Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

和田章・建築学会会長と五百旗頭真・防衛大学校長の講演(KKE Vision 2011)からの考察

2011年10月15日 20時56分01秒 | 哲学草稿
 構造計画研究所のKKE Vision 2011という連続講演会が新宿のヒルトン東京で開催され、取材した。そのなかで、特に、14日の和田章・日本建築学会会長の「宇宙原理と建築」と、五百簱頭真(いおきべ・まこと)防衛大学校長の「跳躍の歴史へ向けて」という講演が興味深かった。とりあえず、写真のみ掲載するが、徐々に内容の紹介と感じたことを書き足していく。



  和田氏は、東京工業大学の教授を退官して、今は名誉教授になっている。氏は、講演などで度々、漱石の弟子、寺田寅彦を引用する。小生も、和田先生とは目のつけどころは違うようだが、寅彦のある解釈に関心を寄せてきた。それは、寅彦のエントロピーと「時」に関する記述だ。
 1917年、寅彦は「時の観念とエントロピー並にプロバビリティ」と題する科学随筆で――全エントロピーは時と共に増すとも減ずる事はないというのが事実であるとすれば、逆にエントロピーを以って「時」を代表させる事は出来ないであろうか。普通の「時」とエントロピーとの歩調が如何に一様でないとしても、其処に一つの新しい「時」の観念が成立し得るのではあるまいか――といった考えを述べた。
 さらに、寅彦は、こんな説明を書いている。――瓦斯(ガス)体の分子やエレクトロンの集団或は光束の集合場に於て各個部分の状態を論ぜんとしても普通の「時」を使う力学は役に立たなくなる場合がある。そういう場合にこのエントロピーの有難味が始めて明白になって来るのである。(中略)分子やエレクトロンの数が有限である間はエントロピーは問題にならず、変化は単義的で可逆であるが、これが無限になって力学が無能となる時に、始めてエントロピーが出て来る。
 こうした寅彦のエントロピー観は、晩年の漱石にも影響していたようである。あるいは逆に、当時の西欧科学事情に通じていた漱石が、寅彦にエントロピーを教えた可能性もある。漱石最晩年のメモに「Entropy. 力学ノ行キヅマリ」(1915年)がある。

 和田氏の講演は、このエントロピーの時間的要素とは違う視点の話だった。

 ▼宇宙と鉄のエントロピー

 エントロピーとは、熱力学の概念で原子や分子の「でたらめさの尺度」である。(頓休注記)
 ――物理の時間にエントロピーを習って余りよく分からずにいた人も多いだろうが、ものごとは大体、多いほど良くて少ないほど悪いものなのに、エントロピーは小さいほど精錬されていて、価値があり、増大すると混沌として複雑になり、価値がなくなる。宇宙は整然とした状態から混沌とした状態に進んでいる(エントロピーが増大)。
 例えば、皿に塩と砂糖を分けて置いておけば、塩辛いものが好きな人も甘いものが好きな人も自由に選べるから価値は高い。塩と砂糖を混ぜてしまう(エントロピーが増大する)と価値がなくなる。しかも、混ぜるのは簡単だが、混ざっているものを元の分けた状態(エントロピーが小さい)に戻すことは非常な大変なエネルギーを要するし、難しい。この塩と砂糖の例はほとんど全てのことに成り立つ。
 製鉄所で、酸化鉄の酸素を鉄からはがして純度の高い役に立つ鉄にする過程もエントロピーを小さくすることであり、お陰で超高層ビルが建ったり橋が架けられたりする。一方、そうした鉄でできたビルや橋で大きな街をつくっていくことは、たくさんのエネルギーを使いCO2も排出した結果なので地球を汚してしまうことにもなり、宇宙から見るような大きな意味でエントロピーの増大につながっている。

 ▼良い耐震構造とは

 建物の耐震構造にもエントロピーが当てはまる。(頓休注記)
 ――もし東京に直下型の大きな地震が起きたら112兆円の災害になるということで、東京都も緊急道路沿いの古い建物の耐震診断をきちんと行うような施策を進めている。東京は3500万人も集まって危険なポテンシャルを超えた状態にあり、(他地域よりも)建物をもう少し丈夫に作っておかないと危ない。
 四川地震やハイチ地震の被害でも構造物の一体性は非常に重要であることが明らかになった。レンガをただ積んだような、あるいは穴空きのプレキャストコンクリート版を敷き並べただけの床スラブのような悪い耐震構造は、小学校の先生が学級の子供たちをコントロールしようとしてもなかなか席にもつかないばらばらな状態と同じで、地震が来ると完全に崩壊する。
 耐震性を高めるためには一致団結して地震力に対抗することが大事だが、特に、骨組に強い材料や太い部材を使うことは耐震性を高める。また、材料、部材、骨組には変形しても抵抗を続ける塑性変形能力がないと、部材強度の合計が構造物の全体強さにならない。
 もう1つ大事なのは建物には心棒がある方が良いことだ。心棒つまり強い柱、強い連層壁は多層建築の耐震性を高める。これらの心棒は、建物の振動モードを矯正し、被害を軽減する。



 五百簱頭氏は、最近では、東日本大震災復興構想会議の議長として知られている。日本学術会議会員でもある五百簱頭氏の専門は日本政治外交史、政策過程論など。講演のタイトルは「跳躍の歴史へ向けて~悲惨のなかの希望~」。大体、こんな内容だった。

 ▼国難に結束する国

 日本史では、国難をバネに跳躍することを繰り返してきた。日本史が世界水準の域に達したのは7世紀から8世紀にかけて。663年、白村江(はくすきのえ)の戦いで、大和王朝は2万7000の兵(第二派)を朝鮮半島へ送りだしたが、二日間で完敗した。大和王朝は思いあがって「これだけの大軍を出せば敵は雲の子を散らすように逃げるだろう」と安易な想定をした。事実は想定外で、朝鮮半島の参戦軍だけではなくて、新羅が中国の唐と連合を組んで挑んできた。唐がどんなに強いかについて完全に認識が甘かった。唐の巨大戦艦が両岸に待ち伏せており、攻めていったところを両側からしめるように来たために壊滅した。
 このあと唐新羅の連合軍が日本に向かって攻め込んでくるのではと、出来あがったばかりの大和王朝は大変な緊張感をもって真剣な対応を行った。大宰府に城を築き、熊本に防人用の兵舎や米倉を建設、大宰府が敵に奪われたときはここを拠点に奪回作戦を実行する予定だった。瀬戸内沿いに城塞も築いた。
 そういう防衛だけでなく、大和朝廷は敗戦の翌年から猛然と唐文明の学習を開始した。「われわれは田舎者だった」と負けて分かった。ローマ帝国衰退後、世界で一番強大な文明は唐文明だった。大和朝廷は唐文明のすごさを知ってむさぼるように学んだ。日本を変えていかなければ生きていけない。その努力を50年続けて707年から唐風の律令国家の首都ミニチュアとして奈良盆地に平城京をつくった。ということは、唐文明をあらかた自分のものにした。
 それ以後、ほぼ世界水準とそう違わないレベルで日本史は進んでいる。蒙古来襲のときもそうだが、日本史では、国内で政争が多いのに、国難になると、外国勢と組んで日本史の主人公になろうとする人間がでてこない。逆に、日本人は国難のなかで結束し、跳躍する。

 ▼「認識の三脚」を立て

 明治28年に日清戦争が終わり、翌年、三陸大津波が起きた。町長によっては高台移転を唱えたが、当時の高台移転は不便という代償を払わなければならなかった。そこで万里の長城と呼ばれる高さ10㍍の防潮堤、まるで監獄の塀のようなのを作った。その中に津波を集めて高くするような形状のものがあって、今回の津波で大変な災害をもたらした。津波は高波や高潮と違い、引き波から始まって海面の下から上まで弾丸のように迫って、防潮堤を乗り上げて越えていく。高さ7~8㍍でも十分。しかし、引っ繰り返らない、しっかり踏ん張って、第二波、三波を止められるものが必要。
 私どもの構想は、大自然が猛威をふるうときに、それを完封はできない、減災しかできないという認識に立っている。
 人間は直前の強烈な体験に認識が支配されてそればかりになる。「将軍たちは前の戦を戦い、外交官は前の講和会議を交渉する」という国際政治の言葉があるが、事態も技術も変わっているのに、過去の認識の虜囚になってしまう。もっと視界を広げて「認識の三脚」を立てた方がいい。
 これから第三次補正でわれわれが復興構想で描いたものを実施することになる。重視したのは、一つはより安全な家、より安全な町を作ること。一番望ましいことは津波から町ごと逃げる。高台移転、丘の上のニュータウンは世界でも普通のこと。昔は不便という代償があったが、今は道路さえつければ車で、10分で港まで下りてこられる。
 もう一つは、産業再生。阪神淡路のときは被災者に大企業に勤める人が多かったが、今回は仕事ごと失った人が多い。特区を作り、最先端産業が外国でなく東北に来るような創造的復興を促進する。
 ゆるやかに下っていく日本に大自然災害という国難が来た。国民が全力で復興を手助けし、そして日本全体も再生しようではないか。
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老舎の個人主義、漱石の個人主義、アダム・スミスの利己心

2011年01月25日 20時16分52秒 | 哲学草稿


 老舎の『駱駝祥子(ロート・シアンツ)』(立間祥介訳)を読み終えた。読了に1カ月半ほどかかった。その間に、小説の舞台となった北京にもこの岩波文庫を持って出かけた。作品の後半になって、あれほど爽やかな好青年だった車夫の祥子は、自前の車一台を持とうというささやかな野心や幸せな家庭を持ちたいという淡い夢も不遇からかなえられず、自暴自棄、やけくそなな醜い男になっていく。老舎の描写はすさまじい。「いまでは、彼は得になることはどんなことでもやった。人のタバコを一本でもよけいに吸うことに、贋銅貨を使うことに、」(374p)、そして賃稼ぎのデモ隊参加では「どうしてもスローガンを叫ばなければならないときには、口をパクパクやってみせるだけで、ぜったいに声はださなかった。喉を使ってはもったいないと思ったからだ。これまでさんざん汗を流して働いたあげくがなんにもならなかった経験から、彼は疲れるようなことはいっさいやらないことにしたのである。デモの最中でも、ちょっとでも危ないと見ると、まっさきに逃げた。それもものすごいスピードで。命はおれのものだ、生かそうと殺そうとおれの勝手だが、人のために犠牲になるなんてまっぴらだと思っていた。自分のために努力する者は、また、自分を大切にすることも知っている。これが個人主義の行きつく両極端である。」(377p)とある。私は、ここまで読んで、なんだか自分のことを指摘されたような気がした。
 老舎は作品をこう結んでいる。「あのいなせな、がんばり屋の、希望にあふれた、わが身ひとつをいとおしんだ、個人的な、たくましかった、偉大な祥子は、いまや、何度人の葬式に立ちあったことだろう。そして、いつかは、どこかに、彼自身を埋めることになるはずだ。この堕落した、我利我利亡者の、不幸な、病める社会の子、個人主義のなれのはてを!」と。
 ところで、この老舎の「我利我利亡者の個人主義」という言葉ですぐに2つの事柄を想起した。1つは漱石の個人主義である。大正3年11月25日、漱石は学習院で「私の個人主義」という講演をした。この中で漱石はかなり思い切ったことを述べている。講演の最後の方で「国が強く戦争の憂(うれい)が少なく、そうして他から犯される憂がなければないほど、国家的観念は少なくなって然るべきわけで、その空虚を充たすために個人主義が這入ってくるのは理の当然と申すより外に仕方がないのです。(中略)国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令をいくら八釜しくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きを置く方が、私にはどうしても当然のように思われます。」
 この漱石の個人主義はモットーの個人主義で、老舎の病める社会の個人主義とはアベコベなものである。明らかに中国人は、個人主義を利己主義と受け取っているのである。漱石の個人主義は「自己本位」という言葉に代えられるもので、利己主義ではない。
 そして2つ目は、アダム・スミスの『国富論』にあるself-interest(利己心)である。この個人のモチベーションに宿る利己心は、市場経済の推進力となって、国を富ませ得るという考え方である。共感にもとづいた道徳的社会を夢想したアダム・スミスにとって、利己心は必ずしも悪いもの、利己主義や「我利我利亡者の個人主義」ではなく、むしろ漱石流の高い徳義の個人主義、自己本位に近いものであったろう。では、われわれの時代の世界はどうなのか。それは「我利我利亡者の個人主義」的な資本主義が国家的道徳と連携して、自己本位や共感を蹂躙してまわる社会ではないか。そんな感じもするし、明らかにそれへの個人からの抵抗がインターネット社会を通じて流行しはじめているとも考えられる。
 そうした両極端に分岐する世界の中で、極めて祥子的なマインドをもつ小生は、今後、どこにわが身を置いていいのか分からない。やけくそあるのみかもしれない。個人主義をウイキペディアで調べると、市民革命との関係の中に「市民革命の理論的な基礎ともなった社会契約説では、イギリスの哲学者ホッブズが、各個人の有する無制限な自然権は、『万人の万人に対する闘争』を帰結するものとした上、これを避けるためには、各個人の有する自然権が主権者に譲渡されることが必要であるとした。これに対してイギリスの哲学者ロックは、自然状態を平和なものとみたが、これを確実にするものとして社会契約を肯定した。ただし委任を受けた統治者が社会契約に反した場合には、個々人はその自然権を回復するとして革命権を肯定した。」というくだりがある。本来のあまのじゃくな立場からすれば「自然権が主権者に譲渡される」ということは、どうも有り難い話ではない。個人主義(individualism)は、そもそもラテン語のindividuus(不可分なもの)に由来する言葉だそうだ。その不可分なもの、天然なものが社会では分割して、ときには学校や会社、国家に切り売りに提供しないといけないということらしい。少時からとかくこの世が生きずらいのは当然の帰結だ。やはり、個人としては革命に走るかやけくそになるかしかなさそうである。徒党を組むのは大嫌いだ。残るは、やけくそあるのみである。
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御柱信仰――霊の真柱と法隆寺の心柱

2006年02月18日 11時10分28秒 | 哲学草稿
 江戸時代後期の国学者・平田篤胤(ひらた・あつたね、1776~1843年)の『霊の真柱(たまのみはしら)』(岩波文庫)を図書館で借りて、これは熟読も辛いので、ところどころ拾い読んでみる。
 古事記の研究に取りつかれた篤胤は、1811年、駿府の国府において、なんでも、12月の5日から30日にかけて不眠不休の作業で、この一書を書き上げたとか。読んでみると、なかなか興味深い形而上学(metaphysics)が展開されている。
 上図(第二図)をクリックすれば分かるが、「大虚空(おおそら)の中に一つの物生(な)りて、…海月(くらげ)なす漂蕩(ただよ)へる時に」と、宇宙の起源を解説する。その「一物」から天・地(この世)・泉(黄泉の国)の三つが分かれ、そこのどこかに「大倭心(やまとごころ)を鎮(しず)める」三柱(=神)が、堅固に立っている。
 そうした柱がないと、「桁(けた)・梁(うつばり)・戸・窓の錯(さか)ひ鳴り動き」と、世界は危うい構造になるという。「霊(たま)の行方をだに鎮め得ずて潮沫(しおなわ)の成れる国々、いな醜目(しこめ)」だそうだから、国たるもの、しっかりした真柱がなければならないのであろう。それがある国が、ニッポンなのだ。また、三神には、所管する神事に分担があって、目に見える世界(顕事)での事業と、目に見えない世界(幽世)での出来事では、違う神が担当するとか。幽世は、なにやら、小生の虚数世界に似ている心持ちがする。

 ■こうした柱=神のイメージは、形而下(physical)で、実際の神社建築の中に受け継がれている。
 伊勢神宮には、白い玉ジャリを敷き詰めた広い空き地があって、中央に社殿の中心に埋められる忌柱(いみばしら、神聖な御柱)を覆い隠す小屋(「心御柱覆屋」)が建っていたそうである。この実際に見た者が稀な柱は、ヒノキで、神宮に伝わる『大神宮儀式解』には、心御柱の「心とはナカゴ(中心)という意味であり、清浄な忌柱である。この柱を立てるのは重大な事で深い意味があり、猥りに記すべき事ではない。またこの柱は天御量(あめのみはかり)柱(高天原の尺度で造られた柱)ともいうことで、空理を附会する説を立てることはよろしくない」と、わざわざ断わってあったといいます。要するに、余りうるさく穿鑿(せんさく)されたくなかったのであろうな。

 ■一方、寺の塔にも、心柱(しんばしら)がある。
 法隆寺の五重塔の心柱は、2001年前にもなって、若草伽藍の発見(1939年、そこにオリジナルの法隆寺があったと推定された)で解決済みだったはずの「再建非再建論争」をまたもや呼び覚ました。
 2001年2月、711年頃に再建されたはずの五重塔の心柱(直径78・2㌢、八角形、搭の真中を上下32・1㍍にわたって突き抜ける一本の太い柱)のヒノキ部材の一部が、再建と推定されたその百年以上も前の「594年」に伐採されたものだと、年輪年代法で判明し、現存する法隆寺が、焼失し再建されたものなのか、創建当時のまま非再建であるのか、その明治以来の大論争が蒸し返されたのだ。
 ところで、この法隆寺五重塔の心柱には、柱らしい大した構造上の意味合いはないらしい。第一、この柱、宙に浮いている。それでも大切にそこにあるということは、「霊の真柱」に劣らぬ象徴的な意味が込められているのかもしれない。

 ■ニッポンには、縄文の古代から、柱に対して特別な思い入れがあったようだ。
 作家の長部日出雄氏は、「わが国の信仰の歴史を、どこまでも溯って行くと、ついには神の社の中心にあって、天と地を結ぶほどに高く聳え立つ一本の大樹に行き着く」と感想を述べたことがあるが、ジョウモン時代の遺構からも青森の三内丸山(サンナイマルヤマ)遺跡のようにクリの大柱(直径1㍍)の柱根が6本並んで発見されたりしていたから、ニッポンには古くから、何らかの御柱信仰があったと推測できる。

COMMENT:縄文時代の巨大柱――DNA分析によって、三内丸山遺跡では、クリが栽培されていたことが分かっている。同地の背後に広がる「八甲田山」では、ジョウモン時代から一貫してブナ林になっているのに、三内丸山では定住が始まると、クリの木が増えだし、集落の周囲はクリ林一色だったことは、土に含まれる花粉の分析でも明らかにされた。
 6本の大柱については、大手ゼネコン「大林組」が分析。柱根下面の地質密度や含水比率から掛かっていた荷重を割り出した結果、最高23㍍の木柱が立っていた可能性が判明した。しかも、柱は「固め打ち」工法を採用、約2度内側に傾く「内転び」で、上にゆくにつれ互いに接近していたことから、柱を連結する上部構造がなければ立ちつづけることは困難と判断された。つまり、単に直立するモニュメントとしての柱ではなく、祭祀用の建物を支える構造柱だったかもしれない。
 こうした巨大柱を使った神的構造物・神殿では、島根県の古代イズモ(出雲)大社は高さ48㍍(地元の伝承では96㍍)もの巨大な建物であったことが分かっている。大社境内を発掘調査(2000年)したところ、丸太を3本組み合わせた直径3㍍の巨大な柱根が発見された。そして、本殿中心の心御柱(しんのみはしら)は直径3・6㍍であったとか。ただし、この伝承の「空中神殿」を支えた巨大柱は、その後の研究の結果(2002年)、鎌倉時代、十三世紀中頃の建て替え資材であったと判明。なぜ、武家の世にそれほどの大神殿の改築工事がなされたのか、却って、興味をひくことになった。

 もちろん、長野・諏訪大社の御柱祭は、今も民間に伝承されて残る素朴な御柱信仰だ。七年目ごとに社(やしろ)の柱を建て替える際に行われるこの祭では、多くの氏子を乗せた巨大な木柱を山の急斜面を滑り落とす「木落し」が有名。大きいものでは長さ16㍍、重さ10㌧にも及ぶ巨木を使う。死傷者も出る。

 ■御柱信仰の起源をニッポン以外に求めれば、例えば、塔に心柱があるのは、韓国とニッポンだけだ。中国の搭にはない。
 韓国で今あるのは、法住寺捌相殿(べっそうでん)の木搭には心柱があるという。なるほど、韓国の寺には境内に刹柱という柱が立っていて、これは韓国の村にある蘇塗柱(そとばしら)から来たと思われる。もともとは、シベリア遊牧民たちが荒野で聖殿の目印とした天の柱に由来しているのではないかとされる。話も、スケールとしてそこまでいくと、篤胤のいう「大虚空の中」にあった霊の真柱とつながってくるが、残念ながら、「大倭心」専用とはいかない、多民族性を持たせなければならないようだ。

 ■神社の起源についても、これこそはニッポン固有のものであると信じている人は多いであろうが、異説もある。
 まず、神社の起源は、古代の墓「古墳」にあるというのだ。谷川健一氏は、「神社 その起源について」の中で、「私は日本各地の神社をたずねあるくことを近来の仕事の一つにしているが、そこで気の付くことは、神社の境内に古墳が多いという事実である。神社は聖であり墓地は穢(わい)であるという聖穢の観念にわざわいされて、神社の中に墓地があるのをかくしたがる神主や禰宜(ねぎ)もあり、なかなかその実情に触れたがらない」と書いている。前方後円墳で、その前方部に祭壇がある。そこが後々に神社・神宮化したというのだ。
 その古墳にまつられている祖神廟(そしんびょう)こそ神社の原形で、それはコーリアのシラギ(新羅)にあったものだとは、キム・タルス(金達寿)氏の主張であった。コーリアの『三国史記』によれば、西暦の6年、シラギ第一代の王カクキョセ(赫居世)をまつった祖神廟がつくられ、487年にそれが「神宮」となった。「神社」というのも、「赫居世」のコーリア語読みが「ヒョクコセ」となり、そのヒョクは名前で、コセは様といった尊称。このコセがニッポンに入って「社(コソ)」となり、神社となったという由来話もある。

 ■仏教の影響は、コーリアとニッポンでは、大きく現われ方を異にした。
 シラギは、いったん仏教を国教として受け入れてしまうと、神宮の信仰を完璧に否定してしまった。キム・タルス氏は、「日本では神さまがさきにあって、そこに仏教が入ってきても、神仏習合したり、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説という独特な理論があみ出されて同居しますが、朝鮮ではそれができない。朝鮮人にはいまも昔もそういうところがありますけれども、よくいえば論理的であり、悪くいえば対決的である…」と説明。「本地垂迹説」とは、本地(真実)の仏・菩薩が衆生を救うために迹(あと)を垂(た)れて(仮の姿をとって)ニッポンの神祗となって現われるとする解釈である。 
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哲学草稿2:仏教は今でも非ニッポン的なのか? 蘇我氏滅亡、神仏習合と廃仏毀釈、小泉首相の靖国神社参拝

2005年11月14日 21時06分49秒 | 哲学草稿
 今日の朝刊1面に、蘇我入鹿(そが・いるか)邸の遺構が、奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか、標高148㍍)東麓遺跡で見つかったと報じられていた。
 645年、入鹿は宮廷の儀式に出席していたところを、「天皇の地位を脅かそうとしている」との理由で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり、後の藤原鎌足)のクーデターにあった。皇子の刃に入鹿の生首が宙に高々と舞い上がったシーンは、あの『新しい歴史教科書』に絵入りで生々しく取り上げられている。見つかった入鹿の邸宅は、クーデターの前年(644年)、宮が見渡せる甘樫丘の谷間に建造され、父親の蝦夷(えみし)の邸宅は丘の上に築かれた一種の二世代住宅だった。クーデターの翌日、敵と対峙した蝦夷は自ら両邸宅に火を放ち、自害して果てたとされる。このクーデターが世にいう「大化の改新」、正確には、その幕開けとなる「乙巳(いっし)の変」である。
 この出来事を少し分析すれば、ニッポンという国の宗教と政治の固定的なあり方を如実に現していると思い至るであろう。あれ以来、昨今の小泉首相の靖国神社参拝問題まで1400年間、ニッポンは変わるところがない。
 まず、コーリア人に対する複雑な感情。ニッポン人と日本文化のルーツがコーリアにあることは、学説にある蘇我氏や天皇家、および官僚群の血筋を考えれば明らかだ。
 最近、読んでいる桓武天皇の伝記にも書いてあったので、ああそうかと思ったが、桓武天皇の母方は百済(くだら)系帰化人であった。そのことは今の天皇自身があっさり認めている。2001年の12月23日、天皇が六十八才になる誕生日を迎え、その記者会見の場で、以下のようにコーリアとの縁についてこんな突っ込んだことを話した。

 ――私自身としては、垣武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。

 そして、桓武天皇はコーリア系人脈をうまく使って治世をした。最初に移った長岡の地を開拓したのは秦(はた)氏で、彼ら帰化人勢力の財力が遷都の財源となったとされる。つづく平安京遷都についても、その主唱者は、渡来系の和気清麻呂や秦島麻呂(はたの・しままろ)、そして、『続日本紀』の撰修者でもあった百済系の菅野真道(すがの・まみち)といった人たちだった。
 岡山県出身の地方豪族・和気清麻呂は、戦前の国定教科書に、道鏡という悪僧が女帝の称徳天皇に取り入って、ついには自ら天皇になろうと策謀をめぐらし、清麻呂も仲間に加わるように誘うが、清麻呂は拒絶して、かえって宇佐八幡の託宣として道鏡一味を除くように天皇に進言、島流しの憂き目にあうが、後に、見事に復権した忠臣として扱われた。
しかも、天皇が住んだ大内裏(だいないり)は、もとは秦河勝(はたの・かわかつ)の邸宅があった場所だったとされる(『拾芥抄』)。河勝は、聖徳太子の参謀格だった人物。さらに、いわばサムライの始祖、桓武天皇が征夷大将軍に抜擢した坂上田村麻呂(さかのうえの・たむらまろ)は、チャイナの高祖皇帝の末裔だとか。また、桓武天皇が遣唐使に送り出した最澄は、近江の膳所(ぜぜ)近辺の人(近江国滋賀郡三津ケ浜=大津市下阪本辺の湖岸)であった。ここは、「志賀郡四郷」の一つで、古代民族が居住した古郷であった。最澄の俗名は「三津首(みつのおびと)広野」と言う。彼が生誕する300年ほど前にチャイナから帰化した後漢の「孝献帝」の一族の末裔ではないかと伝わる。
 つまり、ニッポン文化の真髄、京都の文化は、コーリア系やチャイニーズ系のエリート層によって土台(foundation)は築かれたようなものだ。それを後から差別して、ニッポンの国はニッポン人だけでつくったようにニッポン民族の優位を主張したって、はじまらない相談なのだ。歴史的な無知を露呈しているにすぎない。しかし、古くからニッポン人の中の国粋的思想を持つ人々は、この混合人種、混血文化からニッポンが成った事実を嫌って、歴史を改ざんしてまで彼らの痕跡を抹消しようとしてきた。それが、聖徳太子一族が殲滅(せんめつ)された悲劇や蘇我氏の滅亡につながったと、小生は考える。
 太子一族も蘇我氏も、仏教徒であった。そのころの仏教は、明らかな外来文化であり、ニッポンの文化風土にはなかったがっしりした体系的で稠密(ちゅうみつ)な宇宙観を主張する異教と映ったであろう。仏教には、考えようによっては、執拗で脂っこいところがある。東洋の衣を被ってはいても、キリスト教と同じ粘着の質感がある。一方、ニッポンは、風通しが良い、淡白好みの「生(き)なりの文化」で、オモチャのような鏡・剣・曲玉といった三種の神器を奉(たてまつ)り、刺身を食い、大した理由もなく腹を切り、吹けば飛ぶような木の家に住み、ペンキで柱や壁を塗りたくるようなことはしなかった。ニッポン人は、最近は肉食化し豚骨ラーメンを食って生活習慣病にかかっても、本来は、ゴタゴタした味つけ、脂っこさは、思想だろうが料理だろうが、チャイナ伝来だろうが、ヨーロッパ伝来だろうが、徹底して受けつけないところがある。だから、蘇我氏も聖徳太子も、外国カブレに映ったのである。(つづく)
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哲学草稿1:われわれは虚数時間に生きている?

2005年11月12日 14時40分06秒 | 哲学草稿
 今日は、関東で木枯らし1号が吹いたそうな。木枯らしに1号とか2号があるとは知らなかった。春一番より無粋(ぶすい)なり。
 ところで、今週の前半は、取材先から取材先へ、喫茶店などで時間つぶしに、いささか哲学をした。時間とは何かと抽象的な事柄を考えていると、思いのほか、時がたつのも忘れるようだ。
 宇宙が、その臍(へそ)である特異点で誕生し、ビッグバンで急膨張してから、137億年ぐらいたつ。この137億年というのは、気が遠くなるような悠久の時間であっても、実数時間である。われわれは、この実数時間を本当の時間と思い込んで生きている。もちろん、時計で確認する時刻もその実数時間の相対的な一齣(こま)だ。ところが、宇宙が誕生する前を、この実数時間で説明することはできない。誕生した瞬間がゼロ時で、その前は-1時とは勘定できない。それでは、この膨大な宇宙の巨大質量を1点の中に閉じ込めていた秘密が解明できなくなる。アインシュタインの相対性理論と量子理論が両立せず、破綻するそうだ。
 宇宙には生れる前、虚数時間が流れていたと、少なくとも数学的な説明ではそうなると言い出したのは、スティーブン・W・ホーキング博士だ。そして、宇宙の赤子は、陣痛もなく、スーッと産道を滑り出した無痛分娩で生れたと。
 この宇宙が生れる前に流れていた虚数時間は、誕生と同時に、瞬間のごとき短いインフレーション膨張期に、真空エネルギーが熱エネルギー(ビッグバン宇宙)に転換し、実数時間に変換したのであろうか。あるいは、そうではなくて、われわれが本当に生きているのは、虚数時間の中で、実数時間はそのうわべだけのご都合の尺度でしかないかもしれない。実際、量子論では、虚数を使わなければ量子の存在確率を算定できないという。人間も、突き詰めれば、量子と真空でできている。いわば、生れる前の、胎内の宇宙を余韻として残している。
 人間が、〔3次元の空間+1次元の時間〕の4次元世界に生きているというのも、錯覚で、本当はもっと多次元らしい。われわれは、それを4次元に合理化、省略し、虚数世界に蓋をして、「空間化された時間」に不安を感じながらも、けなげに4次元世界という窮屈で無理のある文明的枠組みに適応しようとして生きているのだ。
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