Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

雍和宮の門(北京)

2007年05月29日 20時18分23秒 | 北京俳諧行3日目(雍和宮・雑技)
 近づいて、あらためて見ると、この門はずいぶんと凝ったものだ。日本人は門自体はそう飾ろうとしない。なぜなら、門だからだ。松飾をする正月ならばともかく、普段はその下をただくぐって、先にある前庭とか家の玄関先を飾りたいならば飾れば事足りる。せいぜい神社の鳥居のようにシンプルな美にいきつく。中国の人は竜宮の感覚でこれでもかと上乗せに門飾りをするようだ。

 竜宮の門をくぐりて白髪一本抜ける  頓休
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雍和宮の空間と人の鼻の大地(北京)

2007年05月28日 20時30分18秒 | 北京俳諧行3日目(雍和宮・雑技)
 今日は、帰宅の通勤電車内で、寺院の伽藍(がらん)空間について大いに考えた。
 大体、小生は、帰りの車中では眼が疲れ(てい)るから、本など滅多(めった)に読まない。大方、人の顔を見て過ごす。見られる方は迷惑に感じるに違いない悪趣味だが、小生はよほど疲労困憊でもしていないかぎり居眠りもできない性質(たち)なので、余り一つの顔に集中しないように分散しながら、顔から顔へ見て廻る。そうしたときは、ただ見て、あの鼻は変わっているとか、出身地はどこだろうとか、鼻腔の形が独特だとか、黒目が大きいなとか、少し馬鹿面だなとか、さまざまな観想に暮らすわけだが、今日はあいにく移ろう視線がしばし釘付けになるような美人も居なかったので、顔から顔の忙しい渡り鳥に、なぜか寺の伽藍を思い浮かべていた。奈良の法隆寺、鎌倉の円覚寺、上海でみた玉仏寺や静安寺。そうしてじっとある鼻の頂点を睨み入りながら、中国の寺の伽藍は都市型で狭いと結論づけた。さらに、あの1日目に目の当たりにした天壇の無限な空間をまざまざと脳裏に広げて、「中国は天帝の領分は広大な敷地を確保する」と思い至り、「日本は、古来から政治的に神道派と仏教派が激しく競合した。したがって仏教寺院も権力の代償として狭い国土にしては比較的ゆったり敷地を確保したが、中国仏教は真実、宗教的な存在としてちっぽけな領地に甘んじて無欲だったのではないか」と推論を働かせ、そこで自分の思考力に大満足を覚えた。すでに鼻の大地に都市型伽藍を乗せた当の持ち主は電車から降りてしまったらしい。ここ雍和宮も、この門のうちは広く確保してあるが、さらに進み、より大きな門をくぐれば、その先は大仏の鼻の大地ほどに手狭な空間に建物がひしめいていたことを思い出す。

 鼻の大地に伽藍広げ春暮れん  頓休
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雍和宮入口(北京)

2007年05月27日 21時39分34秒 | 北京俳諧行3日目(雍和宮・雑技)
 そうした真贋が定かでない骨董通りの観光の後、地下鉄2号線で半周して、「雍和宮(ようわきゅう)」駅を降りた。この日も暑い日で、強い陽射しに火照りながら道をしばし歩いた。雍和宮は、チベット仏教黄帽派の古刹だそうだ。なんでも、初め、雍正帝が皇太子だったときの居所「雍親王府」として1694年に創建されたのだとか。それが、乾隆帝時代にチベットやモンゴルとの民族融和を図るためにチベット仏教寺院になった。入口に立って、なんとなく入りやすい親しみを感じた。これが本物の偉さだ。

 門を仰ぎ入りやすし雍和宮  頓休 
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琉璃廠3 いかにも(北京)

2007年05月27日 21時13分25秒 | 北京俳諧行3日目(雍和宮・雑技)
 その中で、いかにも外人相手で、曲々(まがまが)しい店先を撮る。こうした興味本位の店が増えると、だんだん街の落ち着いた価値(品格)が失墜するのは慥かだ。ニッポンの鎌倉辺りも似た失墜現象を見かける。

 面白そうただそれだけでは街が死ぬ  頓休
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琉璃廠2 とはいえ(北京)

2007年05月27日 21時08分53秒 | 北京俳諧行3日目(雍和宮・雑技)
 贋物とはいえ、歩いてみると、とにかく物珍しい。彼女の手前、余り感心した風にキョロキョロ見て廻ることもできず、店に入ってどうなっているかをつぶさに見物することもできず、やや残念。商家風の屋根の形が、いい。手元のガイドブックを読めば、1669年に紹興の医者が創業した「同仁堂」なる薬屋、創業1916年の筆の専門店「戴月軒」がここにある。買わずとも覗いてみたかった。

 恰好つけ見物もできず琉璃廠  頓休 
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琉璃廠1 贋物の街並(北京)

2007年05月27日 18時08分55秒 | 北京俳諧行3日目(雍和宮・雑技)
 ホテルのフロントで200元のデポジット(deposit、保証金)を渡した。ホテルの部屋にトランクを置き、まずまずの部屋だと安堵しながら外へ出た。和平門へ行く途中、案内人が「ここに骨董街があります」と言う。「はあ、そりゃ」と見物する。今調べていて判明したことだが、ここはガイドブックに「書や水墨画を愛好する人なら必ず行きたい場所が書画骨董の老舗が集まった通り琉璃廠」とあり、結構有名な観光スポットだったらしい。案内人は、感嘆しきりと古そうな町並みを見廻す小生に「ここは贋物」といった意味を告げたので、「そうかなあ、僕には本物と贋物の区別はつかないが、中国の人には分かるのでしょうな」と答えた。どうやらこの古さには手を加えた拵(こしら)えもの臭さ、時代テーマパーク的な要素があるらしい。そういえば、なんだか建物の建材は妙に新しすぎる。

 贋物と知らず感嘆しきり琉璃廠  頓休
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北京前門建国飯店

2007年05月27日 12時52分35秒 | 北京俳諧行3日目(雍和宮・雑技)
 別に、北京駅に近いHarmony Hotelが嫌だったわけではなく、同じホテルに滞在中ずっと泊まって、もしそこがよくなかったら台なしだと事前に判断して、滞在前半と後半で別のホテルにした次第。10時にタクシーで北京前門建国飯店(旧・北京前門飯店、Jianguo Hotel Qianmen Beijing)へ向かった。勘違いから最初、同じ名の姉妹ホテルへ行ってしまったが、そのホテルで訊いて、正しい宿泊ホテルについた。間違ったホテルは新しくモダンだったが、こちらは古めかしい分、床しい。悪いホテルではなさそうだと思った。地下鉄2号線の「和平門」から虎坊路を北に、骨董街の琉璃廠を抜けて、徒歩で20分ほど歩いた下町風な胡同の一角にある。それも魅力の一つだった。まっすぐ前の通り(永安路)を東に歩けば天壇に行き着くらしい。このホテルは観光客向けだが、京劇の劇場「梨園劇場」を併設していることで人気がある。

 胡同に泊まり北京の朝を迎えたし  頓休
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怪我をしながら撮った朝の北京駅

2007年05月27日 12時03分15秒 | 北京俳諧行3日目(雍和宮・雑技)
 この日は、ホテルを北京界隈の華美倫酒店(Harmony Hotel)から北京前門建国飯店へ移動することになっていた。朝、7時前、今日からメーデー休みに入る北京駅の賑(にぎ)わいぶりを撮ろうと、駅前の広場で、カメラのファインダーを覗き込みながら駅舎がうまいことフレームに入るところまでバックしていて、ゆっくりとバランスを崩して転倒した。カメラをかばい、右肘(ひじ)を突くように転んで、カメラは無事だったが、小生の肘は3㌢ばかりの切り傷を負った。排水溝か何かの金属でざっくり斬った。深手だった。血が腕を伝わってぽたぽたと落ちた。それでも、折角だからと撮ったのが、この一枚。だから、貴重な写真である。ホテルにたどり着き、自室の前で、右肘の傷口を抑えていた左手を離すと、その掌(たなごころ)が血の池になっていた。幸い大き目のバンドエイドを携行していたので、それを貼って何とか血は止まった。ただ、旅客やルンペンが頻繁に唾を吐くような場所で斬った傷だけに、破傷風でもならないか、後々も心配だった。少し膿んだが、大丈夫だった。その後、傷は癒えたが、傷跡は死ぬまで残りそうだ。北京駅の記念すべき負傷なり。

 深手を負いながら撮ったああ北京駅  頓休
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補稿・北京の牡丹

2007年05月27日 11時17分04秒 | 北京俳諧行2日目(故宮・鐘楼/鼓楼)
 これは故宮の御花園で撮った写真だったか。小型のカメラで撮った。牡丹だろう。Wikipediaに――原産地は中国。元は薬用に栽培されていたが、則天武后も牡丹を愛でたという唐代以降、牡丹の花が「花の王」として他のどの花よりも愛好され、様々に詠まれ、描かれてきた。 清代以降、1929年までは中国の国花でもあった。1929年、当時の中華民国政府は国花を梅と定めた。中華民国政府が台湾に去った後、公式の国花は定められていなかった。中華人民共和国政府は現在「牡丹、蓮、菊、梅、蘭」の中から新しく国花を制定する作業中と伝えられる――とある。
 中国史上唯一の女帝となり武周を立てた則天武后については――王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)は武后により罪に問われ、四肢切断の上酒樽に漬けられ、また遺族の姓を侮蔑的な意味を込めた字である「蟒」(ウワバミ、蛇の一種)と「梟」に改称された。この際武后は「骨まで酔わせてやる。」と言ったと伝えられ、彼女の残虐さを強調するために好んで言及されるが、この刑は彼女の独創ではないようだ。蕭氏は「武照よ、お前は鼠に生まれ変われ。私は猫に生まれ変わって食い殺してやろう」と呪いながら死んだとされ、このため後年の武則天は宮中から猫を排除したとされる――と、すごい逸話が残る。

 閻王(えんおう)の口や牡丹を吐かんとす  蕪村

 則天武后の猫隠す緋牡丹かな  頓休
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中国版カーネル・サンダースの李先生(写真)

2007年05月27日 10時56分27秒 | 北京俳諧行2日目(故宮・鐘楼/鼓楼)
 ケンタッキーフライドチキンの創業者カーネル・サンダースの中国版(海賊版?)が、この李先生(Mr.Lee)であろう。故人らしい。サンダース氏は90歳まで長命だったが、大体、この手の創業者というのは、事業が成功するまで苦節の歳月が長期間あり、したがって長生きだ。李先生も長生きの人だったに違いない。

 李先生の蕎麦を食べながら長寿の功  頓休
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