 さて、裏庭の方角に人の気配(sign)があるので、きっとルマヤさんがまた濡れた洗濯物を干し直しているのかと、それまでの顎(あご;chin)に手の甲(back of his hand)をあてがった姿勢を崩して、前のめりに窓の下をひょいっと覗(のぞ)きますと、次男坊のデルジェくんの姿があります。蹲(うずくま;crouch)って何かをしているようですが、そこからは何をしているかしかとは分かりません。やっと、しばらく眺めていて、彼がしきりにマッチを擦っているのですが、雨上がりの湿気のためか、火がつきにくいのだと合点がゆきました。何かの火遊びですね。僕は、伸び上がるような恰好(かっこう)になって、デルジェくんの頭越しに一体どんな火遊びをやっているのかを確めようとするのですが、遠くてどうにも判然としません。そのうち暗くなったためか、十五分ほどしてデルジェくんは家の方へ引き上げてしまいました。

 僕は、けっして単品の好奇心に動かされるような人間ではありませんが、このときはある興味に誘引されて、部屋の扉を開けると、みしみし軋(きし)む階段をそっと降りて、裏庭へ出ました。塀のそばに葵(あおい)という花だったか、僕は花の名にからっきし疎(うと)いので正確でないかもしれませんが、やや毒々しい感じの、背高く伸びた茎のほうぼうに花弁がついていて、縁は赤いが芯にゆくほど淡紅色に変わる花が、何十と、夕闇の空間に咲いていました。

 僕は、デルジェくんがしゃがんでいた辺りに中腰になって、濡れた地面に眼を凝らしました。マッチ棒が幾本か散らかったそばにゴマのように丸く縮まった黒いものを発見しました。その黒いものを指の先につけて間近に見ますと、それは蟻(ant)の死骸(carcass)でした。

 夜、僕は、デルジェくんの心持ちを想像しながら、日記に、次のような文章を綴(つづ)っていました。誇張と考えずにどうかお読みください。

 ――そこに、地面にしゃがみ込んで蟻が動けなくなるまでじっと見入っているボクがいる。哀れな小っぽけなボクだった。ボクは、どの瞬間に、蟻に死が訪れるか、何十何百の蟻を殺してその謎を解こうと躍起(やっき)になっていた。しかし、どうしても駄目(だめ)なのだ。

 長い髭(ひげ;whisker)のような触角(feeler)をたよりに、でこぼこな地面を徘徊(はいかい)する蟻を見つけ、その蟻には「死ぬ資格」があるか、しばらく尾行しながら観察する。そそっかしい奴もいれば、慎重な奴もいる。しかし、どいつも憎たらしいほどにメカニックな俊敏さだ。やがて運命の時を宣告(sentence)しつつ、マッチ棒を擦る。一瞬の舐(な;lick)めるような火炙(あぶ)りで地面を転げまわった蟻は、ジュッと丸く縮まって、すぐに動きが鈍くなる。

 そのときボクは、ぱたぱたさせていた蟻の脚(あし)が痙攣(けいれん;cramp)を繰り返しながら静止するまでを、神秘(mysterious)な出来事のように覗き込んで、「彼の死」を実感しようと努めた。慥かに、何度か蟻の明らかな死を「見た」ような気がした。それはアッケラカンとした昆虫(insect)の死である。

 ……蟻たちは、ボクという殺戮(さつりく;massacre)者の前で、笑っていた。慥かに、何疋もの蟻が微かな安堵(あんど;relief)にも似た微笑(びしょう;smile)をもらして、死んでいった。

「裏切り者(betrayer)め!」 腹立たしくなって、ボクはこう罵倒(ばとう;abuse)していた。憎々しげに口をゆがめさえした。

 「死」は、もっと深刻で峻厳(しゅんげん)な事実であるはずだ。すさまじく悲痛な出来事でなければならなかった。「死」は、大いなる苦悶(くもん;agony)の果てにこそふさわしい祝福(beatitude)の瞬間でなければならない。十一才のボクは、厳格(げんかく;strict)な審判者になり切って、非業の死に出合うまで、蟻を殺しつづけるしかなかった。

〔手紙に付されたイチロウの解釈(interpretation):しかし、蟻が微笑んだというのは、子供の錯覚にすぎなかったのだろうか。そうは思わない。少年の「ボク」は、身も細るほどに全神経を注入して、蟻の死を目撃していたのだ。それはもちろん医者の眼ではない。科学者の眼でもない。素人の、しかし魂の無垢(innocence)に焦がれて必死に問いかける子供の眼が目撃したのだ。言いかえると、「神の眼」に近かった。〕

                         ―次回につづく―
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その4 往復書簡②:木のもとに汁も膾も桜かな(芭蕉)

2006年01月09日 12時03分43秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
〈ブブからイチロウへの手紙――6月14日付け〉

 小生は、形式的な挨拶(あいさつ;greeting)の後、返事をこんな風に書いた。

 バショウには、「句と身と一枚に成って案ずべし」という言葉があります。それだけ、五七五の17音の詩だって必死なものなのです。

 小生が口にしたサムライの血脈の意味は、ヒコネ(彦根)在住の弟子たちの俳風(はいふう)を評して、「世上の人をふみつぶすべき勇躰、あつぱれ風雅の武士の手業なるべし」とキョリク(許六)に書き送ったバショウその人と、それからずっと後世に、「僕は一面に於いて俳諧的文学に出入すると同時に一面に於いて死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい。それでないと何だか難をすてゝ易につき劇を厭ふて閑に走る所謂(いわゆる)腰抜文学者の様な気がしてならん」と弟子のスズキ・ミエキチ(鈴木三重吉)に書き送ったソウセキの口吻(こうふん)を、学んだと言えましょう。

 小生、まっとうなニッポン骨董師として、バショウの「風雅の武士」やソウセキの「維新の志士」の気合、サムライの必死な気迫(spirit)を忘れたくないのであります。掛軸(かけじく)や茶碗(ちゃわん)のガラクタ(rubbish)をさも有り難がって客に高く売りつける小商人(あきんど)風な小狡(こずる;cunning)いだけの骨董屋の真似(まね;imitate)はしたくないのであります。

 それにしても、純粋日系人のあなたからニッポン人のように笑うと指摘されたのは、小生にとって新鮮な驚きでした。意外だったからではありません。虚のなかの実を突かれたからです。

 小生、見かけは百%のアフリカ人に見えるでしょうが、実は、数%ぐらいは母方からニッポン人の血も混ざっているのです。その数%の血筋を何世代もたどっていくと、アメリカの砂漠(desert)に建てられた強制収容所(concentration camp)のバラック(barrack)とその入口につくられた貧しい庭(garden)に行きつくのです。その庭の由来は、何もアフリカから連れてこられた奴隷(どれい;slave)の子孫が草原を思い出したからではございません。祖国から勧(すす)められて一攫千金(いっかくせんきん;making a fortune at stroke)を夢見て太平洋を渡ってきた意地のやり場なさでございました。日系アメリカ移民一世のわが先祖は、そのキャンプの不毛(ふもう;sterile)な土壌に立派な盆栽(bonsai)を育てて無聊(ぶりょう;boredom)をまぎらわしただけでなく、ニッポンの山河を再現して、アメリカ市民として扱われない屈辱(くつじょく;humiliation)を辛抱(しんぼう)したそうであります。

 小生の笑いは、そうしたアメリカ社会に生きるニッポン人の複雑な気分をルーツにしているのであります。

 また思えば、これより前のメイジ(明治)時代に、一人のアメリカ人がニッポン人の笑いに直面しております。ギリシャ生まれのアメリカ人ラフカディオ・ハーン(小泉八雲=上掲写真)は、とかく外国人に作り笑いと受け取られがちなニッポン人の微笑を「神々の微笑はかつては日本人自身の似顔絵であり、その日本人自身の微笑でもあった」と大いに弁護しました。

 そのハーンは、「(ニッポン人は)その教育程度が高くなればなるほど、心理的には私たち西洋人から遠ざかる」という実感を抱き、西洋に追いつけの「国をあげて緊張過剰の時期にはいった」ニッポンでは「日本人の性格はなにか奇妙に硬いものの中へ結晶してしまうようである」と書いています。

 あのアメリカを強く意識して天皇制軍国主義(militarism)に傾斜(けいしゃ)していったニッポンの姿を思い起こせば、ハーンの指摘は正しかったと言えましょう。神々の微笑はともかくも、ある時期からニッポン人の笑いに緊張(tension)の因子(いんし;factor)がまざったのは慥(たし)かでしょう。あるいは、チャイナを意識したショウトク・タイシ(聖徳太子)の時代から、そうした笑いを硬くする因子はあったのかもしれません。

 ただもし、あなたが小生のスマイルに単なる末裔(まつえい;descendant)以上のニッポン人オリジナルの笑いを見出してくれたのならば、それは、小生がニッポン趣味の恩典(おんてん;privilege)に預(あず)かり、アメリカ国から黒船が襲来(しゅうらい)する以前にあったニッポン固有のリラクシゼーションの奥義(おくぎ)、バショウ翁の用語を使えば、「新しみ」や「重み」の固さの弊を脱して「軽み」の境地を多少とも身につけ得たからでありましょう。バショウ俳諧の真髄(しんずい)は、ニッポン人の性格を硬く窮屈にした先入観(prejudice)や社会的澱(おり)を大いに寛(くつろ)げるものであったのです。
 例えば、好きなオウミ(近江)の地ですっかりリラックスしたバショウ翁自身が、「軽みをしたり」と自画自賛した一句。

 木のもとに汁も膾も桜かな

 膾(なます)とは、薄く細く切った魚肉を酢に和(あ)えた食べ物です。「汁も膾も」は「なにもかも」という意味で慣用表現であったそうです。膾は、ニッポンには古くからあったらしく、ショウトク太子一族とも由縁が深かったワカサ(若狭)地方の豪族カシワデノオミ(膳臣)一族の先祖は、天皇にハマグリの膾(なます)を献上した功績で、宮中の食膳を統括するようになったといわれます。

 なお、第二次世界大戦中にアメリカ西海岸に住む日系人が、砂漠地帯の強制収容所に収監されたことに関して、首都西区301街区ソーホー通りで毎週土曜日に立つ恒例の蚤の市(flea market)で、最近、おもしろい英文の古書を見つけました。

 幼い頃に収容所で過ごした体験を持つ日系二世の科学者テリー・ナカムラなる主人公が、自ら発明した技術によって小人となり、箱庭に永久に暮らす奇妙な運命をたどる『裏山を盗んだ男の物語』というタイトルの小説本です。英語版ですが、まあ、ためしに読んでみてください。ITで断絶した田舎暮らしでは、Amazon経由で手頃な本も手に入れにくいでしょうから、書籍小包にして後送しておきます。

 真面目なあなたは、荒唐無稽(こうとうむけい;absurd)な話を嫌うかもしれませんが、この小説は、真空物理の不思議を実にうまく使っているのです。

 ところで、先のあなたの手紙に小生を「先生」と呼んでおりますが、そのような配慮はご無用にて、「ブブ」と呼び捨てにしてください。昔のニッポンやチャイナもそうだった。政治家でも医者でも弁護士でも作家でもやたら先生呼びして持ち上げておいて、便益(べんえき)を引き出そうといった魂胆(こんたん)が、世間(せけん)にあったようです。

 小生は、奇妙な論文を書いて博士にさえなり損ねた一介の骨董屋です。おだてられないでも、お客に便宜(べんぎ;convenience)をはかるつもりです。それに、あなたがそれでは、小生も、劇作家のあなたを先生と呼ばなくてはならない。互いに「先生先生」では気色悪い(disgusting)ものです。かつて、ドナルド・キーン氏が指摘していましたが、武士もいれば商人、乞食(こじき;beggar)もいる蕉門(しょうもん)は、「俳諧民主主義」に支配されていたそうです。

 われわれも蕉門の美風(good custom)にならって、率直対等にやりましょう。  ブブ
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その3 往復書簡①:世の人のしらぬ匂ひや菫草(曲水)

2006年01月09日 10時05分41秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
〈イチロウからブブへ宛てた手紙――地球における未定年の6月3日付け)

 イザヤ・ブブ先生、ご丁寧(ていねい;courteous)な礼状ありがとうございました。

 あれから僕の方に思わぬ躰(からだ)のアクシデントがあり、返事が大変遅れました。それに、信じられないことですが、ブブ先生の6カ月前のお手紙は、つい最近になって、劇団事務所から回送されてきたのです。

 僕はいま、静養(せいよう)のため、首都を遠く離れ、ユーミン州カンタン郡パピヨン村の農家に下宿しています。このパピヨン村は、カイラス山周遊鉄道の最北端に位置する寒村で、ご存じかとは思いますが、あの成長すれば十数トンはあるかという巨大な化けトマトの産地として有名なところです。僕がやっかいになっているイッポリートさん一家も化けトマトの生産者です。ご亭主のほか、お子さんが四人おり、それなりに家庭的な賑(にぎ)やかな雰囲気(ふんいき)です。

 僕は、こざっぱりした屋根裏部屋を借りて住んでいます。こうした呑気(のんき;easygoing)な身分も十年ぶりぐらいでしょうか。なんとなく用事(ようじ;engagement)に迫られない夏期休暇中の学生の気ままに戻ったようで、ゆっくり朝寝して、起きてからは、水彩画を描いたり、下手なヴァイオリンを弾いたり、好きな本を読み散らかしたり、それらに飽きると手帖を片手に近くの野原に散策に出かけたりで、まったくバチが当るほど贅沢(ぜいたく;luxuriously)に一日をすごしています。

 さて、先の鑑定書に、また、お便りにいろいろとご指摘のほど有り難く読ませて頂(いただ)きました。先生に主人公の鑑定をして頂いた『麦ひき延ばす小昼』は、すでに秋口に、首都劇場での再演が決まっているぐらいですから、お陰様で、興行的にも成功でした。

 瘠(や)せの癇癪(かんしゃく)持ちで生真面目なサムライ、スガヌマ・キョクスイ(菅沼曲水=上掲写真)と図体の大きい風評かんばしからずで怠惰(たいだ;idle)なコジキ僧、インベ・ロツウ(斎部路通)。この二人の俳諧(はいかい)仲間の対照的なキャラクター設定が、ドン・キホーテとサンチョ・パンサのようで、観客に受けたのかもしれません。

 それからなんといっても、これはブブ先生の人物解釈を使わせていただいた結果にほかなりませんが、二人の師バショウの存在が、芝居に奥行き(depth)をつくってくれたのでしょう。今回、僕は、かならずしも、人間バショウを立派な人物として登場させたつもりはなかったのでしたが、弟子キョライ(去来)の質問にバショウが答えた「俳諧はよく万物に応ずるを旨とすべし」のバショウ・ハイカイの芸術的卓越性(superiority)が、僕の劇的矮小化(わいしょうか)という小細工(こざいくcheap trick)を見事に覆(くつがえ)したかのようです。

 ところで、あの芝居の主人公キョクスイについて、先生に人物鑑定していただいたのには、僕にサムライというもののあり方がリアリティーとしてつかめないという理由がありました。何もかも責任を腹に収めて死んでいくサムライの心理構造は、大袈裟(おおげさ;overdone)な身振りで大見得(おおみえ;impressive pose)を切る歌舞伎芝居を見ても分からない。勧善懲悪(かんぜんちょうあく)のミト・コウモン(水戸黄門)やオオオカ・エチゼン(大岡越前)の復刻版テレビ時代劇を見ても分からない。

 先生の鑑定書には、後世、「風雅三等之文(ふうがさんとうのふみ)」と呼ばれることになるバショウからキョクスイへの手紙で、「志を勤め、情を慰め、むやみに他人の評価を気にかけず、俳諧によって実(まこと)の道に入るべき器(うつわ)の者」になりなさいと師から激励された若いキョクスイが、その師の言葉にサムライとして忠実であろうとした結果が、藩の要職(important post)になった二十数年後に、藩主に媚(こ)びへつらい陰謀(いんぼう;conspiracy)をめぐらすソガ(曾我権太夫)なる奸臣(かんしん)の成敗(せいばい)につながったとありました。しかも、一身上の都合(personal reasons)など意に介しないきっぱりした調子でであります。

 なるほど、バショウの書『幻住庵記(げんじゅうあんのき)』に「勇士;brave soldier」とあだ名されたキョクスイでありましたから、同時代のサムライ・テキスト『葉隠(はがくれ)』流に言えば、「むかしの勇士はたいてい常軌(じょうき)を逸した奇行者だった」を見事なまでに具現して古武士風だった可能性はあります。

 ブブ先生、僕としては自分の芝居をそうした勇ましいだけの興味本位の話にしたくなかったし、一見の即物的勇ましさとは裏腹に、切実に淋しい人間的一面をキョクスイというサムライから感じるのです。例えば、

 世の人のしらぬ匂ひや菫(すみれ)草(ぐさ)

 ちょつぽりと何やら白し秋の海

といったキョクスイの句などは、後世の学生やサラリーマンにも通じる感傷(sentimentality)があって、そんな感想を強くさせます。

 ともかく、僕は、キョクスイに関してサムライという固定観念(stereotype)に踊らされたくはなかったのです。ですから、多分、芝居を観たブブ先生は、なんだ、鑑定の成果が十分活かされていないではないかと大いにがっかりされたことでしょう。そんな気がねがあって、あの初日に先生が劇場に来られてお会いしたとき、折角(せっかく)の機会だったにもかかわらず先生の貴重な感想を聞きそびれてしまったのです。

 それからあのとき、別れ際に、先生が「オレにだってサムライの血脈(ちみゃく)が流れているのだ」と言われましたが、あれはどんな意味だったのでしょうか。慥か、あのとき僕が「先生は日系の連邦人でもないのに、なぜニッポン人のように笑うのですか」と不躾(ぶしつけ)な質問を発したことへの即座(そくざ;immediate)の返答だったと記憶しています。その後も、僕にはちょっとした謎の言葉になっています。

 では、もし宜しかったらお便りをください。住所は、冒頭の地名に「イッポリート方下宿人カヤノ」と書き添えて頂けば十分です。         イチロウ
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その2 ルマヤのレポート:柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(子規)

2005年12月31日 15時27分30秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
 これは、その1にあった農家に下宿する男、カヤノ・イチロウ(茅野一郎)について、その農家の娘、ルマヤが、彼女の日記をもとにイチロウの死後に書いたレポートである。レポートを提出した先は、イチロウの知人で、イチロウとの往復書簡(おうふくしょかん;correspondence)からなる共著『科学と風雅(Science and Elegance)』をまとめた人物骨董屋(じんぶつこっとうや)イザヤ・ブブ氏だった。

 カヤノ先生がうちに訪問(ほうもん)された折(おり)のことを少し書きます。以前から何度か、先生がうちの前の道を通るのをお見かけしました。俯(うつむ;downcast)いた顔をあげてちらっとこちらを見ているようにも思われましたが、あとは無関心(むかんしん;indifferently)に足早(あしばや)に通りすぎていかれるだけでした。その方、白人系(caucasian)が占めるこの辺(あた)りではめったに見かけない東洋系(とうようけい;oriental)の紳士(しんし;gentleman)が、村はずれにある州立ホスピス(state hospice)の患者(かんじゃ;patient)さんだということは、身なりのよさなどからなんとなく分かっておりました。

 そのうち、妹のアモが通う保育園で、ホスピスへ園児を訪問させ、患者さんたちの前で余興(よきょう;entertainment)にダンスをお見せする催(もよお)しがありまして、父イッポリートがアコーディオン(accordion)で音楽を奏(かな)でる役、わたしが園児たちの舞台衣装(ぶたいいしょう;theatrical costume)をこしらえた関係で、父と一緒にホスピスへ参る機会がありました。そこで初めて、わたしたちは、カヤノ先生と顔馴染(かおなじみ)になったのでした。ホスピスの院長先生が、カヤノ先生のことを首都(capital)から来られた著名(ちょめい)なお芝居(しばい)の脚本(きゃくほん;script)を書く作家(writer)だと紹介されました。

 先生は、「あなた方のことはブンペイからうかがっています。パピヨン村に着いたらぜひ訪(たず)ねるようにと」と、意外(いがい;unexpected)なことを言われました。先生は、父の友人であるブンペイさんのお兄上なのだそうです。父も、ずいぶんと驚いたような顔をしていました。

 懇親会(こんしんかい)の場で、先生は、しきりに父の演奏(えんそう)を褒(ほ)め、ぜひもっと聴(き)かせてほしいとおっしゃいました。

 一週間ほどして、先生は、実際(じっさい)にわたしどもの家へ来て、納屋(なや;barn)で、父のパイプオルガン(pipe organ)演奏を聴き、おもやで夕ご飯を一緒に食べていかれました。

 先生は、初め、口数少なく、弟たちや妹が食べる様子をにこにこ眺(なが)めておられましたが、少し沈黙(ちんもく)がつづいたとき、何か土産(みやげ)代(か)わりに皆を楽します話でもしなければならないと思われたのか、「今日はうっかり手ぶらでお邪魔(じゃま)してしまいましたが」と言われてから、

「そうですね、面白(おもしろ;amusing)い話と言ってもすぐには思いつかないですが、そうですね…、話の御馳走(ごちそう;feast)と言えば、そう、昔々、ニッポンの国に、天邪鬼(あまのじゃく;perverse)で食いしん坊(greedy)な詩人がいましてね、マサオカ・シキ(正岡子規)という名の人でしたが。彼は、失恋がもとで都を去ってマツヤマ(松山)という僻地(the odd parts of Japan)で田舎教師をやっているおとなしいナツメ・ソウセキ(夏目漱石)という友人のうちに上がり込んで、友人を二階に追いやって、自分は一階を占拠(せんきょ)してしまいました。仲間を集めて好きなハイクという、575、全部でたった17音でできる短い詩の競作をガヤガヤやるは、友人のつけで勝手(かって;arbitrarily)に値段(ねだん)の高いうなぎの蒲焼(かばやき)という御馳走を店から取り寄せて、ぴちやぴちやと遠慮(えんりょ)のない音をさせて喰(く)うは、2カ月近くも泊(と)まっあげくに、引き上げる際に、金を貸せと澄(す)まして言う始末(しまつ)でした。そして、シキさんは、借りた金で、ナラ(奈良)とかいうところに遊び、夜半(やはん)、宿で隣のトウダイ寺というお寺のボーンという大釣鐘(おおつりね)が鳴るのを聴きながら、大丼鉢(どんぶりばち)いっぱいの柿を喰い、翌日、少し離れたイカルガという場所にあるホウリュウ寺というお寺を訪ねて、柿の木を眺め、これはいいわと、もとはソウセキという友人がつくったハイクを語呂よくひとつひねって、蒲焼の御馳走になったお礼にと、その友人にもできたものを臆面(おくめん)もなく書き送ったといいます」と話されました。

 なんでも、そのハイクは、ニッポンではたいそう有名(ゆうめい)な詩だったそうで、

 カキクヘバ・カネガナルナリ・ホウリュウジ
 (柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺; 
 As I eat a persimmon. I hear the temple bell toll : Horyuji.)

 とか。ちなみに、その友人ソウセキの作は、

 カネツケバ・イチョウチルナリ・ケンチョウジ(鐘つけば銀杏ちるなり建長寺)

だったそうです。

 わたしどもは、ハイクという詩にも、それどころか、ニッポンという国についても何も知らなかったものですから、ただ、カヤノ先生が嬉しそうにお話になるのを黙って見守っておりました。

「ところで、柿くへばの柿ですが、みなさんは、柿を食べたことがないでしょうね。連邦の世になってから、日系人(にっけいじん)にしても、不思議(ふしぎ)と柿を誰も食べなくなった。昔のニッポン人は、秋になると、柿を食べれば風邪をひかないという諺(ことわざ;proverb)を信じて柿を良く食べたし、それに、ある人に聞いた話ですが、昔、ニッポンでは、女性が嫁入(よめい)りにあたって実家(じっか)から柿の苗(なえ)や接ぎ穂にする枝を持っていく風習(custom)があったそうです。そして、その嫁がおばあさんになって一生を終える頃には、柿の木は立派に大きく育っていて、その枝は、嫁が死んだとき、遺体(いたい;remains)の火葬(かそう;cremation)で燃やす薪(まき)や骨を拾(ひろ)う箸(はし)にも使われたということです。そうした背景があるから、マツオ・バショウ(松尾芭蕉)というとても偉いハイク作家にも、自身の故郷をしみじみと詠(よ)んで、サトフリテ・カキノキモタヌ・イエモナシ(里ふりて柿の木もたぬ家もなし)という立派な句があります。そんな柿を、実は死病(fatal disease)に取りつかれていたシキが丼鉢一杯とたらふく食べて、柿クヘバ・カネガナルナリ・ホウリュウジ、と一見無頓着(むとんちゃく;carelessly)に因果(cause and effect)を外して詠みました。これってのは、欲なしでは生きられないガサツなこの世のさが(the nature)と、欲を取っ払って成仏(じょうぶつ)の果てに逝(ゆ;pass away)くあの世、その不思議な因縁(いんねん;fatality)を感じさせますね」。

 先生は、最後のところを言及されてから、「ああ、そうそう、今、思い出しました、バショウにもね、先日発見した句で、これは春の句ですが、柿の句の大先輩格がありましたな。

 カネキエテ・ハナノカワ・ツクユウベカナ(鐘消て花の香は撞夕哉)  芭蕉

「鐘撞きて花の香消ゆる」が普通でしょうから、音と香りの入れ替え(replacement)、これも思い切った物理的倒錯(aberration)ですよ」と、わたしどもにはまるでチンプンカンプンな難しいことを仰(おっしゃ)いました。

 父からは、お返しに、今はすたれてしまった〈化(ば)けトマト祭り〉の由来(origin)や祭りが盛んだった頃のエピソード(episode)の話があり、わたしはそんな話をと、やきもきしたのですが、先生は、とき折り質問など入れながら随分(ずいぶん)と熱心(ねっしん;eagerly)に聞いておられました。


 先生は、このようにして、わたしどもの家へときどき訪ねてこられるようになりました。そして数週間もすると、「ホスピスでは仕事にならない。ここの方がずっといい」とおっしゃって、朝からいらして、夕食までの時間を使われていない屋根裏部屋(garret)でご勉強やご執筆(しっぴつ)にあてられることも多くなりました。その頃から首都より届く郵便物なども、この家宛(あ)てに「イッポリート方カヤノ・イチロウ殿」というものが増えたと記憶(きおく)しています。

追記(ついき;postscript)――なお、父イッポリートが先生にお話した〈化けトマト祭り〉の由来(ゆらい)は、実は、父の十八番(おはこ;specialty)でして、わたくしも子供の頃から何度となく聞かされているので、以下のような内容と覚えてしまいました。ご共著のため、生前のカヤノ先生の一身に起こったことを書けというこのレポートの要請(ようせい)として相応(ふさわ)しいか判断できませんが、イチロウ先生もご自身の故郷のことを思い出されて何度となく質問をするなど、とても興味を持たれた話でしたので、ブブ様にご報告(ほうこく)しておきます。

 ――パピヨン村には古くから伝わるお祭りがございます。それは「化けトマト祭り」と言われて、土地のものは収穫祭(しゅうかくさい)をかねて盛大(せいだい)に祝(いわ)っていたそうです。
 化けトマトと言いましても、今の十数年前から州の農林研究所によって試験栽培されてきたトマトは、改良品種(かいりょうひんしゅ)されたもので、古来(こらい)からほそぼそと成育されてきた原種(げんしゅ;seed stock)ものは、もう少し小ぶりのせいぜい2トンに満たない程度(ていど)のものだったそうです。
 化けトマトの収穫(しゅうかく)がピークを迎える盛夏(せいか)に準備(じゅんび)が始まって、初冬まで村のあれこれの行事(ぎょうじ)を通して、大人も子供も興(きょう)じる祭りの内訳(うちわけ)とは、こんなものでした。
 この原種の化けトマトは、皮(skin)も分厚く丈夫にできていたので、収穫された化けトマトのうち形も好ましい上物数十個を順番(じゅんばん)にプールのような大鍋(おおなべ)に入れて、丸一日よく茹(ゆ)でます。それから固いへたの上の部分をオノで刳(く)り抜いて、そこから大型のバキュームカー(cesspit cleaner truck)につなげたポンプを突っ込んで、象(ぞう)の鼻先のようなポンプの先からドラム缶何個分と中味を吸引します。これだけの作業に、村中(むらじゅう)の男衆(おとこしゅう)総出(そうで)で、約1週間はかかったそうでございます。
 なお、このような大掛(おおが)かりな装置(そうち)を使わない時代は、村の若い男たちがバケツを持って梯子(はしご;ladder)を伝わり、化けトマトの中に入り込んでは、リレーで汲(く)み上げていったそうです。化けトマトごとに幾(いく)つかの地区グループに分かれて競争で、この作業を遂行(すいこう)した話も伝わっております。
 バキュームカーに入れられた化けトマトの中味(なかみ;inside)は、工場(plant)に運ばれて、大きな樽(たる;barrel)に入れ換(か)えて、時間をかけて、お酒(liquor)にされました。
 一方、中味を取られて空洞(くうどう;hollow)になった化けトマトの厚皮(あつかわ)は、収穫の終わった畑に並べられて、からからになるまで天日(てんぴ;sunlight)で干(ほ)されます。
 ある夏などは、そこへ空を真っ黒くするほどの蝿(はえ)が大量発生し、人の顔にも家畜(かちく)の顔にも一面(いちめん)たかって困ったことがあったそうで、まさか人の顔に駆除剤(くじょざい)を撒布(さんぷ)するわけにもいかないものですから、連邦政府の救援措置(きゅうえんそち;aid)で、村を丸ごと送風(そうふう)する観覧車(かんらんしゃ;ferris wheel)のような超大型の扇風機(せんぷうき;fan)が据(す)えつけられたといいます。
 こうして水分を抜かれた化けトマトの皮は、秋の運動会前には、村の小学校の校庭に運ばれます。そして運動会のときに、子供たちが「化けトマトのごろごろ転がし競争」に興じたそうです。
 その運動会が終わると、さっそく、PTA(parent-teacher association)の皆さんが召集(しょうしゅう)され、村の老人の口やかましい指導(しどう)にしたがって、校庭の何箇所かで、四隅に柱を立て、化けトマトの皮を中に置いて櫓(やぐら;tower)を組みます。さらに、櫓にのぼったPTAの皆さんが、特殊な液をつけたモップ(mop)でもって、運動会で散々(さんざん)転がって汚(よご)れた化けトマトの皮表をギュッギュッと磨(みが)き上げます。すると表皮は不思議と光沢(こうたく;luster)が出ると同時に光が透(す)ける程度に薄く(thin)透明になるそうであります。
 次に、秋の文化祭の準備に入った子供たちは、この化けトマトの皮の表面に、思い思いの彩色(さいしょく)と意匠(いしょう)で、お化けの絵を描きます。
 そうこうするうちに工場の大樽の中では、化けトマトの果液がすっかり好い具合に発酵(はっこう;ferment)しまして、芳醇(ほうじゅん;mellow)なトマト酒になっております。このトマト酒が大樽ごと小学校にトラックで運び込まれ、やがて、子供たちの絵でお化粧がほどこされた化けトマトに並々と注がれたと申します。
 もう初雪も待たれる初冬(early winter)と言える季節の朝に、村の若い衆がねじり鉢巻(はちまき)にふんどし姿で、化けトマトのトマト酒のなかに、勢い好くどぶんと浸かります。肩まで浸かったまま一昼夜を我慢(がまん)します。強い酒の匂いに失神(しっしん;faint)する人も出ます。溺(おぼ;drown)れる人が出ます。櫓の上に見張りがいて、死なないうちに頃合をみて気絶(きぜつ)した人を腰に括(くく)りつけた安全ロープで引っ張り出します。そうやって最後まで頑張(がんば)れた若い衆は、飛び込んだ十人強中で二、三人だったと申します。
 朝日がのぼる時刻(じこく)、化けトマトの中に残った若い衆が引き出されます。大抵(たいてい)、極度(きょくど)の酩酊(めいてい;intoxication)状態で足元(あしもと)がふらついています。そこへ「がんばりっしゃい」と掛(か)け声をかけて頭から桶(おけ;tub)の冷たい井戸水を浴びせます。すると、赤く染まった鉢巻やふんどしが、それはそれは朝日に美しく映えた申します。観衆(かんしゅう)は、「今年もうまい化けトマト酒ができましたがや。おめでとうございまして」と口々に唱(とな)えます。
 それを合図(あいず)に、やや正気(しょうき)に返った若い衆は、丘向こうのパピヨン神社まで約一・五キロの道のりをいっせいに駈(か)け出します。先陣(せんじん)をきって神殿(しんでん)にたどり着いた一人の若者が、村で一番美しい生娘(きむすめ;virgin)との婚約(こんやく;engagement)交渉権(こうしょうけん)を獲得できますので、永遠に長いと思われるその一・五キロを桃色吐息(ももいろといき)必死に走る若者が多かったようです。
 神社(shrine)に、モンシロチョウ(cabbage butterfly)のような衣裳(いしょう)で現われた娘さんが、気絶寸前(きぜつすんぜん)の若者に、「いいわ」と言えば、縁談(えんだん;match)は神前で成立します。もし「だめなの」と首を横にふったら、翌年の祭りで、新しい新郎(しんろう;bridegroom)候補(こうほ)が求婚(きゅうこん;propose)するまで縁談は持ち越しとなります。古い村の冠婚葬祭記録簿の記載(きさい)によりますと、この「だめなの」の拒絶反応が十五度もかさなって、村一番の別嬪(べっぴん;beauty)さんが、とうとう行かず後家(ごけ)の境遇(きょうぐう)に甘んじたということがあったそうでございます。
 婚約(こんやく)の成否(せいひ)はともあれ、その夜に、祭りのクライマックスがあります。子供らの絵によって様々に化粧(けしょう;makeup)をほどこした化けトマトの皮の中に灯りがともり、豚(ぶた;pig)や羊(ひつじ;sheep)の胴回りに結わえつけられたロープ(rope)の先端が、化けトマトの下につなげられます。熱気球(hot-air balloon)の原理と申すのでしょうか、幾つもの化けトマトがあちらこちらでふんわりと持ち上がって、そのまま、ロープで下に結いつけられた豚(ぶた)や羊のヒィーヒィーという悲鳴(ひめい)とともに、夜空に舞い上がってまいります。語り伝えによれば、そのこの世のものとも思われない美しさといったらなかったそうでございます。

 父によれば、こうした因習(いんしゅう;convention)にみちた村の行事も、動物愛護協会の抗議(こうぎ;protest)、そして、品種の改良で原種の厚皮化けトマトが姿を消し、食用の薄皮化けトマトの経済栽培が普及し、商品として大量に売られるようになってからは、すっかり廃れてしまったという話でございます。

 *参照click ⇒「風雅のブリキ缶」で対応する箇所
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その1 パピヨン村:蝶の飛ばかり野中の日かげ哉(芭蕉)

2005年12月30日 10時42分32秒 | 15歳から読める「イカルガの旅芸人たち」
 そよ風に流されるままに方向も定まらない蝶(ちょう;butterfly)のあとを追って、村の子供らが歓声(かんせい、cheer)をあげながら走ってきた。蝶は、かかしの藁(わら;straw)くず頭からとび出した針金(はりがね;wire)の先っぽに止まったかと思うと、野良犬(のらいぬ;homeless dog)の尻尾(しっぽ;tail)にはたかれて、ひらひらと夏空の蒼(あお、blue)へと舞い出す。

 ここは、パピヨンの雄大(ゆうだい;magnificent)な渓谷(けいこく;valley)の中、人の背丈(せたけ;height)の数倍はある巨大に成長したトマトが大地に横たわる、見渡す限りの野菜畑。子供らの一団が、その化けトマトの間を次から次に見え隠れしながら、まるでお伽の国(おとぎのくに;fairyland)の小人(こびと;midget)たちのように、両手をぐるぐる振りまわし、歓声をあげて、駆(か)けだしてきた。その後を、間抜(まぬ)け面(つら)の瘠(や)せ犬がわけも分からずオーオー吼(ほ)えながら続いてくる。

 子供らが、突然(とつぜん;all at once)、口をつぐみ、いっせいに立ち止まった。

 一人の女が、埃(ほこり;dust)ぽい道を歩いてくるのを見つけたからである。女は、黄色い、見るからに派手(はで;showy)はでしい服を着、顔を隠すようなつば広の麦藁帽子(むぎわらぼうし;straw hat)を被(かぶ)っていた。その帽子には水色のリボンが巻きつけてある。

 子供らは、女の後ろから、そのいかにも商売女(prostitute)らしいお尻をぴくぴく揺する歩き方を真似(まね;imitate)てついてきた。そして、何かの拍子(ひょうし)に、帽子がふわっと風に吹き飛ばされて、後方の道に転々ところがった。素早(すばや)く帽子を拾(ひろ)い上げて逃げ出す子と、それをキャーッと追いかける子供たちと、ワンワンと喜んで尻尾を千切(ちぎ)れそうに振る野良犬(homeless dog)。

 女が、何かを叫ぼうとして、ひどく咳(せ;cough)き込んでいる。子供らが振り返って、「やーい、売女(ばいた)のプーケやい」とはやし立てた。女は、地面に顔がつかんばかりに屈(かが)み込んだまま、喘(あえ;gasp)ぐように肩で息をしていた。

 窓からこの光景をじっと眺めている男がいた。

 村はずれの農家に一カ月前から下宿(げしゅく;board)しているその男は、先刻(せんこく)から机に頬杖(ほおづえ;rest his chin on his hand)をついて、小さな画帖(がちょう;sketchbook)を開き、ペン先に外の風景を写(うつ)しとっていた。遠く低くつらなる山々と、その谷あいに消える二本の線路が形になり、幾つかの化けトマトの輪郭(りんかく;outline)ができたところで、男はようやくペンを置いた。男は、売女と呼ばれ、プーケと呼ばれた女の姿をペン先に画帖に写し取ることがどうしてもできなかったのだ。

 男は、女がもといた場所にうずくまっているのを確認すると、静かに立ち上がって、椅子の背にかけてあった皺(しわ;wrinkle)くちゃで粗末(そまつ;poor)な上着(うわぎ;coat)をつかみ、屋根裏のその部屋から出ていった。

 空っぽになった部屋には、やさしい午後の陽射(ひざし)が男の生活を照らし出している。男は、いたって質素(しっそ;simple)に生きているらしい。

 机の上には、画帖のほかに、数世紀も前に流行ったようなゲーテやヘッセ、ソウセキといった古典作家の小説類、バショウやブソンの俳句集(はいくしゅう)、モンテーニュの随想録(ずいそうろく)、ライプニッツやラッセルの哲学書、スミスやヴェブレンの経済書が雑然(ざつぜん;in disorder)と重ねてある。

 後方の簡易(かんい)ベッドの上に板をはりわたして生活用品が並べられている。飲みかけのワインやラム酒の瓶(びん)が何本か、石鹸(せっけん;soap)と髭剃(ひげそり;shaving)が入った真鍮(しんちゅう;brass)の洗面器(せんめんき;basin)、歯ブラシ(toothbrush)の立てかけてあるコップ、幾つかの錠剤(じょうざい;tablet)入り薬瓶(くすりびん)、注射器(ちゅうしゃき;squirt)の入った小箱。それに、ベッドの下にはヴァイオリンのケースが横に寝かしてあった。

 あと、ほかにあるものといえば、画架(がか;easel)にのっかったカンバス(canvas)の描きかけの水彩画(すいさいが;watercolor)である。想像(imagination)で描かれたらしい絵の中で、馬車(cart)の御者台(ぎょしゃだい;perch)に、すらっと姿の好い喪服(もふく;mourning)を着た女がすくっと立ち上がっている。しかし、その女の顔は、いったん描いた水彩鉛筆の輪郭を水に溶かして拭い去った(wiped off)のか、ぽっかり空洞のようになっていた。

 ああ、それから、床の上に一枚の紙切れが落ちている。多分、先程(さきほど;a little while ago)、男が部屋から出ていくときにでも上着のポケットから落ちたのであろうか。

 古い業界新聞の切抜き記事であろう。よく天気予報欄(れんきよほうらん;weather forecast)の脇(わき)などにある連邦各地のちょっとした出来事の囲み記事である。停車場(ていしゃば;station)に化けトマトを三つ四つと満載(まんさい)した貨物列車(かもつれっしゃ;freight train)が止まっている情景(じょうけい)を描いた簡単な挿絵(さしえ;illustration)と一緒(いっしょ)に、「新停車場のご案内」として、新米記者(しんまいきしゃ;beginning reporter)の筆になるらしい拙(つたな;unskillfull)い文面が次のようにつづられていた。

 ――カイラス山周遊鉄道(しゅうゆうてつどう)の最北端(さいほくたん)に位置するユーミン州カンタン郡パピヨン村は、人口(population)二百人余りの小さな村であります。そのパピヨン村に新しい停車場が完成しました。
 ご存じの通り(As you know)、パピヨン村は、化(ば)けトマトの産地として有名であります。新停車場の落成(らくせい;inauguration)にともない、今後は大きすぎて輸送に難があった化けトマトを首都圏など遠隔地(えんかくち)の皆さまにも新鮮な状態で安定供給(あんていきょうきゅう)していけるものと、村民一同は張り切っております。
 往時、カイラス山巡礼(じゅんれい;pilgrimage)の宿場町(しゅくばまち)として栄えた古いパピヨン村をご記憶の方はもう少ないでありましょう。あれだけ猫も杓子(しゃくし)もだった巡礼ブームが嘘(うそ)のようにひけてしまうと、村の過疎(かそ)は一段と進み、野良犬さえ小便(しょうべん;pee)を引っ掛(か)けに立ち寄らない寒村(かんそん;poor village)になってしまいました。そこで十数年前、村おこしの強力な秘密兵器として試験栽培(しけんさいばい)が開始された化けトマトが、村復興(ふっこう;reconstruction)の期待の星になったのでした。
 ところが、パピヨン村の風土(ふうど:climate)に馬鹿(ばか)に適していたと申すのでありましょうか、化けトマトは年々みるみる大きくなってしまい、その輸送問題が最大の懸念材料(けねんざいりょう;concern)になったのであります。ある豊作(ほうさく;rich harvest)の年には、出荷(しゅっか;ship)されることもなく高々と野積みされた化けトマトが、炎天下(えんてんか;under the flaming sun)にドロドロとケチャップ(ketchup)状に流出し、駅前広場が一面、赤々と洪水(こうずい;flood)になって、死傷者(ししょうしゃ;casualty)が出る騒(さわ)ぎもありました。 
 本日ここに、村民、とりわけ村長ヘラ女史(じょし)の粘り強い陳情(ちんじょう;petition)活動、それと連邦政府鉄道省輸送施設課職員皆さまの温かい理解によって、大型クレーン付きの素晴らしい停車場施設が出来上がったのであります。
 からっきし味がしないという味覚(みかく;taste)面に少々の難があるものの、著名(ちょめい;eminent)な料理成分研究家が口をそろえて健康野菜の王者と折り紙をつけ、一昨年には栄誉ある連邦食品衛生局の優良改良野菜品種Aランク指定を受けましたパピヨン村の化けトマトが、いよいよ皆さまの食卓(しょくたく)に潤沢(じゅんたく)にお目見えする日が近づいております。請(こ)うご期待を!  Bunpei

 部屋の扉(とびら;door)をノックして、しばらく待ってから開ける者がいた。男が下宿する農家の娘である。

 洗濯物(せんたくもの;laundry)かごを抱(かか)えて入ってきた娘は、画架の絵にちらっと視線を送ってから、かごをベッド脇の床に置くとき、落ちていた新聞の切抜きをなにげなく拾(ひろ)い上げた。

 そして、時間をかけてどんな内容か読んでいたが、最後のところにきて、「これはブンペイさんが書いたのね」とぽつり呟(つぶや;murmur)いた。母がまだ生きていた頃、何度か訪ねてきた建設関連の業界紙〈連邦建築トレビューン〉の若い記者ブンペイが、下宿する男の弟(younger brother)であることを娘はまだ知らなかった。

*参照click ⇒『風雅のブリキ缶』で対応する箇所
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