Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

ボブ・ディランを見に行く

2023年04月17日 14時10分17秒 | Journal
 昨日、ボブ・ディラン(Bob Dylan、1941‐)の東京公演(東京ガーデンシアター)を見に行った。このブログに前にも書いたと記憶しているが、何年か前にピーター・ポール&マリー(Peter, Paul and Mary)の歌だと思い込んでいた『風に吹かれて(Blowin' in the Wind)』(1963)がボブ・ディランの作詞作曲と知り、その歌いっぷりを聴いて、すっかりファンになったのだが、それ以外の曲は、妙にソフィスティケートされていったというか、訳の分からないものが多く、歌手としての評価は1曲のみにすがりついて、『高校三年生』(1963)の舟木一夫(1944‐)と大して変わらない気がした。ノーベル文学賞(2016)を受賞しても、ファンとして嬉しくはあってもなんだかお門違(かどちが)いの過大評価ではないかと思うこともあった。ところで、昨日、念願だったコンサートへ行って、大枚(たいまい)2万6000円(妻の分を合わせると5万2000円!)のS席で遠目に暗闇の中に鼻も目も口もなく米粒のようにしか見えないボブ・ディランの顔を眼鏡を傾けながら凝視していて、あの顔かたちは慥(たし)かにディランその人だと思うとともに、彼の音楽の何がユニークであるか、少しは分かった気がした。コンサートでの彼は、創造のカオスの中に身を置いて遊ぶように楽しんでいるのだ。観客に向かっての演奏ではない。自分の中心に向かって演奏している。だから、ある意味では、聴衆は彼の一人遊びの音楽から疎外されてしまう。老境に達して、晩年のピカソがそうであったように稚児(ちご)のように自在に自得に自己表現を楽しんでいるのを、外から眺めている父兄一同のようなものである。今やボブ・ディランの楽曲は、単純な音を複雑に絡み合わせて旋律を醸し出す点で、バッハ(Johann Sebastian Bach、1685‐1750)に近づいている。創造の結果である作品ではなくて、作品という結果が生み出される瞬間を再現してみせる域に達している。

 撮影禁止だったのでこれ一枚

 ボブ・ディランで好きなのは『風に吹かれて』以外でも、彼がスタンダードナンバーを歌ったもの、例えば、フランク・シナトラ(Frank Sinatra、1915‐98)の持ち歌『わが人生の九月(The September of My Years)』(1965)は、あの市場のセリ人のような嗄(しゃが)れ声がマッチして秀逸だ。アメリカ・エンターテイメント業界の大御所(おおごしょ)シナトラが歌うと、単に『マイ・ウエイ(My Way)』(1969、原曲はフランスのクロード・フランソワのシャンソン『いつものように(Comme d'habitude)』)の延長線上にある洒落た曲でしかないが、ディランが歌うと深々としたいぶし銀の感慨の曲となる。ああ、つくづくうまいなと思わせてくれる。今回のコンサートでも、曲のニュアンスとしてそうしたうまさが随所に出ていたが、彼はまたそのうまさの露出にも蓋(ふた)をして、ガンガンと喧(やかま)しくわが吟遊詩人の道を模索しているように思えた。隣で、演奏の音響の大きさに耳をふさいで、小生がフォーク歌手と感じてきたディランをロック歌手と認定し「だからロックはうるさくて嫌い」とぶつぶつ嘆いた妻に対しても、もう少し静かに歌い込んでくれるバラード風な楽曲を多くしてもらえると有難かった。とは言え、物価上昇の折、2万6000円の価値は大いに認めたいボブ・ディランのコンサートだったと小生は満足している。7時近くいい加減に年季の入った沢山のロックファンとぞろぞろ場外に出て、有明ガーデンの陳麻婆豆腐を夕飯に食べて、妻の運転する車が橋にさしかかると東京タワーが下の方から浮き出てきて満月とコラボしているような夜景を眺めながら神妙に帰途についた。あのお月さんがディランの顔に見えたのは、多分、この世で小生だけであろう。(4月16日、月はかなり翳っていて満月など見えたはずもないのだが?)

 フランク・シナトラ

 ボブ・ディラン

 ボブ・ディランよ、さようなら

■追記 ボブ・ディランの声について考えていたら、『遠くへ行きたい』(永六輔作詞、中村八大作曲、1962)のジェリー藤尾(1940‐2021)の声を思い出した。彼ら、ディラン、舟木一夫、ジェリー藤尾、やはりあの世代の歌手(の声)には、どこか不良っぽい、ひとりぼっちの暗いやるせない感じが宿っている。品行方正に、『遠くへ行きたい』をダ・カーポで聴き、『風に吹かれて』をピーター・ポール&マリーで聴き、そして、『高校三年生』を岡本敦郎(おかもと・あつお、1924‐2012)で聴くとしたら……。レコード会社は、『高原列車は行く』(1954)を高らかに清く明るく歌って大ヒットさせた岡本敦郎で『高校三年生』をレコーディングしようと当初考えていたが、39歳になる岡本が「高校三年生」を歌うのはまずいといったんはお蔵入りにしたのを舟木のデビュー曲に持ってきたらしい。岡本の朗らかな歌声も聴いてみたかった気がするが、『高校三年生』と言えば、やはり舟木一夫の暗めに少し上ずった声であろう。それやこれら、さて最近は、そんな楽曲にまつわるエピソードを探るのが、一つの面白がり、趣味になっている。これまで長い間に耳にしてきたが、先入観で思い込んでいたのとは違う意外な面も発掘できるし、別の歌手で同じ曲を聴き比べて、曲の本質がよく分かる場合もある。

ジェリー藤尾

岡本敦郎

 ちなみに、岡本敦郎については、亡き母親がファンだったので(グレゴリー・ペックと岡本のプロマイドを持っていたそうだ)、小生も親しみを感じていたが、なんとなく歌手というよりは女学校の気取った先生風であり、その容貌から「ウラナリ」という綽名(あだな)をつけて、テレビの懐メロ番組に彼が登場すると「ウラナリ先生がまた出ている」などと母親をからかったりしたものだ。
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月見がてらに糞をしていったハクビシン

2022年11月20日 12時20分31秒 | Journal
 先日の皆既月蝕(11月8日)の当夜のことだったか定かでないが、ここ王禅寺の古い主(ぬし)ハクビシンが我が庭にやってきて、芝生の上に糞を垂れて行った。この毎度の糞に嫌気がさしていた小生は、毎朝、コーヒーを飲んだ後、ハクビシンが嫌悪するという煎れたコーヒー豆の残滓(ざんし)を芝に撒くのを日課としているが、綺麗だと皆が言う地球の日陰者になった哀れな月を求めてスマホを手に近所を歩いた夜が明けて、家の庭の芝の上にまたも丸々とトグロヲ巻いた糞を見つけた。ハクビシンは乙(おつ)にも月見に野糞をしたのである。さぞ気持ちが良かったであろう。糞に顔を近づけシャベルで処理して、「今回の糞は、臭いのなんの」と鼻をつまんで家へ入ったら、妻がコーヒー滓の効果を疑ってインターネットで唐辛子エキス入りの「ハクビシンよグッバイ」なる忌避剤を取り寄せてくれた。それを撒くとき、頻りとくしゃみが出た。成程、唐辛子である。



 ところで、秋も深まり、我が家の丸葉とかカツラの樹々もすっかり紅葉を深め風に散り始めている。カツラの幹を隠していた葉がなくなってあらわになったところを眺めると、小鳥の巣のようなものが引っ掛かっている。はじめはハチの巣ではないかと疑ったが、特に周囲にハチを見かけないので、鳥のものであろう。しかし、この木に止まる鳥もそう見かけないので、空き家になって久しいのかもしれない。








 昨日(11月25日)、植木屋さんが入って庭木の剪定をしてもらった。すっきりさっぱり淋しくなった。
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映画『カルメン故郷に帰る』の浅間山を眺める

2022年08月04日 11時41分52秒 | Journal
 昨日まで二泊三日で軽井沢へ行ってきた。コロナ禍もあって旅行は久しぶりである。軽井沢行きは二度目であり、行く前から観光では浅間山を見るぐらいしか思い浮かばなかった。泊まったマリオットホテルがある中軽井沢から146号線で北上し途中から有料の鬼押ハイウエーとかで浅間山が一望できる展望地「鬼押出し園」までドライブした。駐車場に車を止め、軽井沢にしてはカンカンとした強い日差しに辟易(へきえき)しながら園に入ると、ここは溶岩がごろごろしていて少し興醒(きょうざ)めだったが、雄大な浅間山の迫力がある風景を眺めることはできた。





 この浅間山を眺めていて、子供のころテレビで観た『カルメン故郷に帰る』(1951)という木下惠介監督、高峰秀子主演の映画を思い出した。あの映画の背景にあった山は、この浅間山に違いないと。白黒テレビで観たから総天然色であったわけはないのだが、何故か、鮮やかなカラーフィルムとして記憶に残っているのも不思議。





 映画の中の軽井沢の村人同様、小生も子供心に東京から帰郷したストリッパー(高峰秀子)の圧倒的な明るさに圧倒されたものだ。メリナ・メルクーリ主演のギリシア映画『日曜はダメよ』(1960)に匹敵する天衣無縫(てんいむほう)な明るさである。差別とか何かと社会的な慮(おもんばか)りで今どき表現が難しくなってしまった明るさである。山田洋次監督のハナ肇主演『馬鹿まるだし』(1964)や柴又の団子屋の裏手にある印刷工場の職工を「労働者諸君」と小馬鹿にした初期の「寅さん」の的屋風(てきやふう)なセリフ、田舎者の意地の悪さを散々に揶揄(やゆ)した漱石の『坊つちゃん』にも、そして、魯迅の『阿Q正伝』にもこうした明るさがあった。いずれも常識外、規格外、社会のはみだしものが主人公である。迫害にめげない明るさだけが生きる力になっている。映画の舞台となった浅間山もこの手の屈強な明るさをあらわにした変った山である。

 『日曜はダメよ』


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母親の一周忌

2022年02月24日 21時39分42秒 | Journal
 早いものでと月並みに書くべきか分らないが、昨年の2月23日に亡くなった母親の一周忌で昨日、厚木の墓に行ってきた。浄土真宗の坊さんの読経を聞きながら、空を見上げていた。鳥が上空をゆったり旋回していた。鳶(とび)だろうと思っていたら、「ピーヒョロロッロッロ」と笛(ふえ)を吹くでなく「カーカー」と鳴いたので、なんだカラスがトンビを真似(まね)てやがると思った。子規が「うらゝかになりぬ舞ふ鳶鳴く鴉(からす)」と詰まらない句を詠んだのは、このことかと変に納得した。その墓石に置かれた母親の写真が、煮え切らないでいつまでもはっきりしない頭を持て余している息子を、浜っ子の気っ風(ぷ)のままに様(ざま)あないと見やってニヤリと笑っていた。母親は施設の色紙に「悪いわねぇ、昔はサッサとできたのに、今じゃ気持ちがスタコラサッサ」と書くような人だった。母親の墓前で息子は「なんでェ、鳶が鷹を産まないから、この体たらくだい!」と啖呵(たんか)に威勢(いせい)よく言ってやれなかったのが残念だ。いまだに、母親の死については自分に過失があったのではないかと責任を感じている。母親は、施設でハンガーストライキをしていた時点で、もう十分と余命は望んでいなかったのだ。入院先で余計な延命をさせた挙句(あげく)、コロナで死なせたのは、やはり自分の浅はかな考えの所為(せい)であったかと疑っている。肺炎で苦しそうだったから、栄養を補給して少し息が楽になってから、できれば老衰で死なせてあげたいと考えたわけだが、こうした一見尤(もっと)もらしい思考法も自分自身が「死ぬ」ということをまともに考えてこなかった証(あかし)だったかもしれない。

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母親の骨葬

2021年03月04日 17時36分05秒 | Journal
 母親の遺体は、火葬にしてから祭壇に祀(まつ)る骨葬となった。斎場の火葬場では、髑髏(しゃれこうべ)と言うには余りに少量までカランカランに徹底して乾燥され、鉄板に横たわった骨は粉末にいたるまで鉄板焼きで使うような金属の箆(へら)で馬鹿丁寧に搔き集められて骨壺に収納された。それでも、何となくその鉄板上の髑髏に親しみというか母親らしさを感じた。最初に骨を会葬者二人で箸の先につまんで壺に入れる。フェースシールドをした太った係の人は、下半身の骨を壺へ先に入れるとゴリゴリと押し潰すように棒で乱暴に押し込んでから(実際、骨が粉砕する音がした)、上半身分を入れ、さらに頭蓋骨を一々、「これは喉仏です」「これは側頭部ですね」「これは頭頂部です」と紹介しながら納め終わり、4名の参列者一同で合掌した。翌朝、セレモニーホールに骨を運んで、浄土真宗の坊さんがありがたいお経を長く読んでくれたが、結論としては、人の一生の理(ことわり)は諸行無常で虚しいだけ、兎(と)にも角(かく)にも南無阿弥陀仏であった。母親は、こうして生涯を正式に閉じた。生前、強がって明るい顔をみせてきた母親を思うと、こんなことかと気の毒で気持ちが真っ暗になる。

 四十九日まで実家の床の間が仮の宿となる。

 遺影は10年前にグループホームで小生が撮った写真を使った。

◆追伸 新聞を読んでいたら新型コロナ感染で死んだ人間の遺骸は病院から「納体袋(ボディバック)」に入れたまま運ばれて火葬されるとあった。一応、火葬場では粗末な棺に入れられていたが、その中はこの非透過性のビニール袋で、母親はそんな完全密封の寝袋に入ったままだったのだ。それが死んだ母親にとって特段嫌なことだったとは思わない。しかし、木の箱に入ってあっちこっち連れまわされるのと、ビニール袋に入って荷物のように運ばれるのとでは、取扱いが違う。この世の最期にしては不当な扱いだ。インターネットを調べていると、「新型コロナウイルスにより亡くなられた方の遺体の取扱いについて」とするお役所文書が、地域医療課食品生活衛生課から出ているのは、ひどくがっかりさせる。そりゃ、あんまりじゃないか!

 12年前の母親「おや、まあ」と言いそうだ。(座間谷戸山公園にて)
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梅と桜を同時に見る。母親の病態、そして死

2021年02月22日 14時35分47秒 | Journal
 昨日の日が落ちる前、妻と散歩がてらに王禅寺ふるさと公園に出かけると、紅白の梅が満開と咲いていた。それは納得と仰(あお)ぎ見ながら枝の下を通り抜けると、梅よりは明るい花が咲く木々が見えてくる。近づくと、どうも桜である。河津桜というのは伊豆で見たが、早咲きの河津かと思って眺めていると、樹の幹に「玉縄桜」と掲示がある。ソメイヨシノの早咲き品種らしい。満開の梅に続いて桜の咲くを同時と見て、それで幸福感が増したかというと、そうでもない。今日、母親の入院する病院に電話をかけると、母親は特に目立った高熱が出るでもなく(37度7分以下)、肺炎の兆候があるでもなく(抗生物質は投与している)、症状は小康しているようだが、痰が多く、尿量が極端に少ないのが心配だと看護師は話した。尿が少なくなり、血圧に異常(低下)が出ると、呼吸に問題が起きるという。インターネットで「尿量、血圧、呼吸」を検索すると、「脳や腎臓への血液供給が不十分なことから、意識障害や尿量の減少が起こる」ということが分かった。母親の意識は、どこにあるのか。看護師によると、2月9日にPCR検査で陽性となったが、10日以上たち72時間以内にコロナの症状がなければ、再検査しないのが厚労省の方針だそうだ。母親は、コロナから回復(寛解)したと言えるのか、死ぬのならばまだコロナ死なのか、そもそも分からない。ともかく、自宅待機だった職員も徐々に職場復帰し、明日、明後日からコロナで閉鎖された病棟を徐々に開放する話になっている。おしっこが思うように出ないで病室のベットに大概とかたく目を瞑(つぶ)っている母親が、朦朧(もうろう)とも夢でもふと薄目(うすめ)を開けて、病院の白い天井を日差しが落ちてくる澄み渡って広く青い空にして枝先の梅と桜を今生(こんじょう)の目出度(めでた)さと垣間(かいま)見ることができるか、それが問題だ。

 梅の花

 桜の花

 母親は、大正12年(1923)の春3月に生れたので名を「はる」という。その年の関東大震災では、ぐらぐら来ると、愛知に住んでいた母親の母親が、赤ん坊の母親をおぶって大きな空鍋(からなべ)を持って家の外に飛び出したそうである。

   陽だまりに梅と桜が手向けなり  頓休

◆追伸 今日2月23日の天皇誕生日の日の午前8時50分、母親は永眠した。享年97。病院からの電話では、8時30分頃から急に酸素飽和度が低下し、呼吸状態も弱くなり、静かに安らかに死んだそうだ。コロナ関連死なので業者によって火葬にされてから遺骨は遺族に引き渡される。コロナ関連死ということでは、新型コロナが猛威をふるいだした1年前から、老人施設で徐々に食事をとらなくなった母親は、骨ばかりと衰弱して、誤嚥性肺炎もあって病院に入院した。自分とは大して関係ないような今回のコロナ禍だったが、最後になって、コロナで母親を失った感じがする。ここ数カ月、点滴のみで余命を永らえていたので、そうした寝たきり状態で余り長くならずに死ねたのは本人にとっても幸いだったと思う。
 ちなみに、母親の遺体は、業者に引き取られて、火葬があるまで、わざわざ東京の阿佐ヶ谷の死体安置所まで運ばれていくそうだ。そこでしか、コロナ関連の死体管理ができない由(よし)。場所は明らかにされないが、グーグルの地図で見れば、小生が幼少期に住んだ中野や杉並にも近い場所と思える。多分、霊柩車に乗せられて、母親は国道246号(?)を通って多摩川を渡り、かつて家族で住んだ場所に連れていかれるのだから、それもありかと考えることにした。


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E.T.になった母

2021年01月07日 14時15分01秒 | Journal
 一昨日の火曜日、相模大野の病院に母親を見舞った。と言っても、コロナ禍だから「オンライン面会」というリモート形式である。階ごとに週1回のオンライン面会日が決まっており、母親は3階に病室があるので毎週火曜日の午後2時30分から1時間の間に割り当てられている。前日に39度の高熱だったので(そのときは尿路感染によるといった説明だった)、面会できるか分からなかったが、自宅近くの神社で買った病気平癒のお守りを渡したくて出かけた。体温は平熱近く36.7度まで下がったとかで、玄関わきのブースでオンライン面会が実現した。入院して以来、はじめて母親の顔を見る。パソコンの画面越しに見た印象は「母親はE.T.になったな」というものだった。「E.T.」とは、The Extra-Terrestrial(地球外生命体)のことで、スピルバーグの映画(1982)のタイトルになっている。つまり、人工的に栄養を補給していなければ、母親は最早(もはや)、この世(=地球)の人ではなかった可能性が高く、いわば、E.T.、地上の人間事に先入観のない無垢(むく)な「宇宙人」である。顏の上、数十センチにかざされたタブレットの中に映る人物が「お守りを持ってきたよ。気をせいぜい楽にしてね」などと話しかけてくるのを、碧(あお)い瞳に、これは果たして何某かと不思議そうに見返しているのである。
 映画『E.T.』から

 そこで一つ分かったことがある。これまで父親の死(遺骸)の印象から、死ぬとは、結局、生命体が収縮して石(ただの物質)に戻ることだとの観念を持ってきた。母親の今を見て、死ぬとは、石は石でも宇宙からの石に戻ることだと分かった。地球で、生命が育(はぐく)まれ、人間もできたわけだが、それは地球という制約条件の中での出来事。死ぬと、その制約条件から解き放たれて、物的にも、もしかして精神的にも、宇宙に還(かえ)ってしまうのだ。それが良いことなのか悪いことなのか、幸か不幸か、それは分からない。
 ここまで書いていると、兄から電話があった。病院の医者が、病状説明の中で母親の体温は年初来高低があっても高めで推移しており(中心静脈点滴での感染の可能性が加わる)、こうした状態が1週間続くと、ストレスが蓄積されて、何が起きるか分からない、親族にも知らせておいたほうがいいといった趣旨の話をしていたそうだ。E.T.となった母とのお別れも近いのかもしれない。月にも届かぬ地球の言葉で何が適切なのか、考えても思っても、取り乱してひどく情けなくとも、白髪の老人が「お母さん」としか、とても出てきそうにもない。


◆追伸1 昨日(12日)は火曜日で、母親のところへオンライン面談に行こうと、体調が可能かどうか午前中に病院へ電話を入れると、緊急事態宣言が出たのでオンライン面会は休止にしたという。仕方ないので3階のナースステーションに電話を回してもらって、母親の状況を尋ねると、中心静脈のカテーテル挿入位置を変えて、熱も下がり、血圧も正常になったと言う。声をかけると反応もあるらしい。「それでは、母親の体調は安定しているということでしょうか?」と質問すると、それは医師でないから答えられないと、診断にかかわることは判然としない。ともかく、高熱は中心静脈カテーテルからの感染だと考えられることが分かった。このことは、入院時にも、医者に懸念を質問して、それほど心配ないようなことを言われていたので、現実にはそんなことはなかった、やはりな、と思った。今は、母親の年齢の人がコロナに感染して、重症化し、どんどん亡くなっていく。それに比べて血管に挿入される栄養に延命している母親はまだしも「幸運」なのかもしれない。しかし、片道のロケットに乗せられて、無限の宇宙空間へ放り出されてしまったような絶望感はないのか、さぞかし心細かろうと思う。

◆追伸2 今日(2月9日)の夕方、病院から電話がかかってきて、院内で新型コロナが発生し、職員3人と患者10人がPCR検査の結果、プラス、感染が判明し、その中に母親も含まれていたという。返す言葉を失う。「クラスターですね」とだけ短く語気強く確認する。今のところ熱も出てないようだが、急変し重篤化するのがコロナだから、先は見えない。人工呼吸器は付けないことになっているが、コロナの場合、どうするのか、アビガンとか薬はどうするのか、と訊ねる。人工呼吸をするならば、転院しかないが、今はこういう状況だから難しいと看護師は曖昧に答えた。コロナ患者を受け入れている病院が高齢者に処方するような薬があれば、せめて投与できないか、医者に話してくれと依頼して、電話を切る。ワクチン接種が来週から医療関係者に始まるという。どうも母親にとっては遅すぎた話になった。
 家の庭に、秋に種を撒(ま)いたきり冬中ほとんど水をやらなかった所為(せい)で成長不足の菜の花が小さく咲いている。こうした花でも母親に手向(たむ)けるしか今はないのだ。宇宙の石になっても、地上のこうした小さな花はやはりいじらしく美しく懐かしく見えるだろう。


 その昔、蕪村が芭蕉を慕って、金福寺に芭蕉庵を再興したことがある(1776年)。

    菜の花を墓に手向けん金福寺 蕪村
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療養型病院に母親を運び入れて

2020年12月04日 14時29分05秒 | Journal
 これまで母親が入っている病院(急性期病院)から療養型病院へ転院する必要があることから、2つの病院を訪ねて、面談を済ませた。1つは、新百合ヶ丘の家に近い小高い丘の上にあるうような静かな病院。もう1つは南林間の実家により近い駅のロータリーに隣接した便利な病院。丘の上の病院は、待合室もホテルのロビーのような明るい雰囲気があり、良い感じだったが、引っかかったのは病院なのにコロナ対策が皆無なところ。一応、入院予約をとっておいたが、もう一つの駅近の病院を見てから決めることにした。その病院を兄と訪ねると、玄関で検温をし、その体温や健康状態などシートに書き込み、中に入っても消毒液が置いてあるなど普通にコロナ対策はしている。丘の上に比べると、古くて薄暗い待合室である。60年も前、中野に暮らした幼い頃、小さな川を挟んで「組合病院」があったが、その病院は今も古ぼけたままほぼそのままにあり、なんとなくあの「組合病院」のことを思い出す。父親が結核の自分の母親をおんぶして小さな橋を渡って病院に入院させた様子を幼心にも記憶している。また、小生にしても、病院に日参しては待合室で患者さんや看護婦・医者を前に一種の「演芸会」を披露していたようだ。それで、少々、薄暗くて薄汚い病院が妙に懐かしくなる。
 結局、後者の駅近の病院にした。昨日午前中に、中央林間の病院から転院先の相模大野の病院まで救急車で母親を運んでもらった。20分ぐらいのドライブ。多分、コロナ禍が去らない限り、この搬送の間と病院に着いてから病室に移ってからまでぐらいしか、母親を見ることはもうあるまいと思うので、今生(こんじょう)のお別れと救急車に兄と妻と同乗した。本人は、中心静脈栄養のお蔭か、前よりは顔色もよく、そう苦しそうな表情もなかった。午後から担当医との面談もあって、CT検査や血液検査の結果から、やや脂肪肝ぽく肝機能が少し悪いとか、心臓や脾臓は少し肥大しているとか、内臓下垂の傾向があるとか、小さな発疹があるが薬の副作用かもしれないとか、脳は年相応だが、前頭葉に少し萎縮が見られるが、14年前の硬膜下血腫の跡は奇麗になくなっているとか、いろいろ話があった。概ね栄養も足りた状態で、データも「少し悪い」ばかりで致命的なものはなく、すぐに死んでしまうような印象は受けなかった。脳のCT画像を眺めながら「お母さんは男性的な脳をしている」と医者が妙な感想を述べたので、「中身よ 中身」の母親の性格をふと思い出した。最後に、DNR(蘇生処置拒否)について確認した。医者は「転院して2カ月ぐらいは、環境が変わって急変することもあるから要注意期間です」と念を押すことを忘れなかった。それから思ったよりも日差しも燦燦(さんさん)と入って明るい病室を訪ね、4人部屋の窓側に寝ていた母親に「お母さん、また来るね」と呼びかけると、母親が入れ歯のない口で大層嬉しそうに必死になって笑い返してくれた。病室では、各患者の脇に置かれた4台のテレビがつけっぱなしになっている。人間の聴覚を刺激するためらしい。母親は、民放よりもNHKの方がいいと看護の方に言っておくのをつい忘れて帰って来た。



 家に帰って、丸葉の葉が大方、芝生に落ちている様を眺め、家の中に入って母親が以前、新聞紙で作った2体の西洋人形を眺めた。この人形はいつ首がポキンと崩れ落ちてもおかしくないほど弱くなっている。そのうち、顏が自然落下して、何十年も前に敦煌(とんこう)で買ってきたお釈迦様の丸髷(まるまげ)の頭にぶち当たるかもしれない。



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「中身よ 中身よ 形より 中身よ」母親の口癖

2020年10月27日 21時42分58秒 | Journal
 今日、母親の写真を集めたフォルダを見ていたら、「中身よ 中身よ 形より 中身よ」という言葉が書き込まれたノートブックの写真が目に留まった。こんなのも口癖だったなと思い出しながら、この口癖の対象が主(おも)に自分だったことも思い出した。最近は、真似(まね)しているのか妻にもよく同じことを言われるが、小生は何を言っていると穴があいたような空疎(くうそ)な顔を向けるだけである。大して中身がないことは自分でも気が付いている。どちらかと言えば、「中身より 形よ」で生きて来た気がする。

 2010年頃

 2012年の母親

 近頃は、母親のこともあって、家の庭を撮ってもちっとも面白いとも奇麗とも感じなくなっている。





◆追伸 今日10月29日に、医師との面会予約のために病院へ電話をかけ、ついでに看護師に母親の様子を聞くと、1週間ほど前は40度近くあった熱も下がり、日中は話をすることもあるという。26日から行っている中心静脈栄養の効果が少し出ているのかなと思う。
◆追伸 今日11月2日、病院へ行く。医師から母親の容体に特に変わりはないと告げられる。良いようなものだが、余り良くもなかった。吸引痰の細菌学検査でMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)、つまり抗生物質が効かない耐性菌が検出されたという。次に、肺炎になったら多分、命取りになると告げられる。中心静脈栄養で日に1000キロカロリーの栄養を摂取している。今の母親にはこれで十分という。普通の点滴(末梢静脈栄養)の上限が同じ1000キロカロリーだから、そんなに多くない。胃瘻は手術が必要になるし、母親にとっては苦痛なだけだとすすめられなかった。ここは急性期病院だから病状が安定するといずれ出なければならず、医者との面談が終わると相談員と療養型病院へ転院する話をして帰ってくる。中心静脈で少し元気になって、また口から食べられるようになるかと期待していたから落胆が大きい。誤嚥性肺炎のリスクもあり、今はもう口から食べる訓練はしていないそうだ。栄養的観点から見ても、母親は、良くて現状維持か、いよいよ末細りの命運になってしまった。ベッドに寝る母親の顔は、10日前よりは安らかだった。死神はまだワイワイガヤガヤと騒がしくなっていないようだ。あの劇作家シェークスピアならば、母親のこういう状況をうまく書けるだろうが、小生には難しい。そのシェークスピア自身は、腐ったニシンを食べて感染症で52歳の生涯を閉じている。人間は、食べられなくなって死ぬが、食べて死ぬこともある。母親の中心静脈栄養をこれからどうするか、医者に「今からでも栄養補給を止めることはできるか?」と尋ねると、簡単に「今の点滴(中心静脈)の栄養をなくし、脱水症状だけ防止すればいい」と説明された。「中身よ 中身よ 形より 中身よ」というのは、威勢の良い啖呵(たんか)か、どうしても舞台上の捨て台詞(ぜりふ)に聞こえる。横浜の材木屋の娘だった母親の鯔背(いなせ)な口上だ。こうした粋(いき)に応える術(すべ)を持たない息子は、「命の中身」が分からなくてただもたもたしている。

 シェークスピア  シェークスピアの終の棲家
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母親の生命力と延命措置、岡本太郎のオブジェ

2020年10月23日 20時58分39秒 | Journal
 昨日、母親が入院する病院へ行き、医者に話を聞いた。炎症度を示すCRPが10日前は17あったものが1になるなど、肺炎が治りかけている。胸のレントゲン写真を見ても、白い雲がかなり晴れて黒い領域が大勢を占めるようになっている。医者によれば、何らかの菌がまだ残っているので結核菌を疑って検査してみると、結核菌ではなく「非結核性抗酸菌」であると判明した。咳や痰が続くが、他人に移す危険はなく、風邪のような症状があっても、すぐに命にかかわることはないようだ。高齢の母親の場合、この菌を殺すための治療は必要なかろうということだった。
 肺炎が治(おさ)まりつつあると知って、「人工呼吸はしない」方針だという話も言い出す機会を失った。ただ、今のように点滴で細々と栄養を体内に入れていても(この時点で入院して20日近く経過、点滴での栄養補給はせいぜい10日程度が目安らしい)、数週間後といずれ持たなくなるという。選択肢は、①そのまま点滴を続ける(1カ月内外で終末を迎える可能性が高い)、あるいは点滴以上の栄養を注入する手段として、②中心静脈栄養、③胃瘻(いろう)がある。実は、第4のオプションとして⓪点滴を止めるというのもあるが(医師も特に言及しなかった)、昨日の段階では考えつかなかったし、昨日来た家族の中で小生が先導してしまった所為(せい)もあるが兄2人と孫2人を交えた話し合いでも話題にならなかった。小生としては、②の中心静脈が現代医学を使って苦痛もなく母親の寿命を少し延伸できる選択肢に思えると話し、他の参加者も同意した。そこで、兄が医者から渡された中心静脈を望む同意書のようなものを出すことになった。
 しかし、家に帰ってから段々迷いが出て、今日になって、インターネットで調べてみると、中心静脈と胃瘻の差も「延命措置」という意味では大差がなく、中心静脈は、口から栄養がとれなくなって寿命が尽きかけている人間の命を心臓に近い太い静脈へ高カロリー輸液を注入することで心臓から血液とともに動脈を通じて全身に栄養分を循環させ人工的に引き延ばすことであり、しかも感染症のリスクに加え、栄養分が過多になる傾向があり、かなり無理がある(身体に負担がある)やり方だと理解する。肺炎を治すために抗生剤を投与するのは明白に医療行為だが、栄養を補給するのは必ずしも医療行為ではないかもしれない。自然に眠るように死なせてあげるには、いっそう点滴も止めて何も延命措置を取らないのが確実な方法だと知る。そうすると、人間は徐々に死ぬための肉体の整理を進め、数週間でそんなに苦しみもなく死に至るそうだ。そう分かると、急いで兄に電話をかけた。すると、今、病院に同意書を提出して帰ってきたところだという。
 おそらく、まだ書類を出していないと言われても、では、中心静脈を止めて、できれば、点滴も止めて、母親を安楽死させようとは兄に対して即座に提案できなかったのではないかと思う。そう言うには、まだ躊躇するものがあった。母親の生きる意志は分からないにしても、たまさか効く抗生剤があったにしても、肺炎が治りかけている事実が、母親にはまだ僅(わず)かでも生命力が残っていることを暗示しているように思われ、それに早めにストップをかける権利(判断する根拠)は自分にはないと思えてくるからだ。施設で短冊に書いた「今じゃ気持ちが スタコラサッサ」という表明が、実際の死に際しての母親の気持ちと本当に言えるのか、そこが分からなくなってくる。
 1カ月以上前、車で20分ほどの生田緑地にある川崎市岡本太郎美術館で見た奇妙な形のオブジェに感じた、死の世界を覗(のぞ)き込んでいるようなグロテスクで逞(たくま)しい生命力が母親の中にもまだ残り火のように残っているかもしれない。この進化の過程でありとあらゆる生命に本能として巣食う怪獣に、餌(えさ)をやるべきか、餌を与えずに動かなくなるまで衰弱させるべきか。文明の利便性や科学技術にすっかり侵(おか)された鈍(にぶ)い頭では優柔不断にも、きっぱり判断できないでいる。「自分で食べられなくなれば、人間はおしまい」とは、医学的延命に対する警鐘のように理(ことわり)のように耳に入ってくる言葉だが、生きることと死ぬことの間にある分厚い壁を人一人通過するだけの穴が突貫(とっかん)であくのをじっと見守るのに、この言葉だけでは納得性が足りない、まだ心もとない気がする。

 岡本太郎美術館

母親の顔(2012)

 入院後、母親の血を2、3日ごとに採取した検査時系列情報には「97歳6ヶ月」との記載がある。当然、戦中世代で、娘の頃は、大空襲の中、狭く暗い防空壕で昼夜を暮らすこともあった。戦後も食べるものを得るために横浜から厚木辺りの山間部へ一人買い出しに出かけた話はよく聞いた。「飢餓(きが)」体験は母親の中に深く刻まれている筈(はず)である。小生には、それがまったくない。戦争もなく経済成長が主流を占める60余年、大して働かずとも餓(う)えずにのうのうと生きてきた。その息子が、今、死に瀕(ひん)している母親に「飢餓」を再度与えるかどうかで、21世紀の文明がどうの科学がどうのと迷っているのである。母親は餓鬼(がき)のような有様で病床に寝ているのに、である。こう考えると、何処(どこ)まで行っても太平な世の呑気(のんき)なような話になってしまう。母親は餓鬼(がき)の形相(ぎょうそう)で病床に寝ているのに、である。
 多分、その母親も心の中で、エンドレスに右往左往(うおうさおう)ばかりしている息子を苦笑しているであろうし、馬鹿息子に苛立(いらだ)って、好い加減早くさっさと決断せんかい、と喝(かつ)を入れたいと思っているであろう。息子は大抵こんなものであり、娘は母親に対してもっと果敢な同調者であるとも聞く。
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