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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

哲学草稿2:仏教は今でも非ニッポン的なのか? 蘇我氏滅亡、神仏習合と廃仏毀釈、小泉首相の靖国神社参拝

2005年11月14日 21時06分49秒 | 哲学草稿
 今日の朝刊1面に、蘇我入鹿(そが・いるか)邸の遺構が、奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか、標高148㍍)東麓遺跡で見つかったと報じられていた。
 645年、入鹿は宮廷の儀式に出席していたところを、「天皇の地位を脅かそうとしている」との理由で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり、後の藤原鎌足)のクーデターにあった。皇子の刃に入鹿の生首が宙に高々と舞い上がったシーンは、あの『新しい歴史教科書』に絵入りで生々しく取り上げられている。見つかった入鹿の邸宅は、クーデターの前年(644年)、宮が見渡せる甘樫丘の谷間に建造され、父親の蝦夷(えみし)の邸宅は丘の上に築かれた一種の二世代住宅だった。クーデターの翌日、敵と対峙した蝦夷は自ら両邸宅に火を放ち、自害して果てたとされる。このクーデターが世にいう「大化の改新」、正確には、その幕開けとなる「乙巳(いっし)の変」である。
 この出来事を少し分析すれば、ニッポンという国の宗教と政治の固定的なあり方を如実に現していると思い至るであろう。あれ以来、昨今の小泉首相の靖国神社参拝問題まで1400年間、ニッポンは変わるところがない。
 まず、コーリア人に対する複雑な感情。ニッポン人と日本文化のルーツがコーリアにあることは、学説にある蘇我氏や天皇家、および官僚群の血筋を考えれば明らかだ。
 最近、読んでいる桓武天皇の伝記にも書いてあったので、ああそうかと思ったが、桓武天皇の母方は百済(くだら)系帰化人であった。そのことは今の天皇自身があっさり認めている。2001年の12月23日、天皇が六十八才になる誕生日を迎え、その記者会見の場で、以下のようにコーリアとの縁についてこんな突っ込んだことを話した。

 ――私自身としては、垣武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。

 そして、桓武天皇はコーリア系人脈をうまく使って治世をした。最初に移った長岡の地を開拓したのは秦(はた)氏で、彼ら帰化人勢力の財力が遷都の財源となったとされる。つづく平安京遷都についても、その主唱者は、渡来系の和気清麻呂や秦島麻呂(はたの・しままろ)、そして、『続日本紀』の撰修者でもあった百済系の菅野真道(すがの・まみち)といった人たちだった。
 岡山県出身の地方豪族・和気清麻呂は、戦前の国定教科書に、道鏡という悪僧が女帝の称徳天皇に取り入って、ついには自ら天皇になろうと策謀をめぐらし、清麻呂も仲間に加わるように誘うが、清麻呂は拒絶して、かえって宇佐八幡の託宣として道鏡一味を除くように天皇に進言、島流しの憂き目にあうが、後に、見事に復権した忠臣として扱われた。
しかも、天皇が住んだ大内裏(だいないり)は、もとは秦河勝(はたの・かわかつ)の邸宅があった場所だったとされる(『拾芥抄』)。河勝は、聖徳太子の参謀格だった人物。さらに、いわばサムライの始祖、桓武天皇が征夷大将軍に抜擢した坂上田村麻呂(さかのうえの・たむらまろ)は、チャイナの高祖皇帝の末裔だとか。また、桓武天皇が遣唐使に送り出した最澄は、近江の膳所(ぜぜ)近辺の人(近江国滋賀郡三津ケ浜=大津市下阪本辺の湖岸)であった。ここは、「志賀郡四郷」の一つで、古代民族が居住した古郷であった。最澄の俗名は「三津首(みつのおびと)広野」と言う。彼が生誕する300年ほど前にチャイナから帰化した後漢の「孝献帝」の一族の末裔ではないかと伝わる。
 つまり、ニッポン文化の真髄、京都の文化は、コーリア系やチャイニーズ系のエリート層によって土台(foundation)は築かれたようなものだ。それを後から差別して、ニッポンの国はニッポン人だけでつくったようにニッポン民族の優位を主張したって、はじまらない相談なのだ。歴史的な無知を露呈しているにすぎない。しかし、古くからニッポン人の中の国粋的思想を持つ人々は、この混合人種、混血文化からニッポンが成った事実を嫌って、歴史を改ざんしてまで彼らの痕跡を抹消しようとしてきた。それが、聖徳太子一族が殲滅(せんめつ)された悲劇や蘇我氏の滅亡につながったと、小生は考える。
 太子一族も蘇我氏も、仏教徒であった。そのころの仏教は、明らかな外来文化であり、ニッポンの文化風土にはなかったがっしりした体系的で稠密(ちゅうみつ)な宇宙観を主張する異教と映ったであろう。仏教には、考えようによっては、執拗で脂っこいところがある。東洋の衣を被ってはいても、キリスト教と同じ粘着の質感がある。一方、ニッポンは、風通しが良い、淡白好みの「生(き)なりの文化」で、オモチャのような鏡・剣・曲玉といった三種の神器を奉(たてまつ)り、刺身を食い、大した理由もなく腹を切り、吹けば飛ぶような木の家に住み、ペンキで柱や壁を塗りたくるようなことはしなかった。ニッポン人は、最近は肉食化し豚骨ラーメンを食って生活習慣病にかかっても、本来は、ゴタゴタした味つけ、脂っこさは、思想だろうが料理だろうが、チャイナ伝来だろうが、ヨーロッパ伝来だろうが、徹底して受けつけないところがある。だから、蘇我氏も聖徳太子も、外国カブレに映ったのである。(つづく)
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