最近、「国のため」というセリフを聞く機会が増えている気がする。
「国のために死んだ」のは靖国神社に祀られる英霊もそうだが、彼らが「国のため」に死んだとは真実なのか。あるいは「国が殺した」ことの論理のする替えが「国のために死んだ」になっているのではないかと、ふと思うことがある。少なくとも、国が妙な国益論を盾にして戦争を始めなければ兵士は英霊にならなくてすんだはずである。
そういう疑問があって、かといって非国民と指さされるのが嫌で「国のため」ではなくて「家族のため」とわざわざ話を人情に置き換えて戦争映画をつくる製作者もあるぐらいだ。
今も、「国のため」には個人を犠牲にしなければならない時代がつづいている。この国では、そのことの正当化、美化もつづいている。
多分、同じような疑問を数百年前、いや数千年前の人間もふと感じたかもしれない。しかし、営々とつづき、ますます厚みをます「国のため」という無意識のタブーを破ることはなかなかできないでいる。
忙しい政治家も、ときにはふと立ち止まって、「国のため」という自らのセリフを反省してもらいたい気がする。なんなら、靖国神社に参って、英霊にその気持ちを訊ねてもらいたい気がする。あの世から予期したのとは違った、「国に騙された」と怨みの声が返ってくるやもしれぬ。
かつて「国のため」でなく「公のため」とか「真実のため」に死んだ人間も少数だがいる。「公のため」や「真実のため」を本気で考えている人間が、尖閣諸島を死守して中国と戦争しようとは思わないであろう。国民のレベルを上げるのも政治指導者の役割ならば、わが日本国民をちゃちな利益誘導で貶めるような政治を日本の政治家にはしないでもらいたい。
「国のために死んだ」のは靖国神社に祀られる英霊もそうだが、彼らが「国のため」に死んだとは真実なのか。あるいは「国が殺した」ことの論理のする替えが「国のために死んだ」になっているのではないかと、ふと思うことがある。少なくとも、国が妙な国益論を盾にして戦争を始めなければ兵士は英霊にならなくてすんだはずである。
そういう疑問があって、かといって非国民と指さされるのが嫌で「国のため」ではなくて「家族のため」とわざわざ話を人情に置き換えて戦争映画をつくる製作者もあるぐらいだ。
今も、「国のため」には個人を犠牲にしなければならない時代がつづいている。この国では、そのことの正当化、美化もつづいている。
多分、同じような疑問を数百年前、いや数千年前の人間もふと感じたかもしれない。しかし、営々とつづき、ますます厚みをます「国のため」という無意識のタブーを破ることはなかなかできないでいる。
忙しい政治家も、ときにはふと立ち止まって、「国のため」という自らのセリフを反省してもらいたい気がする。なんなら、靖国神社に参って、英霊にその気持ちを訊ねてもらいたい気がする。あの世から予期したのとは違った、「国に騙された」と怨みの声が返ってくるやもしれぬ。
かつて「国のため」でなく「公のため」とか「真実のため」に死んだ人間も少数だがいる。「公のため」や「真実のため」を本気で考えている人間が、尖閣諸島を死守して中国と戦争しようとは思わないであろう。国民のレベルを上げるのも政治指導者の役割ならば、わが日本国民をちゃちな利益誘導で貶めるような政治を日本の政治家にはしないでもらいたい。