Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

震災後の街の風景と都筑工場の煙突

2011年03月22日 08時51分01秒 | Journal
    

 小生が住む港北ニュータウンの都筑ふれあいの丘(横浜市営地下鉄グリーンライン沿線)の駅前広場からはゴミ処理場「都筑工場」の地上130メートルに聳える煙突が見える。子供のころに東京の町で見かけた煙突の思い出があるためか、小生はこの煙突のある風景が特に好きである。ところで、震災後、その広場に朝から長い行列ができるようになった。OKストアに並ぶ人々である。これだけ並ばれると後で遅れていっても米も牛乳も手に入らない。
 2番目の写真は、大江戸線の勝どき駅で撮った。明治44年は西暦で1911年だ。銀座の時計台、都電も面白いが、この電信柱の6本の腕は楽しい。マンションのベランダの前に送電線を垂れて並ぶ電信柱などは空を汚くしているようでときとして憎らしいものだが、この百年前の銀座の電信柱はユーモアがある。
 3番目の写真は、昭和32年の日本橋界隈の上空からの写真。野村證券や三越は今につづくが、あとは普通の二階家がけっこうあって今とは大分違う。何より違うのは日本橋川を覆う首都高(1963年建設)がないことである。
 4番目は、今の日本橋。50年間で変わりはしたが景観が進歩したとも言えまい。時がたって後退する景色もある。
 そして、最後の写真は、大津波で何もなくなった東北沿岸の町の風景。今、小生が住む横浜市都筑区は、横浜と言っても起伏ある丘陵地帯の内陸部で津波などとは縁がないとの印象をもってきたが、縄文海進期には鶴見川などから海の水が浸入していたという。慥かに、近くには貝塚遺跡も散在する。何十メートルもの大津波が襲えば、写真の光景のように我が家のすぐ下まで水がやってきて風景の思い出をそっくり引き波がさらっていくことであろう。それでも、あの都筑工場の煙突は残っているだろうか? 時が置き去っていったゴミを昇天させるために。
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漱石の『坊っちゃん』の物理学校でエジソンの炭素電球を見る。

2011年03月21日 10時55分39秒 | Journal
    

 東日本大震災の日、飯田橋での講習会が始まる前に、外堀通りに面した東京理科大学を過ぎたところで瀟洒な建物が脇道をはいったところに見えたので、講習会まで30分ぐらい余裕があることを確認してから覗きに立ち寄った。建物には、近代科学資料館とあるが、上の方に「東京物理学校」ともある。「物理学校だって!」と小生は途端に思案をめぐらした。あの夏目漱石の『坊っちゃん』で主人公が「幸い前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていたから」入学したのが、この学校ではないかと。
 『坊っちゃん』は日本海海戦の翌年、明治39年(1906年)4月号の『ホトトギス』に発表された。東京理科大学の掲示板には、この建物は明治39年に新築したときの写真をもとに忠実に復元したとある。だから、作中の坊っちゃんがこの建物を見て入学したとは言えないかもしれないが、まあ、建物は『坊っちゃん』と同時期の産物と言えそうである。
 中へ入ると、計算機やら電気関係のガラクタがいっぱい展示してある。館員に申し出て、書類にサインしてから写真を撮る。中に、エジソン((Thomas Alva Edison)の遺物があったからだ。まず、30歳のエジソンが1876年にニュージャージー州に設立したメロンパーク研究所の内部。「メンロパークの魔術師」 (The Wizard of Menlo Park)と呼ばれた伝説の研究所である。エジソン自身は天才を集めて自分はマネジメント面で辣腕をふるったとかで伝記に「集合的天才」 (Collective Genius) とも呼ばれた。Wikipediaによれば、この研究所では――電話、レコードプレーヤー、電気鉄道、鉱石分離装置、電灯照明などを矢継ぎ早に商品化した。なかでも注力したのは白熱電球であり、数多い先行の白熱電球を実用的に改良した。彼は白熱電球の名称をゾロアスター教の光と英知の神、アフラ・マズダーから引用し、「マズダ」と名付けている、とある。電球のフィラメントに京都の竹を使ったことで小生も覚えている。
 今回の震災では、福島の原発事故で「計画停電」の影響が首都圏でも出ている。巷では電池がなくなっていることも話題になっている。迂遠なそもそも論が好きな小生は、数々の電気仕掛けの文明利器を発明したエジソン研究所を思い、そこで生まれた電球の灯を神妙に眺めるのである。今このとき、われわれはこの魔法がもたらした利便性の代償を不当に払わされているのだろうか、それとも。
 坊っちゃんは「四国辺のある中学校」の数学教師(月給40円)を辞めて、東京で月給25円の街鉄(市電)の技手(技術者の助手のようなものか)になった。せっかく卒業するのが大変な物理学校を出たのに、世間的にはもったいないようだが、清と一緒で本人はすっきりした様子。世の中、こうした淡白な人間ばかりだと、エジソンの文明開化の拡張主義もその果ての原発事故もなかったかもしれない。そういう意味で、安月給でも嘘のない生活に満足した坊っちゃんは本当に文芸的な存在だ。
 ところで、この資料館には、「パスカル、ライプニッツ、バベッジの計算機」が展示されていることを、持ち帰ったパンフによって後日知った。エジソンで満足して、他をろくに見なくて出てしまったことが残念! あの地震の日は、何か変な感じがしたのも事実。昔、ゲーテは遠隔地の地震発生を予見したことを自慢げに話したものだが、小生にそういう気分はない。

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大地震で飯田橋に足止めに、マクドナルドから

2011年03月11日 19時21分55秒 | Journal
   

 今日の午後、構造設計者や行政の構造担当者などが250名詰めかけた講習会を取材していると、2時すぎに7階の会場が大きく揺れだした。最初は、誰もがすぐおさまるだろうとおとなしくしていたが、講師が「大きいですな」とつぶやいたときには、慥かに危ない揺れに。さすがに建築構造の専門家たちもざわざわとしだし、主催者が「この建物は昨年、耐震補強をしたので大丈夫です」と言うと、会場から苦し紛れの笑い声がもれる。その後も、断続的な余震がつづくなかを講習会は予定を20分ほど延長して5時20分に終わった。途中、妻から携帯に電話が入り、「早く建物を出たほうがいい」と助言をいただいたが、小生は「この建物の中に居たほうが安全だ」と動かず、とうとう建築確認審査に関する堅苦しい内容の講習会を最後まで傍聴した。最後まで居て、あるテーマについて講師が話すかを確認する必要があったのと、その講師と名刺を交換しておく必要があったからだ。
 さて、宵闇がせまる外へでてきて、飯田橋駅まで行くが、予想したことながら東京メトロは歩いての線路点検中だとかで全面ストップ。小生は南北線で日吉まで帰るつもりだったが、改札の前に敷かれた青いシートの座る人々を眺めながら、ここにいてもしょうがないと、また外へでてきた。このときには携帯も不通で妻にも連絡を取れなくなっていた。今は、パソコンでインターネットにつなげられるマクドナルドに入って、2時間座っている。レジの前には長蛇の列ができている。19時36分、緊急地震速報が携帯に入る。はじめてのことなので、一瞬びっくりしてパソコンのふたを閉じる。しばらく甲羅を失った亀のように首を低くして何事か起こるのを用心したが揺れは来なかった。
 近くに座る若い人々は、この異常な状況を楽しんでいるようだ。あちらこちらで賑やかな笑い声がする。さかんに携帯で友人に連絡をとろうとするが、なかなかつながらない。それでもなんとか通じると、待ち合わせ場所などを確認して、外へでていく。外はもう寒いだろうに。小生も腰を上げてどこかへ行きたくなったが、寒空のなかをどこへ行くあてもない。妻にパソコンからメールを打つが、返事がない。まだ気がついていないのだろう。マクドナルドは8時15分で閉まるそうだ。小生も重い腰を上げるしかないようだ。
 【以下、後日の追記】マクドナルドの前にある雑居ビルの狭い階段を上ってマンガ喫茶にシェルターを求めるが、10人待ちとかで予約だけ入れて外へ出る。それからなんとか時間をつぶしていると、10時ごろに妻から携帯にCメールが入り、これから車で救出に向かうという。もうそろそろ電車も復旧するだろうし危ないからと止めるが、妻はもう出発したようだった。途中またメールが入り、飯田橋駅そばのホテルメトロポリタン・エドモント(JR東日本ホテルズ)で待てと指示がある。11時半ぐらいには着けるということだった。探して、そのホテルに行くと、ロビーには人がたくさんいた。ホテルがロビーを避難民に開放したのだ。結局、小生はそこで3時間ぐらい待機して、それから都心でひどい渋滞に巻き込まれて進めなくなっていた妻と4時ぐらいに半蔵門で落ち合って(そのときには東京メトロは10分間隔ぐらいで運行していたので、東西線から九段下で半蔵門線に乗り換える)、小生が運転して家に帰ったのは朝の6時だった。
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