Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

僕の腕時計と銀座の建て替え工事(不二越ビル新築工事)

2005年11月03日 10時28分28秒 | Journal
 銀座4丁目交差点の和光に初めて入ってみる。陳列してある数百万円の腕時計をしげしげと眺めながら、ふと、わが腕に今もある、12、3年ほど前に、ソルトレークのデパートで買った2、3万円の腕時計(セイコー製)をいとおしく見つめる。色だけは黄金色、店員に僕には派手すぎかなと問うと、白人の売り子が「似合うわ」と言ったので買った。悲しいかな、歳月を経て、ところどころ青カビが繁殖しているが、まだ元気に動いておる。
 和光前の交差点を交番側に渡って、工事中の「建築計画のお知らせ」を見分する。Diorの脇に建設が始まっているのは、「不二越ビル新築工事」(銀座5丁目、CFT造、12階、企画・三菱地所、設計施工・鹿島建設)。貧乏くさく、みっともないビルは建てて欲しくない。いっそうのこと、ビルを丸ごと黄金色に鍍金(めっき)してはどうだ。やはり、10年もすれば青カビ青ゴケが鬱蒼とおおい尽くし、古色蒼然の風格も出るはず。
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東京宝塚劇場と「微笑」像の脇を通りがかりて

2005年11月03日 10時15分38秒 | Journal
 日比谷公園を出て、帝国ホテルの向かい、東京宝塚劇場の脇を抜ける。角に「微笑」なる裸体像(笹戸千津子作)があるのに、初めて気がつく。曲がったところで、立ち見席はいくらするのか、チケット売り場で確認して、足早にどこかへ立ち去ってしまう中年女性を見かけた。東銀座の歌舞伎座に立ち見席があることは、昔、何度か利用したので承知しているが、この新品の東京宝塚劇場にあるとは意外。しかし、時間も金銭の余裕もなく、立見席から垣間見たひと時の舞台の華やかさというものは、悲しいぐらい美しいものだ。

COMMENT:インターネットで検索したところ、こんな興味深い宝塚小史の紹介があった。→東京宝塚劇場は、東京都千代田区有楽町にある劇場。宝塚歌劇団の東京での本拠地である。阪急電鉄の小林一三が設立した株式会社東京宝塚劇場(現在の東宝)によって、1934年1月1日に開場した。第二次世界大戦中は、日本劇場とともに風船爆弾工場として使用された。1945年12月24日から1955年1月27日まで、GHQが、異文化の国に駐留する兵士達の慰安を目的に東京宝塚劇場を接収し、アーニー・パイル劇場(ERNIE PYLE Theatre)に改称、日本人は観客としての立入が禁止された。名前は、1945年4月18日沖縄県伊江村|伊江島の戦闘で死亡した従軍記者アーニー・パイルに因んだものである。老朽化のため1997年12月29日に一旦閉場し、翌1998年1月から建替え工事を開始、2001年1月1日に新築オープンした。
 新築前の旧劇場は、関東大震災の復興期におけるモダニズム建築の傑作のひとつとして評されていた。宝塚歌劇団の公演を目的としているため、舞台のサイズ、設備等のシステムは、宝塚大劇場と同等になっているが、客席は、こちらが、やや少なく2069席と、なっている。現在の支配人は元花組トップ甲にしきこと小川甲子。「宝塚大劇場」「東京宝塚劇場」ともに劇場の管理、舞台の運営・製作は、阪急電鉄より分社化した宝塚舞台が行っている。
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日比谷公園の「かもめの広場」とルンペン氏、鉢叩きの由来と俳句

2005年11月03日 09時52分13秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 今日は文化の日。だから文化的な話を書く。
 一昨日だったか、虎ノ門に用事があって、その後、日比谷公園を抜けて、銀座まで歩いた。ときどきこのルートをそぞろ歩いてみたくなる。経済産業省の前の交差点を斜めに渡り、日比谷公園に入るところに、噴水がある小広場がある。「かもめの広場」(1986年整備)とか言うそうな。カモメとは、噴水の彫刻に「鴎」(淀井敏夫作、1986)という題が付いているからであろう。碑石には、「うかぶ雲、海鳥たちの訪れ、時の流れを告げる古い貝殻」とある。
 その前で座るねじり鉢巻のルンペン氏に、浮かぶ雲を楽しく見上げる気持ちの余裕はあるのだろうか。木々も色づき、これから寒い季節がやってくる。ちなみに、ルンペンとはドイツ語「Lumpen」から。ボロの意だとか。今は、乞食とかこうした言い方はしないで、ホームレス(the homeless)に統一されているようだが、松尾芭蕉は自らの境涯をボロの薄衣になぞらえて、「風羅坊(ふうらぼう)」(『笈の小文』の冒頭)と称した。
 日比谷図書館に寄り、『柳田国男・南方熊楠 往復書簡集』(上下)を借りる。神社合祀反対運動にからんで二人の文通が始まったのが、明治44年(1911年)のことだった。作品『風雅のブリキ缶』でも、劇作家カヤノ・イチロウと時代骨董屋イザヤ・ブブの往復書簡として、第1巻が構成されている。

COMMENT: 日比谷公園は、明治21年(1888年)に設置を告示、33年に本多静六博士の設計案を採用、36年(1900年)に「わが国初の近代洋風公園」として開園した。41年には日比谷図書館が開館。
 南方と柳田の大正2年1月の往復書簡に「鉢叩(はちたた)き」の由来に関した文章を見つける。「小生考うるところはハチとは邑落(村落)の境のことにて、かかる閑地を与え住ましめしよりの名と存じ候。川原者、川原乞食と同種の命名法と存じ候。鉢叩きは鉢坊主にして瓢または磐(いわ)を叩く者という義かと存じ候」(柳田)。
 作品の第1巻では、菅沼曲水が晩年の句に「おもしろや叩かぬ時もはちたゝき」を取り上げた。鉢叩きは冬の季語になっている。元来は、米や銭の施しを受ける鉄鉢を打ち鳴らしたことに由来する。後に、鉄鉢は瓢箪に代わり、「空也上人忌」の法会で、十一月十三日から歳晩にいたる48日間、夜な夜な鉦(かね)や瓢箪を鳴らし叩いて、「空也念仏」を唱えながら、京の洛中を勧進するとともに洛外の墓所や葬場を巡り歩く風習があった。「その声からびて、哀れなるふし多し」と、去来の言葉が伝わる。芭蕉の句に、「納豆きる音しばしまて鉢叩」がある。納豆は、当時、刻んで、味噌を加え、だし汁でのばして豆腐や葱などを実にした納豆汁にして食すのが一般的であった。芭蕉は、京の鉢叩きを聞こうと、わざわざ、去来を訪ね、徹夜までしている。

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