Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

腐っても鯛か、ああ銀座!

2005年08月17日 21時34分36秒 | Journal
 腐っても鯛(たい)、腐っても銀座と、昔、聞いた覚えがあるが、ドトールコーヒーの「ルカフェ銀座店」2階から見た銀座4丁目の光景は、明らかに腐りつつある。小生にとって銀ブラの良さは、日々の何かに多少の屈託があっても、この街を歩けば、颯爽として洒落た佇(たたず)まいに憂さが明るく晴れるところにある。さて、今は…。
 通りを歩いていてもビルを取り壊して建設中の一角が目立つ。それらの立て替え新装ビルが出揃って、雰囲気が良くなるのか、ダメになるのか、半々といったところだろう。なんとなく、落ち着きを欠いて全国各地の駅前空間を再現しつつある。
 安くてうまいコーヒーの全国チェーン、ドトールが、銀座店だからと少しだけ高級な店にしてみたが、客層は窓辺に貼り付いた女性たちのように、安くてうまいコーヒー店とちっとも変わらない。鯛は、やはり高いからうまいのだ。
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数寄屋橋の岡本太郎

2005年08月17日 21時27分52秒 | Journal
 野暮用で、蒲田の大田区役所に行った帰りに、京浜東北線を有楽町駅で降りて、銀座までぶらぶらと歩いた。数寄屋橋の交差点には、岡本太郎の遺作「若い時計台」を残す小さな公園がある。大阪万博でお馴染みの太陽の塔のミニチュア版だ。シチズンの時計が顔になっている分、こちらの方が「芸術は爆発だ!」も実用的か。
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霞ヶ関ビルと武藤清氏

2005年08月13日 14時17分19秒 | Journal
 木曜だったか、虎ノ門で取材があった。小泉首相の骨太方針に基づく府省連携プロジェクト「新構造システム建築物」の主催者発表だ。高強度の鋼鉄を使って、大地震でも損傷が起こらない震度7耐震構造の長寿命建築を実現しようという鉄鋼メーカーとゼネコンの大同団結…。
 銀座線を降りて、地下から虎ノ門交差点に出ると、霞ヶ関ビルが見える。昭和43年(1968年)に建った日本で一番古い超高層ビル(36階建て、高さ147メートル)だ。武藤清氏が率いる鹿島建設の構造設計部隊が設計に当たった。武藤氏は東京大学を退官後、鹿島に副社長として入社した。
 武藤氏が耐震構造学に目覚めたのは、大学二年のとき、関東大震災を旅先の青森の温泉で知り、まるで「よその国」の出来事のように思いながら帰ってきて、東京がすっかり焼け野原になっていることにショックを受けてからのことらしい。また、その後、上野寛永寺の五重塔をヒントに振動の研究に入ったのは有名なエピソードらしい。「らしい」というのも、小生は武藤氏をこれまで知らなかったからだ。名前は、昨年、鹿島建設の専務さんを訪ねたとき、その専務さんが大恩人のように触れ、「君も当然知っている武藤先生は…」と言われたとき、曖昧に頷いておいたから耳に残っていたが、実は、存じ上げなかった。浜松町の世界貿易センターや、武藤構造力学研究所を設立して設計に当たったNHK放送センターなど、当時の高層ビルを次々に手がけた。

 Comment:1919年に制定された建物高さ31メートル制限の法律が1963年に撤廃され、1965年に霞ヶ関ビルの建設が始まる。理論的には、武藤教授の「柔構造理論」が下地になった。構造は純鉄骨造で、主材の75%に大型H形鋼が使われ、鉄骨量は約1万5000トン。

 ところで、霞ヶ関ビルには、20代前半の頃に、1年間ほど世話になったことがある。霞ヶ関にあった民間シンクタンクの都市科学研究所というところで働いていた。夏に、2週間ほどの予定でヨーロッパ旅行へ出かけ、事情が起きて4週間ほどして戻ってきたら首になった。数字頼りの研究員という仕事も向かなかったような気がするが、霞ヶ関ビルでの日々は余りぞっとしない思い出が多かった。首になって1年ぐらいしたら、その研究所も倒産したと人づてに聞いた。武藤氏は、平成元年3月の夜、大好きなウイスキーのお湯割りを飲んでから一人86歳の長寿をまっとうされたそうだ。酒豪の誉れ高い武藤氏が建てた最古参の超高層ビルだけは、多額の改修費用をかけて、今も虎ノ門の空に象徴的に聳え建っている。
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小人の体重をナスやトマト、キュウリと比較すると…

2005年08月07日 15時20分32秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 菫(すみれ)程(ほど)な小さき人に生れたし 漱石

 ごくありきたりの見てくれもパッとしない野菜たち、庭で取れたナス君とトマト君とキュウリ君であるが、写真を載せたには理由がある。
 ちょうど、今、書いている作品「風雅のブリキ缶」の第4巻7に小人が登場するが、背丈は写真のナスと同じ7センチという設定。だとすると体重はどのくらいか。計算してみると、身長160センチ、体重55キログラムの人が7センチになった場合、23の累乗(529)で割って104グラムの体重になると思うのだが…。(この算式で正しいかな? 立法だから3乗=12167で割ると4.5グラムと少なくなりすぎるが、間違っていたらどなたか教えてください)。このパソコンに寄りかかった野菜たちを計ってみると、ヘタに虫食いの葉っぱをつけたナスと日照りに痩せこけたキュウリが90グラム、真ん中の色つやが悪いトマトで160グラム。
 小人はナスやキュウリよりは重いが、目方ではトマトにはかなわない。身体の重さはほとんど水分の含有量で決まるのだろうから、人間の肉体はナスやキュウリよりは水気があるが、トマトほどでもない。

 Comment:ただ、小人といっても、仮にも人間だとすれば、思考力や感性を維持するために、脳味噌の容積を含む体重をそう無闇に縮小できるのか、疑問はある。柳田理科雄氏は「空想科学読本」の中で、人間をミジンコ大のミリ単位まで縮小すると、脳細胞も数個になってしまい、霊長類の威厳が保てなくなると述べ、逆に、身長1ミリで体重70キロを維持すると、人間は中性子星程度の体密度になってしまうとも。小生、そうなれば重力崩壊を起こし、人間はブラックホールと化すと思うのだが…。
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九段坂と牛ケ淵

2005年08月02日 22時20分35秒 | Journal
 九段坂を歩いていくうちに、幾つか発見があった。
 一つは、今の靖国神社の土地は、安政3年(1856年)の地図には「火除明地 諸向弓馬稽古場」(御預 松平駿河守、堀田摂津守、永井若挟守)とある。つまり、サムライの練兵場で、いざ火事のときは避難場所に指定されていたわけだ。
 一つは、「九段」とは江戸中期にそう呼ばれるようになった。幕府は、この坂にそって石垣の段を築き、その上に、江戸城勤務の役人の御用屋敷を建てた。当時の石垣が九層にも達したことから「九段」となった。さらに、この坂の勾配は「九段の坂は霞んで見える程長かった」と形容されるほどで、現在よりもずっときつく、荷車を後押しして生計を立てる「押屋(おしや)」という稼業まであった。それが、関東大震災(大正12年)の後、坂の頂上を市ヶ谷寄りに移し、傾斜をゆるくする工事が行なわれ、都電が坂の中央に設置された。
 一つは、日本武道館や北の丸公園に通じる田安門前の橋から眺めた写真の濠は、「牛ケ淵」と呼ばれること。これは知らなかった。また、写真の九段会館の隣は、千代田区役所で、ここまでは最近も取材で区役所へ行ったから知っているが、その先に千代田公会堂というのがあるとは知らなかった。
 朝から会社の事務机に向かって記事原稿を書いていても、こうは勉強にならなかったであろう。有意義な直行であった。
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熊谷喜美子作の「桃花流水」とサラリーマン失格者・陶淵明

2005年08月02日 21時58分15秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 カラスが飛び去ってから、振り返ると、女性の裸像が目に入った。
 美しい女体に吸い寄せられて、近づき、案内文を読むと、熊谷喜美子という人の作で「桃花流水」というタイトルの作品なり。陶淵明(とうえんめい、365-427年)の著作「桃花源記」から引用したとか。
 陶淵明は、隠遁派の田園詩人として有名。その祖は、遥か神話の皇帝、帝尭(陶唐氏)にさかのぼるとあるが、「寒門」と呼ばれた下級士族の出身で、若い頃は宮仕えを何度も繰り返すが、「僅かな給料のために、田舎の若造に腰を折るのは真っ平だ」などと本音を吐き、憤慨して辞職、すぐに現在の江西省にある田舎へ帰郷したりで、今流にいえばサラリーマンとしては失格者であった。この本音が、世を経ても、サラリーマンの心底に繰り返されるのは、悲しい現実。
 江南の好風に、隠遁生活を送っても、悠々自適をはばむように世俗は彼を追っかけてきたようである。「帰去来の辞」「閑情の腑」、そしてチャイナ文学では数少ないフィクション、この「桃花源記」も知られる。
 「桃花源記」は、川の漁夫が、桃花の林に分け入ると、水源に行き当たり、そこの山にある穴から桃源郷へ至って、外国人(とつくにびと)らに歓待を受けた話。しかし、漁夫の話を聞きつけて、桃源郷の入り口を探しても、誰も見つけることができなかったという。
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カラスの千鳥ケ淵

2005年08月02日 21時48分23秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 用件を終え、事務所を出てから、通りを渡って、九段下まで、いつもは靖国神社の境内を抜けていくのだが、今日は止めた。代わって、九段坂をぶらぶら下っていくことにした。理由は千鳥ケ淵を見たかったからだ。桜のころの淵はまさに文句なく素晴らしいが、夏の千鳥ケ淵も緑が陰影に富んで風情がある。そこでカラスが眼下にお濠を見下ろす姿を見つけた。風雅のカラスだ。
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半蔵門の佐野善左衛門というサムライと膳所の菅沼曲水

2005年08月02日 21時38分55秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 今朝、半蔵門で途中下車して設計者の団体事務所に直行。
 「御厩谷坂(おんうまたにざか)」という坂をてくてく歩いて大妻女子短期大学正門前まで来ると、写真のような標識「佐野善左衛門(さのぜんざえもん)宅跡」を見つけた。この田沼意次(たぬまおきつぐ)の息子を斬って切腹して果てた佐野は、バカ殿の奸臣を槍先に突き殺して、やはり切腹した作品の大津、膳所(ぜぜ)藩士・菅沼曲水によく似ているなと思った。曲水は芭蕉の弟子で、いぶし銀の句を詠む風雅のサムライとしても知られるが、佐野はどうだったのだろう。

 おもふ事だまって居るかひき蛙  曲水

 蚊の声にのがれすまして蚊屋(かや)ひとへ  曲水

 Comment:調べてみると、佐野氏の風雅の家系も相当なものだった。佐野善左衛門の祖先は、鎌倉幕府の御家人、佐野源左衛門常世。彼は、父の冤罪(えんざい)で、栃木県の葛生町鉢木という里に貧しく暮らしていた。そこへ一夜の宿を求めた旅の僧を歓待。暖を取る薪(たきぎ)がないので、大切にしていた梅、松、桜の鉢植えを折ってはくべた。旅の僧はいたく感動。実は、その僧は、時の執権、北条時頼だったという話。ちなみに、葛生町は「原人」出土騒ぎがあったが、科学的鑑定で否定された。謡曲にもなったこの話から、建長寺の門前に昭和39年に開業した精進料理の専門店「鉢の木」は、その屋号とした。
 この「鉢の木」の逸話で知られる常世の子孫が、標識にある切腹サムライの政言。天明4年(1784年)3月、殿中桔梗の間で、田沼意次の息子である意知(おきとも)に刃傷に及び、翌日、意知は死亡。政言も一週間後、切腹。天明飢饉や大火、物価の高騰で苦しんでいた庶民は、利権政治、収賄などの噂があった政治家を成敗して果てた政言の墓(徳本寺)を「世直し大明神」と崇(あが)めたという。こういうところも、膳所の庶民に感謝されていた曲水とよく似ている。
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納涼盆踊り大会がある築地本願寺

2005年08月01日 21時16分16秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 午後、うす曇りでねっとりした暑さの中を、勝どきのトリトンスクエアへ所用で行き、帰りは、大江戸線を使わずに、そのまま隅田川にかかった勝どき橋を渡り、築地まで出た。まっすぐ行けば銀座だが、交差点を右に曲がれば、すぐに築地本願寺がある。
 この寺は、先に靖国神社の神門の設計者として取り上げた、また「風雅のブリキ缶Ⅳ」にも出てくる伊東忠太の設計だ。中学生ぐらいの年齢だったか、ちょっといつかは忘れてしまったが、車の窓から一瞬、その異様な姿を見かけて以来、どうも拭い去れない怪しい印象が残った。
 伊藤については最近になって知ったが、彼が、シルクロードを駱駝の背に揺られながら旅して、砂漠の彼方に見えてくる仏塔を見た人だったことが、この寺院建築の独創的異様さにつながったに違いない。インドや東南アジアの寺院(遺跡)を見てきた人は、どんな印象を持つのだろうか。物まね、月並みと映るかな?
 その築地本願寺で、明日の夜から、納涼の盆踊り大会が金曜まであるそうだ。写真右の方に隠れているが、櫓が組まれていた。天気予報によれば、明日は、雷に注意だそうだが、盆踊りの最中に雷鳴がとどろき稲光が走る、おどろおどろしく物凄い様を、この寺院に限っては見てみたくもある。
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