ゴーゴリの『狂人日記』(1831、横田瑞穂訳)と魯迅の『狂人日記』(1918、竹内好訳)を読んだ。同じタイトルなのは偶然だろうか?それはともかく、小生としてはゴーゴリの『狂人日記』に軍配をあげたい。岩波文庫の『狂人日記』には、他に「ネフスキイ大通り」と「肖像画」の二篇が収録されている。いずれも若いゴーゴリがペテルブルクに住んでいた時代の作で「ペテルブルク物語(もの)」と呼ばれるらしい。三篇とも作風はまったく違うが、多少の欠点はあっても読ませる力がすごい。天才という言葉は余り使いたくないのだが、やはりゴーゴリは小説家として天才だったと思わざるを得ない。三篇の中でも『狂人日記』は、一番冒険的な作品で、ロシアの下級役人が病的な自己肯定の末に自分自身をスペインの王位継承者と思い込む最後の件(くだり)は、強くドン・キホーテを連想させる。考えてみると、自分なども頭の中でスケールは小さくとも同じような滑稽をやらかしていることがあるような気がする。はためには笑止千万でも自分では大真面目に。そうした意味で、小生もまたゴーゴリ的な「狂人」なのかもしれない。一方、魯迅の『狂人日記』は、多分読むのは二度目だと思うが、魯迅の処女作ということもあり、どこか彼の文章が空疎に響いて頭にぴたりと入ってこない。人間が人間を喰うという話も、何を象徴して魯迅が書いているのか分かるようでわからない。伝わってくるものがない。中国で社会の旧弊に苦しんだ当時の新世代に衝撃を与え、近代文学の出発点になった作品とされるが、内容の激しさはそうでも文章はそれほどでもない気がした。あるいは翻訳のせいで、中国語では違った印象なのだろうか?なお、19人もの人を刺殺した相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」の事件(2016)で、今日のニュースに、植松聖被告は、犯行直前まで大麻を吸っており、これをもって弁護側は責任能力はなかったとして無罪を主張しているが、本人は「自分は責任能力を争うのは間違っていると思う。(自分には)責任能力があると考えている。責任能力がなければ即死刑にすべきだ」などと述べた。彼などは魯迅の描いた「狂人」と似たところがあるかも。ゴーゴリの狂人には自己に対する現実離れしたロマンチシズムがあるが、魯迅の狂人には社会の現実への強い思い込みはあってもロマンチシズムは欠けている。そんな印象もある。植松被告の場合は、本当はどうなのであろうか?アメリカのトランプ大統領を大いに買っているところなどからも、弱者に対する社会の本音がどこにあるか、彼なりに分析判断して確信犯的に殺人に及んでいる。ただ、不思議なほど自分がないのだ。自我、社会思想から天然の自分を守る被膜(ひまく)のようなものがない。この資本主義的弱肉強食、競争社会の本音、それが彼にそのまま一字一句バージョンを変えずに乗り移っているとしか思えない。そこが狂人の狂人たる所以(ゆえん)なのだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/09/0f0262a1dd6325fd07c5542a196cc3eb.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/77/ccb8e11bcb236731ea3b70fa291c1e7c.jpg)