構造計画研究所のKKE Vision 2011という連続講演会が新宿のヒルトン東京で開催され、取材した。そのなかで、特に、14日の和田章・日本建築学会会長の「宇宙原理と建築」と、五百簱頭真(いおきべ・まこと)防衛大学校長の「跳躍の歴史へ向けて」という講演が興味深かった。とりあえず、写真のみ掲載するが、徐々に内容の紹介と感じたことを書き足していく。
和田氏は、東京工業大学の教授を退官して、今は名誉教授になっている。氏は、講演などで度々、漱石の弟子、寺田寅彦を引用する。小生も、和田先生とは目のつけどころは違うようだが、寅彦のある解釈に関心を寄せてきた。それは、寅彦のエントロピーと「時」に関する記述だ。
1917年、寅彦は「時の観念とエントロピー並にプロバビリティ」と題する科学随筆で――全エントロピーは時と共に増すとも減ずる事はないというのが事実であるとすれば、逆にエントロピーを以って「時」を代表させる事は出来ないであろうか。普通の「時」とエントロピーとの歩調が如何に一様でないとしても、其処に一つの新しい「時」の観念が成立し得るのではあるまいか――といった考えを述べた。
さらに、寅彦は、こんな説明を書いている。――瓦斯(ガス)体の分子やエレクトロンの集団或は光束の集合場に於て各個部分の状態を論ぜんとしても普通の「時」を使う力学は役に立たなくなる場合がある。そういう場合にこのエントロピーの有難味が始めて明白になって来るのである。(中略)分子やエレクトロンの数が有限である間はエントロピーは問題にならず、変化は単義的で可逆であるが、これが無限になって力学が無能となる時に、始めてエントロピーが出て来る。
こうした寅彦のエントロピー観は、晩年の漱石にも影響していたようである。あるいは逆に、当時の西欧科学事情に通じていた漱石が、寅彦にエントロピーを教えた可能性もある。漱石最晩年のメモに「Entropy. 力学ノ行キヅマリ」(1915年)がある。
和田氏の講演は、このエントロピーの時間的要素とは違う視点の話だった。
▼宇宙と鉄のエントロピー
エントロピーとは、熱力学の概念で原子や分子の「でたらめさの尺度」である。(頓休注記)
――物理の時間にエントロピーを習って余りよく分からずにいた人も多いだろうが、ものごとは大体、多いほど良くて少ないほど悪いものなのに、エントロピーは小さいほど精錬されていて、価値があり、増大すると混沌として複雑になり、価値がなくなる。宇宙は整然とした状態から混沌とした状態に進んでいる(エントロピーが増大)。
例えば、皿に塩と砂糖を分けて置いておけば、塩辛いものが好きな人も甘いものが好きな人も自由に選べるから価値は高い。塩と砂糖を混ぜてしまう(エントロピーが増大する)と価値がなくなる。しかも、混ぜるのは簡単だが、混ざっているものを元の分けた状態(エントロピーが小さい)に戻すことは非常な大変なエネルギーを要するし、難しい。この塩と砂糖の例はほとんど全てのことに成り立つ。
製鉄所で、酸化鉄の酸素を鉄からはがして純度の高い役に立つ鉄にする過程もエントロピーを小さくすることであり、お陰で超高層ビルが建ったり橋が架けられたりする。一方、そうした鉄でできたビルや橋で大きな街をつくっていくことは、たくさんのエネルギーを使いCO2も排出した結果なので地球を汚してしまうことにもなり、宇宙から見るような大きな意味でエントロピーの増大につながっている。
▼良い耐震構造とは
建物の耐震構造にもエントロピーが当てはまる。(頓休注記)
――もし東京に直下型の大きな地震が起きたら112兆円の災害になるということで、東京都も緊急道路沿いの古い建物の耐震診断をきちんと行うような施策を進めている。東京は3500万人も集まって危険なポテンシャルを超えた状態にあり、(他地域よりも)建物をもう少し丈夫に作っておかないと危ない。
四川地震やハイチ地震の被害でも構造物の一体性は非常に重要であることが明らかになった。レンガをただ積んだような、あるいは穴空きのプレキャストコンクリート版を敷き並べただけの床スラブのような悪い耐震構造は、小学校の先生が学級の子供たちをコントロールしようとしてもなかなか席にもつかないばらばらな状態と同じで、地震が来ると完全に崩壊する。
耐震性を高めるためには一致団結して地震力に対抗することが大事だが、特に、骨組に強い材料や太い部材を使うことは耐震性を高める。また、材料、部材、骨組には変形しても抵抗を続ける塑性変形能力がないと、部材強度の合計が構造物の全体強さにならない。
もう1つ大事なのは建物には心棒がある方が良いことだ。心棒つまり強い柱、強い連層壁は多層建築の耐震性を高める。これらの心棒は、建物の振動モードを矯正し、被害を軽減する。
五百簱頭氏は、最近では、東日本大震災復興構想会議の議長として知られている。日本学術会議会員でもある五百簱頭氏の専門は日本政治外交史、政策過程論など。講演のタイトルは「跳躍の歴史へ向けて~悲惨のなかの希望~」。大体、こんな内容だった。
▼国難に結束する国
日本史では、国難をバネに跳躍することを繰り返してきた。日本史が世界水準の域に達したのは7世紀から8世紀にかけて。663年、白村江(はくすきのえ)の戦いで、大和王朝は2万7000の兵(第二派)を朝鮮半島へ送りだしたが、二日間で完敗した。大和王朝は思いあがって「これだけの大軍を出せば敵は雲の子を散らすように逃げるだろう」と安易な想定をした。事実は想定外で、朝鮮半島の参戦軍だけではなくて、新羅が中国の唐と連合を組んで挑んできた。唐がどんなに強いかについて完全に認識が甘かった。唐の巨大戦艦が両岸に待ち伏せており、攻めていったところを両側からしめるように来たために壊滅した。
このあと唐新羅の連合軍が日本に向かって攻め込んでくるのではと、出来あがったばかりの大和王朝は大変な緊張感をもって真剣な対応を行った。大宰府に城を築き、熊本に防人用の兵舎や米倉を建設、大宰府が敵に奪われたときはここを拠点に奪回作戦を実行する予定だった。瀬戸内沿いに城塞も築いた。
そういう防衛だけでなく、大和朝廷は敗戦の翌年から猛然と唐文明の学習を開始した。「われわれは田舎者だった」と負けて分かった。ローマ帝国衰退後、世界で一番強大な文明は唐文明だった。大和朝廷は唐文明のすごさを知ってむさぼるように学んだ。日本を変えていかなければ生きていけない。その努力を50年続けて707年から唐風の律令国家の首都ミニチュアとして奈良盆地に平城京をつくった。ということは、唐文明をあらかた自分のものにした。
それ以後、ほぼ世界水準とそう違わないレベルで日本史は進んでいる。蒙古来襲のときもそうだが、日本史では、国内で政争が多いのに、国難になると、外国勢と組んで日本史の主人公になろうとする人間がでてこない。逆に、日本人は国難のなかで結束し、跳躍する。
▼「認識の三脚」を立て
明治28年に日清戦争が終わり、翌年、三陸大津波が起きた。町長によっては高台移転を唱えたが、当時の高台移転は不便という代償を払わなければならなかった。そこで万里の長城と呼ばれる高さ10㍍の防潮堤、まるで監獄の塀のようなのを作った。その中に津波を集めて高くするような形状のものがあって、今回の津波で大変な災害をもたらした。津波は高波や高潮と違い、引き波から始まって海面の下から上まで弾丸のように迫って、防潮堤を乗り上げて越えていく。高さ7~8㍍でも十分。しかし、引っ繰り返らない、しっかり踏ん張って、第二波、三波を止められるものが必要。
私どもの構想は、大自然が猛威をふるうときに、それを完封はできない、減災しかできないという認識に立っている。
人間は直前の強烈な体験に認識が支配されてそればかりになる。「将軍たちは前の戦を戦い、外交官は前の講和会議を交渉する」という国際政治の言葉があるが、事態も技術も変わっているのに、過去の認識の虜囚になってしまう。もっと視界を広げて「認識の三脚」を立てた方がいい。
これから第三次補正でわれわれが復興構想で描いたものを実施することになる。重視したのは、一つはより安全な家、より安全な町を作ること。一番望ましいことは津波から町ごと逃げる。高台移転、丘の上のニュータウンは世界でも普通のこと。昔は不便という代償があったが、今は道路さえつければ車で、10分で港まで下りてこられる。
もう一つは、産業再生。阪神淡路のときは被災者に大企業に勤める人が多かったが、今回は仕事ごと失った人が多い。特区を作り、最先端産業が外国でなく東北に来るような創造的復興を促進する。
ゆるやかに下っていく日本に大自然災害という国難が来た。国民が全力で復興を手助けし、そして日本全体も再生しようではないか。
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和田氏は、東京工業大学の教授を退官して、今は名誉教授になっている。氏は、講演などで度々、漱石の弟子、寺田寅彦を引用する。小生も、和田先生とは目のつけどころは違うようだが、寅彦のある解釈に関心を寄せてきた。それは、寅彦のエントロピーと「時」に関する記述だ。
1917年、寅彦は「時の観念とエントロピー並にプロバビリティ」と題する科学随筆で――全エントロピーは時と共に増すとも減ずる事はないというのが事実であるとすれば、逆にエントロピーを以って「時」を代表させる事は出来ないであろうか。普通の「時」とエントロピーとの歩調が如何に一様でないとしても、其処に一つの新しい「時」の観念が成立し得るのではあるまいか――といった考えを述べた。
さらに、寅彦は、こんな説明を書いている。――瓦斯(ガス)体の分子やエレクトロンの集団或は光束の集合場に於て各個部分の状態を論ぜんとしても普通の「時」を使う力学は役に立たなくなる場合がある。そういう場合にこのエントロピーの有難味が始めて明白になって来るのである。(中略)分子やエレクトロンの数が有限である間はエントロピーは問題にならず、変化は単義的で可逆であるが、これが無限になって力学が無能となる時に、始めてエントロピーが出て来る。
こうした寅彦のエントロピー観は、晩年の漱石にも影響していたようである。あるいは逆に、当時の西欧科学事情に通じていた漱石が、寅彦にエントロピーを教えた可能性もある。漱石最晩年のメモに「Entropy. 力学ノ行キヅマリ」(1915年)がある。
和田氏の講演は、このエントロピーの時間的要素とは違う視点の話だった。
▼宇宙と鉄のエントロピー
エントロピーとは、熱力学の概念で原子や分子の「でたらめさの尺度」である。(頓休注記)
――物理の時間にエントロピーを習って余りよく分からずにいた人も多いだろうが、ものごとは大体、多いほど良くて少ないほど悪いものなのに、エントロピーは小さいほど精錬されていて、価値があり、増大すると混沌として複雑になり、価値がなくなる。宇宙は整然とした状態から混沌とした状態に進んでいる(エントロピーが増大)。
例えば、皿に塩と砂糖を分けて置いておけば、塩辛いものが好きな人も甘いものが好きな人も自由に選べるから価値は高い。塩と砂糖を混ぜてしまう(エントロピーが増大する)と価値がなくなる。しかも、混ぜるのは簡単だが、混ざっているものを元の分けた状態(エントロピーが小さい)に戻すことは非常な大変なエネルギーを要するし、難しい。この塩と砂糖の例はほとんど全てのことに成り立つ。
製鉄所で、酸化鉄の酸素を鉄からはがして純度の高い役に立つ鉄にする過程もエントロピーを小さくすることであり、お陰で超高層ビルが建ったり橋が架けられたりする。一方、そうした鉄でできたビルや橋で大きな街をつくっていくことは、たくさんのエネルギーを使いCO2も排出した結果なので地球を汚してしまうことにもなり、宇宙から見るような大きな意味でエントロピーの増大につながっている。
▼良い耐震構造とは
建物の耐震構造にもエントロピーが当てはまる。(頓休注記)
――もし東京に直下型の大きな地震が起きたら112兆円の災害になるということで、東京都も緊急道路沿いの古い建物の耐震診断をきちんと行うような施策を進めている。東京は3500万人も集まって危険なポテンシャルを超えた状態にあり、(他地域よりも)建物をもう少し丈夫に作っておかないと危ない。
四川地震やハイチ地震の被害でも構造物の一体性は非常に重要であることが明らかになった。レンガをただ積んだような、あるいは穴空きのプレキャストコンクリート版を敷き並べただけの床スラブのような悪い耐震構造は、小学校の先生が学級の子供たちをコントロールしようとしてもなかなか席にもつかないばらばらな状態と同じで、地震が来ると完全に崩壊する。
耐震性を高めるためには一致団結して地震力に対抗することが大事だが、特に、骨組に強い材料や太い部材を使うことは耐震性を高める。また、材料、部材、骨組には変形しても抵抗を続ける塑性変形能力がないと、部材強度の合計が構造物の全体強さにならない。
もう1つ大事なのは建物には心棒がある方が良いことだ。心棒つまり強い柱、強い連層壁は多層建築の耐震性を高める。これらの心棒は、建物の振動モードを矯正し、被害を軽減する。
五百簱頭氏は、最近では、東日本大震災復興構想会議の議長として知られている。日本学術会議会員でもある五百簱頭氏の専門は日本政治外交史、政策過程論など。講演のタイトルは「跳躍の歴史へ向けて~悲惨のなかの希望~」。大体、こんな内容だった。
▼国難に結束する国
日本史では、国難をバネに跳躍することを繰り返してきた。日本史が世界水準の域に達したのは7世紀から8世紀にかけて。663年、白村江(はくすきのえ)の戦いで、大和王朝は2万7000の兵(第二派)を朝鮮半島へ送りだしたが、二日間で完敗した。大和王朝は思いあがって「これだけの大軍を出せば敵は雲の子を散らすように逃げるだろう」と安易な想定をした。事実は想定外で、朝鮮半島の参戦軍だけではなくて、新羅が中国の唐と連合を組んで挑んできた。唐がどんなに強いかについて完全に認識が甘かった。唐の巨大戦艦が両岸に待ち伏せており、攻めていったところを両側からしめるように来たために壊滅した。
このあと唐新羅の連合軍が日本に向かって攻め込んでくるのではと、出来あがったばかりの大和王朝は大変な緊張感をもって真剣な対応を行った。大宰府に城を築き、熊本に防人用の兵舎や米倉を建設、大宰府が敵に奪われたときはここを拠点に奪回作戦を実行する予定だった。瀬戸内沿いに城塞も築いた。
そういう防衛だけでなく、大和朝廷は敗戦の翌年から猛然と唐文明の学習を開始した。「われわれは田舎者だった」と負けて分かった。ローマ帝国衰退後、世界で一番強大な文明は唐文明だった。大和朝廷は唐文明のすごさを知ってむさぼるように学んだ。日本を変えていかなければ生きていけない。その努力を50年続けて707年から唐風の律令国家の首都ミニチュアとして奈良盆地に平城京をつくった。ということは、唐文明をあらかた自分のものにした。
それ以後、ほぼ世界水準とそう違わないレベルで日本史は進んでいる。蒙古来襲のときもそうだが、日本史では、国内で政争が多いのに、国難になると、外国勢と組んで日本史の主人公になろうとする人間がでてこない。逆に、日本人は国難のなかで結束し、跳躍する。
▼「認識の三脚」を立て
明治28年に日清戦争が終わり、翌年、三陸大津波が起きた。町長によっては高台移転を唱えたが、当時の高台移転は不便という代償を払わなければならなかった。そこで万里の長城と呼ばれる高さ10㍍の防潮堤、まるで監獄の塀のようなのを作った。その中に津波を集めて高くするような形状のものがあって、今回の津波で大変な災害をもたらした。津波は高波や高潮と違い、引き波から始まって海面の下から上まで弾丸のように迫って、防潮堤を乗り上げて越えていく。高さ7~8㍍でも十分。しかし、引っ繰り返らない、しっかり踏ん張って、第二波、三波を止められるものが必要。
私どもの構想は、大自然が猛威をふるうときに、それを完封はできない、減災しかできないという認識に立っている。
人間は直前の強烈な体験に認識が支配されてそればかりになる。「将軍たちは前の戦を戦い、外交官は前の講和会議を交渉する」という国際政治の言葉があるが、事態も技術も変わっているのに、過去の認識の虜囚になってしまう。もっと視界を広げて「認識の三脚」を立てた方がいい。
これから第三次補正でわれわれが復興構想で描いたものを実施することになる。重視したのは、一つはより安全な家、より安全な町を作ること。一番望ましいことは津波から町ごと逃げる。高台移転、丘の上のニュータウンは世界でも普通のこと。昔は不便という代償があったが、今は道路さえつければ車で、10分で港まで下りてこられる。
もう一つは、産業再生。阪神淡路のときは被災者に大企業に勤める人が多かったが、今回は仕事ごと失った人が多い。特区を作り、最先端産業が外国でなく東北に来るような創造的復興を促進する。
ゆるやかに下っていく日本に大自然災害という国難が来た。国民が全力で復興を手助けし、そして日本全体も再生しようではないか。