Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

秋の朝、柿の木を見て、南林間

2005年11月17日 22時07分18秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 ここは南林間。昔はお伽の国、今はただの住宅街。
 今朝、柿が実った柿の木を撮った。1週間ぐらい前に剪定して枝は丸裸だから大きな実が余計目立っている。近づくと電信柱に飛び去ったが、何羽かの大きな鳥が上の方のうまそうな実をつついていた。多分、大和市の鳥「オナガ」ではないか。この渋柿、熟すと甘く、なかなかうまいのだ。

 秋の朝オナガついばむ柿の味  頓休

 なんでも、秋とか柿とか、一句に季語が二つ同居するのは、いけないことだと聞いので、あらためて詠み直すと、ますますひどいから、芭蕉の余りに有名な句を添える。

 朝飯や鳥がついばむ枝の柿  頓休

 里ふりて柿の木もたぬ家もなし  芭蕉

COMMENT:オナガ (Cyanopica cyana ) は、カラスの仲間。 英名"Azure-winged Magpie" 体長34~39cm。尾が20~23cmと長く、頭と体の大きさはムクドリ大。 名前の由来は、尾羽が長いことより。
 作品の第3巻には、大和市南林間について、こうした注釈がある。
 ――昭和初期、小田急は「南林間都市」分譲地の販売促進のために、下見客に無料乗車券を配ったり、土地購入者に3年間保証の無料乗車証を与えるなど苦心したが、売れ行きは芳しくなかった。依然として、雑木林のつづく林間であったことから、とうとう駅名から「都市」の字を削除してしまったという。後の時代に、旧林間都市の施設として残ったのは、小田急の創立者・利光鶴松(としみつ・つるまつ)の長女・伊藤静江がつくったカトリックのミッション・スクール「大和学園」と名門ゴルフ場「相模カントリー倶楽部」のみであった。
 しかし、そうした雑木林の風雅を敢えて好む人種もいる。1930、伯爵歌人であり劇作家でもあった吉井勇は、四十五才にして、南林間都市の妹婿の別荘に独居するようになった。夫人は、相模野のわび住まいを嫌って出ていってしまった。ほどなく、夫人とダンサーのスキャンダルが新聞記事となり、吉井は離婚を決断。華族の体面を傷つけたとして、宮内省は吉井に隠居を内達、爵位を剥奪した。失意の吉井は「檪(くぬぎ)林と松木立と薄原」とに取り囲まれた草庵生活から代表歌集『人間経』(政経書院、1934年)を上梓した。「ひとり生きひとり往かむと思ふかなさばかり猛きわれならなくに」「なまなかに昔おぼえし華奢のため人の知らざる寂しさに居り」「恋もなき身はいまさらのごとくにも恍惚として雲を見るかな」。
 高木蒼梧(そうご)という俳人・俳文学者は、1931年(昭和6年)に、南林間(八丁目)へ移り住んだ。相模野をこよなく愛し、大山と丹沢山越しに富士山を望む庵に「望岳窓(ぼうがくそう)」と名づけ生活した。俳諧の考証的研究に実りを見せ、芭蕉や俳僧蝶夢(ちょうむ)の研究に努めたという。彼の俳句に「見渡しの不二大山や渡り鳥」がある。
 長野県下伊那郡出身の評論家である唐木順三は、京大で西田幾多郎に師事、高校教師をやっていた戦中の1940年に、やはり、義弟を頼って、南林間に移ってきた。当時の自然を書いて、唐木氏に、こういう文章がある。「付近一帯の檪が紅葉する時節は、ほんとにお伽話の国にいるような思いであった。野兎、いたち、蛇、コジュケイ、何でもいた。ここは相模野の片隅の八里橋無しといわれたところである。以前はむちゃくちゃに小鳥が多かった。」(「朴(ほお)の木」、1957年)
コメント
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