Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

藤野先生

2009年01月31日 12時02分30秒 | 北京に魯迅を訪ねて
 1904年、魯迅は仙台の医学専門学校(後の東北大学医学部)へ入る。彼の『藤野先生』の冒頭で「東京も格別のことはなかった。…別の土地へ行ってみたら、どうだろう?」といったことで、東京の生活を見限ったのが仙台行きの動機だったように書いている。また、父親の生命を奪った漢方医学への反発が、西洋医学を学ぶ動機になったのかもしれない。いずれにしても、仙台で魯迅はニッポン留学中にやっと尊敬できる師に出会えたわけである。それは、服装に無頓着でネクタイをしめ忘れてくることもある風采のあがらない解剖学の先生であった。初対面のときの印象を「色の黒い痩せた先生で、八字鬚をはやし、眼鏡をかけ、大小の書物をかかえていた。書物を教壇におくと、ゆっくりしたぎくしゃくした抑揚で、学生にむかって自己紹介した。『私は藤野厳九郎というものでして……』後のほうで何人かの者がふき出した」と記している。藤野先生は魯迅の講義ノートをいちいち詳細に添削して返してあげた。魯迅はチャイナに帰ってから先生が添削してくれたノートを三冊の厚い本に造本してしまっていたが、1919年北京へ転居の際に紛失してしまった。写真は、魯迅が記す「先生は人骨やら切りはなされた多くの頭蓋骨やらのあいだに坐っていた」研究室の藤野先生であろう。中国の方に言わせれば、魯迅はニッポン滞在中ニッポン人が好きになれなかったが、藤野先生は例外中の例外だったという。魯迅は『藤野先生』の最後を、仕事に疲れ、書斎の壁にかかった藤野先生の写真をちらっと見やったとき「いまもぎくしゃくした抑揚で話しかけようとするように思え、ふと私の良心を目ざめさせ、かつ勇気づけてくれる。それで煙草を一本つけ、ふたたび『正人君子』の輩の深く嫌悪する文章を書きつづけるのである」と結んでいる。括弧(かっこ)のない正真正銘の正人君子とは、まさに魯迅にとっては藤野先生の面影であったのであろう。
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日本語学校の卒業証書

2009年01月31日 11時48分34秒 | 北京に魯迅を訪ねて
 魯迅はニッポンへの留学の前は日本語ができなかったのだろうから、東京の日本語学校へ入った。あの柔道の父・嘉納治五郎が設立した弘文学院だ。写真はその卒業証書。魯迅がニッポンで手に入れたたった一つの卒業証書なのだろうから、中国へ帰っても大事に取っておいたのであろう。それにしても、この証書、達筆なり。
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魯迅の中国人とは何かの問いかけ

2009年01月31日 11時32分47秒 | 北京に魯迅を訪ねて
 前年末に路礦学堂を卒業した22歳の魯迅は、1902年、ニッポンに留学した。外国に行くと、大体、祖国についてあれこれと考えるものだ。魯迅も、あれこれ考えたようで、異郷の地で友人と語り合ったようである。テーマは、①理想的な国民性(人性)とは何か、②中国民族に最も欠乏しているものは何か、③この病根はどこに在るのか――だった。今の留学生は、チャイニーズでもジャパニーズでもこんなことはほとんど考えないであろう。彼らの関心は、チャイナでもニッポンでもない。彼ら自身の将来だ。
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科学と文学者

2009年01月31日 10時15分59秒 | 北京に魯迅を訪ねて
 北京の魯迅博物館にこんな写真が掲示されていた。年譜によると、19歳の魯迅は1899年、江南水師学堂から江南陸師学堂附設の路礦学堂に転校し、そこで物理や数学という学問の存在をはじめて知ったとある。余暇には、ハクスレーの「天演論」(「進化と倫理」)を読んだのだとか。魯迅はダーウィンの進化論から相当の影響を受けたらしい。魯迅の文学の旗印は社会にはびこる旧弊の打破である。その思想的根本はこの頃に知った進化論だったのであろう。ただ、自然界の種はともかく、10年、30年そこらの短いスパンで有意義な社会の進化なんて本当にあることなのだろうか。それは単なるこの世の見かけの変容ではないか。ところが、いま生きている人間は大体、この社会の進化を無意識に漠然と信じている。性急に、世の中ちっとも良くならないとボヤク。ちなみに、ハクスレーも晩年のダーウィンも不可知論の立場にあったという。進化の元も先っぽも未定である。よく分からない。科学観から社会や文学への転用は、そう簡単なものではない。小生の量子論的不可知論も、然り。文学では分かりやすい旗印の方が、不可知論より元気づけになる。それもまた社会がさほどに進化していない証拠なのだ。
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魯迅、故郷の水辺の風景

2009年01月25日 10時59分32秒 | 北京に魯迅を訪ねて
 魯迅の故郷、紹興はこうした水辺の風景が豊富なところなのであろう。彼の作品「故郷」は、彼が故郷へ母親を北京へ引き取るために船で里帰りをするシーンで始まる。また、「村芝居」では、旧劇(京劇?)が大嫌いな彼が、子供時代に田舎の少年たちと船に乗って見に行った田舎芝居を「そうだ。あれから今日まで、私はほんとうに、あの晩のようなうまい豆を食べたことがないし――あの晩のようなおもしろい芝居も見たことがない」と懐かしむシーンで終っている。
 なお、紹興を紹介するHPに、こんな文章を見つけた。――紹興の町では「黒」が多く使われています。この「黒」という色は、昔から紹興を象徴する色だったそうです。紹興では有名な「黒いもの」が3つあると言われています。
 まずひとつは、水路めぐりのときに乗る、黒い足こぎ船です。この船は「烏篷船(うほうせん)」とも呼ばれています。「烏」とは中国語で「カラス」のこと。なぜ黒いのかというと、昔はこの船を漁にも使っていたそうで、夜に魚が逃げないように船体を黒く塗ったのが始まりと言われています。
 紹興の「黒いもの」2つめは、その船頭が被っている帽子です。「烏藷ク帽(うせんぼう)」とも呼ばれています。フェルト製で雨にも強いのが特徴です。今は船頭や観光地のスタッフが被っているのを見る程度ですが、昔は普通の人もよく被っていたようです。
 そして3つめは、食べ物。紹興の人が日常食としてよく食べている、「烏干菜(うかんさい)」と呼ばれる食品です。高菜やからし菜を刻んで天日で干し、そのあと煮て作ります。その色が真っ黒なことから、紹興の3大「黒いもの」のひとつに数えられています。
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魯迅が生まれた部屋

2009年01月25日 10時43分20秒 | 北京に魯迅を訪ねて
 1881年9月25日(旧暦8月3日)、魯迅はこの部屋で生まれた。幼名は樟寿、字は豫才、後に樹人と改める。今回の旅では四合院風な宿に泊まったが、部屋の様子はやはり同じ感じである。白黒写真で色合いまで分からないが、白壁で家具ももっとシックな落ち着いたものであったのであろう。
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魯迅の生家

2009年01月25日 10時05分15秒 | 北京に魯迅を訪ねて
 魯迅の生家「周家」は、田畑4、50を所有する資産家階級の、しかも科挙に合格者を出す学問の名門一族。写真の門構えにも、その重々しい家族の威厳が感じられる。なお、前に魯迅は正岡子規と風貌も性格も似ていると書いたが、子規の母・八重は松山藩の儒学者・大原観山の長女と、やはり祖父に相当な学者がいる家族の環境も似ている。そして、両者とも旧時代から新時代への移り変わりの時期に、父親を早くして亡くし一家も零落、文学者になってから故郷の母親を北京や東京へ引き取っている。
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魯迅の父母

2009年01月25日 09時48分14秒 | 北京に魯迅を訪ねて
 先に魯迅の生い立ちで紹介したように、「魯迅、1881年浙江省紹興に、周という大きな家族に生まれ、父親は秀才でした。母親は魯という苗字を持つ田舎者でありましたが、独学によって文学作品が読めました」と、魯迅は、多分、当時としては教養のある父母を持っていた。写真からも魯迅が母親似であったことが分かる。ペンネームの魯迅も、この母親の苗字から選んだのであろう。彼はまた、魯鎮(ルーチエン)という架空の土地を作品によく登場させる。
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紹興の生まれ

2009年01月22日 20時27分43秒 | 北京に魯迅を訪ねて
 魯迅は紹興酒で知られる浙江省紹興城内の東昌坊口で生まれた。祖父は北京で翰林学士(宮廷秘書官)として国史の編纂にたずさわっていた。Wikipediaに「翰林院(かんりんいん)とは、唐の玄宗が738年(開元26年)に設けた翰林学士院がその起源で、唐中期以降、主に詔書の起草に当たった役所のことをいう。Academy (アカデミー)の訳語。清代では、いわば皇帝直属の秘書室となり、書物の編纂、詔勅の起草などを行った」とあるから、そこの学士となれば科挙を優秀な成績で合格した天下の秀才で、大臣への昇進を約束されたという。父親は秀才でも祖父にはかなわない。その孫だから、魯迅も学問で立身出世を大いに期待されたに違いない。魯迅の作品「孔乙己(コンイーチー)」に出てくる酒好きの主人公・孔乙己は、「もとは学問をした人間なのである。ところが、いくらもがいても秀才の試験に受からなかったし、また商人にもなれなかった。そこでだんだん貧乏になって、乞食をせんばかりにおちぶれてしまった」とある。孔乙己は魯迅の分身的幻影だったのであろう。
 ところで、ニッポンではお馴染みの紹興酒(黄酒)。北京に行くと、誰も呑まない。北京ののん兵衛はぐいぐいずっと強い白酒を呑む。北京の人に、小生は白酒をニッポンの焼酎のようにお湯割で呑むと言ったら、単純に笑われた。強いが、まことにおいしい酒である。白酒になれた北京の男性に日本酒を呑ませたら、水のようなものだと話した。さもありなん。紹興酒の故郷で育った魯迅は、白酒よりニッポンのお酒を好んだかもしれぬ。
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魯迅の生い立ち

2009年01月22日 08時01分32秒 | 北京に魯迅を訪ねて
 魯迅博物館のエントランスで、左脇に「自嘲」の詩があり、正面にはこの大きな原稿用紙のオブジェがある。最初、「魯迅、1881年浙江省紹興に、周という大きな家族に生まれ、父親は秀才(科挙制度の前段階の一つ院試に合格した人)でした」とあるから、これは魯迅がおのれの生い立ちを書き記したものであろう。そのあと横合いからの写真で判読しにくいところをムリをいって翻訳してもらうと、「母親は魯という苗字を持つ田舎者でありましたが、独学によって文学作品が読めました。家にはもともと4、50畒の土地の財産があったのですが、父親が亡くなった後は少しずつ売り払ってしまいました。この時、私は大体13歳となっていました(父親の伯宜が病気にかかったのが13歳のころ、死んだのは魯迅16歳のとき。享年37)が、やはり3、4年ほど学校に通っておりましたが、お金がないから、学費のいらない学校を探さなければならなくなり、南京へ行って、水師(?)の学堂に入ったのです」とつづく。水師(?)の学堂とは、18歳のときに入学した南京の江南水師学堂(海軍の学校とか)のことであろう。魯迅は1881年の陰暦8月3日生まれ、周樹人というまことに恰好のいい名を持っていた。
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