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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

「カールおじさん」と村上春樹作品『騎士団長殺し』

2017年07月25日 12時02分39秒 | Journal
 村上春樹著『騎士団長殺し』の第1部と第2部を、さすがに1日数ページということではなく、コンスタントに数十ページのペースで、ときには次は次はとページを繰る手が止まらない止められない思いを、数カ月前に患った角膜潰瘍をへてすっかり疲れやすくなった視力の保護のためと説き伏せ、本をピタリと閉じ折々に小休止を入れながらも、けっこう楽しんで読んできた。その後味は、村上作品の他の長篇作と同じで、「カールおじさん」であった。食べ出したら止まらない、次から次へとつい袋に突っ込む手が制御できなくなる、そして、口の中に放り込むとムシャムシャ・ガリガリとの数度の咀嚼をへて跡形もなく融けてしまう明治製菓のお菓子「カール」と同じで、目の中に入った村上氏の活字小説世界は小生の頭の中でまたたくまに融けてなくなってしまうのだ。





 すぐに口中で融けてしまう「カール」というお菓子が好きな(好きだった)ように、案外に小生は、脳裏に小説的形象が留まりもたれることもなく、すぐに融けて消えてしまうからこそ、村上作品が好きなのかもしれない。自分の意識や心理の流れはなかなか直後でも明確には思い出せないものだ。村上氏の小説は、その人間の意識や心理を小説中の人物(あくせく生きている実在の人間からすれば、それら人物のリアリティーは微妙に減価されている)に託して巧妙なほど丁寧にうまく描写しているからこそ、何ら克明な印象を読者に残すことなく、旨かったなというはかない後味ぐらいで消えてしまうのだろう。
 村上氏は『職業としての小説家』(2015)というエッセイの「小説家になった頃」に、いったん英語にした処女小説『風の歌を聴け』(1979)を日本語に「翻訳」あるいは「移植」して自分の文体を形成(発明)していったことに言及している。そして「僕がそこで目指したのはむしろ、余分な修飾を排した『ニュートラルな』、動きの良い文体を得ることでした。僕が求めたのは『日本語性を薄めた日本語』の文章を書くことではなく、いわゆる『小説言語』『純文学体制』みたいなものからできるだけ遠ざかったところにある日本語を用いて、自分自身のナチュラルなヴォイスでもって小説を『語る』ことだったのです。そのためには捨て身になる必要がありました。換言すればそのときの僕にとって、日本語とはただの機能的なツールに過ぎなかったということになるのかもしれません」と書いている。
 ただ、小説『騎士団長殺し』に出てくる「騎士団長殺し」という飛鳥時代を時代背景とした日本画の人物たち、身長60センチぐらいの「騎士団長」以下は、服装がそれらしく描写されていても、いずれも飛鳥時代の日本人とはどうしても思えなかった。明らかに『ドン・ジョヴァンニ』の近世のヨーロッパ人の人形劇的なミニチュアである。それぐらいならば、もともと「騎士団長殺し」を描いた画家が西洋画家だったのだから日本画でなく西洋画として一貫して設定しておいてもまったく作品の筋に齟齬はなかったと思う。ここに、単純に自分の文学世界を日本語で書き出すことにしっくりいかないとの思いを抱えて英語による表現を意識しながら、実際には日本語を使って小説を書いてきた村上氏の片付いていない問題が反映されていると、小生には思える。聖徳太子が居た、日本文芸思想のルーツがあるとも考えられる飛鳥時代を、村上氏は意図的に構築してきた文体の上で再現することができなかった、あるいは再現しにくかった、のだと思われる。小生のような文体にこだわりがある読者は、変に期待感を持った分、幾分の幻滅を味わった。
 1968年から発売されてきたスナック菓子「カール」は、この8月で東日本での発売が中止されるそうである。早晩食べられなくなると知って、生協で見つけた2袋を昔のようにむさぼり喰ってみたが、過日ほど夢中にさせる感動を再現できなかった。食感や味のマンネリ感は否めなかった。その昔、日盛りの畳の部屋に寝っ転がって、カールを口に放り込みながら、指先についたそのチーズ味の橙色のかすが本の白い紙に目立ってくっつくのを苦にしつつ、数々の小説(多くは藤沢周平のような時代小説だったが)を読んできた小生としては、田舎者丸出しに幸せの真っ黄色な帽子をかぶった「カールおじさん」のように、口のまわりの髭もじゃに何でも食べてみせる頑丈な顎と歯をそなえたカッペ男風に、村上氏に第二の大胆な脱皮をしていただいて、彼の都会的で繊細な文章感覚を根底から揺るがす堅焼き煎餅のような確たる歯ごたえの「日本語」(日本語性を濃くした日本語、実在感を失った人物たちのリアリティーを復権してくれる言葉)でもって小説を書いてもらえたら、長年のマンネリを破って、どんなに嬉しいことか。村上氏には、その底力があると信じている。……しかし、このリクエストは、あれだけ若い頃から捨て身の努力をして自己の作文スタイルを確立してきた作家への冒涜となる要求なのかもしれない。今は老境に達した村上氏が、彼にとってははた迷惑かもしれないノーベル文学賞を受賞した暁には、もう一度、この大刷新、イノベーションを頼んでみたいところだ。
 ところで、作中に「白いスバル・フォレスターの男」なる人物が頻繁に登場する。どうやら、悪魔がかったメタファー的な存在らしいが、日頃から作品の男に似て帽子をかぶって白いスバル・フォレスターに乗っている小生からすると、単なる読者の分際ながら、あたかもモデルにされたような、作者の村上氏からいつもどこかで見られてきたような変な気がしてきて仕方ない。あの地底に通じる蓋を開けてこちらを覗き見している「顔なが」という登場人物のように。
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