Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

太宰治と鎌倉大仏

2019年04月30日 10時49分23秒 | Journal
 小生の本名と同じ「治」をペンネームに使った太宰治(本名は津島修治)は、20歳やそこらで鎌倉の腰越の海で生意気にも銀座のバーの女給さんだった人と心中を図って一人生き残っている(1930)。その鎌倉に、中国から来た妻の友人夫婦と出かけた。車で江の島から腰越の海岸線を江ノ電に並走して鎌倉に行き、八幡を見て、さらに大仏を見た。円覚寺も所望されたが、4時半を過ぎて時間切れだった。当初、古都の道路事情や駐車に難のある鎌倉を車で遊覧することにためらったが、幸い連休前の平日だったので各々(おのおの)最寄りの駐車場に空きがあり、スムーズに事が運んだ。太宰が憧れた自殺の先輩作家・芥川龍之介は、漱石の紹介で横須賀の海軍機関学校で英語を教えていた時、この江ノ電沿線に下宿していた。若い太宰が死ぬ場所に鎌倉の海を選んだのも(入水でなく服毒)、その芥川の地縁かもしれない。中国の書店で、太宰の小説『人間失格』が平積みになって置かれているのを見て以来、小生はこれまで『人間失格』はじめ太宰作品を読んでいないことが気にかかっていた。学校の国語の授業で裏切らない友情をテーマにした太宰の「走れメロス」を読まされて、起立してクラスで何か読後感想を言わなければならなくなった途端に、「これは似非(えせ)ヒューマニティーの押し売りであり、まことに嘘くさい話だ」などと不穏当(ふおんとう)な印象を包み隠しながら本当に感じたことを言えず、自分らしい言葉が咄嗟(とっさ)に出せなくてかえって非常に苦しんだ思い出がある。教材に使われた有名作家に忖度(そんたく)が働いたのだ。以来50年近く、太宰はずっと大の苦手であり、敬遠してきた。「人間失格」というタイトルも、自分が嗅(か)ぎつけたその嘘くささがどこかつき纏(まと)う。ところで最近読んだインターネットの記事によれば、「ひきこもり」の人を見分けるのに、この『人間失格』という書名に対する感情の過剰な動きが手掛かりになるそうである。人前に出たくない潜在的な「ひきこもり」と自認する小生も、「人間失格」という言葉が自分のこととして(別に「人間失格」とまで考えていないが)かなりネガティブに引っかかる方である。それをとてもじゃないが、ぬけぬけと小説のタイトルにするような作家の本を買って読む気がしない。しかし、齢(よわい)60を過ぎて、そこまで自分の苦手意識に大袈裟(おおげさ)に拘泥していても仕方がないので、それに彼(か)の中国人民も読んでいることもあり、小生もAmazonで太宰の本を取り寄せて読むことにした。立て続けに『人間失格』『走れメロス』『富嶽百景』と読んでみて、小生は太宰がとても好きになった。まともで思ったよりずっと良い小説家だと思い知った。太宰の嘘も己(おのれ)の弱点欠点をさらけ出して文筆業に使う図々しさも許容範囲と受け流すことができた。三島由紀夫は大の太宰嫌いだったが、彼の晩年には、自分が太宰によく似ていることを認めている。小生も同じ感想だ。自分の人生に嘘と真(まこと)の数を数え上げたら、詰まらぬ嘘が上回るかもしれない。生きるための嘘は方便とは言え、けっして本人にとって気分の好いものではない。他人が同じ嘘をついていると知れば、激しく糾弾したくなる。太宰に対してもそんな似た傾向があるから余計反発的に嫌だったのだ。問題は、芥川にしても太宰にしても三島にしても、洒脱のようでも世間体が一番大事で本当の寛(くつろ)ぎに欠ける線の細い秀才肌、自身に対してがりがりと余りに神経的に尖(とん)がって鋭く、自他ともに許し合ってぼんやりと涅槃の境地に遊べない人間だったことだ。ひとりよがりで万事に余裕がない。晩年の漱石は弟子の芥川に牛のように押せと鈍(どん)に努めるようにサジェスチョンしたが、あの芥川がそんな師の言葉に忠実であれる訳(わけ)がなかった。研(と)ぎ澄ました神経ゆえに優れた作品を残した物故(ぶっこ)の作家たちに対してかく言う小生は、自分の尖がった角(つの)を摩耗することに多大な努力を払ってきた。見え透いて薄っぺらでも何層にも塗り重ねられてきた大抵の嘘は、安易な生き方を志向して悩み事がない丸く役立たずな愚鈍さへと、その精神的に見境(みさかい)がない摩耗作業中に生まれた副産物だ。中国の余った銭(ぜに)で造られたとされる鎌倉の大仏は、こうした神経の尖がりも摩耗的嘘も巷間(こうかん)における一銭の迷いと融解して万事に泰然としておられる。もし太宰が、死に誘う海を背に少しは遊び心に遠足して、この青葉若葉の山を背に丸く肥(こ)えた金持ちのご隠居風情(ふぜい)と、猫背に胡坐(あぐら)をかく高徳院の大仏さんの膝元にたどりついて、オヤと面会していれば、そう闇雲(やみくも)に行きずりに等しく、今ならばアイドルタレントになれたような18歳やそこらの可愛い女性(田部シメ子)を道連れに自殺を図らなくても済んだかもしれない。十年後の『富嶽百景』では、俗っぽいなどとさんざん罵倒し軽蔑した富士に対峙して、お見合い結婚を意識していた30歳の太宰は狡(ずる)くもそうした身勝手を自制していたのに、残念だ。太宰は、良い作家だったが、同時に尖った角を隠すどころか吹聴してまわって周囲に傍迷惑(はためいわく)をかけたけしからん男であった。今どきならば、SNS界の大魔王になっていただろう。その罪深くけしからん男が書いた小説を次に何を読もうかと思案している。太宰は、余り創作的なものより、ルポルタージュ風なものの方が小生には読みやすい。『津軽』は、どうかなと思っている。



  田部シメ子



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