Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

米沢の甲冑武者に出会う

2007年02月24日 11時47分28秒 | Journal
 茅場町の会社から横浜の関内へ出るため東京駅まで歩いていると、新しい丸善ビルを通り抜けた辺りで上杉の城下町から来た甲冑武者(かっちゅうむしゃ)に出会った。なんでも米沢から観光と物産のキャンペーンに来たらしい。ご苦労さまなことだ。
 この甲冑は本物なのだろうか。軽い素材にして少し軽装にしたものではないかと思った。この人、余り重そうに着ていないのだ。左を通りながら小生を睨(にら)んだ人に、この甲冑を着せてみたい。さぞかし似合うであろう。
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東京証券取引所、株と蕪の句

2007年02月24日 11時37分53秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 人形町方面から茅場町の会社に戻る途中、兜町の東京証券取引所の前を通りかかる。正面の「看板」が模様変えしていた。慥か、前は東証Arrowsの意匠ものだったが、今はディスクロージャー促進月間に変わっている。それにしても、ここが株式会社・東京証券取引所だとは知らなかった。長らく証券会社を会員とする法人であったが、2001年11月に株式会社化したのだとか。ただし非上場。
 昨年から株を始め、今は2つの日本企業の株と外国のファンド2つを所有している。株もファンドも、どちらか良いとどちらかが悪い。合わせると儲(もう)かっていない。単純にはいかないものだ。比べて、先日食べた味噌汁の(かぶ)は単純明快にやわらかくおいしかった。大地に埋もれていただけあって、清廉潔白なこと。同じカブでも大違いだ。これをお粗末にも句にする。

 株買って味噌汁の蕪ありがたし  頓休
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居木神社末社厳島神社(品川大崎)の梅を詠む、蕪村の紅梅と馬の糞の句

2007年02月18日 10時45分01秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 居木神社末社厳島神社(品川大崎)の境内に、梅が咲いていた。今年は暖冬で、そろそろ梅も見納めであろう。先日の強い風雨(春一番)で大分花も落ちた。戻った冷たい風の中、青空を背景に可憐に咲いてみせる紅白の梅を眺めて、一句思い立つ。

 春一番抜けて冷たし梅の花  頓休

 隅々(すみずみ)に残る寒さやうめの花  蕪村

 さすがに蕪村。ところで、蕪村の句には、

 紅梅の落花燃らむ馬の糞

というのもある。明るい路上へ紅梅の花が落ち、そこには先刻から馬の糞があるよと、まあ、随分な句であるが、これも蕉門の伝統的な美観だと思う。とかく奇麗好きな今の人は、こうした糞まみれな美をわざわざ句に詠み込むことは、まずない。
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居木神社末社厳島神社(品川大崎)と命の長さ

2007年02月18日 10時22分06秒 | Journal
 くねくねと大崎の細い坂道の丘を登っていくと、ほどなく神社らしい朱色が目に入った。居木(いるぎ)神社末社厳島(いつくしま)神社である。こじんまりした境内だ。立て札に、通りかかったら拝殿に一礼しろとあるから、一礼して、ついでに賽銭も放り投げておいた。なんでも小生は今年、病気に気をつけなければならない年まわりらしい。考えてみれば、芭蕉も漱石も同い年で死んでいる。小生が頓死したところで何の不思議もない。そう思うと、指示されて一礼するのも癪(しゃく)だが、ぴょこんと一礼し、おまけに予定外に銭まで賽銭箱に投げ入れる。やはり命が惜しいのである。命の長さだけは芭蕉や漱石に勝っておきたいのである。
 それにしても、なぜ広島宮島の厳島神社がここにあるのか分からない。もとは昔の居木橋村名主・松原家の屋敷神であったらしい。HPによると、鎮座年代不詳であるが、「新編武蔵風土記稿」によれば、往古鎮座の地は目黒川に架けられている居木橋附近に位置し、江戸の初期には溢水の難を避けるため現在の社地に遷座された。その折は「五社明神」と称されたが、明治五年、社号を「居木神社」と改名。
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品川大崎界隈、丘へ切れ込む小路、立正大学と石橋湛山

2007年02月18日 08時04分17秒 | Journal
 取材で、京急で五反田へ出、そこから蒲田までいく東急池上線で次の大崎広小路という駅を降りた。まだアポイントの時間に間があったので、ぷらぷらと丘の上の方へ歩いた。掲示板の地図に居木神社というのを見つけて、そこまで行ってみようと考えたのだ。坂を上ると丘の中腹に立正大学の近代的なキャンパスがある。
 立正大学の校名の「立正」とは、鎌倉時代に活躍した宗教家日蓮聖人が39歳のときに執筆した「立正安国論」に由来するのだとか。大学のHPには、1580年に設立された日蓮宗僧侶の教育機関を淵源とし、420年という長い伝統を誇る大学。1872(明治5)年に近代教育機関として開学し、今日では、学校法人立正大学学園の運営のもとに大学院7研究科と8学部と14学科を擁する総合大学として発展しているとある。それにしても、ケインズ主義者のジャーナリストで総理大臣をやった石橋湛山がこの学校の学長を務めていたとは。石橋は東洋経済新報社の主幹・社長だったが、小生、ここの『週刊東洋経済』に何度か記事を載せたことがある。石橋は、加工貿易立国論を唱え、満州の放棄、日中戦争時に戦争の長期化を批判した硬骨のジャーナリストとしても知られる。同社はその面影を一部ひきずっているはいるが、やはり四季報で食いつなぎ、ただの経済雑誌社化していることは否めない。
 大学の前で、左手に写真のような丘へ切れ込む小路を見つけた。なんとなくここを入って神社までいこうと誘われる。入っていくと、狭い路地の両側に下宿屋らしい二階家が建ち並んでいる。
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不忍池のカモもいろいろ

2007年02月11日 10時19分01秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 1625年(寛永2年)に寛永寺が建立され、そのとき池に弁財天を祀(まつ)ってから不忍池は有名になったそうだが、ここは蓮の名所でもある。その蓮の枯れた中を鴨(かも)が泳いでいる。よく見ると、鴨と言っても、一概に同じ種類ではない。いろいろな種族がいるようだ。
 鴨についてWikipediaに面白い記述を見つけた。――カモ(鴨)は、カモ目カモ科の鳥類のうち、体が小さく、首があまり長くなく、雄と雌で色彩が異なるものをいう。日本では主にマガモ、カルガモなどが生息し、全国の河川や湖などで見られる。また、季節によってはオシドリ、シノリガモなども見られる。
 このほか、食用ともされ、鍋にすると美味。現在ではネギとともに煮ることが多いが、江戸期においてはセリが鴨の相手として好適とされていた。

 芹の上鴨昼寝してうなされる(誹風柳多留)

 マガモを家禽化したものはアヒル(家鴨)と呼ばれる。日本語と異なり英語のDuckなどヨーロッパの言語では、基礎語彙のレベルでは野生の鴨と家禽のアヒルを区別しないので、翻訳に際して注意が必要である。
 諺(ことわざ)の「鴨が葱を背負ってくる」 ―― 鴨鍋にネギを入れると臭みがとれて美味しくなる事から、いいことが重なってやってくること。また、「鴨」は利用しやすい人物をいうことから、食い物にしやすい人物が、こちらの利益になる材料を持ってやって来ることにもいう。略して鴨葱(カモネギ)。

 鴨葱と安き方から春よ来い  頓休
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旧上野寛永寺の五重塔

2007年02月11日 10時04分40秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 昨年の4月4日付けに桜の旧上野寛永寺の五重塔を載せたが、今回はそれほどのクライマックス的な撮影の趣向もないので、石燈籠に挟んで撮ってみた。柵の向こう、上野動物園内に建っているだけあって、塔の周りの濠(ほり)に、多分飛べないアヒル(?)が遊んでいるのが見えた。アヒルは一年で150~200個の卵を産むが、産卵は特に春が盛んであるとか。

 燈籠に挟まれてあるかアヒルの塔  頓休
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音楽的道化師みぎわさんのオペレッタ・アコーディオン(東京都美術館前広場)

2007年02月11日 09時51分39秒 | Journal
 懸案の「オルセー美術館展」見学に、上野公園の東京都美術館へ出かけた。エドゥアール・マネ筆の「すみれのプーケをつけたベルト・モリゾ」(1872年)にも会った。やはり奇麗な女性だった。あの黒尽くめがなんとも彼女のほっそりとした顔を引き立てているのですな。そのモリゾが描いた絵が展示の一番最初に架かっていたのも少し驚かされた。全体的に、印象派が光にどれだけ憧れを持っていたのか感じられた。またオディロン・ルドン(Odilon Redon)の質素な絵に孤独な心を感じた。とにかく、たくさんたくさん絵を観て、くたびれて館を出てきたら、音楽的道化師みぎわさんがアコーディオンを弾きながら唄を歌っていた。ヴェルディの乾杯の歌からテネシーワルツ、青い山脈、りんごの唄と懐かしい曲を歌う。手前の勝手に指揮をしながら聴いているオジサンのリクエストにも応じてメロディーを確かめながらシャンソンも歌った。ヘブンアーティストとして上野御徒町駅、上野公園、それからヨコハマ大道芸として山下公園でも公演する。またどこかで再会したい大道芸人だ。
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聖橋の向こうにニコライ堂

2007年02月04日 15時55分33秒 | Journal
 神田明神を出て、さらに湯島天神まで足をのばす手もあったが、日も暮れかけて、いっそう寒くもなってきたので、湯島聖堂のわきを戻り、聖橋を渡って、新御茶ノ水から地下鉄の千代田線で帰ることに。橋を渡るとき、ビルに挟まれた向こうの方に「聖」のかたわれ、美しいニコライ堂が見えた。
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神田明神 茅の輪のくぐり方と一茶の句「母の分も一つくぐる茅の輪かな」

2007年02月04日 15時44分12秒 | Journal
 神田明神の茅(ち)の輪には、親切にも、そのくぐり方を教示するイラストがあった。これを読んで、その通りにくぐる男性を見かけた。小生も真似してやろうかなとちと思ったが、止した。
 なお、茅の輪の由来とは「神代の昔、スサノオノミコトが大勢の神々と日本の国土に住まいする人などの平和と産業の発展のために諸国を視察して廻っているとき、ある貧しい一軒の家で一夜の温かい待遇を受け、『もし世の中に悪疫が流行ったらチカヤをもって輪を作り、腰の上にかければ必ず一切の悪疫から免れることができる』と教えたことによる」と、備後(びんご)風土記にあるのにならって広まった風習なのだとか。
 さらに、面白いのは、くぐる度に歌った唄があったこと。

 母の分も一つくぐる茅の輪かな  一茶

 思ふ事皆つきぬとて麻の葉を切りに切りて祓(はら)へつるかな 和泉式部
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