これは国司の正装の姿だそうだ。人形でなく実際の人間が着ているのでリアリティーがある。後世の着物よりははるかに合理的な服装なり。こうした衣裳が定着しないで、余計な形式にはしった裃(かみしも)の武士の姿が発生したのは、なぜなのであろう。
昔は紙がないから、こうした木の板「木簡」に文字を書いたそうだ。写真の人は今でいう編集者みたいなものであろう。実際の世の編集者がどの程度口先以上にインテリかどうかはかなり怪しいが、職業ジャンル的にはインテリ族の分類である。
ところで、今年4月、コーリアの百済の首都・扶余(ふよ)で木簡が見つかり、そこに記された文字から、618年、ニッポンの聖徳太子の時代に、出挙(すいこ、作付け時に稲の種もみを農民に貸し、収穫時にに利子をつけ回収するシステム)が百済の国にもあったことが明らかになったという。出挙は、チャイナの律令制度には見当たらない財政制度で、これまでニッポン独自の制度とされてきたが、どうやら百済からニッポンに輸入されたことになる。この多賀城のインテリも、コーリアのインテリが運んできた出挙の記録を書いていたのかもしれない。
ところで、今年4月、コーリアの百済の首都・扶余(ふよ)で木簡が見つかり、そこに記された文字から、618年、ニッポンの聖徳太子の時代に、出挙(すいこ、作付け時に稲の種もみを農民に貸し、収穫時にに利子をつけ回収するシステム)が百済の国にもあったことが明らかになったという。出挙は、チャイナの律令制度には見当たらない財政制度で、これまでニッポン独自の制度とされてきたが、どうやら百済からニッポンに輸入されたことになる。この多賀城のインテリも、コーリアのインテリが運んできた出挙の記録を書いていたのかもしれない。
三重塔とか五重塔はお馴染みだが、十重塔となると珍しい。仏教の塔は極楽へ行くエレベーター(階梯)である。何階でおりるかで、悟り(心の平安)の境地も違ってくる。十層ともなれば、キメ細かく悟りもチェックされ導かれていくというものだ。ちなみに、まったく観点の違う話だが、数日前、耐震工学研究会における高梨晃一東大名誉教授の講演を取材していて、質疑で、今の日本建築学会会長の斎藤公男日大教授から現代建築の弾性設計による外殻構造を五重塔に関連させる質問があり、高梨氏は「法隆寺の五重塔の心柱は宙に浮いており、一応、心棒が通っているから地震での瓦解を防ぐが、それ以上の構造的な要素は少ない。ただ、あれが宙に浮いていないとなると、頂上の相輪は地震時に突き抜けてしまう恐れがある」と話していた。もう一つはっきりした知識がないが、相輪は心柱の上に直接立っているのか、それとも五重塔の外殻構造の上部に据えられたものなのか?ただ、その相輪がけっこう重量があって、地震時に屋上の制振装置のように働いて塔各層の揺れを低減する効果があることは分かっている。実際、過去の地震で相輪に被害が出ているが、それ以外では塔には被害が出ていないという報告が多く、相輪やその露盤が壊れることで、塔自体を地震から守ってきたと考えられる。
大工が秘めた五重塔の耐震的な構造と、悟りの重層構造は関連があるのだろうか。さらに、現代の鉄とコンクリートの耐震建物に木造五重塔ほどの心象的な世界観が備わっているのか。答えは戻ってこないかもしれないが、あとから思えば、そんな質問をしてみたかった。
大工が秘めた五重塔の耐震的な構造と、悟りの重層構造は関連があるのだろうか。さらに、現代の鉄とコンクリートの耐震建物に木造五重塔ほどの心象的な世界観が備わっているのか。答えは戻ってこないかもしれないが、あとから思えば、そんな質問をしてみたかった。
東北地方に残る伝承の面と人形。余り定型にはまっていない、おのおの八方破れなところがよろしい。世間に馬鹿は多い、考えればほとんど馬鹿ばかりだ。しかし、馬鹿まる出しで世間を渡る勇気はないので、顔の下に馬鹿を隠す。その馬鹿を表情の奥から引っ張り出したのが、これらの面や人形の愛嬌(あいきょう)であろう。
ホームレス氏にも自己主張型とひっそり型がいるようで、毎日見かける公園のホームレス氏もしかり。ここの野良猫たちが慕っていつも周囲にたむろするホームレス氏は、明らかにひっそり型。写真はその主が不在中で、猫のみが残されて、そこへ散歩の飼い犬が仲間入りしたところ。
何日か前、やっと冷たい雨も止んだ折だったか、会社そばの坂本町公園の桜の樹を眺めて、そこにわずかに残るソメイヨシノの葉を撮った。この春、あれだけ可憐な花を咲かせた樹の冬姿である。
冬枯れに残るも二三桜の葉 頓休
冬枯れに残るも二三桜の葉 頓休
やはり飲んで歌っての遊興三昧の花見は江戸時代が最高かな。今どきの花見とは格段にレベルが違う。榴ヶ岡(つつじがおか)というのは仙台の地名で、仙石線に同名の駅がある。江戸時代には桜の名所であったのだろうな。今はどうなのだろうか?
「芭蕉の辻」は前にも仙台へ行った折、取材先の近所だったので現代の様子を写真に撮ってブログに載せた。今はどちらかといえば、裏町化し、さびれた感もあるが、往時はこのように商いで賑やかだった。同時に、穴晒や鋸挽き(のこぎりびき)といった恐ろしい刑罰が行われた場所らしいが、むしろ、そうした殺伐とした面影は今もあるな?