Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

ナイジェリアの働き手が作る家

2018年11月11日 10時22分36秒 | Journal
 家の建設は、家の前の路上に立って見えるはずの屋根が見えないとか、外壁の防水をする前に内作に入ったので雨で断熱材が濡れたとか、そもそも耐震性は等級2程度にきちんと確保されているのか等々、工事途中から第三者検査を依頼してミスもある施工業者との間でいろいろ調整することもあって工期が一カ月ほど延びているが、現在は外壁のラス網張・下地塗りまで来ている。京都から戻って、昨日、現場へ行ってみたら、家の前にとめてあるトラック脇に黒い顔の大男が作業服姿で立っていた。車をおりて差し入れのペットボトルのお茶を1本もって近づいていき、ボトルを手渡しながら、「今日は作業者が何人入っている?」と英語で訊ねた。ボスに自分・・・と、指で数えながら5人と答えた。指折りながらユーモラスに細めた目がチャーミングである。小生は「そんなに多くか」と言った。近くのスーパーで買ったお茶のボトルは5本だったが、喉が渇いていたので1本は自分で飲みさしてしまった。まあ、いいかと車に戻ってビニール袋に入った残り3本を持ってきて男に渡しながら、「一人分足りないな」と曖昧(あいまい)な英語で呟(つぶ)いて笑いかけると、小生の言いたいことを理解したのか、男も笑い返してきた。男はナイジェリアからやってきて17年間も日本で働いているそうである。ナイジェリアと聞いて、何か深刻な紛争でも抱えているアフリカの国ではないかと一瞬感じたが、知識がはっきりしないので「グッド・カウントリー!」と好い加減な社交辞令を言ったら、男も仕方なさそうに笑った。男に日本語は話せるかと訊ねたら、首をふりながら「ほんの少し」と日本語で答えた。
 家の玄関ドアに鍵がかかっていて中には入れないので、外から家の写真を何枚か撮っている間も、男はセメントモルタルの入った重たそうな袋を回転機に入れて掻き混ぜ捏(こ)ねてバケツに入れたのを両手に下げて壁塗りの作業をしているらしい家の裏側へ次々に運んでいく。かなりの重労働だ。小生は、ねぎらう適当な言葉が思い浮かばず、それでも何かもう一言ぐらい声をかけようかと思って、国に残してきたかもしれない家族のことでも訊こうかと思案したが、それも異国での単身赴任者を無用に寂しがらせるかもしれないと感じて、「ナイジェリアの首都はルサカと言ったかな?」と問うと、男は、笑いながら「それはケニヤの首都だ(実際は、ザンビアの首都)。ナイジェリアはアブジャと言う」と答えた。小生は、そのアブジャが聞き取れずに顔を近づけて何度となく聞き直した。ついでに、以前の首都は大都市のラゴスだったとの説明も聞いた。車に乗って、現場を離れる時に、男が頭のバンダナを取って顔の汗を拭(ぬぐ)っている。ナイジェリアにどういう部族がどれだけあるか知らないが、男が部族の長にふさわしい威厳のある顔だとはじめて気がついた。小生が車の中から、「またな」と手を挙げて声をかけると、男は、愛想よく軽く一礼した。なんだか、自分が植民地で高貴な現地民を相手に薄っぺらに偉そうに振る舞う文明主義の悪徳な白人領主になったような変な気分がした。





 数日後、現場を訪れると、ナイジェリア人の姿はもうなく、左官の親方が35年の自分のキャリアで2回しかなかったという、普通は2度塗りのところ何故だか分厚く3度塗りした綺麗なモルタル壁が夕焼けに輝いていた。これから2週間ほど養生するそうだ。



 後日譚(ごじつたん)になるが、ナイジェリアと言えば、数カ月前にアマゾンで『THINGS FALL APART(崩れゆく絆)』(1958)というChinua Achebeの著作を購入したおいたのを思い出した。まだ、本棚に突っ込んだまま読んでいない。あと1カ月、家が完成するまでに、この小説本をぜひ読んでおきたいと思うようになった。チヌア・アチェベ(1930-2013)は、ナイジェリア出身のイボ人。
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京都は月並みでもやはり金閣寺か

2018年11月06日 12時14分54秒 | Journal
 今週月曜日一日だけの京都観光をした。その前々日の土曜は妻の仕事で名古屋に泊まり、日曜日は午後から大阪に出て淀屋橋のホテルにチェックインしてから、関空へ行って妻の友人夫婦をピックアップ、同じホテルへ連れていって一緒に泊まった。大阪に来て泊まるのは、かれこれ20年ぶりぐらいだと思う。街を観察して、東京の人間は本音をひた隠してどこかお仕着せで窮屈に動いているようなところがあるが、大阪の人間は動きを見ていても地のままでこちらも本音を開いて楽になれるところがある。月曜日は、ホテルから「適々斎」の緒方洪庵の適塾が近かったので朝8時ぐらいに散歩がてら外だけ眺めた。大阪大学の前身が適塾だったとは知らなかった。それから、土佐堀川にかかった橋を渡って、突き当りの古いレンガ造の中之島図書館の前まで行ってUターンしてホテルへ戻った。その間も、東京ならば丸の内・日本橋といった北浜の界隈は、活気があって、続々とサラリーマンが朝早くから出勤してくる。







 ホテルをチェックアウト後、地下鉄の御堂筋線で新大阪へ行き、新幹線で京都に出た。駅からタクシーでまず南禅寺に向った。中国の客人は、まず清水寺を見たいようだったが、清水は昨年の今頃行ったばかりなので、とにかく先に南禅寺を見て、それからとした。南禅寺では、特に、三門が印象的で、写真を何枚も撮った。というか、この三門を紹介したCMビデオか何かを覚えていて、自分なりに似たような写真を撮っておいたのが実情。この寺には、明治時代に建設された琵琶湖疎水の水道橋という名物が境内にあって、テレビドラマのシーンによく利用されてお馴染(なじ)みだ。







 11時半ごろ、南禅寺の見物が終わって、さて、どうするかとなったが、「小1時間」と聞いた清水寺まで水路に沿って歩き出して、これも草臥(くたび)れるかとなって、タクシーを拾って、いざ清水寺へと急行した。清水寺は、相変わらずの大混雑である。大半は着物を着た中国人観光客、カップルの場合、男も和服を着ているのには驚いたが、それと小中の可愛い修学旅行生の集団である。紅葉は昨年と同じくまだの感があった。寺は改修中で、清水の...から飛び降りる舞台がシートに隠れて、残念ながら清水寺らしさは半減していた。









 清水寺をぐるっと巡(めぐ)って午後2時近くなったので、参道で昼食をとった。天ぷらも刺身もある、旅館の宴会用のメニューみたいなものを食べた。宴会食と同じく豪華に見えてそんなに旨(うま)くもない。それから金閣寺へ行くことになった。混雑を掻き分け、中途で客を下ろして折り返していくタクシーを何とか捕(つか)まえて乗った。金閣寺は、清水寺からけっこう遠い。4000円分走った道すがら、車窓から同志社大学の綺麗な校舎を眺めて得したような気分になった。東京の立教大学もそうだが、キリスト教系の大学は美しい。
 3時半過ぎ、夕刻の気配が濃厚になりつつある金閣寺は、まさに西に低く傾いた陽射しを受けて燦然と黄金色に輝いていた。黄金が大好きな中国人観光客は一斉に感嘆の声をあげて記念写真撮りに我を忘れ、美に対して敬虔なフラン人観光客は沈黙してスマホを向けることもなく眺め入っている。以前、金閣寺に来た覚えがない小生はといえば、中国人の群れを押し分けて前方に出てiphoneで写真を撮った。そして、やはり京都は金閣寺だな、と思った。









 金閣寺の黄金の興奮を運びながら京都駅へ向かうバスの中で激しい眠気が襲ってきた。駅へ着くと、トランクを入れたロッカーが見つからない。管理事務所に電話をかけても分からないので、戸惑っていると、事務所から親切にも折り返しに電話が入って、どうも駅の反対側のロッカーらしいと分かる。そういえば、朝方来た時には、鳥丸口にある京都タワーを見た記憶がなかった。時々、サスペンスドラマなどで刑事が犯人を追走するシーンに出てくるが、駅ビルの遊園地のような意匠の構内をエレベーターで2階に上って、通路を反対側へわたると、すぐにロッカーが見つかった。





 中国からの客人を連れてきて言うのも何だが、関西の有名観光地にこんなにも沢山の中国人がうじゃうじゃ押しかけている事実に、あらためて驚かされた。これはもう北京の天安門広場と変わりがない。立派に中国の観光地である。大阪のホテルでの朝食時、8割ぐらいを占める中国人宿泊客は、そう日本流に行儀よく食べないから、盆の上は赤ん坊のように野獣のようにきたなく食い散らした感があるわけだが、さすがに大阪のホテルマン・ウーマンたちは愛想よく、片付けるのもちっとも嫌そうに見えない。てきぱきと働いている。小生ならば、旨い日本食を毎朝提供するのが面倒になりそうだが、なかなか水準以上に旨い日本式の朝ご飯であった。粘り強いホスピタリティーである。ちなみに、ホテルの名は三井ガーデンホテル大阪淀屋橋。前日に名古屋で泊まった倍以上の宿泊費の老舗(しにせ)格の観光ホテル、顔を見知った愛知県知事が秘書を引き連れてワゴン車からすっとロビーに入ってくるようなホテルよりも格段に質が高かった。
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