Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

フェリーニの『青春群像』を観る

2016年09月30日 22時09分53秒 | Journal
 フェリーニ歴は、中学生の時に『道(La Strada)』(1954)を観て以来だから、かれこれ50年近い。しかし、そんなに多くフェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)監督の映画を観たわけでもない。大学の時、『アマルコルド(Amarcord)』(1973)を映画館で観て、ああ、これだなと思った。自分の思い描きたい世界をフェリーニが代わりに映像にしてくれたという感じだった。そして、昨日、『青春群像(I Vitelloni)』(1953)という作品をテレビで観た。はじめ、これがフェリーニ作だとは知らず、その映像に魅入られてしまい、誰が監督かと確認して、フェリーニと知った。小説でも、処女作にその作家の全てが出るという気がしているのだが、このフェリーニの出世作『青春群像』にもそれが言える。小生にとって、この年代のイタリア映画が懐かしく貴(とうと)いのは、自分の原風景をそこに見いだせるからだ。基本的に、モノクロで、貧乏くさいが、その分、人間が生き生きとしている。そして、夢がそうであるように、これといった筋立てなんてなく不可解であるが自伝的で実存的である。純文学という死語があるが、純映画なのだ。そう思わせるのは、やはり映像にフェリーニ独自の「文体(スタイル)」があるからだろう。観てから数秒で、おや、これは、と監督を調べたのも、その文体の魅力のためだった。最近の映画に、文学もそうだが、そうした「文体」があるのか、考えてしまう。







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万平ホテルと富岡製糸所

2016年09月18日 17時54分55秒 | Journal
 金土で、生まれてはじめて日本で一番有名な避暑地の軽井沢というところへ行ってきた。ここ(横浜市緑区)からだと、東名に乗って、海老名JCで圏央道に入り、鶴ヶ島JCで関越自動車道、藤岡JCで上信越自動車道とはしごして、妙義山を過ぎたところで碓氷軽井沢ICをおりて、しばらく走れば、旧軽井沢に着けるのだが、車のナビが古くて、圏央道が入っておらず、なんと東名で東京まで逆走し、混み合う環八を練馬方向へ走らされた(これはいくらなんでもおかしいと思いつつ)。途中でこらえきれず、八王子方向へ左折して、調布だったか、中央自動車道に乗って、八王子JCから圏央道へ入るという、信じられない遠回りをしたので、5時間近くかかってしまった。普通ならば3時間程度で行けるそうだ。慥かに、帰りは、富岡製紙所に寄ったので、はっきりしないが、高速を走ったのは3時間弱か。しかし、しょぼしょぼする眼で、夜間の高速運転3時間は心臓にこたえる長さで、これからの毎夏に軽井沢が近くなるとは、とても思えなかった。
 泊まった万平ホテルは、1894年の開業とかで、軽井沢でも由緒あるホテル。古くは東郷平八郎が利用し、キッシンジャーと田中角栄が対中問題を会談し、文士・三島由紀夫が作品の想を練り、ジョン・レノンが家族で夏を過ごしたホテルである。小生などが、文句をつける余地などなく、行き届いて、うるさくならない、立派なホテルである。オリジナルの旧館(アルプス館)を復古したウスイ館の泊まった部屋も、和洋折衷がうまくいった清潔で珍しく居心地の好い部屋だった。唯一、欠点があるとすれば、車でいくと、銀座と呼ばれる旧軽井沢の観光スポットの狭い道を行きかう人を避けて運転することになり(ナビの指示に忠実だったせいかもしれないが)、いささかわずらわしい。しかし、これも不慣れなだけで、もっと楽に走れる迂回路があるのかもしれない。















 翌日の土曜日は、朝、チェックアウトしてから、白糸の滝を見物に出かけた。日本の滝といえば何となく縦に細く水が落ちるものだが、ここのは横に広がった滝である。そこが平和で静かな感じがして好ましい。



 さらに、ムーゼの森とかへ行って、少し季節外れになった森の風景の中を散策した。一つ、ピノキオの企画展をやっていた絵本の森の展示館、その建物の形が面白かった。それと、「エルツおもちゃ博物館」に展示されていた小さなドイツのおもちゃも小生を昂奮させた。それから、中軽井沢の洒落たレストラン街(ハルニレテラス)の川上庵という店で天ぷらそばを食べ、食後に土産物ショップを覗いてから(軽井沢は何でも高すぎるから買う気になれない)、午後3時近く、富岡製糸所に向かった。上信越道に乗って1時間ぐらいのドライブだ。夕方だったので、混雑も去って、製紙所の近くに駐車させることができた。富岡製糸所は1872年に開業、1987年に操業を停止した。その後、2014年に世界遺産に登録された。ガイドの人から、レンガを瓦職人がつくったことや、レンガの間に挟むセメントが国内になかったので(輸入すると高くつく)漆喰を使ったこと、明治初期でまだ電気が通ってなかったので工場内で自然光だけで作業できる時間だけ操業し残業もなかった話などを聞いた。また、柱のない工場の大空間はトラス構造を採用することで実現し、このことが世界遺産の審査で評価されたといった話も出た。















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2016、夏の北京行き、白塔寺

2016年09月07日 19時04分05秒 | Journal
 8月24日から9月2日まで、北京へ行っていた。妻の里帰り随行である。第一の印象は、北京の夏空がいつになく奇麗だったことだ。こうした爽やかな北京にお目にかかるのは実に久しぶりだ。その分、暑かったわけだが、湿度が低いせいか気温ほど東京よりも暑いということはなかった。
 今回は、最初の2日間、地下鉄4号線「平安里」駅そばの護国寺街にあるSOFU HOTEL(斯芙駅酒店)に泊まった。800年余の古い胡同(フートン)の中にあるホテルで、飛行場から乗ってきたタクシーの運ちゃんがぶつぶつ言うほど人出でごった返した路地を入ったところにある。木製の大きなドアを手で押し開けて中に入ると、「ニーハオ」とか「ハロー」とか、妙な挨拶が出迎える。宙返りが好きなオウム君である。ためしに、「こんにちは」と言ってみるが、反応がない。さすがに、日本からの来訪客は少ないようだ。








 
 着いた日の翌日だったか、妻が文革時代に一緒にレストランで働いた友人夫婦の家に招かれ、夕刻、さらにそこから東四十条の、なんでも皇帝の穀物倉庫を改装したとかいうレストラン街へ向かった。そこで、あ!、これは、日本のアレか(『世界の中心で、愛をさけぶ』)、と思わせる看板を見つけた。勤め帰りらしい若い客が多いレストランでテーブルについて、芋が葉を伸ばした置物を眺める。会食が終わり、レストランを出てくると、すっかり夜になっていた。周囲の高層ビルの輪郭を縁取(ふちど)るイルミネーションが、この夜陰に眠る皇帝たちの食糧庫群を覗(のぞ)き込んでいた。











 



 泊まったホテルは、京劇の往年の名優、梅蘭芳(メイ・ランファン)の家も同じ通りの先にあるなど(今は記念館になっている)、殷賑(いんしん)の中にも胡同として由緒正しい感じがあり、二人乗りのブランコまであるバルコニーを持つ2階の部屋も(よく新婚さんのお泊り部屋になるとかで)、なかなか洒落たものだったが、難点は、匂いがすることであった。多分、家具から発したシンナーのような化学物質の匂い。小生は、さほど気にしなかったが、妻がアレルギー鼻炎を起こして、ティッシュペーパーを放せない。ホテルも交通の便など場所柄が好くても、とてもここにとどまれないとなって、以前、何度か宿泊したことがあるホリデーインのダウンタウン(金都假日飯店)に引っ越した。





 馴染(なじ)み深い、ちょっと狭い10階のホテルの部屋に入って、テレビをつけると、CCTVで日本関連のニュース番組が流れていたので、思わず見入った。面白いと思ったのは、小池百合子氏が都知事になって、安倍首相とタッグを組んで改憲に大きく動きだすという、日本では聞かなかった(少なくとも強調されていない)見方が報じられている点であった。そうした確たるシナリオがあるとはどうしても思い描けないが、さりとて、理屈がまったく通っていないわけでもなく、所詮(しょせん)、わかりにくい日本の保守政治の中で、何が水面下で起きているか読めない以上、こうした中国人の見識を現実的ではないと却下しきれないと思った。









 北京滞在中の前半、妻は大学時代の同級生と一泊二日の旅行へ出かけてしまったので、これを幸いと、小生は、夏日の暑い朝、ホテルで食事を済ましてから、北礼士路沿いにあるホテルを出て、大通り(阜成門外大街)にかかる高架橋を渡って(白塔寺の白い塔が見える)、南礼士路をとぼとぼと月檀公園まで歩いて行った。並木の木陰があり、大層助かる。公園は、日曜日だったので無料で入園できた。





 日曜朝の公園は、特別である。普段の「市民の憩い」を観察できる。路面に濡らした大きな筆で字を書く人が居る。剣を手に太極拳の指導を受ける人が居る。池の畔(ほとり)で湖面を眺める親子が居る。蕪村の字を思い出させる石碑の字を眺める。









 公園を出て、そのままホテルに引き返そうかなと、戻りかけたが、まだ昼には時間があり、あの白塔の方にまわってみようかと考えを変えた。ただ、南礼士路を戻って、大通りを歩くのも暑くて大変そうなので、道を適当に曲がって、金融街のビル群の日陰を利用して、白塔寺の付近にたどりつく算段をした。まだ道を渡って曲がる前に、公園の壁がつづくバス停で次の飲料の広告を見かけた。そして、一枚撮った。なぜならば、「不飽和脂肪酸」という文字が目にとまったからだ。健康志向は、中国も同じように具体的な効能の文言を要求するようだ。





 日曜日とあって閑散とした金融ビジネス街をできるだけ日陰を探しながら歩いて、ようやく先方に白塔が見える胡同の路地まで出て来た。





 公園を入るに無料だった例に倣(なら)って、ぶらりと何気なく寺に入ろうとすると、サングラスをかけた守衛の兄さんに制止された。通りに戻って、料金所で20元ぐらい払ったか。そうやって入って、横一線に青い空にたなびく旗を見上げて、これはラマ教の寺院だと初めて悟った。





 お堂の展示物を眺めて、段々に、この寺の由来を知る。寺院の歴史は、遼の寿昌2年(1096年)に遡(さかのぼ)り、寺のシンボルである白塔は、元の至元8年(1271年)以来の歴史を有する。第五代皇帝のクビライ(1215-1294)が、ネパールから技術者アニゲシュジを招き、8年をかけて建立したものと伝えられ、中国国内で現存する最古最大のチベット式の仏塔だそうだ。塔が建った後、クビライは塔を中心に四方に矢を射させ、矢の落ちた処を寺院の境界と定めた。面積16万平方メートル、寺の原名を「大聖寿万安寺」と定める(1275年竣工)。1368年火災に遭い、1457年重建し、「妙応寺」と改名する。重建時に寺院内を大改造し、殿を全て塔の前に移す。主要建築は山門、鐘楼鼓楼、天王殿,意珠心鏡殿、七仏宝殿、三世仏殿など。面積は元来の十二分の一となる。今も、山門、鐘楼、鼓楼以外は、重建時のものである。







 手練(てだ)れが矢を放ったら、どれぐらい飛ばせるか知らないが、白塔の周囲をぐるりと廻(めぐ)った。そこは、今はもう庶民が暮らす胡同の世界である。そして、しばらく歩くと、博物館になっている魯迅の旧宅にたどり着いた。以前、見学したが、ちょっと中を覗いてみようと門を入ろうとすると、やはり守衛に呼び止められた。金はどこで払うのだと喚くと、貼り付けた掲示を示されて、何らかの北京市民(?)の証明書があれば日曜日は無料で入館できるらしい。そんな証明書があるわけはなく、黙って手を振ると、くるりと踵(きびす)を返し、ホテルに戻ることにした。







 白塔寺は、同じく北京のラマ教の寺院としてすっかり観光地化している「雍和宮」(1694年に皇子の居館として建設され、1921年には、芥川龍之介も訪れている)と違い、人影もまばらであったが、あの魯迅も胡同の路地の先に毎日見かけていたに違いない白い塔なので、小生には感慨深いものがあった。
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